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晴走雨楽(せいそううがく) 風の又三郎

晴れている日は山やロードを走り、雨の日は音楽や楽器演奏しています。風の吹くまま、気の向くまま・・・。

米国レスリング雑誌② 243

2011年04月09日 19時18分48秒 | 昭和のプロレス
■天袋の荷物(雑誌、カタログの山)を整理したので紹介します。


■米国レスリング雑誌②
1972年 WRESTLING(レスリング)

▼ボボ・ブラジル “ザ・シークは待つべきだ!” 
黒い魔人“ボボ・ブラジル”がデトロイト地区のUSヘビー級選手権をアラビアの怪人“ザ・シーク”
と賭けての抗争。毒クモ“アニー・ラッド”との一戦もありますが、やはりザ・シークとは迫力が違
います(会場:デトロイト・コボ・アリーナ)。

ボボ・ブラジルですが、1966年にロス地区のWWA世界王座を獲得。1968年に来日、G馬場
選手のインター選手権に挑戦、リング下でブラジルが馬場選手をコブラツイスト決め、そのまま
両者リングアウト、3本目はブラジルの速攻でヘッドバットからココバットが決まり、3カウントで
王座が移動、ボボ・ブラジルの全盛期。

その後、WWA世界王座は1968年にNWA世界王座に吸収され、王座は「アメリカス王座」に格
下げ、ブラジルはデトロイト地区に転戦し、シークとの抗争を繰り返していました。

▼パンピロ・フィルポ
怪獣“パンピロ・フィルポ”のオーオーオー~、の奇声が聞こえてきます。

▼キラー・ブルックス
葉巻をくわえ大きな骨を棒代わりに振り回し、パンチとキックが主で国プロに参加していました。

▼フレッド・ブラッシー
銀髪鬼“フレッド・ブラッシー”この時点ではベテランの領域に入っていますが会場はニューヨーク
MSGでしょうか・・。
ラテンの魔豹”ペドロ・モラレス”との一戦、モラレスのヒップドロップやパンチを繰り出しています
が、ブラッシーの噛み付きやダーティーな攻撃にモラレスが苦戦。記事には日本人の女性(女優)
と結婚した記載されています。

その後、現役引退後は悪役マネージャーとして辣腕を発揮し、ハンセンやホーガンを売り出しました。
力道山とはライバルで「リキとは地獄で決着をつけなければならない」「奴は俺と同じで地獄行きだ」と。

※米国のレスリング誌は日本の雑誌と編集が違い、記事と写真が直接リンクしていません。
文化の違いでしょうか。

■おまけ
ドーナツ盤レコード 14枚で 2ドル86セント (1972年ドル相場 301.10円→  861円 安い!)
<日本 1972年(S47年)ドーナツ盤 1枚 400円>
・カーペンターズ
・ジェームス・テーラー
・S&G
・CS&N
・ボブディラン他

次は、レスリング 1972新年号③に続く。




コメント (2)
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米国レスリング雑誌①

2011年03月21日 16時58分22秒 | 昭和のプロレス
■天袋の荷物(雑誌、カタログの山)を整理したので紹介します。


■米国レスリング雑誌①
1972年 WRESTLING(レスリング) 60セント・・・S47年 ドル相場 301.10円→
約180円程度、アメリカの知り合いからエアーメールで送られて来たプロレス雑誌を保管して
いました。山の神曰く、「よく昔の雑誌を持っていたはね」と、呆れが顔。

▼表紙のみがカラーですが、アメリカ特有の薄いペラペラのフリーペーパーのような雑誌です。
ザ・カンガルーズ(左側 アル・コステロ 右側 2代目 ドン・ケント)とマネージャーの
クラィ・ベイビー(泣き虫)・カノンです。
試合前、デモンストレーションのウォーミングアップでお互いに腕を引き合い、カノンはブーメラ
ンを掲げています。
(今回の記事<写真>は、デジタルカメラで撮影)
(英語が得意な山の神に翻訳を依頼するも ”貴方の趣味でしょう” と冷たく断られ、電子辞書
を使用しましたが、疲れたのでイメージで書きました、ご了承ください)。

▼ページをめくると(黄ばんでいますが・・・)。
ミル・マスカラス、レッド・バスチェン、ガニアの写真が・・・。
目次には、ブラック・ゴールドマン、レッド・バスチェン、ボボ・ブラジル、パンピロ・ヒルポ、
ザ・カンガルーズ、キラー・ブルックス などの名前が上がっています。

▼覆面を剥ぐ、ブラック・ゴールドマン
場所はロス、”ミル・マスカラス”の低い位置からのドロップキックがゴールドマンにヒットして
いますが、マスクの左上部が破れています。
「マスクとヘアー」を賭けた試合のようです。マスカラス(30歳頃)は全盛期なので胸部や上腕
部の筋肉が凄い。”ゴールドマン”の汚い反則攻撃に苦戦していますが、最後はマスカラスが
勝者となりハサミで髪を切っています。
リング上に”ブル・ラモス”が殴りこんでいますが、反対に血ダルマ状態。

