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せっちゃんの毎日

せっちゃんの日々の記録

「こたつ」ついて…

2014-01-12 06:09:14 | 昔話
昨日 椅子で座るテーブルと取り替えた「こたつ」


私が電器屋だった頃 秋ごろから随分売れました。

当時は、一般家庭でも薪や石炭もあまり使わなくなり

灯油のストーブが出回ってきていました…

           
先ずは、私の父が指先に血が行かなくなる「白ロウ病」で

足の親指を切っていましたので、

そのやぐらの変わりにコタツを入れて寝ていました

当時の電気炬燵は、赤外線の赤い灯がとても温かかった

確かに病気の為に入れていたコタツですが

赤外線のお陰で「水虫」にも効いたようでした

お陰で私の販売促進にも随分と役に立ったように思います


そして、一番は、「麻雀」の台です

その頃のコタツの天板は裏表がありまして、

表は、つるつるのデコラ仕上げで、食卓としてもお洒落でした

裏は、緑色のネルのような布が張られ、滑り止めのようでしたが

それが「麻雀」に最適でした!

私も、営業マン(?)として必然的に覚えた「麻雀」でしたが

そう思うと、自分で売ったコタツで何度、「麻雀」にお付き合いした事でしょう

当時は、4人のメンバーが揃うと直ぐに始まったゲームです

お正月等には、何卓も並んで始まる雪国の風物詩のようでした

私の家では父が「喧嘩の元…」と云って禁止でしたが

主人の実家などでは、田舎に帰って来るご近所の友人達も集まって

「麻雀」大会でした。

兄弟全員の家族や友人たちが集まりますので

総勢 20人以上になっていたのではないでしょうか?

義母は大変だったと思います…

本家ですのでゆっくりとしたお正月などした事は無かったんじゃないかなぁ~?

今 思い出してもあの頃の生き生きとした義母を思い出します

                        
「コタツ」を出しただけで、色々な思い出が浮かんできますよ…


正月休みも今日で終わり

2014-01-05 10:09:26 | 昔話
正月休みも終わりですね

明日からいよいよ、日常の仕事モードになるのですが

私たち夫婦には、それ程変わりはありません。


それでも、元旦に遊びに来ていた孫と作った正月料理でしたが…



私が子供の頃の年越しは、とても賑やかでした…

暮れの25日にクリスマスが終わって

何時も『御用聞き』に来る魚屋(八百屋、荒物屋等も兼ねる)が来て、

年越しの献立の注文を取りにきます

私の家は電気工事屋でしたので、住み込みの若い子が沢山いまして

『御用納め』(今で言う忘年会)の仕度で母や住み込みの婆さんやお手伝いさんは大変でした

28日が『餅つき』で、多い時で1斗うものお餅をつきます

皆にお供え等を持たせてあげるのです。

まずは、『旨煮』の準備…

大釜で鳥のガラや昆布等でお出汁を取ります

台所にはもう1台の薪ストーブが据え付けられ フル稼働!

何せ、30人前くらいの料理ですから 材料も半端でない!?

お刺身の『御造り』などは魚屋に任せていましたが、

焼き魚の『鯛』なども外で父(?)が付きっ切りで焼いていました。

大根の『紅白なます』『ニシンの昆布巻き』『数の子の出汁煮』

そして、私の大好物の『茶碗蒸し』等です

最後の〆は、『かしわ蕎麦』が出てきます…

その頃には、皆 満腹と泥酔状態です

(北海道ですので東北の人が多いので皆、民謡などがとても上手かった!)
          

他には『口取り』と云って、生菓子・羊羹・あんぽ柿等の折詰め

するめ・昆布・りんご・ミカンなど持ち帰られる用に風呂敷を付けて

一人々のお膳の下に入っています(私たち子供にもです)

こんな準備を30日の夜までにしていたのです。

30日の午前中には皆、仕事も終わって道具の片付け等をして

田舎に帰る者は準備していました。

この日から 4月の仕事初めまでお休みです。

昔でしたので、田舎の無い人もいて、帰らずに家で年越しをする人もいました

30日は、夜通し宴会でそのまま泊まってゆく人たちもいました

それでも、31日になりますと家の中もひっそりして昨日の宴会が嘘のようでした

その日の夜は、家族5人だけの年越しです

親がいない住み込みの子などは、「一緒に年越しをしょう」と誘っても

部屋から出てきません。
         
今思うにどんな思いだったのでしょう…

                   
まだ、15歳位だったと思いますが親戚の家にも帰らないようです

                
今みたいにテレビも有りませんから部屋で将棋をしたり、カルタ等をしていたようです

                  
私たちもお菓子やミカンなどを持って行って一緒に遊んだ記憶があります

                       
お正月は、母などと連れ立って初詣に出かけ…

                   
2日の初売りは夜中から出掛けて行って『福袋』を買い求めて着ました。

                          
あれから50年余りにもなりますが

                 
母が父との話で「今年も無事に年越しが出来たなぁ~」と話していた事が

                     
何とも、胸に「キュン!」と来るお正月でした。

                
従業員を抱えての年の瀬は、両親達にとっては大変な事だったのでしょう

              
私も商売をしていましたが、その時は夢中でそんな事を考える余裕も無かったですが

                
あの時代、北海道でのお正月は、今思い出しても切ない思いがします

                 
雪が深々と降った夜などふと、両親の事などを思う夜長でした…

モモ子も歌います…♪

2013-12-18 21:43:33 | 昔話
『蘇る!昭和の歌謡曲』を見ていました

どの歌も口ずさむ事が出来ます

聞いていて涙が出てしまう歌も…

                        
私の青春でした

不思議ですねぇ~!?

