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すちゃらかな日常 松岡美樹

積極財政などの政治経済をすちゃらかな視点で見ます。ワクチン後遺症など社会問題やメディア論、サッカー、音楽ネタも。

私はいかにして終わった人生を蘇らせたか?

2007-03-13 11:24:29 | エッセイ
 目下、私は健全きわまりない生活をしている。早いときには夜9時に寝て、朝の3時や4時に目覚める。絶えず野菜ジュースを飲み、前回のエントリで書いたようにタバコもやめた。酒だって月に2~3回飲むかどうかである。え? テレビ? そんなもん、もう5年ほどニュース番組以外はほとんど観ないよ。

 で、やってることといえばiPodでリトルフィートを聞きながら、自転車をこいで郊外まで3時間走る、みたいな世界である。

 もちろん家事もせっせとこなしている。曜日と時間を決めて洗濯と掃除をし、炊事と洗い物は毎日やっている。きわめてマメな男ヤモメだ。

 今の私にできないことをあげるとすれば、ブログを毎日更新することぐらいである。

 いや昔の私はこうじゃなかった。30代までの私は、単に仕事をするだけの機械、マシンだった。

 締切が不規則なせいで夜は遅くまで仕事の原稿を書き、寝るのは決まって明け方や翌日の昼になる。だから目が覚めてもボーッとし、なかなか頭が働かない。おまけに原稿を書いてる最中は絶え間なくタバコを吸っているから、翌日起きると最初に感じるのはノドのひどい不快感だった。

 洗濯や掃除はめんどうだから溜めるだけ溜めてからやっていたし、ひどいときにはキッチンの流しに同じ食器が1か月間放置してあった。食器に緑のコケが生えたこともある。もうどうしようもないオッサンである。

 じゃあ、なぜ私はいまの健全生活を始めたのか? やってみると案外気持ちいいことに気づいたからだ。たとえば早寝早起きの例で説明しよう。

「早寝早起きって健康にいいよ」

 そんなセリフは耳タコだ。「ああそうだろうね」、「んなこた、百も承知だよ」。で、右から左に聞き流してしまう。馬の耳に念仏である。

 だけどある日突然、なぜか気が向いて1週間だけ早寝早起きをしてみようと考えたのだ。で、実行したらばすごい快感だった。まるっきり世界が変わり、それ以来すっかり病みつきである。

 なんでも人間の脳的には、最も疲れが取れる睡眠の時間帯は夜10時から夜中の2時にかけてらしい。で、その時間にきっちり寝て、早朝の5時や6時に起きる。すると昨日の疲れがきれいさっぱり取れてるのがわかるのだ。しかも朝日を拝んで荘厳な気分にもなれるぞ。

「さあ、今日もやるぞ」

 仕事や人生に対するモチベーションがイヤが上にも高まり、体全体にエネルギーがみなぎる感じがする。最高である。

 いや別にあやしい宗教の勧誘でも何でもない。ナチュラル・ヘルシーライフのすすめである。30代までの私は不摂生の固まりだったが、健康生活のおかげでこんなにエネルギッシュになれました──そんな体験レポートだ。

 みなさんも騙されたと思って、1週間だけ早寝早起きをしてみてはどうだろうか? 案外、人生変わるかもしれませんよ?

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体育の先生の脳ミソは筋肉なのか?

2005-11-02 20:59:11 | エッセイ
 忙しい。何がって仕事がだ。新しくエントリを立てることはおろか、以前のエントリにいただいたコメントにすら返事できないでいる。実はほとんど完成しているブログ用の草稿が10本近くある。みんな何かの瞬間にパッと思いついて書いた。あとは推敲し、結末をつけるだけだ。しかもそれらを書いたのはもうけっこう前である。なのにしばらく自分がブログをもっていたこと自体、忘れていた。本当の話だ。私は重要な複数のことがらを同時に遂行できないのだ。

 以前にも書いたように、何かひとつのことに没頭すると話しかけてくる人間の声すら聞こえなくなる。えっけんさんが本当にやっちゃった「最近のトラックバックスパム」のギャグにも反応できずじまいだ。

