世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

第21回日本祭りin MAYA

2018-07-25 09:21:38 | チェンマイ

去る7月22日(日)MAYAにてラチャパット大学・日本語科主催の日本祭りが開催されるとのことで出かけてみた。

写真のように書道体験、折紙体験、のど自慢、茶道体験等々中味は別として種々のだしもの。浴衣の女子学生にコスプレの何と多いことか。そして写真のようにまさに雑踏である。

そう云えば、先日の某TV番組で、アニメ好きのタイ人女子高生YOUが高知・明徳義塾に留学しアニメを勉強しているという。タイでの日本アニメの放映は、当該ブロガーが当地に赴任していた25年前には始まっていた。記憶が定かではないが、当時は一休さんやドラエモンが放映されていた記憶が在る。日本大好きタイ人が多いが、それにはアニメの果たした役割が大きい。

<了>

 


逃げた慶喜兄弟・その3

2018-07-24 08:57:47 | 石見国

<続き>

村田蔵六は慶応二年七月十六日黎明をもって、雲雀山の浜田・松江・福山藩兵に対し攻撃を開始すると、紀州の大将・安藤飛騨守が大麻山の陥落を聞いて、単身船で浜田城へ逃げ込んだという。紀州陣地には長州軍の砲撃と、歩兵の突撃で崩れ、結局石見銀山まで退却した。雲雀山で潰走した三藩の兵は、周布川を防衛線として長州軍に対した。蔵六は無理をせず、周布川の西岸の高地に砲をひきあげ、砲撃するだけに留め、浜田藩に停戦しようとの一文を送付した。結局浜田藩は休戦やむなしとの結論に至り、翌十七日周布村の庄屋で止戦の談判となった。そこで蔵六が求めたのは、『浜田城下の諸藩の兵を来たる二十日までに退散させよ』と云うだけであった。翌十八日正午過ぎ、浜田城の方向から砲声がとどろき、火柱が上がり煙になった。浜田藩自ら城に火を放ち、藩主・松平武聡夫妻を雲州・松江藩さしまわしの汽船にのせ城から逃亡させた

これが石州戦争の結末である。その1年半後、兄・慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れ、慶応四年一月六日に京都守護、所司代、老中とともに大阪城を抜け出し、天保山沖の開陽丸で江戸に逃げ戻ったのである。兄弟ともに逃げるが勝ちとの認識であったであろう。

<了>

 


逃げた慶喜兄弟・その2

2018-07-23 08:50:10 | 石見国

<続き>

兵力については諸説あるが、ここでは『花神』記述の兵力をそのまま記載する。

浜田城下、紀州二千の兵力、備後福山千六百、更なる後方には出雲・松江藩兵、因幡・鳥取藩兵が控えているが、この両藩に戦意はない。それに対し浜田藩は四~五百の兵を出すのがやっとであった。

浜田城下の攻防の前段として、浜田藩が大麻山に、福山藩はそのふもと雲雀山に陣を張った。更に松江藩兵もこの付近に布陣した。紀州は周布の鳶巣山に陣どり、総計五千にちかい。これに対し、益田付近にいる村田蔵六(大村益次郎)の兵力は七百であった。蔵六は『大麻山をおとせば、敵陣はくずれる』とみた。名主の屋敷に大砲を据え、そして攻略部隊を三つに分けた。敵陣は大麻山尊勝寺である。慶応二年七月十五日・夜明けに、砲撃と射撃を命じるとともに、長州兵が突撃した。大麻山は無血占領であった。尊勝寺の雲散霧消したのである。その後大麻山頂から見渡すと、足元の周布川周辺に紀州兵二千が布陣していた。浜田藩兵は潰乱したあと、福山・松江両藩のこもる雲雀山と、その付近の陣に逃げ込んで、陣容をたてなおしつつあった。

<続く>

 


逃げた慶喜兄弟・その1

2018-07-22 10:14:20 | 石見国

『逃げた慶喜兄弟』とは聞こえが良くないが、時代の趨勢としては致し方なかろう。チェンマイでの滞在中、司馬遼太郎氏の『花神』を数十年振りに読んでいる。その『中巻』に石州戦争のくだりがある。

十五代将軍・徳川慶喜は、水戸・斉昭と正室との間の七男、浜田藩主・松平武聡(たけあきら)は斉昭と側室の間の十男で、慶喜と武聡は兄弟となる。

『西郷どん』では、幕長戦争の石州口の戦いは、どのように活写されるのか知らないが、武聡は兄の慶喜同様に戦場から、さっさと逃げたのである・・・斉昭の血筋は無理難題から逃げようとするのか?

石州口の戦いは、慶応二年(1866)六月十六日に浜田藩領益田で開戦し、幕府方の浜田、福山藩兵の幕府軍は敗れた。その後長州軍は浜田城にせまる。

(CG復元浜田城)

<続く>


アユタヤ寺院2題

2018-07-20 07:36:33 | アユタヤ

1カ月前の話ではあるが、アユタヤは今回で3度目、目的はチャオサンプラヤー国立博物館とアユタヤ歴史研究センター。歴史研究センターは残念ながら休館中。国立博物館に近い2つの寺院に寄ってみた。

<ワット・プラ・シーサンペット>

アユタヤ王宮内にあった最も重要な寺院で、バンコク王朝におけるエメラルド寺院のような存在。トライローカナート王時代の1448年に建立され、以降はここで宮中儀式が執り行われてきた。寺院のシンボルは、東西に並ぶ3基の仏塔で、それぞれにトライローカナート王(1448~1488年)とその王子らの遺骨が納められていたと言われている。仏塔の東側に本堂が後に建立され、高さ16メートル重さ171キロの、純金に覆われた仏立像(プラ・シーサンペット)が置かれ、これが寺院名になったと云われている。

<ワット・プラ・ラーム>

寺院は、ラーメースワン王(在位1369-1370年〈後・1388-1395年〉)により創建され、その後、ボーロマトライローカナート王(在位1431-1488年)によって1434年に再構築されたものと考えられている。 

 

 プラーンはトウモロコシ型でクメールそのもの、中世クメールの勢力はアユタヤの地にも押し寄せていた。

<了>