世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

改装なったチェンマイ国立博物館#9

2018-05-25 09:29:49 | 博物館・タイ

<続き>

オムコイ山中墳墓跡から出土した陶磁の一群が展示されている。ミャンマー、中国、サンカンペーン陶磁が混在している。

青磁円圏紋盤 ミャンマー 16-17世紀

灰釉印花幾何学文盤 サンカンペーン 15-16世紀

青磁鎬紋盤 サンカンペーン 15-16世紀

白磁碗 ミャンマー 16-17世紀

青磁蛇の目皿 福建莆田窯 元 14世紀

白磁碗 明 16-17世紀

灰釉鉢 サンカンペーン 15-16世紀

タークやメーソトのタノン・トンチャイ山中の墳墓跡から出土するのはシーサッチャナーライ、スコータイ陶磁が大半で、それに中国陶磁とミャンマー陶磁が出土するが、オムコイではシーサッチャナーライ、スコータイは大幅に減少しサンカンペーン陶磁が顔をだす。それにしても墳墓の埋葬者の民族がハッキリしない。

<続く>

 


改装なったチェンマイ国立博物館#8

2018-05-24 09:33:42 | 博物館・タイ

<続き>

15.灰釉瓶 14-15世紀

16.焼締長頸壺 15-16世紀

17.灰釉双耳壺 バン・パトゥン窯 14-15世紀

18.灰釉双耳長頸瓶 バン・パトゥン窯 14-15世紀

19.焼締双耳盤口瓶 14-15世紀

20.灰釉キンマ壺 17世紀

21.灰釉双耳壺 14-15世紀

22.23.青磁双耳壺 バン・ブオッククワイノック窯 14-15世紀

24.灰釉長胴瓶 バン・パトゥン窯 14-15世紀

25.灰釉蓋 パーデン窯 14-15世紀

26.焼締ケンディー 14-15世紀

30.青磁鉢 バン・パトゥン窯 14-15世紀

31.青磁鉄絵幾何学紋深鉢 14-15世紀

32.青磁鉄絵花卉文碗 バン・パトゥン窯 14-15正規

以上、サンカンペーン陶磁として展示されていた一連の焼物紹介を終える。

<続く>

 


改装なったチェンマイ国立博物館#7

2018-05-23 08:56:23 | 博物館・タイ

<続き>

暫く連載を中断していたが再開する。今回はサンカンペーン陶磁の紹介である。改装前は僅か数点の展示であったが、改装後は32点も展示されていた。そのうち3点は撮影できていなかったので、29点を2回に分割して紹介する。

尚、紹介に当たりキャップションに明示されている窯名があれば、それを転記し、窯名が記載されていないものは広義のサンカンペーン窯と御理解願いたい。

1.灰釉玉壺春瓶 15-16世紀

サンカンペーンでも幅広く各種の器形の焼物が焼成されたが、玉壺春瓶は数が少なく、かつ完品が展示されており、非常に貴重である。

2.灰釉盤口壺 15-16世紀

3.青磁鉄絵双魚紋盤 14-15世紀

4.青磁鉄絵双魚紋盤 14-15世紀

3.と4.は青磁色に発色している。通常双魚紋盤は肌色とか小麦色に発色しているが、この2つの盤は青磁で珍しい。また3.は焼成温度が高すぎて、青磁釉が煮えたぎったような気泡に全面覆われている。

5.褐釉二重口縁壺 14-15世紀

いわゆるハニージャーと呼ばれる壺。縁に水をはり蟻の侵入を防止する壺である。

6.褐釉広口壺 バン・パトゥン窯 14-15世紀

7.青磁刷毛目紋皿 バン・パトゥン窯 14-15世紀

8.灰釉刷毛目紋盤 14-15世紀

9.灰釉印花幾何学紋盤 14-15世紀

10.青磁鉄絵草花紋盤 ウイァン・ターカン出土 15-16世紀

11.灰釉盤口瓶 14-15世紀

12.青磁鉄絵双魚紋盤 14-15世紀

 

13.灰釉無紋盤”犬の餌鉢” 14-15世紀

14.褐釉印花双魚紋盤 14-15世紀

魚の判子を太極配置で押して文様にした盤を印花双魚紋と呼んでいる。この文様はサンカンペーンでは最もポピュラーの文様である。

<続く>

 


2018年チェンマイ・インターキン祭りで考えたこと#6

2018-05-22 09:31:42 | 博物館・シンガポール

<続き>

これが最後であるが、考えたことの4つ目である。これまでに何度も記したが、『インターキンの柱』=『クニの柱』=『ラック・ムアン』=『インドラ神の柱』である。その柱は古来『木柱』であった。然るにワット・チェディールアンの御堂に安置されるインターキンの柱は、何故台座を伴うモンドップと呼ぶ祠と、そこに安置される仏陀立像に変わってしまったかとの命題である。

