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ランナー(チェンマイ)王家の王室陶磁・前編

2019-09-04 07:21:25 | 北タイ陶磁

ブログ開設1500回記事&5周年記念として、『北タイ陶磁特集』を連載している。今回はその2回目として『ランナー(チェンマイ)王家の王室陶磁』を前後編の2回に渡り掲載する。玄人各位からみれば、荒唐無稽に思われるであろう。もとより空想に近いと、記述している本人が思わなくもない・・・と云うことで、話半分で御覧願いたい。

前編

王室陶磁と云えば官窯に他ならない。官窯で真っ先に脳裏をよぎるのは、中国の明代に景徳鎮に設けられた「御器廠」である。そこでは皇帝のための器が焼造され、清時代の前期に技術的な極致を迎えた。下段に、その御器廠の写真と雍正年製銘をもつ東京国立博物館所蔵の琺瑯彩梅樹文盤のリンク先を掲げておく。

                       (御器廠:グーグルアースより)

https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=TG1333

つまり官窯と云えば、陶磁技術の粋を集めて焼造されたものである。以上いきなり本題からそれたことを記述した。

北タイのランナー王家の王室陶磁について、思うことを述べようとしている。北タイ陶磁については、国の内外問わず多くの展示施設で目にしてきた。最近思うことだが、ヴィエン・カロン諸窯(所在地:現チェンラーイ県カロン副郡及びランパーン県ワンヌア郡)の一部の焼物に官窯と思われる上出来の一群(スコータイ新市街・サンカローク陶器博物館蔵品)が存在する。それはサンカローク陶器博物館の2階に、該当する一群の陶磁が展示されている。パンフレットによれば、『芸術と哲学』と題し作品解説がなされている。それらは本歌(真作)であろうと思うが、カロンとしては異質の精作であり、倣作を証明する材料を持ち合わせていない・・・つまり今できのコピーではなさそうだ。その一群はランナー王家の王室陶磁とも呼ぶべき出来栄えである。

その本題前に関千里氏の著作に『ベトナムの皇帝陶磁』なる力作が存在する。先ずそれに触れておきたい。その著書の冒頭には、「はじめに・比類なき壮麗なる陶磁の出現」と題して、次の一文が掲載されている。少々長文ではあるが、主要点を抜粋して以下に記す。

“それは、1999年に始まった。ベトナム北部(北部のどこかについては記述なし)で新たに陶磁器が発掘され、国外へと運ばれたのである。出土品は五彩(赤絵)と青花(染付)のみで、これらは国境をなす西の高地を越えて、ラオスを通過し、メコン河を渡った。それを受け入れたタイの町は、主に東北部のノーンカイと北部チェンコーンであったが、時にラオスからミャンマーを経由して北部のメーサイへ着いたこともあった。・・・略・・・器形と文様を手掛かりに編年を求めた結果、すでに中国陶磁の影響下から脱して独自性を発揮していたベトナム陶磁が頂点を極めた陳(チャン)朝(1225-1400年)後期の未知なる遺品群であるとの確信を得た(別章では、ベトナムへの元寇が止んだ陳朝三代仁宗(在位1278-1293年、上皇在位1293-1308年)の治世から、外戚の胡氏が陳朝の政権を握り、九代芸宗(在位1370-1372年、上皇在位1372-1394年)に強い影響力を及ぼす1370年頃までの約百年間とする)。・・・略・・・同じ作品が一点たりともないという極めて贅沢なこの作陶は、壮大な構想の基に、国家の財力と技術と英知の粋を集めてこそ創作できた優品であろう。その背景に精神性豊かで充実した社会なくしては成し得ない。しかも官窯経験豊富な指導者と、画院の存在が不可欠である。これらを満たし統率できた人物、それは時の為政者であった皇帝以外にいないと断言できる。