 しかも私はつねに見張られている。ふと気づくと押入れの戸が3センチほど開いており、湿った暗闇の向こうから黒装束の男がのぞいている。

 あるいはトイレに入ったときも同じだ。閉めたはずのドアの隙間から、ワコールのナイティウェア「Salute」(サルート)を着た半裸の女性がこちらを見つめている。大小の蝶のアップリケがチャーミングである。

 いや冗談だ。どこからが冗談なんだ? 2段落目の「しかも私はつねに見張られている」以降がすべて真っ赤な冗談だ(日本語じゃないな)。説明しておかないとまた誤読されてしまうじゃないか。

 確かにいま私はこのギャグを書くためだけに、わざわざグーグルでワコールのサイトを調べた。女性の下着なんてサッパリわからないからだ。だが遊んでいるわけではない。決してない。いまはメシの時間なのだ。

 私はいまメシ屋にいる。パソコンはいつも持ち歩いている。頼んだペペロンチーノはもう食べ終わった。で、アイスコーヒーを飲むほんの30分間だけ、店でパソコンをエアエッジにつないでいる。30分後には仕事場にもどり、また原稿を書くのである。

 さっきペペロンチーノをもってきた店の女性が、ワコールのナイティウェア「Salute」が映し出された私のパソコンの画面を見て、著しく眉をしかめた。だがそんなことは知ったこっちゃない。

 滞り、もう終わったかに見える自分のブログに「更新お休みのお知らせ」を書くためだ。しかも単なるお知らせじゃなく、おもしろいお知らせを書くための検索だ。(ただしこれがおもしろいかどうかは別の話である)

 私は激しく後悔している。忙しくなり始めた頃に、あらかじめお知らせを書けばいいのだ。10月20日の時点でそうしておけばいい。だがあいにく私はいつも一気に仕事になだれ込み、その時点ではそんなものを書くことなんて思いつかない。

 いや正確にいえば平常時なら、「お知らせを書けばいいんだよな」と頭でわかっている。だが忙しくなった時点で、すっかり頭から飛んでいるのだ。生まれたときからそうだから、もう一生直らないだろう。

 ちなみに「もう一生」とか「絶対に○○できない」と考える人は、認知がゆがんでいる可能性がある。「全か無か思考」(オール・オア・ナッシング)、「誇張と矮小化」、「過度の一般化」、「破局的な見方」に相当する。私じゃなくて一般論としてだ。

 いや今回はその話じゃない。いまふざけて「もう一生直らないだろう」と書いた瞬間に、あとから「認知のゆがみ」という言葉が頭に浮かんだだけだ。

 精神医学は私の得意分野のひとつである。認知のゆがみの件は冗談ではない。その知識が必要な人に、何かの参考になればと思って触れた。で、「こんなふうに深刻な事態をジョークで笑い飛ばし、やりすごすのもひとつのテだよ」と信号を送った。

 実は「生きることがしんどい」と訴えかける重要なトラックバックやコメントを、少し前に何本かもらっている。個の確立にかかわる内容である。現代日本が抱えるもっとも深刻な問題だ。

 そしてこれらのトラバやコメントは、ひょっとしたらエマージェンシーを知らせているのかもしれないのである。

 私はロジャーズが確立したカウンセリング手法「クライエント中心療法」(client-centered therapy)を知っている。だから彼らの気持ちがよくわかる。同時にこのテーマがいかに切実かも認識している。こんな急場しのぎな書き方じゃだめだ。

 これらのトラックバックやコメントには、微力ながら私のできる範囲で彼らが生きて行くために何か参考になることを書こうと考えている。まじめな話だ。だが時間がない。もう少し待ってほしい。

 さて、いま「認知のゆがみ」とか「私は見張られている」と書いた瞬間、すでに誤読している人が167人いる。わざわざ更新お休みのお知らせを書いている件もそうだ。

「松岡の認知はゆがんでるのか?」、「こいつは見張られていると感じてるんだ」、「こんなブログなんかだれも読んでないだろう。なのにお休みのお知らせって何だ? 思い上がりも甚だしいぞ」

