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晴走雨楽(せいそううがく) 風の又三郎

晴れている日は山やロードを走り、雨の日は音楽や楽器演奏しています。風の吹くまま、気の向くまま・・・。

ヤマハブラザーズ

2010年12月05日 22時52分34秒 | 昭和のプロレス
■先週、山本小鉄選手に続き、星野勘太郎選手の訃報が・・・。
軽快なタッグチーム「ヤマハブラザーズ」を思い出しました。


■ヤマハブラザーズ
(ウィキペディアより抜粋)
○山本小鉄選手  170cm、100kg
高校卒業後、民間会社に勤務しながら、ボディビルに打ちこみ、1963年(S38)日本プロレス
に入門、力道山最後の弟子。

○星野勘太郎選手  170cm、104kg
高校時代ボクシングに打ちこみ、卒業後、ジムに入るにはリーチが足らず断念、1961年(S36)
日本プロレスに入門。

※アメリカ遠征(1967年(S42)1月)時、小型でもパワフルであると評判だったヤマハのオートバイにあやかって名付けられた「ヤマハブラザーズ」のタッグチーム名で名を上げた。

※手元にレスリング・オブ・ジャパンの雑誌が3冊あります。
パラパラめくると懐かしい写真が・・・。
▼山本小鉄選手が田中忠治選手に猛攻を加えています。
▼東京国際空港(羽田)が大雪で閉鎖され、外人勢がいないまま日本人同士の対決となった。
相手チームは、ミツ平井選手、高千穂明久選手(後にグレートカブキ)、A猪木選手がレフェリー。
▼日本プロレス時代、“ゴッチ教室”を開き、日本人レスラーの猛者達を鍛えたカールゴッチ選手
▼新日本プロレス時代の突貫小僧と鬼軍曹

Web上の写真を検索すると。
▼1970年(S45)にアントニオ猪木選手とのコンビで第1回NWAタッグ・リーグ戦に出場、決勝
戦でニック&ジョニー組を破り優勝している。
▼ミル・マスカラス“千の顔を持つ男“と戦う星野勘太郎選手
確か、日本プロレス初来日(1971年(S46))の相手は星野選手で、華麗なる空中殺法(ドロップキ
ック、フライングクロスチェップ)で強烈な日本デビューとなる。
▼1970年(S54)には国際プロレスのG草津、A浜口組からIWA世界タッグ王座を奪取した。

日本プロレス時代、外人も大型(ヘビー級<105kg前後>)のため、外人組との対戦は殆ど放映
がありませんでしたが、日本人同士、特に若手との試合があったのでしょう。
新日本プロレス移籍後は、メキシカン(軽量級)との対戦がありましたが、やはり日本人同士との
対戦、それが、新日本プロレスと国際プロレスの協会対戦となったのでしょう。
山本小鉄選手のトップロープからのフライングボディープレス、星野勘太郎選手のヘッドロックを
固めてからのマシングンパンチやフライングヘッドバッド、タッグの名手でした。

リング外では、猪木追放、新日本プロレス移籍、在日等の情報がありますが私には、興味がありません。
私が少年時代、テレビ放映や専門雑誌(ゴング、プロボク)の情報だけで満足していました。
まぁ、人それぞれですが・・・。
二人とも新日本プロレスの発展に寄与したと思います。ご冥福をお祈りします。




コメント (2)
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「鉄人ルー・テーズ自伝」を読んで

2010年07月26日 13時56分57秒 | 昭和のプロレス
先日、君津市立中央図書館で 寅さん「男はつらいよ 第1作」のビデオを借り、何気に本棚を見ると
「鉄人ルー・テーズ自伝」の文庫本を見つけ、借りることにしました。

■鉄人ルー・テーズ自伝
パラパラと見ると、初めてルー・テーズをテレビ(国際プロレス(TBS放送初回))観戦したグレート
草津選手(熊本工業高校、元八幡製鉄所でラクビー選手)とのTWWA世界選手権挑戦試合を思い出
します。
1本目、バックドロップでマットに沈み、失神状態、2本目は棄権となり王座を防衛。
S43(1968)年1月、ルー・テーズ 51歳、グレート草津(25歳)は、プロレス入りから2年半
足らず、海外修行から戻ったばかり、TBSテレビがエースに登用するため超大物のルー・テーズ
挑戦した結果でした。
高角度のハイスピードのバックドロップに受け身も満足に取れない草津はマットに沈みます。
その時代のマットは米国・国内とも硬いマットで現在のトランポリンの様なマットとは違います。

