世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(3)

2019-03-02 07:15:46 | 北タイ陶磁

<続き>

2)サミットル・ピティパット教授の調査報告

関千里氏の見方は、ロマンに満ち溢れた内容であるが、タイ王国側の学者はどのように見ているのであろうか。手元に元タマサート大学教授のサミットル・ピティパット氏の『Ceramics: from the Thai-Burma Border』なる書籍がある。その中でピティパット教授は以下のように著述されている。

“先ず大量の陶磁器を含む副葬品の種類を紹介している。それらを箇条書きにすると、以下のようになる。

①  宝石及び装飾物

各色の貴石及びガラスビーズ、水晶のイヤリングや首飾り、青銅、銀、金製の指輪、耳飾りが出土した

②  金属製品等

鉄製のナイフ、鉈、鎌、青銅製の柄をもつ鉄剣、青銅鏡、青銅製の石灰壺(キンマ壺)、青銅盤、青銅鉢、青銅高坏、青銅カップ、青銅スプーン、青銅蓋付カップ、更に青銅製の銅鑼に大小のベル焼締めのキセル、少量の漆器も出土した

③  陶磁器

北タイ各地の陶磁、中国・元と明の陶磁、安南陶磁、ミャンマー陶磁

④  錢貨

スコータイ朝やアユタヤ朝のBullet(弾丸)銀貨、ランナー朝の鞍型銀貨、ビルマ文字の印付き銀貨、ピラミッド型や棒状のインゴットが副葬されていた。これらと同じ形状のインゴットは、タイ湾の沈没船からも引揚げられている

 (写真は当該ブロガーが保有するランナーの鞍型銀化である。これと同じ銀貨が墳墓跡から出土した)

墓と墓地

墓と墓地とのテーマで、サミットル・ピティパット教授の著述が、以下の如く続く・・・

“墓と墓地発見現場への訪問や掘削に携わった人々へのインタビューから、回収された遺物は古い墓地からの埋葬品であることは確かである。墓には遺体がさまざま遺物と共に埋葬されていた。また時々火葬の兆候を示した骨入りの壺が出土した。

(上述書籍に記載されていた、墳墓の発掘状態のモデルである)

チェンマイ県オムコイ郡の遺跡を訪れたSurapol Damrikulは、3種類の埋葬地について説明している。1つ目は直径が7からおそらく25-30mの範囲の大きさの単一の塚からなっており、溝が塚を囲んでいた。それぞれの塚には、火葬の骨が入った陶磁の壺があり、様々な副葬品もあった。2番目のタイプの墓は、尾根の張出し部の斜面全体に分布していた。壺の中には骨と副葬品が納められていた。3番目のタイプの墓の位置は、2番目のタイプと同じであったが、目印の石が置かれていた。これらの異なる種類の墓地は、かつてこの地域に居住していたさまざまな民族グループの習慣を反映している可能性がある。あるいは、ある人が死亡した方法(例えば、自然の原因によるものか、突然の事故によるものか)または死亡者が乳児か成人か、あるいはその社会的地位によって、異なる埋葬行為を行った可能性がある。タイ芸術局によるとシーサッチャナーライの61番窯で大甕が作られ、時にはこれらの大甕が他の小さな陶磁と共に、死者の骨を入れるための埋葬甕として使われていたであろう。←当該ブロガー注:これは教授の推測かもしれない、マルタバン壺は出土したが、オムコイ山中でシーサッチャナーライの大甕が出土したとの情報には接していない。

タマサート大学の調査・研究チームがターク(Tak)に到着したとき、すでに発見されていた全ての遺跡は略奪されていた。売却価値のない骨が残るのみであったが、チームはタークの山中の小川の近くで多数の先史時代の石器を発見した。

知識を持たない人々の盗掘により、墓の分布、それらの構成、そしてそれらの中に在る遺物の配置等の情報は不詳である。学者たちは、これらの遺跡を残した人々の文化と民族性について議論している。墓は古代のラワ(ワー・佤)族やカレン族、あるいは集団特有のものであるとの学者も存在する。初期のタイ人(族)の可能性を排除しきれない。“

・・・以上がピティパット氏の著述内容であり、葬られたのは誰であるかについては、タイ人の可能性に言及しているが、結論を持たない様子である。少ない調査例ながら、土葬と火葬が混在していたことは確かなようである。

 

<続く>

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