 いやそうじゃない。

 私はこういう誤解されやすいギャグをよく思いつくのだ。いわゆるブラックジョークの出来損ないである。で、本当にそれを原稿に書いてしまう。

「167人に誤解されるぞ。でも14人にはウケるにちがいない」

 そう思うともう誘惑に勝てない。

 説明しよう。「認知のゆがみ」についてはすでに述べた。一方、「見張られている」は、リアル世界の知り合いが私の実名ブログを読んでることにひっかけた冗談だ。こんなものはごく一部の人間にしかわからない。だけど意味がわからなくても笑う人は笑うだろう。それだけの話だ。ああ、お休みのお知らせもあったな。

 たとえば隣の家に住んでる島田さんの奥さんが、カルチャースクールに夢中になった。島田さんの頭は、「次の教室でテイスティングするワインはボルドーかしら? それともブルゴーニュかしら?」でいっぱいだ。

 そして自分が実はブログをもっていたことすら知覚できず、更新を怠った。で、島田さんは食事している最中にそれを思い出したのである。

 ただしそのブログは田上さんの奥さんと、七条さんの奥さんしか読んでいない。読者は世界に2人だけだ。

 だけど更新をサボった島田さんの奥さんには、こんな心理が働く。

「あっ、気がついたらブログを更新してなかったわ。田上さんの奥さんと七条さんの奥さんとは、最近お話もしてないし。そうよ。いつもあらかじめお知らせを書けばいいんだわ。どうかしてるわ最近の私。あらやだ目尻に小じわが2本できてるじゃないの」

 私は島田さんの奥さんである。いや私はあくまで松岡であり島田さんじゃない。だが形而上学的、かつ象徴的な意味で島田さんなのだ。そうだ私はローマのアンドロニコス、じゃなくてアリストテレスだ。

 アンドロニコスは編集しただけの男だ。書いたのはアリストテレスである。

 いやまた冗談だ。ローマのアンドロニコスが編集したアリストテレスの中心著作である【形而上学】「ta meta ta physika」14巻なんて私は読んだことがない。それどころか、私がいま使った「形而上学的」なる比喩の使い方が正しいかどうかさえおぼつかない。たぶんまちがっているだろう。

 だからブログのコメント欄で詭弁だと言われるのだ。

 いやその話じゃない。書いたのはアリストテレスだ。いやその話ですらない。今回はそうじゃない。

 本当のところは、単にいま小学生のときに読んだ松本零士「男おいどん」のワンシーンを思い出しただけだ。夜間高校中退であるマンガの主人公の大山昇太が、かっこつけた大学生に「形而上学的には~」などと、こむずかしい話をイヤイヤ聞かされる。子供の頃に読んだそのシーンが発作的に思い浮かんだのだ。

 ああ、「形而上学的には」と言ったのは、背伸びした大山昇太自身だったかもしれない。だが困ったことにそんなことを確認しているヒマはいまの私にはない。

 いずれにしろ、突然過去の記憶の扉が開いたのである。

 もちろんこんな説明をしても、ごく一部の人にしかわからないのはわかっている。説明になっていない。「わからないのはわかっている」とわかりながら、パソコンの前にいる私を外側から観察しているもうひとりの私がいる。主観と客観の問題である。だけどいまはその話じゃない。

 いやまてよ。とすれば私は松本零士氏のギャグを構造ごとパクった、ということか。これは盗用か。著作権侵害なのか? 

 そう考えると人間が書く文章というのは、はたして本当にその人の能力なのか? それとも借り物でありコピーにすぎないのか? に思考が移って行く。水が高いところから低いところに流れるかのように移って行く。

 別に文章だけじゃない。たとえばサッカーだってそうだ。

 ある局面で攻撃的ミッドフィルダーが、ゴール前のフォワードに向けて目にもあざやかなスルーパスを出した。するとたちまち周囲の人間は言う。

「すごい才能だ」、「あいつは天才だ」

 だがはたしてそれは生まれついての才能なのか? ひょっとしたら、彼がいままでに観た数え切れないほどの「サッカーの名試合」、「名シーン」の残像にすぎないんじゃないか? ある局面で瞬間的に記憶の扉が開き、彼はそれを忠実に実行しただけではないのか?

