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北タイ陶磁の魚文様(中編)

2019-09-02 07:32:34 | 北タイ陶磁

<続き>

前回は北タイにおける銀の装飾品や陶磁器文様が魚である背景を紹介した。そこで今回は、それらを背景とした陶磁器文様を述べるとともに、それについて考えてみたい。

北タイの範疇に加えるには、やや難があるがスコータイやシーサッチャナーライの焼物、これらを日本では宋胡録(スンコロク)と呼んでいるが、それらは単魚文が多くかつ魚体は扁平である。彼の地の淡水魚の多くは鮒のようないわゆる鯉科の魚である。しかし描かれている魚文は、何故か扁平な魚である。これは前編で紹介したトライ・カムプリアンの説話を抜きにしては考えられないと思うが如何であろうか。

一方、北タイ陶磁の魚文は、扁平な魚文ではなく鯉科の魚と思われる文様で、単魚文ではなく双魚文が多い特徴を持っている。魚文そのものも、宋胡録に描かれる魚文と違いを見せている。この違いをスコータイなどの中北部と北タイの地域性だと、単純に説明できない背景を持つものと考えられる。

上記のように地域により魚文の形に違いがみとめられるものの、魚文が多用された背景は日常生活の中で魚は動物蛋白の摂取源で副食の最たるものであり、主食の米と切っても切れない存在であったことによる

さて、それらを背景とした魚の陶磁器文様である。先ずスコータイ、シーサッチャナーライ両窯の魚文を見てみたい。それぞれの鉄絵魚文は、カレイやヒラメのように魚高(幅)は高いが扁平で薄い魚体である。当然ながらタイ湾から500km程の内陸であるので、淡水魚である。写真は上からシーサッチャナーライの単魚文、下はスコータイの双魚文である。つまりトライ・カムプリアンなる説話・伝承からきた魚であろうが、その姿形は陶工ないしは画工の頭から生まれた産物であろうか。或いは、そうとも思われるが、実際に扁平な淡水魚は存在したのである。

                      

 (シーサッチャナーライ鉄絵魚文盤:町田市立博物館)

 

(スコータイ鉄絵双魚文盤:バンコク大学付属東南アジア陶磁館)

 「プラー・ナームチッ(ト):淡水魚」なる書籍と図鑑が手元にある。更に「ランナー・タイの魚」なる優れたHPも存在する。ここでは、それらを援用して考察してみたい。

下に「プラー・ナームチッ(ト):淡水魚」の表紙を掲げておく、その表紙で該当するような魚体の魚を赤枠で囲み表示した。

一番下の赤枠は、平成天皇が皇太子時代にタイに贈られたティラピアで、タイではこれをプラー・二ンと呼んでおり、14-16世紀の中世には棲息しておらず、対象から外れる。残るのは右上の赤丸で囲った魚であるが、これをプラー・チョーンプロムチャムナーイという。これをスコータイやシーサッチャナーライの魚文と比較すると、なるほど背鰭、腹側の鰭が一つである点は共通しているが、尾鰭が二股になっておらず、何か異なるようである。

そこで、先述の「ランナー・タイの魚」なるHPを覗くと、下の写真が掲載されていた(無断使用許可とのことで借用掲示している)。魚名はパ・サラークと表示されているが、プラー・サラーク或いはプラー・パ・サラークであろうか。

見ると、背および腹側の鰭が一つで、尾鰭が二股に分かれている。このプラー・サラークないしは近似種を魚文に写したと考えても良いと思われる。しかし、先に示したスコータイ鉄絵双魚文は、似たような魚と思われるが、腹側に3つの鰭が並んでいる。このような鰭をもつ魚は、北タイでは見たことがなく(経験が多くないので断言はできないが)、図鑑にも掲載されていないことから、想像上の鰭かと考える。
いずれにしても、カレイやヒラメあるいは鯛のように薄く、扁平な魚が淡水魚の中に実在しており、それらを写したことになり、決して全てが想像上の魚文では無かったことになる。

