銀河鉄道の父 門井慶喜著 講談社文庫
あらすじ:政次郎の長男・賢治は、適当な理由をつけては金の無心をするような困った息子、政次郎は厳格な父親であろうと努めるも、賢治のためなら、とつい甘やかしてしまう。やがて妹の病気を機に、賢治は筆を執るも・・・・・天才・宮沢賢治の生涯を父の視線を通して活写する、究極の親子愛を描いた傑作。<第158回直木賞受賞作>
◇賢治の父・政次郎は、明治七年二月、岩手県、いまの花巻町で生まれた。十二歳のとき、本城小学校を卒業、成績はすべて「甲」であり、校長からも、「花巻一の秀才です」と折り紙をつけられた。政次郎は「中学校に進みたいのです」と喜助にたのんだ」喜助はにべもなく、「質屋には、学問は必要ねぇ」と撥ねつけられる。
厳しく育てられた政次郎は親になってから子供には甘かった。賢治が6歳の時に赤痢にかかる、隔離病舎に入院した賢治を家族、医師の反対を押し切って世話をする。
賢治が小学校に入り友達も増え、河原で火遊びをして枯れ薄に火がつき野火が広がった。政次郎は賢治に「おまえか」「知らねす」と即答した。信じられないが政次郎は<不問に付す>、こんな小さなことで賢治の未来に傷をつけることなど考えることはなかった。焼け出された川中の島の貧民には、安浄寺の住職からいくばくかのお金を渡してもらうようにした。
賢治と仲間たちの仕業と確信しているにも拘わらず<不問に付す>これは流石に叱らなくてはダメだろうと思った。良い事と悪い事の区別を教えるのは親の務め、悪い事を許すと大きくなっても再度するのではないかと危惧した。その後、賢治は妹のトシと川や山に行き石を集め出した。
幾多の悪行にかかわらず、五年生終了時、賢治の成績は、すべての教科を「甲」で卒業して盛岡中学校を受験して合格する。
その後、鉱物採集に熱中し人造宝石の製造販売の職業を計画するが、父の反対にあい断念。
宗教法人の国柱会信行部に入会。上京して本郷菊坂町75稲垣方に下宿。文信社の校正、筆耕の仕事に就きながら街頭布教や奉仕活動をする。その後、花巻に戻り花巻農学校の教師になる。
政次郎の自由に生きて欲しいという願いは叶えられた。賢治が道を外さなかったのは、政次郎の愛情を感じていたからだろう。政次郎には5人の子供がいる賢治(享年37)、清六(享年97)、トシ(享年24)、シゲ(享年86)、クニ(享年73)で賢治とトシが短命、二人は病弱、文才に優れているところも似ている。
妹・トシ 1898年11月5日生 - 1922年11月27日没(享年24)
子供の頃から成績優秀で、岩手県立花巻高等女学校でも4年間首席、卒業式では総代として答辞を務める。卒業後、東京の日本女子大学校家政学部予科に入学する。女学校卒業前に音楽教師との恋の噂の記事が地元の新聞に掲載されたことに傷つき、実家を離れる進学が許可されたのではないかと言われる[153]。女子大卒業前に入院するが、卒業を認められる。体調が回復してから母校の花巻女学校教諭心得として英語と家事を担当するが、翌年喀血、以後は療養生活を送る。1922年11月27日午後8時30分死去。24歳だった。
賢治とトシは相通じるものがあったのか幼いころから仲が良かった。療養中の妹を介護する賢治は色々な話を語っていたが、トシから「んだば、お兄ちゃんが、お話をつくってよ」という言葉に刺激されたのか執筆を始める。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ
斬新なようでシンプルな詩は幼いころに野山を駆け回り自由奔放に過ごした体験が生かされている。
岩手で生まれ育ったから、父が政次郎だったから詩人、童話作家 宮沢賢治が生まれた。
※今、興味をもっているのはメジャーリーグで活躍している大谷選手、大谷選手のことを調べていると、何故か昨年に読んだ、この「銀河鉄道の父」を思い出した。同じ岩手出身、活躍する分野は違うが何か通じるものを感じた。
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