 とすれば人間の素質なるものは計測できるのか? 先天的な才能か、それとも後天的な努力なのか。はたまたそれを見分けることはできるのか? こんな哲学的な問いかけが、11月のさわやかな秋風のように私の頭をよぎっていく。

 というわけで30分たった。さよならだ。

 今日は朝の5時に起き、ずっと原稿を書いていた。ノリノリで楽しい時間だった。とてもはかどっている。そしていまはまだ夕食の時間だが、私はまた仕事場にもどるのである。

 私は仕事をサボってブログを書いたのではない。書いたのはあくまでお知らせにすぎない。私は島田さんの奥さんなのだ。しかもあくまでメシの時間に設定した30分だけである。この現象が形而上か、それとも形而下の出来事なのかは関係ない。ペペロンチーノはうまかった。ただそれだけだ。

 もうすぐ波は去る。あと数日の話だ。そうすれば私はまたブログを書くだろう。167人以上が読んでくれているかどうかは知らない。というか実は「167人」というのも、私が小学生のときに体育の先生が言ったギャグなのだ。これも突発的な記憶の扉現象である。

 あれは雨の日だった。学年全部の生徒が体育館に集められ、校長先生の訓示が始まった。でも小学生だからそんなものはお経にすぎない。聞いているのは馬の群れだ。生徒の雑談は止まらない。校長先生は「静かにしなさい」と繰り返すが、いっこうにおさまる気配がない。

 するとそれまで黙って聞いていた、みんなから恐れられている体育の先生がスッと前へ進み出てこう叫んだ。

「いまは校長先生が話してるんだ。なのにグジャグジャ騒いでるヤツが83人もいる。この83人は前へ出てこい。俺がケツペッタンしてやる」

 その瞬間、生徒の雑談はピタリと止まった。爆笑の渦だ。もちろん83人なんてのはギャグである。わかりもしない数字を意図的に細かく言い、笑わせようって魂胆だ。ただし「ケツペッタン」は意味不明だ(方言か?)。

 その体育の先生の脳は、どうやら筋肉でできてるわけじゃなかった。それどころか先生はたちまちその日から、私たち生徒のヒーローになった。

 こんなふうに「そのときジョークが言えるかどうか?」で、人間の器が決まる話は今回の話とはまるで関係ない。

 ではまた近いうちに。もうだれも読んでないだろうけどな。ちっちっ。

[ご注意]

島田さん、田上さん、七条さんの各・奥さんはあくまで架空の人物であり、実在する企業および団体、従業員、あるいはその奥さんとは一切関係ありません。

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リーダーのユーモアは国民の脳をマッサージする

2005-09-18 15:32:30 | エッセイ
 政治家にかぎらず、人を惹きつける強力なツールになるのがユーモアだ。人間の脳は、長ったらしく平坦なスピーチや文章には反応しない。ジョークは会話に起伏を作り、相手の脳に刺激をあたえる。人間のコミュニケーションをなめらかにするのが「ユーモアのセンス」なのだ。

 子供のころ、私は「ナポレオン・ソロ」というスパイ・アクションドラマに夢中だった。ロバート・ボーンとデビッド・マッカラム主演のTVシリーズである。60年代後半のことだ。

 この「ナポレオン・ソロ」、なにがいいかっていうと、とにかく全編にユーモアのセンスがあふれてる。といっても別にお笑い番組じゃない。秘密諜報員である主役の2人が、悪の組織「スラッシュ」と戦うお話だ。

 たとえばロバート・ボーンとデビッド・マッカラムが、すごい人数の敵に囲まれて孤立した。もう逃げ道はない。絶体絶命のピンチだ。はたして彼らはどう切り抜けるのか? ところがここで「彼らがまず何をするか」っていうと、ジョークを言うのだ。

「奴さんたち、こんなに人数をくり出してくるんじゃ、残業手当てが大変だな」

 このセリフは、周囲の人間にどんな心理的効果をあたえるか? 