次に北タイのカロンとサンカンペーンの魚文について考察したい。先ず云えることは扁平な魚文ではなく、特にカロンの双魚は鱗が描かれ、いわゆる鯉科の魚を文様にしたであろうとおもわれることが宋胡録と異なる。カロンの鉄絵双魚文から見ていくことにする。それは見込み中央に陰陽に配置されている。この陰陽配置は中国の陰陽道の影響かと思われるが、このような魚の姿形はカロン独特のものである。そして先に記述したように、鱗がハッキリ示されている。

 

 (カロン鉄絵双魚文盤:Ceramics from the Thai-Burma Borderより)

 

(サンカンペーン鉄絵双魚文盤:町田市立博物館)

サンカンペーンの鉄絵双魚文は背側、腹側の鰭は省略され、簡略化され二股に分かれる尾鰭が描かれるのみである。この手の魚文は数が多く、サンカンペーンの鉄絵魚文といえば、この手で代表される文様である。この魚文は、北タイに棲息する鯉科の魚を写したもので細身の魚である。パネル写真を見れば分かるが、鱗を持っている。

 

(パヤオ:ワット・シーコムカム付属博物館展示パネルより)

サンカンペーンの鉄絵では、この鱗は長めの点で表現されており、図鑑や写真にあるような魚を写したものと思われるが、観念的に抽象化した魚文となっている。 

次に魚の形をした判子を作り、それを器面に押して文様とした印花(いんか)魚文について考察する。以下、代表的なサンカンペーン印花双魚文盤である。

 

(サンカンペーン褐釉双魚文盤:町田市立博物館)

サンカンペーン印花魚文の特徴は、写真を見ても分かるように、背側の鰭が2箇所腹側が1箇所で、その鰭は三角帆のような形である。また顎に相当する部分が緩やかな曲線を描くのも特徴の一つである。下のスケッチはサンカンペーン印花魚文を写したもので、三角帆のような鰭と下顎の曲線は、サンカンペーンでは共通である。

 

それに対し、パヤオの魚文が下のスケッチである。サンカンペーンのそれと異なるのは背側の鰭が1箇所、腹側の鰭が2箇所である点である。腹側の鰭は三角帆であるが、背側も三角形であるものの、その角度は緩やかである。

 

次はナーン・ボスアックの印花魚文である。ボスアックの印花文は僅か4事例しか、筆者は知らないが、そのうち背側の鰭1箇所・腹側の鰭1箇所が3例。背側1箇所・腹側2箇所が1例であり、何れも鰭の形状はサンカンペーンのような三角形状ではないが、やはり下顎は他窯と同じように膨らみをもっている。

 

これらは、どのような魚を写したのであろうか?「ランナー・タイの魚」なるHPには、下の魚が紹介されている。

 

このパソイと呼ぶ魚は、いずれの側の鰭も三角帆形状であり、下顎の膨らみもあることからサンカンペーン、パヤオ、ナーン・ボスアック共に、このパソイを参考に印花文にしたのであろうと推測する。 
それにしてもなぜ窯によって鰭の数が異なるのであろうか? パソイと思われる魚を忠実に写しているのが、パヤオで背側、腹側の鰭の数が完全に一致している。それに対し鰭の三角帆形状が一致するのはサンカンペーンであるが、鰭の数が現物のパソイと一致しない。ナーン・ボスアックの魚文も鰭の数が一致しない。北タイ陶磁の特徴はあそこに在ってここに無い、ここに在ってあそこに無い・・・という特徴を持っており不思議の一つである。

以上、ここまで北タイ陶磁に描かれる魚文の考察を試みた。北タイの地形は複雑でありサンカンペーンのダム湖で20年前に釣りをして、そこの魚種について確かめたことはあるがカロン、パヤオ、ナーンについては全くしらない。前述図鑑や「ランナータイの魚」なるHPを援用しての考察であり、齟齬があるかも知れないことをお断りしておく。                

