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埴輪からみる古代の喪葬・後編

2021-10-04 07:45:07 | 古代と中世

前編は囲形埴輪ついて記述した。それをupdateしてから日時が経過したので前編(ココ)参照願いたい。

船形埴輪

三重県松阪市宝塚1号墳(古墳時代中期・5世紀前半)から出土した船形埴輪の大きさは日本最大級である。その船形埴輪の楕円形台座二基の上に船体部を嵌め込んでいる。

(松坂市HPより)

全長140cm、嵌め込み台座を含めた高さが94cmにもなる大形品である。日本で出土する船形埴輪は、いずれも準構造船を表現したもので、その船体構造は大きく二つのタイプに分かれる。一つは、刳舟の両側縁に舷側板を取り付けて、船首の内側には水切り用の竪板をはめ込んだ二体成形船タイプ、もう一つは、両側縁に舷側板を取り付けるのは同じだが、竪板は船首・船尾の先端をおおうように付加した一体成形船タイプである。

(奥・一体成形船タイプ 手前・二体成形船タイプ 出典:大阪歴史博物館HP)

宝塚1号墳の船形埴輪の船内は、装飾の在る四個の隔壁によって仕切られている。舷側板の頂部には、櫂を据えるための突起であるピポットが三対表現され、それぞれに小孔があく。船首と船尾は、ゴンドラのように大きく反り返っている。

(松坂市HPより)

この埴輪の船首は大刀側で、蓋(きぬがさ)が船尾側と思われる。それは、天理市の前期古墳である東殿塚古墳出土の鰭付楕円筒埴輪の線刻画に、そのように描かれていることによる。

船上に置かれた器財類は、船首側から装飾隔(障)壁、大刀、装飾隔壁、石見型立物(大)、不明器物、石見型立物(小)、装飾隔壁、蓋、装飾隔壁の順で並ぶ。上図で威杖と記載されているのが、石見型立物と呼ぶ威杖である。

器財類のうち大刀は、木装のこしらえをもつ、いわゆる倭装大刀を表現したものである。これは『伊勢国風土記』逸文に記された天日別命(あめのひわけのみこと)と伊勢津彦(いせつひこ)をめぐる説話によると、大刀は支配者のしるしとしての役割があった。すなわち神武東征に際して、天日別命は神武から刀を授けられて神武一行と別れて伊勢へ乗り込み、伊勢を支配していた伊勢津彦と対峙する。天日別命が攻め込もうとした前夜、伊勢津彦は光を発しながら海上を東へ去っていったとされる。大刀は権威を示すだけではなく、支配権の象徴である。船首に倭装大刀を載せた船形埴輪は、宝塚1号墳の被葬者が、倭王権から伊勢の支配権を委譲された伊勢の王者であったと考えられる。

石見型立物は、奈良県石見遺跡から出土した『石見型盾形埴輪』に類似することから、そのように呼ばれている。この石見型立物が何をモデルに造形化されたのか不明であった。このことについて近年、奈良県御所市鴨都波(かもつば)1号墳から出土した鑓の鞘(やりのさや)の装飾が、同じものであることが判明した。つまり鞘を被った鑓りであったことになる。

蓋(きぬがさ)の傘の端部には、28個の方形孔があいている。三重県尾鷲市の二木島祭りで用いられる関船の船尾に蓋のような『カサブキ』が立てられる。このカサブキの端部に穿孔列があり、そこに吹流しが結ばれ、カサブキから吹流しが走船時に後方になびく。船形埴輪の蓋の方形孔列も、吹流しを結ぶための孔であった可能性がある。尚、蓋は貴人の所在を示すものであり、王者が乗船する王船であったことを物語る。

この船形埴輪は何を示すのか。倭装大刀や石見型立物つまり鑓をかざしていることから、海上で覇をとなえているとの見方もできるが、やはり喪葬観念とのかかわりが大きいであろう。奈良県広陵町巣山古墳(葛城氏の墳墓・4世紀末~5世紀初)の周濠から出土した船形木製品がある。古墳の周濠から出土したことに注目したい。『隋書』倭国伝に次の一文が記されている。それは「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽(ひ)く」という記載とかかわって、この船形木製品に棺を置き、それを更に修羅(木製そり)に載せて、陸地で牽くために用いたとする意見が、舟形の棺そのものであるとの意見より大勢を占めている。いずれの意見も喪葬との関係でとらえられている。

従って宝塚1号墳出土の船形埴輪は、権力者の喪葬に用いられたもので、魂を天上他界や海上他界に送り出す願いがこめられていたものと思われる。

つまり囲形埴輪は遺体を浄める殯(もがり)の習慣を表し、船形埴輪は被葬者の魂を天上他界や海上他界に送り出すためのものであったと考えている。

以上であるが、どうでも良いことながら他界、他界と記しているが、それが天上他界なのか、海上他界なのか、はたまた地下他界なのか気になる。これにつていは別途考えをupdateしてみたい。

<了>

 



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