同時代である中国の元朝(1271~1368年)では、主に景徳鎮の官営工房である官窯やその管理下にあった民窯で、皇帝やその家族、もしくは宮廷でのみ使用するための官窯製品を焼造していた(筆者注・官窯の概念は明代からと考えられるが・・・?)。同様にベトナムでも陳朝前期の天長府に官窯が置かれていたとされ、他の重臣たちもそれぞれの要地で盛んに製陶を営んでいたようであるが、その実態はまだ解明されていない。だが、本稿で初公開となる五彩や青花は、陳朝後期の皇帝窯とも云える皇帝直轄の窯で焼造された官窯製品と推察できる格調高き遺品である。しかも、過去にその例を全く見ていないことからも、皇帝一族の超特別な独占物であり秘陶であったと想像される。・・・略・・・。“

さらに巻末に真贋に関して次の一文が掲載されている。“『新資料の科学分析による年代測定』と題して「五彩貼花花卉文壺」と同時に入手した「五彩鳥文壺胴部断片」を破壊検査である熱ルミネッセンス法により年代測定した結果、年間線量10mGY(*1)の場合1030-1480年とのことである。年代幅が大きく、具体的な焼造年代は絞れないが少なくとも後世の贋作ではなく、種々の背景より陳朝後期の焼造である。“

以上、多少長くなったが、関千里氏著作の要点を極簡潔に転載した。

そこで真贋についてである。氏は五彩貼花花卉文壺と同時に入手した五彩の陶片を熱ルミネッセンス法で年代分析し、少なくとも後世の贋作ではないと断言しておられる。しかし、五彩貼花文花卉文壺そのものの年代測定結果ではなく他の陶片の測定結果である。

筆者は2013年、ハノイで半年間ロングステーを経験した。其の時、多くの博物館やアンティークショップに足を運んだが、当該書籍に記載されている青花や五彩磁は全く目にしなかった。ベトナム北部の何処で発掘されたのか・・・このことは、全く触れられていない。発掘により大金を手にしたと云う、この種の情報は必ず漏れるものだが、ハノイのアンティークショップで質問してもUnknownであった。また関千里氏が述べる時期の青花陶磁とすれば、元染の初出ないしはそれ以前に安南(ベトナム)で青花陶磁が焼造されていたことになり、俄かに信じがたい気持ちが大いにある。しかしながら筆者にとっては、安南陶磁については全くの素人であり、関千里氏の言質を信ずることとする。

つまり元染めの「青花紅釉貼花花卉文壺」と同じような形状と装飾技法を用いた陳朝後期の「五彩貼花花卉文壺」は存在したであろう。

 (青花釉裏紅貼花花卉文壺:河北博物院)

表紙を飾る「五彩貼花花卉文壺」

それと似たような陶磁が北タイのビェン・カロンに存在する。チャムロン親王が編纂した『タイの年代記集成』によると、1295年頃タイ族最初の王国であるスコータイ朝の三代・ラームカムヘーン王(在位1275? 1279-1298年)が元を行幸した帰途、陶工を伴って帰国しタイで陶窯を築いたという。陶工は五百人余りで磁州窯の人たちであったと伝えられている。

関千里氏の著作『ベトナムの皇帝陶磁』は以下のようにも記す。“スコータイの陶器は鉄を含み素地が粗く、化粧土を掛けて鉄で描いている。この筆による鉄絵の表現法は華北の磁州窯系で金(1115-1234年)の時代に始まったとされるが、その流れを汲んでいると云える。但し、ラームカムヘーン王自身が行幸したことは信じがたく、朝貢使節団を送ったとすれば頷ける。それがベトナムを経由していた、あるいはベトナムの陳朝にも朝貢し、陳朝にいた磁州窯系の流れを汲む陶工たちを伴って帰国したと考えると、頷ける点が出てくる。これが陳朝の陶磁文化が東南アジアに影響を与えた大きな波だったとすれば、次の大きな波は永楽帝(在位1403-1424年)のベトナム侵攻、直接支配、そして圧政に耐えきれなくなって押し出されたかたちの陶工たちによって伝播したとも考えられる。そしてシーサッチャナーライやスコータイの鉄絵の花文や魚文と、ベトナムの鉄絵花文や新資料の青花魚文(注①)とに共通性を見出すこともできる。また元やこの度現れたベトナム五彩と青花のように、細密で余白を残さずびっしりと描きつめる独特な描写は、ランナータイ(注②)に鉄絵の伝統となって根付いた。”・・・以上であるが、これは氏の調査検討後の想定によるもので、チャムロン親王編纂の「タイの年代記集成」は遥か後世の成立であり、記載内容の信憑性は今一歩であろうと考えられる。しかし、関千里氏の記載内容にはうなずける点が多々あり、ここではそのような前提で噺を展開することにしたい。