 まず第一に、「オレはこんなピンチなんか、屁とも思ってないぜ」という強いメッセージを伝えることができる。このセリフを聞いた周りの人間は、「こいつは窮地に陥ってるのに、ぜんぜん動揺してないぞ」と感じるはずだ。

「この男についていけば助かるかもしれない」

 彼に対する信頼感希望が呼び覚まされる。

 絶体絶命のピンチに陥ったとき、「そこでジョークを言えるかどうか?」人間の器がわかるのだ。

 さて「ナポレオン・ソロ」の主役のふたりを、別の人物に置き換えてみよう。政治家(特に民主党の代表)、企業の社長、プロジェクトのリーダー、サッカーチームのキャプテン、学生サークルの代表──。なんにでも応用がきく。

 もちろんジョークはピンチのときだけでなく、ふだんの会話をスムーズに進めるための潤滑油にもなる。

 たとえば話し相手と険悪な雰囲気になったとき、さりげなく放ったおもしろいジョークが相手の心の鎖を解く。場はとたんになごやかになり、コミュニケーションがなめらかになる。

 また相手の注意をひきつけることも、ユーモアの最大の効能のひとつだ。

 長ったらしく起伏のないスピーチは、聞く人間を退屈させる。スピーチは冒頭の5分で、「いかに聴衆の心をつかむか?」がポイントだ。

 そこでまず最初に、スピーチのテーマとからめたジョークを一発かます。すると聴衆は敏感に反応し、「おや? この人はおもしろそうだな」、「話を聞いてみようか」という心理になる。スタートダッシュで人の心をキャッチできれば、あとはもう「どうにでもしてくれ」状態である。

 アメリカの大統領がスピーチするときには、「ジョーク・ライター」があらかじめ原稿を書いておくことがある。それだけユーモアの重要性が認識されてるわけだ。

 ところが残念なことに、日本ではユーモアの地位はかなり低い。「真剣な場なのに冗談を言うなんて不謹慎だ」。こんなふうに受け取られるお国柄だ。

 だけどアメリカやイギリスなどの欧米諸国では、「ユーモアのセンスがあるかどうか?」が、リーダーにとって重要な要素だと考えられている。

 イギリス人のジョークは大陸性のアメリカとちがってシニカルなのだが、そこがまたとってもおもしろい。

 象徴的なのはイギリスの元首相・チャーチルだ。彼は有名なジョークをたくさん残しているが、第二次大戦中にイギリスが危機に見舞われた最中にも、ジョークを連発し続けた。国民はそれを聞いて勇気づけられ、「このオッサンについていこう」と感じたわけだ。

 国家が緊急事態に突入したとき、国民は国のリーダーを注視する。彼はパニックに陥ってないか? ちゃんと精神のバランスを保っているか? 

 欧米の指導者はジョークを言うことで、そんな国民の不安に答える。ピンチをユーモアで笑い飛ばし、それを乗り越えるためのエネルギーをあたえる。

 ウソだと思うならこの本を読んでみてほしい。海外のリーダーが実際に残したジョークがたくさん収められている。超おすすめだ。
(※アフィリエイトではありません)

「リーダーたちのユーモア」
村松増美・著(PHPビジネスライブラリー)

 著者の村松さんは英語同時通訳の第一人者だ。国際舞台で政治家等の通訳を長く務められた。海外の要人とも数多く接している。

 私は取材で何度か村松さんにお会いしたことがあるが、お話を聞いて海外と日本の指導者像のちがいを実感させられたものだ。

 ユーモアは知性の証明である。知的でなければおもしろい冗談なんていえない。

 また当たり前の話だが、ジョークは即興で発するものだ。瞬間的に場の空気を読み、飛び切りのジョークが言えるなら、その人物は状況判断や意思決定が速く、分析力にもすぐれていることになる。

 あるいは相手が杓子定規なカタブツなのか、それとも柔軟性のある人間なのかも、ユーモアを解するかどうかで推し量れる。

 日本人がリーダーの条件に「ユーモアのセンスがあること」を取り入れるのは、いったいいつになることやら。まだまだ日本は国際化がたりないなあ。

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自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋

2005-04-04 00:19:28 | エッセイ
 前回は「自分探し」に明け暮れて、人生も脳もおかしくなっちゃう人がこの20年ほどふえている、って話をした。「目標をもつべきじゃない平凡な普通の人たち」なんて挑発的な書き方に、「オレのことかよ」と怒り心頭の人もいるだろう。だがまあ、ちょっと落ち着いてほしい。

