<続き>
これが最後であるが、考えたことの4つ目である。これまでに何度も記したが、『インターキンの柱』=『クニの柱』=『ラック・ムアン』=『インドラ神の柱』である。その柱は古来『木柱』であった。然るにワット・チェディールアンの御堂に安置されるインターキンの柱は、何故台座を伴うモンドップと呼ぶ祠と、そこに安置される仏陀立像に変わってしまったかとの命題である。
中世、メンライ王がチェンマイ建都した際に建立した『インターキンの柱』は、チェンダオのパローン族のような、木柱であったろうと思われる。
それが何故、モンドップに安置された仏陀立像に変化したのか?また変化した時期はいつであろうか? メンライ王は仏教の教えによりランナー王国を統治したであろう。その状況証拠は年代記類に登場する。歴代王もそれを踏襲したと思われるが、そのような中で何時『木柱』から上述の如く変化したのか、その事情を示す文献なり、金石文は存在するのか?・・・この間の事情が分からない。そこで考えたことと云うより想像したことである。想像したことなので根拠はない、従って間違っていれば御免なさいということであるが、それはチャクリー朝以降であろう。
写真は『インターキンの柱』を安置する御堂前の石碑で、上方に3頭の象(エラワン象)がかたどられている。エラワンはインドラ神(仏教で帝釈天)が騎乗する。
エラワンにスポットが当たるのは、チャクリー朝からと考えている。それにしても今回見た御堂はキンキラキンで極彩色である。
壁画には伝承が存在するが、このような壁画に東西南北四面の壁を覆っている。従前はそうではなかった。
従前の御堂には壁画も何もなかったが、今日では上掲写真のように様変わりしている。チェンマイ社会が年々豊かになってきている証であり、それにより仏教芸術が伝承できていることを喜びたい・・・と、云うことで考えたことの4つ目は結論のあるようでないような噺で、このシリーズを終了したい。
<了>