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サンカンペーン窯と焼成陶磁(2)

2018-02-08 14:09:04 | サンカンペーン陶磁

<続き>

ランナー王朝下、サンカンペーン窯の盛時は15世紀で、14世紀から16世紀半ばまでが、生産時期であったと云われている。サンカンペーン窯の初期は、モン(MON)族がシーサッチャナーライで焼造した器物に似ていることから、13世紀後半に、その陶工による開窯が、起源であるとの説も存在する。この説については、当初安直すぎると考えていたが、調べれば調べるほどモン(MON)族が顔を出すことから個人的には、シーサッチャナーライ、パヤオ、サンカンペーンがほぼ同時発生的に開窯した可能性が濃厚で、のちタイ族にとって代わられたと考えている。

13世紀末にメンライ王がチェンマイに建都し、ランナー朝を創始したが、それ以前彼の地はハリプンチャイ朝の版図であった。ハリプンチャイ朝はモン(MON)族の国家であり、その仏教文化は西隣のミャンマーから、タノン・トンチャイ山脈を横断して伝えられた。タイ北部窯の泰斗であるJ・C・Shaw氏は、これをもって青磁がミャンマーで10世紀から生産されていることから、初期の起源はそこにあると考えているとのことである。

しかしながら、この説には多少疑問がありそうだ。サンカンペーン焼成陶磁にミャンマー陶磁との装飾文様に類似性を認めるが、それは14-15世紀の陶磁文様でのことであり、ミャンマーよりも盤形状や装飾文様に、より多くの北と安南の匂いを感ずるからである。文化と水は高きところから低きところに流れる。その文化の流れからいくと、中国の影響を感じざるを得ず、北ベトナムからラオスを経由し、タイ族の移動と共に伝播したものと考えている。つまり、MON族の手により開窯されていた処に、タイ族が加わり盛時を迎えたものと考えたい。

タイ族の中には、雲南からメコン河を下って、北タイに到達した一派も存在した。それは元寇の南下圧力によるものであった。中世13世紀の元朝下、雲南には多くのタイ族が住んでいたが、元寇により追われて南下を開始する。メンライ王が南下し、チェンマイに建都するのも、この流れを受けてのものであった。このタイ族の南下に合わせて、中国の陶磁生産技術が伝播したとも考えられるが、今日北タイで発掘される窯址形状や焼成技術が、当時の雲南の例えば、建水窯や玉渓窯のそれとはことなり、且つ北タイの窯形状と同じような窯が発掘されたとの報に接しないことから、北ベトナム経由で陶磁生産技術が伝播したかと考えられる。タノン・トンチャイ山脈やオムコイ山中からの、出土品には一部であるが、元染めや明代の青花磁器、龍泉窯の青磁と共に安南陶磁が、混在している現実をみると、中国から北ベトナム経由の伝播説を補強してくれそうだ。

またサンカンペーン窯での盤の形状、特に口径に対する高台径の比率の大きさは、前述の元・明代の盤と似ており、青磁印花双魚文盤のモチーフは、龍泉窯の影響を考える識者は多い(当件に関し在地のタイ人研究者により、別資料(陶片)が発見された。それは福建の沿岸部・同安窯の印花双魚文の陶片が、パヤオで出土したとの情報である。写真も添付されているので、信憑性は高いと思われるが、龍泉窯一辺倒ではなく、重層的な中国の影響を伺わせている)

 (写真・同安窯印花双魚文盤片)

サンカンペーンへの伝播にあたり、北ベトナム(安南)からラオス経由でサンカンペーンに直接伝播したか・・・、と云うことになると多少疑問が残る。タイ北部のパヤオに伝播し、それがサンカンペーンに伝わったと考えたい。

タイ族が漢族に追われて、西南下する様子が伝承として、ラオスに存在する。それは、クン・プロム(クン・ポーロムとも云う)伝承で、クン・プロムはインドラ神の統括する天界から選ばれて、ムアン・テーン(現・ベトナム北西部・ディエンビエンフー)に降下した最初の王である。クン・プロムは、天から伴った二人の妻との間に七人の男子をもうけた。長男から順にルアンプラバーン、シェンクワーン(以上ラオス)、ラヴォー(ロッブリーの旧名)、チェンマイ、シーサンパンナー、ペグー(ミャンマー)、ゲアン(ベトナム)へ送り込んで統治させたと云う。この伝承はシェンクワーンに698年に伝わり、言語的そして文化的につながりを持つタイ語系諸族が、インドシナ各地へ拡散する様子を語っている。

(写真・クン・プロム伝承地)

じように、中国から北ベトナム、北ラオス経由で陶磁生産技術が北タイに伝播したものと考えられ、具体的には以下の様子が考えられる。

メンライ王がチェンマイにランナー王朝を建国した時、パヤオを治める王と協力関係にあったことが伝えられている。焼き物についても、そのような関係であったかと思われる。従来よりパヤオの陶磁は、サンカンペーンの古様を示すと云われている。過去より(現在もそうであるが)サンカンペーンとパヤオの混同は激しく、双方を知悉しなければ、その区別は困難であるほど、よく似ている。このパヤオからサンカンペーンに陶磁技術が伝わったであろう。双方の距離は、100km程で、二つの大きな山塊を越えるが、中世と云えども交流は盛んであったと思われる。

以上を要約すると、ランナー朝建国前期のサンカンペーンは、モン(MON)族国家・ハリプンチャイ王国の地であった。シーサッチャナーライ初期のモン陶を創窯したモン族と呼応し、パヤオとサンカンペーンに開窯したのは、モン族と考えられる。そこに上記タイ族の登場により、タイ族にとって代わられたものと想定される。そのモン族は、ブリラムの地にて早くから、クメール族のもとで製陶技術を習得し、それをシーサッチャナーライ初期陶として、煙を上げていたのである。

サンカンペーン窯の開窯は、14世紀以降で盛時は15世紀という説が通説であった。手元にSayan教授(バンコク考古センター)著作の「CERAMICS IN LANNA」なる図書がある。

そこに記されるのは、サンカンペーン青磁片がパヤオ・ウィアンブア窯群の一つである、Gao-Ma-Fuang窯の物原から発見されたことで、これをもってパヤオ・ウィアンブア窯はサンカンペーンと同時であったと結論付けている。Gao-Ma-FuangのC-14年代測定では、1280-1300年と13世紀末を示しており、通説より少なくとも50年以上、サンカンペーンの開窯時期が遡ることになる。またSayan教授はシーサッチャナーライ初期窯、サンカンペーン、パヤオは、ほぼ同時に操業したであろうと指摘している。これは前述の伝播の可能性を、補強するものであると考えている。

 

                                                                         <続く>


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