 物書きなんてのは一種の「作話師」なんだから、そんなやつの言説をまに受けて怒るなんてエネルギーのムダだ。

「松岡ってやつはこう書いてるけど、実は別の意味があるんじゃないか?」

「こいつはわざと煽ってるんじゃないか?」

 てなぐあいにメディアリテラシーを働かせてほしい。私は手を変え品を変え、思考実験を仕掛けている。「自分が思ってること」をストレートに書いているとは限らない。なのに書いてあることをまに受けるのはとっても危険だ。何回か前に説明した通りね。

 で、書きっ放しじゃナンなので、自分探しから抜け出せない人のために処方箋も書いておこう。もちろん「答え」は自分の頭で考えるものだ。だから今から書くことは何かのヒントになればいい、程度の気持ちで読んでほしい。

 結論からいえば老子を読みなさい。ちゃんちゃん。

 うむ。これでおしまいにするのもまずいな。もうちっと説明しよう。

 たとえば家が魚屋さんをやってるA君がいるとする。自営業だからA君が家業を継いで魚屋さんになるのは規定路線だ。親にとっては「想定内」である。だがまだ20才の彼にはどうしても納得できない。他人に自分の人生を決められるのもイヤだし、そもそも家業に魅力を感じない。

「魚屋なんてダセエ商売なんかやる気ないよ。オレはオレのやりたいことをやる。東京に行ってミュージシャンになるんだ」

 ミュージシャン目ざして試行錯誤する過程が、彼にとっての自分探しなわけだ。

 こうしてA君は上京し、フリーターをしながらバンドに明け暮れる毎日を送る。だが世の中はなかなかにキビシく、彼のバンドは認められない。自分では最高の曲を作ってるとしか思えないのに、まったく反応がない。そこでA君はこう考える。

「世の中はオレの才能を見分ける目をもってない。悪いのは世の中だ」

 かくてA君は華やかなアーチストとして酒池肉林の生活を送る「理想」と、4畳半ひと間で毎日ラーメンをすするちっぽけな自分=「現実」のギャップに、いつも悩まされることになる。

 自分には輝くような音楽的才能があるのに、周囲に認めてもらえない。なぜだ? なぜなんだ? 現実の世界で自己実現できない自分。ちっぽけでつまらないオレ。満たされない自分に耐えられなくなっていく。いや、これは本当の自分じゃない。オレは絶対に否定するぞ。

 そんな自問自答をくり返すうち、5年もたてばA君は脳も人生もすっかりおかしくなっている。

「もしミュージシャンになれなかったら、オレの人生はゼロだ。まったく意味のないものになる」

 こんなふうに視野狭窄に陥って絶望し、自殺してしまう人もいる。冗談じゃなく、そういう人が今の世の中にはたくさんいるんだ。

 だが彼が30代の半ばにもなれば、だんだん考えが変わってくる。

 魚屋っていったい何者なんだ? それはオレを満たしてくれるのか? まったく考えようとしなかった可能性を考えてみる気になる。

 毎朝、早起きして朝日を浴びながらうまい空気を吸い、築地の市場で魚を仕入れる。仕入れはこの商売じゃ生きるか死ぬかの真剣勝負だ。彼は魚の目利きのプロフェッショナルとして、ずらりとならぶ商品を見る。で、「これは」と思ったものを買い付ける。

 店頭では毎日、近所のおばちゃんが声をかけてくる。

「Aさん、あんたんとこの魚はどれ買ってもおいしいねえ。あんたにまかせときゃ、安心だわ。毎日ありがとうね」

 彼はプロとして認められてる。だから自己実現できている。これって強烈な快感だ。しかも家にはホレた美人の女房がおり、5歳のかわいい娘がまとわりついてくる。目に入れても痛くない愛犬の新太郎もいる。

「こいつらのためにがんばろう。彼らのよろこぶ姿を見るのがなによりの楽しみだ」

 オレはなんでミュージシャンになろうなんて考えたんだろう? 結婚もせずに、たったひとりでささくれ立ち、心の空腹をずっと抱えてたなあ。本当にバカだったよ……。

 もちろんここにあげた2つのストーリーは、どっちの道が「正しい」なんて性質のもんじゃない。一種のサイコドラマにすぎない。

 20代のA君みたいにミュージシャン目ざして活動し、あげくに彼が飢え死にしたって世の中から見れば大いにプラスだ。

「就職=企業に頼るんじゃなく、自分の能力を売り歩く生き方もアリなんだ。今まで自分は就職するのが普通だと思ってたけど、そんな方法も許されるのか」

 A君の「死」によって、彼の生き方の思想は次世代に受け継がれる。彼と同じような同士たちの「無数の失敗と死」が澱のように降り積もり、やがては既成概念が崩れていく。新しい生き方が常識になる。社会革命とは、「多くの屍と多大なる失敗」の上にしか成し遂げられない。犠牲が必要なわけだ。