○米国ミシガン州生まれる。17歳でプロレス・デビュー、21歳で旧NWA世界チャンピオンとなり、
以来NWA(旧・新)世界チャンピンに6度王座に就き、7年間無敗の936連勝という不滅の記録を
達成する。日本では「鉄人」の異名を取り、アントニオ猪木、ジャンボ鶴田ら数々のレスラーに影響
を与える。空前絶後、不世出の大レスラーであった。74歳での引退まで実に58年間もの現役生活
を通した。

今回、自伝を読み、「そうだったのか!」の内容は、
①14歳から父の靴修理工場の手伝い(靴職人)ながら、ジムで練習、17歳でデビューし、二足の
わらじを履きながらプロレスを続けていた。19歳でフル・タイムのプロレスラーになる。
②第二次大戦の招集、任務はテキサス州のヒューストンの戦艦工場で格闘のテクニックを兵士に
教えること。そしてテキサス州一帯で行われていたプロレス興業に出場していた。
③3回目の世界王座獲得時、オリジナルのバックドロップを開発。
その後のプロレス黄金期に全米を統一、プロレスラー1,700名のトップに君臨。
④ヨーロッパ遠征、イギリスへ単身サーキット、フランスへも。
⑤49歳の時、世界王座をジン・キニスキーに奪われるが、三本目はリングアウトと思っていたが、
反則負けで王座移動(本来は2フォールを奪われないかぎり王座防衛のル-ルあり)。
⑥74歳で現役引退、引退試合は蝶野戦。

一気に読みましたが、昭和のプロレスを思い出しました。
<写真>
①鉄人ルー・テーズ自伝 文庫本
②グレート草津選手
③グレート草津選手をバックドロップでしとめる
④若き日のルー・テーズ
⑤全盛期のルー・テーズ
⑥マネージャーのルイス(元世界王者)
⑦バックドロップ
⑧46歳、最後となった6度目の王座帰り咲き




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ラッシャー木村/走友からの農作物

2010年05月31日 00時28分03秒 | 昭和のプロレス
本日(5/30<日>)は、朝から曇り、寒い。我が家はコタツが再登場。
でも私は家の中では、半袖Tシャツと短パン、素足です。薄着は抵抗力が増し、風邪をひきません。
ひいても薬ものまず、自然治癒で2~3日で治ります。

■ラッシャー木村
また国際プロレス出身レスラーの訃報が・・・。
金網デスマッチの鬼、と言われていました。
国プロは、日プロ(日本プロレス)と比較するとマイナーな団体でしたが、来日するレスラーが
欧州出身でジョン・ファレー(後のアンドレザ・゙ジャイント)やビリーロビンソン(ビル・ロビンソン)
が国プロを経由して米国へ。
昔アメリカから取り寄せた「レスリング 1972年新年号」レーティングス(人気度)は、
WWWF:ペドロ・モラレス  AWA:バーン・ガニア  NWA:ドリーファンクJR、
それぞれの団体チャンピオンです。
懐かしいプロレス雑誌を取り出しました。

詳しく知りたい方は、「ミック博士の昭和プロレス研究室」を検索して下さい。


■走友からの農作物(野菜)
夕方から走りに出掛けました。
17:00にホームの内みのわ運動公園へ。
運動場(野球場・サッカー場・ゲートボール場)は広く、日本庭園もあり、体育館には図書館も
設置され便利です。
何時もの様に公園から外のロードへ。
道路に出ると直ぐにジョグ中の「内みのわ走遊会」メンバーのKさん(走る農夫)とK女史と出会い
少し話してから、リ・スタート(私も走友会にメンバーです)。

暫くすると、ジョグ中の走友会メンバーNさんに出会い、私の今日の気力は、今ひとつなので一緒
にジョグ。
Nさんは、76歳、スポーツは他に卓球とバトルテニス、それと絵画を習い、教えてもいます。
80歳まで走りたいと言っていました。我々の目標です。

18:00 Nさんと公園に戻ると、KさんとK女史が待って居ました。
千葉県民マラソン大会参加のタイムなど話し解散。

その後、Kさんの家庭菜園へ。早朝、出勤前に畑へ行っているとのこと。
玉ねぎ・ブロッコリー・ダイコン等を頂きました。

今ひとつ、右ヒザの痛みがあります。治さないと。




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