世界の街角

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出雲諸王の王冠

2022-03-02 08:18:53 | 古代出雲

6世紀の出雲国と云えば、ヤマトの王権が確立した時期で、小なりと云えども首長が存在した。意宇(おう)郡の東に飯梨王とも呼ぶべき首長と、出雲郡の西に塩冶王とよぶような首長が存在した。それはそれぞれの古墳から王冠が出土していることによる。それらはいずれも6世紀のことであった。

(島根県立古代出雲歴史博物館にて)

6世紀の飯梨王は新羅渡来か、その系譜に繋がる金銅冠や装飾品を身に着けていた。眩い光景であったであろう。

(塩冶王 島根県立古代出雲歴史博物館にて)

次の全国の金銅冠分布を御覧頂きたい。上掲2つの冠は旧出雲国から出土したもので、5世紀の冠は少なく、6世紀に至ると大幅に増加する。

その中に滋賀県高島市・鴨稲荷山古墳出土の豪華な王冠があり、藤ノ木古墳のそれにも負けてはいない。尚、鴨稲荷山古墳出土の王冠も新羅系統の匂いがする。

(高島市HPより)

この鴨稲荷山古墳は、三尾君(三尾氏)の墳墓と云われ、近江国高島郡三尾野を本拠にした地方豪族であった。継体天皇は、その三尾君の父・彦主人王が亡くなると、母・振媛の故郷である越前国高向で育った。継体天皇の後にも三尾氏は、有力な首長であったことが伺われる。

ここで問題というより、怪訝に思われるのは、5世紀に出土する金銅冠は九州の一部と北陸である。北陸は、先の継体天皇養育の地で、そこから天皇位に就いた。その5世紀に大和の古墳から、金銅冠が出土していないのは何故か?

5世紀と云えば、倭の五王が全国を統一した時代だと云われている。たしかに、埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山古墳出土鉄剣銘に記された辛亥年(471年)当時の大王で、獲加多支鹵大王と記されており、それは雄略天皇に比定されている。その大和から金銅冠が出土していないのである。もとより天皇陵や皇室関連陵墓に比定された古墳は、発掘禁止ではあるが、それ以外の有力豪族と思われる古墳からも出土していない。5世紀の大和は後進地であったのか、それとも云われるほどに大和王権は強力なものではなかったのか継体天皇以前の大和の5世紀は、まだまだ謎が多そうだ。

<了>