世界の街角

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逃げた慶喜兄弟・その3

2018-07-24 08:57:47 | 石見国

<続き>

村田蔵六は慶応二年七月十六日黎明をもって、雲雀山の浜田・松江・福山藩兵に対し攻撃を開始すると、紀州の大将・安藤飛騨守が大麻山の陥落を聞いて、単身船で浜田城へ逃げ込んだという。紀州陣地には長州軍の砲撃と、歩兵の突撃で崩れ、結局石見銀山まで退却した。雲雀山で潰走した三藩の兵は、周布川を防衛線として長州軍に対した。蔵六は無理をせず、周布川の西岸の高地に砲をひきあげ、砲撃するだけに留め、浜田藩に停戦しようとの一文を送付した。結局浜田藩は休戦やむなしとの結論に至り、翌十七日周布村の庄屋で止戦の談判となった。そこで蔵六が求めたのは、『浜田城下の諸藩の兵を来たる二十日までに退散させよ』と云うだけであった。翌十八日正午過ぎ、浜田城の方向から砲声がとどろき、火柱が上がり煙になった。浜田藩自ら城に火を放ち、藩主・松平武聡夫妻を雲州・松江藩さしまわしの汽船にのせ城から逃亡させた

これが石州戦争の結末である。その1年半後、兄・慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れ、慶応四年一月六日に京都守護、所司代、老中とともに大阪城を抜け出し、天保山沖の開陽丸で江戸に逃げ戻ったのである。兄弟ともに逃げるが勝ちとの認識であったであろう。

<了>

 


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