▼惨事を克服して制覇
”レッド・バスチェン” AWA世界タッグ選手権ベルトを腰に巻いています。
タッグパートナーは”ヘラクレス・コーテッツ”です。バスチェンの得意技 空中殺法、フライング
ヘッドシザースやアトミックドロップ、 クラシャーやゴメスの顔も見えます。
日プロや国プロ・全日プロに来日しましたが、赤毛でタッグの名人でした。

▼台風
AWA地区(インデアナポリス)を転戦中の”ストロング小林”、ガニアとのファイトや怪力のボディー
スラムが見えます。ビューテフルボディーと評価のコメントがありますが、ボディビルで鍛えた
堂々たる体躯、キックやパンチが力強い。
この時代、ビルミラーに奪われたIWA世界王座(国プロ版)を奪還した後の写真でしょうか、
マネージャー”ビックK”の半てん(宮尾建設㈱)が日本らしいですね。

次は、ボボ・ブラジル②に続く




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昭和TV 「黄金のプロレスラー列伝」 を観て

2011年02月21日 10時00分36秒 | 昭和のプロレス
■パソコン “Yahoo!” のメニュー画面に GyaO! 昭和TV 「黄金のプロレスラー列伝」があり、
その内容を紹介します(GyaO<ギャオ> は山の神が“韓流ドラマ”を観ています)。


■昭和TV 「黄金のプロレスラー列伝」 を観て
昭和TV 懐かしくも、新しい (もちろん、白黒放映です)

●プロレスの黄金時代復活!! 戦後間もなく復興に歩みだしたころ、傷ついた国民に勇気と
希望を与えた唯一無二のスポーツ! プロレスがよみがえる。

○チャンピオン ルー・テーズ vs 挑戦者 アントニオ・ロッカ
NWA世界ヘビー級タイトル・マッチ 1963年5月10日 ニューヨーク州・バッファローウォー・メモリアル・
オーデトリアム
テーズのストロングスタイルとロッカの素足による華麗なる空中殺法との戦い。
1本目はテーズの“フライング・ボディーシザース”で押さえ込み。
2本目はロッカの変形ヘッドロックの“ロッカホールド”で押さえ込み。
3本目は画像はありませんが、テーズのバックドロップで防衛。
ルー・テーズは第44代のチャンピオン、バックドロップやフライング・ボディーシザースはその後
ジャンボ鶴田選手に受け継がれました。

○黒い魔人 ボボ・ブラジル vs 鉄の爪 フリッツ・フォン・エリック
1960年3月29日 ニューヨーク州・バッファローウォー・メモリアル・オーデトリアム
ブラジルはプロ野球(黒人リーグ)を経て、プロレスラーとなる。一方、エリックは「ナチス親衛隊
の生き残り」。
エリックの“ストマッククロー”攻撃にブラジルが攻められる。ブラジルの反撃“ヘッドバット”で
終始攻めるが、ブラジルの反則負け。
アイアンクローやココバットは出ませんでしたが、迫力ある試合でした。
その後、エリックはテキサス州ダラスで団体を設立。ブラジルはWWA世界王座を獲得し、馬場
選手からインター王座を獲得(3本目は必殺技のココバット)。

○正統派の新星 フレッド・ブラッシー vs ザ・日本人 ミスターモト
ベビーフェイス(善玉)時代のフレッド・ブラッシーとヒール(悪玉)の日系田吾作スタイルのミス
ター・モト。
試合はブラッシーがモトの反則攻撃に攻められますが、最後は得意技のネックブリーカー・
ドロップでフォール勝ち。
その後、ブラッシーは赤毛の髪を銀色に染め、噛みつき攻撃を得意技とするヒールに転向。
初代WWA世界王座獲得。ミスターモトは力道山や日本プロレスと深くかかわる。

○マットの魔術師 エドワード・カーペンティア vs 悪党 マイク・ギャラガー
カーペンティアの空中殺法が炸裂 フィンガーロックの返し技やサマーソルトキック(相手への
ダメージはまったくなし)。結果はカーペンティアの逆転負け(フォール負け)。

○人間発電所 ブルーノ・サンマルチノ vs 地獄の調理人 ハンス・シュミット
サンマルチノのパワー全開のファイトもシュミットの反則ギリギリのチョーク攻撃に翻弄され、時
間切れ引き分け。
その後、サンマルチノはバディ・ロジャースを48秒で破り、第2代WWWF世界王者となる。
馬場選手とはライバルであり親友。