 フリーターという社会思想は、必ず多くの犠牲を伴う。だが人生を棒に振るフリーターたちが何代にもわたるうち、10年もたてば就職して企業におんぶに抱っこだった世の中の方がだんだん変わってくる。

 たとえA君は自分の人生を思うようにまっとうできなくても、長いスパンで国家単位、あるいは地球規模で見れば彼の死は充分に意味がある。

 こんなふうに改革の旗手として敵弾に倒れて死ぬのも、また一興である。だがその気になれば、A君は別の生き方もできる。それが稼業を継ぐ道だ。

 ひとつ言えるのは、20才だったA君は「家業を継ぐ」という社会システムに反発していたってことだ。そのため父親に意味のないレジスタンスを試み、ものごとを一面的にしか見られなかった。

 彼はとにかく「ぶっ壊したかった」んだ。くだんのほりえもんさんみたいに。

 20才当時のA君から見れば、魚屋さんって稼業は実に色あせていた。いったいそんなものになんの価値があるんだ? そんなふうに否定的にしか見られなかった。だが30代半ばのA君には、まったく新しい別の価値を伴って見えるようになっている。

 要は「ものの見方」の問題なのだ。「魚屋はダサイ」と直感すれば、そうとしか思えなくなる。だが角度を変えて眺めれば、見えなかったものが見えてくる。

「待てよ。魚屋になると、どんないいことがあるんだろう? ひょっとしたらオレを満たしてくれる何かがあるのかもしれない。それを探してみよう」

 こんなふうに視点を変えて考えれば、彼の人生はまったく変わる。「認知が歪んだ人」の目には映らないものがキャッチできる。

 練炭を買い込んでるそこのあなた。死ぬのは個人の自由だし、私は別に取り立てて止めようとは思わない。私だって小学3年のときに、あることがきっかけでさんざん人生について考えた。

「自分は何のために生まれてきたんだろう?」

 毎日思案し、でも答えが見つからなくて、もう自殺するしかないと思ったことがある。子供だからカッターナイフで腹を切ろうと計画してたよ。そんなもんで死ねるわけないのに。風呂に入りながら、「ああ、明日のこの時間には、おれはもう生きてないんだな」って思ったりした。

 でも時間がたてば、そんなもんはただの笑い話だ。だからあなたが「死ぬことしか見えない袋小路」にハマってる状況がとてもよくわかる。「それ」しか見えないんだよね? すごくわかるよ。

 でも、もし私が書いた20代のA君のエピソードを読んで何か感じることがあったなら、ちょっとだけ立ち止まって深呼吸してみてもいいんじゃないか?

 あなたはきっと、何か偉大なことを成し遂げようとしてたんだろう。とてつもなく高い理想を掲げて。私にはあなたの気持ちが痛いほどよくわかる。そして今はつらいだけの人生だ、と感じてるんだよね?

 でも人間の幸せは「世界一になる」ことや、「天才だ」と呼ばれることだけじゃない。かわいい奥さんの顔を毎日見られたり、子供をおんぶするのもちっぽけではあるが幸せの仲間だ。

 人はそんな小さな喜びを1つづつ束ね合わせて、「大きな幸せ」にすることだってできるんじゃないか?

 練炭に当たればあったまるでしょう。せっかく買ったんなら死ぬ道具にする前に、そいつで心をあっためてみたらどうだろう? で、ちょっと気持ちが落ち着いたら、視点を変えて自分の人生をもう一度よく観察してみようよ。 

 ほら。

「魚屋ってかっこいいなあ」と思えてきませんか?

【関連エントリ】

『人生をスルーした人々』

『自分探しシンドロームを超えろ』

『「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん』
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