中世、メンライ王がチェンマイ建都した際に建立した『インターキンの柱』は、チェンダオのパローン族のような、木柱であったろうと思われる。

それが何故、モンドップに安置された仏陀立像に変化したのか?また変化した時期はいつであろうか? メンライ王は仏教の教えによりランナー王国を統治したであろう。その状況証拠は年代記類に登場する。歴代王もそれを踏襲したと思われるが、そのような中で何時『木柱』から上述の如く変化したのか、その事情を示す文献なり、金石文は存在するのか?・・・この間の事情が分からない。そこで考えたことと云うより想像したことである。想像したことなので根拠はない、従って間違っていれば御免なさいということであるが、それはチャクリー朝以降であろう。

写真は『インターキンの柱』を安置する御堂前の石碑で、上方に3頭の象(エラワン象)がかたどられている。エラワンはインドラ神(仏教で帝釈天)が騎乗する。

エラワンにスポットが当たるのは、チャクリー朝からと考えている。それにしても今回見た御堂はキンキラキンで極彩色である。

 

壁画には伝承が存在するが、このような壁画に東西南北四面の壁を覆っている。従前はそうではなかった。

 従前の御堂には壁画も何もなかったが、今日では上掲写真のように様変わりしている。チェンマイ社会が年々豊かになってきている証であり、それにより仏教芸術が伝承できていることを喜びたい・・・と、云うことで考えたことの4つ目は結論のあるようでないような噺で、このシリーズを終了したい。

<了>

 


2018年チェンマイ・インターキン祭りで考えたこと#5

2018-05-21 13:39:30 | 古代と中世

<続き>

前回、荻原秀三郎氏によると、鳥居のルーツは朝鮮半島の鳥竿であり、その鳥竿のルーツを更に追うと、中国に行きつき、それが最終的にミャオ(苗)族の芦笙柱に繋がり、それには鳳凰に似た鳥がとまっている・・と、記述されていることを紹介した。これに対し当該ブロガーは『柱(クニの柱、インターキンの柱)』と鳥居は別物の可能性が高いと指摘した。

荻原秀三郎氏指摘の芦笙柱に似た構造物が存在することを、過去に『日本すきま漫遊記』なるブログで知ることができた。ブロガーは若い人のようで、ミャンマー・カレン州のパアンに足しげく出張しておられるのか、それとも滞在中の方と思われる。そのブログを丹念に見ていると、先端に鳥が載る石柱の写真が掲載されていた。アショカ王柱に倣ったものなのか、それとも鳥竿か?

ブロガー氏によると、この鳥はオシドリ(ヒンダ)で釈迦の前世の生まれ変わりと記されている。ジャータカには釈迦の前世譚が記され、多くの鳥に生まれ変わった。生まれ変わった鳥は孔雀、雉、鵞鳥、鷲、鸚鵡、鵜、烏、キツツキとオシドリである。当該ブログでこの石柱の鳥を見たときは驚きを覚えた。寺院により1本の石柱と2本の石柱があったり、1本の石柱でありながら2羽の鳥が載っていたり単鳥もある。写真を掲載したいが無断と云う訳にいかないので、スケッチを掲げておく。

 (向かって右がハムサ、左は孔雀であろう。この組み合わせにも何か意味があろうと考えるが、それを知る術が見当たらない)

中国深南部の少数民族や朝鮮半島の鳥竿のようにも見え、北タイの『クニの柱(サオ・インターキン、ラック・ムアンとも呼ぶ)』にも見える・・・まさにこれは何だと云う想いであるが、これはモン(MON)族の聖鳥・ハムサであろう。

ミャンマーのハムサワディー・ペグー朝(1287-1539年)の建国時の伝承によると、ペグーのヒンタゴンの丘に雌雄2羽のハムサが降り立った。そしてこの丘を中心にデルタが形成されたという、国土創生神話=建国神話が残されている・・・とすれば、スケッチの鳥が載る柱は、やはり『クニの柱』であろうと想像するが、情報が少なく確証はない。ビルマ族南下の様子とモン(MON)族について語る紙数はないが、『クニの柱』はヒマラヤ東南部から四川・雲南・インドシナ北部を発祥とする土俗・風俗であったろうという気がする・・・このことについては何の根拠もなく、当該ブロガーが勝手に考えたことの3つ目である。

<続く>