つまり、以降紹介するビェン・カロンの上出来の一群であるランナー王家官窯品の背景は、安南経由磁州窯の影響が考えられる。このことは筆者の持論である北タイの独自性に若干なりとも変更を迫るものではあるが・・・。

注①   :鉄絵の花文には意匠の共通性は認められるが、魚文にはそれが認められない

注②   :余白を残さない繁辱な鉄絵を特徴とするのは、ビェン・カロンの陶磁である

『ベトナムの皇帝陶磁』の白眉は、五彩貼花花卉文壺である。その壺は著書カバーを飾っている。

これは元染の青花釉裏紅貼花花卉文壺に倣ったものであろう。それはビーズ紐貼花装飾技法と氏は紹介しておられるが、そのビーズ紐で壺胴部を区画し窓を設け、そこに貼花の花卉文で装飾しているのである。

 (青花釉裏紅貼花花卉文壺:河北博物院)

驚いたことに、そのビーズ紐で窓を設け鉄絵で草花文を描いた壺がカロンにも存在する。壺の形は元染と安南の五彩貼花花卉文壺と同じ酒会壺の形をしている。ただカロンのそれはやや小振りで華やかさに欠けるきらいがある。

(サワンカローク陶器博物館蔵品) 

しかし北タイ特有の形状をもつカロンの大壺の一群が存在する。特に壺の縁にやや傾きはあるものの、ほぼ直立して立ち上がるのは、元染の「至正十一年」銘のデイビット瓶に見ることができ、同様な縁を持つ大壺は安南陶磁にも存在する。

先ず写真のこれぞカロンの官窯と思わせる大壺から見ていくこととする。胴中央が圏線で区画され、そこに二重の枠線で窓が設けられている。その窓は先のビーズ紐による窓と趣向は同じである。その窓には元染で見るような蓮池魚文が描かれている。

 (元青花魚草文酒会壺:陶磁器染付文様辞典より)

カロン鉄絵の鯉と思われる魚は腹をみせて躍動的な動きであり、それこそ元染の影響を受けた安南陶磁でみる鯉(関千里著「ベトナムの皇帝陶磁」P313参照)を彷彿とさせ、線描は活きいきとし弛緩がない。まさに官窯陶磁以外の何物でもなかろう。『ベトナムの皇帝陶磁』に紹介されている魚文の模写を掲げておく。カロン鉄絵魚文と極似している。

以下に魚文以外の同じ形状の大型壺を数点紹介する。

胴中央は孔雀や蔓唐草文が描かれ、器面は繁辱なほど絵付けがなされている。しかしそれらに緩みはなく、気品に溢れている。

 

肩は貼花鉄絵で胴は鉄絵で鳳凰が描かれている。胴裾の蓮弁文とあわせ中国の影響を受けていると云わざるを得ない。尚、この鳳凰文については詳細を後述する。

この大壺は象の貼花文で北タイ独自であるが、圏線下段の花卉文は何処か北の匂いもする。以上高さが50cm前後の大壺を紹介したが、絵付けに緩みはなく精作そのものである。やはりカロンに官窯は存在したであろう。

 

<続く>

 

 


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