●昭和の時代、プロレスアワーで放映されたような・・・・。
それにしても、その時代、プロレスはショーや八百長と言われましたが、それなりに楽しめ
ました。
プロレスは盛んで米国のどの州(ハワイも)にもチャンピンが存在し、カナダ、南米、東南
アジア、豪州、欧州も、もちろん日本にも複数の団体がありました。
その時に活躍した選手は多くは鬼籍に入っています。
正に古き良き時代でした。


1970年代 昭和TV「黄金のプロレスラー列伝」「米国レスリング雑誌」の紹介




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“藤波辰爾自伝 未完のレジェンド”を読んで

2011年02月12日 11時00分11秒 | 昭和のプロレス
■君津市立図書館にリクエストしていた「藤波辰爾自伝 未完のレジェンド」が入ったので
早速読みました。


■“藤波辰爾自伝 未完のレジェンド”を読んで
○藤波辰爾自伝 未完のレジェンド  著者 藤波辰爾  発行所 草思社
2011年11月25日発行  定価 1,600円

○リングネーム 藤波辰爾(ふじなみ たつみ)、本名は藤波辰巳。ニックネーム 炎の飛龍、
ドラゴン、身長186cm、体重104kg、誕生日1953年(S28)12月28日、出身地 大分県。

○父は炭焼きを生業、兄弟姉妹の6番目の末っ子。地元の中学校の陸上部で三段跳びや
走り幅跳びが得意だった。日本プロレス第11回(S44)ワールド・リーグ戦を観戦、忘れない
プロレスとの出合い。
職業訓練学校を卒業して自動車会社に就職、趣味でボディビルセンターに通う。
大分県出身レスラーの北沢幹之が別府温泉に湯治にきていた宿泊先でプロレス入門を
お願いする。
日本プロレス九州巡業に同行、正式な練習生でなく「坊や(16歳)」。
その後、入門の許可が下りて、練習生として認められる。
すべての原点はアントニオ猪木だった。
デビュー戦 1971年(S46)北沢幹之 7分50秒の試合はなす術もなくやられてします。

アントニオ猪木、日本プロレス追放。
猪木が新団体を作るので、一緒に参加、新日本プロレス、旗揚げ!。
第1回カールゴッチ杯争奪戦 1974年(S49年)で優勝、夢にまで見た海外修行。
西ドイツ、アメリカ・フロリダ州、ノースカロライナ州、メキシコと続いた海外修行、日本を出発
して2年半が経過。
ニューヨーク、憧れのMSGでWWWFジュニアヘビー級のタイトルを獲得。
ドラゴンスープレックスの必殺技。
1978年(S53年)凱旋帰国、ドラゴンブーム到来となる。
空前のジュニアヘビー級ブームが巻き起こった。

ヘビー級転向への「飛龍十番勝負」がスタート。
1982年(S57年)長州力との「名勝負数え唄」の抗争スタート。
1985年(S60年)師匠・猪木とのシングルマッチ、60分フルタイムドロー。
1989年(H01年)ベイダー戦で腰を負傷、一年三ヶ月の闘病生活。
復帰後の新日本に居場所はなかった。
1999年(H11年)新日本プロレスの社長に就任。
総合格闘ブームが定着。
2004年(H16年)社長解任、さらば、新日本プロレス。
無我ワールド旗揚げ、ドラディションに名称変更。
生涯現役宣言。

と一気に読みました。
●1985年(S60年)頃? からプロレス放映を見なくなり、その後、プロレスの動きは
分かりません、藤波選手が第77代NWA世界ヘビー級王者となっていたのは驚きました。
やはりドラゴンブームの時が一番輝き、正にプロレスブームと相俟っていました。
今後もテレビ出演など芸能活動をやりながらリング生活を継続して欲しい。




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タイガーマスク現象/運動

2011年01月16日 10時32分24秒 | 昭和のプロレス
■2010年12月25日、「伊達直人」を名乗り正体不明の人物から、群馬県児童相談所へランド
セル10個が送られたことを皮きりに、全国各地の児童相談所への匿名寄付が全国各地で相次
いでいる。
1/12(水)には千葉県君津市の児童相談所にも60代の男性が訪れ「全国のタイガーマスクの寄
付に影響を受けた」と現金100万円を寄付していった。
(まだ千葉県に伊達直人が居ないので・・・)。

タイガーマスクは、よみうりテレビで1969年10月2日から1971年9月30日まで放映。
小さい頃、夢中で見ていました。
タイガーマスク主題歌(オープニングテーマ)も元気があって良いのですが、エンデングテーマ
(みなし児のバラード)も悲しくて良いです。

タイガーマスク現象/運動、「贈り主の多くは漫画やアニメでタイガーマスクを見ていた40~60代」
予想されています。この運動は広がっていますが、一過性のブームでなく、毎年この時期(入
学準備等)に定着して欲しいです。

追記:山の神が「自分でも何かできる事をしては」と厳しい指摘が・・。




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