 

述べてきたように、北タイ陶磁の魚文様は東西の影響もあろうかと思うが、その背景は『米と魚』に示されたように、北タイで生きる人々と風土の産物で、魚文の形もそれに根差したものであろうことを紹介してきた。ところが、そう単純でもなさそうである。以降、その単純ではない魚文について触れることとする。

 

(サワンカローク陶磁器博物館:ピサヌローク)

大きな瓶というか壺はカロン鉄絵魚藻文壺である。この胴中央は圏線で区画され、其の中央は窓が設けられて鯉科の魚が悠然と泳いでいる姿が描かれている。その部分を拡大して表示する。

この魚文は中国元時代の青花磁(元染めと呼ぶ)に描かれる鯉科の魚とそっくり似ている。それは大越とか安南と呼ぶベトナム北部の陶磁器文様でもある。カロン鉄絵魚藻文壺の魚文は、経由されたベトナム北部の影響、踏み込んで云えば北ベトナムの陶工ないしは画工がカロンで描いたと想定できるであろう。その安南陶磁に描かれた魚文を次に紹介する。          
関千里著「ベトナムの皇帝陶磁」なる書籍が存在する。氏が長年に渡ってコレクションしてきた、上質の安南陶磁について述べられている。

 

P313掲載の五彩四魚藻花文壺に描かれている魚文であるが、版権の都合があるので、その魚文の模写を下に掲げる。

 

模写の魚文とカロンの鉄絵魚文が似ている点を御理解頂けたと考える。このように北タイ陶磁の魚文は、北タイ独自の姿・形をした文様だけではなく、中国や北ベトナムの影響を受けた文様が存在していたのである。

また、サンカンペーン等々の双魚文の陰陽(太極)配置は、中国の陰陽道の影響を受けていたと考えられる。タイ族や山岳少数民族は中国から南下した過去をもっており、やはり中国の影響を受けずにはいられなかった証であろう。

話しをややこしくして恐縮であるが双魚文については、中国のみならず西方にも存在する。イスラエル北部にガリラヤ湖なる湖が在る。そこには多くの魚が存在するが、その魚は使徒ペテロ(ペトロ)が、ガリラヤ湖の漁師であったという福音書の記述にちなんで「聖ペテロの魚」と呼ばれているそうだ。そのガリラヤ湖の西北岸にタブハという村が在り、イエスが2匹の魚と5つのパンで5000人を満腹にさせた奇跡が起こった。その場所に奇跡を記念した、その名も「パンと魚の奇跡の教会:Multiplication of the Loaves and the Fishes」なる教会があり、そこに2匹の魚のモザイクが残っている。

 

(出典:ウキペディア)

それは2匹の魚とあるように双魚であるが、魚の向きは同じ方向で陰陽配置ではないので、北タイの双魚と直接的関りはないようである。

西方の双魚の二つ目である。古代インドの天文である黄道十二宮に双魚宮(Pisces:ピスケス)があり、占星術では魚座とある。その初出は古代インドではなく、古代バビロニア(前19世紀-前16世紀)で、西に伝わったものがギリシャ神話の体系に組込まれ、インドにはギリシャから紀元前後に伝播したようである。

三つ目は先にも触れたが、インド仏教の仏足石に描かれる双魚も東南アジアに伝播した。タイでは涅槃仏をみることができるが、その涅槃仏の足裏文様(仏足跡)に双魚をみる。下の写真はランパーンのワット・ポンサヌックヌーアのそれである。これは中国とことなり、魚の配置は陰陽ではなく西方インドの影響であろう。

 

(涅槃仏・仏足跡文様:ワット・ポンサヌックヌーアにて)

このように西方の影響も受けていたと思われ、次回はそのことについて紹介する予定である。

 

<続く>


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