私は、芸能人にはそれ程にめり込んだりしませんが

こんな歌を聞くと昔が蘇ります



ピンキーとキラーズの『恋の季節』

私が 高校2年の後半の時です

秋春期の真っ只中でした…

人生の先が見えない? 何ともやり切れない時期でしたよ…

       
当時 付き合っていた彼氏さんがこの歌が好きで

ドーナツ版のレコードを何時も聞いていました

地元の駅に近いパーラーで、たむろって居た時です

                     
今考えるとこの歌が好きだったかは、分かりませんが

団塊の世代の後半で 毎日が気だるい世代でした(?)

ただ 聞いていて懐かしくて 少女のように涙が出ます

口ずさんでいますとモモ(犬)が一緒に歌います(何かを感じるのか?)



今、人生の終盤に来て、こんな歌を聞いて色々思い出されます

辛かった事 悲しかった事 笑った事 泣いた事 等々

でも 良い人生でしたよ…

                            
後は 余禄の人生です

憎まれず 疎まれず それ程に愛されずもしないで

暮らしてゆければ 幸せですよ

友人もいっぱい居ます

沢山の人たちに 関わって 楽しい思いもしました

面白かったなぁ~

こんな事を思うのも少し酔ったからかなぁ?

主人の帰りを待っている間にお酒を飲んでいます…


亡き母の故郷

2013-11-09 08:41:28 | 昔話
先日の強風!

秋田地方を襲ったようで、テレビを見ていて

心が痛みます

秋田は、私の亡き両親の故郷ですが 

子供の頃 北海道に居た私は、母に連れられて

何度か行った記憶があります…

当時は、電車では無く、汽車での長い時間を乗っての函館までの移動でした。

幾つものトンネルを潜り、田舎町を走る汽車に些か退屈気味でしたが

今考えると『なんとのどかな風景だったでしょう』と思われます。

特に各駅で停まる汽車の窓から駅弁を買って貰うのが唯一の楽しみでした

お茶は、陶器の土瓶に入っていて、それを持って帰っておまま事で遊んだ事や

汽車の中ではお酒や産地のお土産やゆで卵などを売りに来て

母にねだったものでした。


今思いますとほぼ、一日汽車に乗っていたように思います

夜中に連絡船に乗るため起こされて桟橋を歩いた眠たい思い出もあります

朝方 またまた汽車に乗り換えて、母の実家に帰りますが…

実家が田舎でしたので、最寄の駅から2時間(子供の足で)も掛かったように思います

             
実家に着きますと伯母(母の義姉)さんが
         
「まんずはぁ~ よぐ、きだごと、へぇって休め」
(まぁ~よく着たねぇ~入って休んで下さい)

と笑顔で迎えてくれます…

子供ながらにその方言がとても心地よくやっと着いた安堵感と従兄弟達と遊ぶ楽しみが待っていました。

直ぐに、近くに住む分家の従兄弟の所に行き、裏山に探索に出かけたり

家の前の「堰(せき)」で水遊びをしたりと楽しい何日かが続きました。

勿論の田舎の古民家で まだかやぶき屋根でしたし、

黒光りする板の間に囲炉裏が燃えていて、

大きな「はたはた」がぶり子の糸を引きながら竹串に刺さっていました

夜になると、暗い屋根裏みたいな所でランプの明かりで祖母の昔話を聞いたものでした

今思い出しても 何とも懐かしい思い出です…

只、トイレが外にありましたので、怖くて一人では行けません

勿論 明かりはランプで足元を照らして行くのすが、

トイレが3畳ほどの小屋のど真ん中にあり、ノックしてもドアまで届きません

そんな不便さも小学校前の私には、珍しい思い出です。

同じ年の従兄弟からはトンボ取りの網の変わりに長い竹の先に蜘蛛の巣を張った

虫取り網を作ってもらったり、山小屋にある山羊やウサギに餌をやりに行ったりと

子供心にしっかりと刻まれる記憶でした。



今、震災に遭って この山に越して来ましたが、

これも何かの縁でのんびりとした田園風景を見ますと

何時も帰りたがっていた母の事が偲ばれます

今では、代が変わってお付き合いも遠のいてしまいましたが

先日 秋田の友人から頂いた「秋田小町」も手伝って

母の故郷を思い出しました…

またまた、竜巻のような突風で災害に遭われた亡き母の里を思い出して

更新しました…

まだまだ、災害が日本列島に降りかかるようです

これ以上の被害が及びませんようにと祈る気持ちでいっぱいです。

災害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。


お盆が近づくと…

2013-08-06 10:46:25 | 昔話
梅雨明けしたのにはっきりとしない天気です。
それでも昨日の仙台の花火大会は雨も上がった様子で無事終わったようです。

         
         
         朝のおトイレタイムのモモです。やっと、リュックを背負っても歩くようになりました。

主人が夜勤ですのでお散歩に行けず、元気が余っています。『ユイちゃんでも遊びに来ないかしら…』

8月に入って、『お盆』も近づき今年も『お墓参りに行けない不幸をお許しください。』等と心の中で手を合わせる私ですが…
         きっと「…お墓の前で泣かないで下さいそこに私は居ません…」と思って自宅に供えています。

そう云えば、先日「ツナグ」と云う本を買って読みました…映画も撮られたようですが、
『あなたは亡くなった方に1度だけ会えるとしたら誰に会いたいですか?』等と聞かれたら『誰だろう?』
やはり「母かなぁ~?」でも、逢って何をしようとするだろう。(別に聞きたい事もないし…)

昔、秋田生まれの母が色々複雑な家庭に生まれた従姉妹が居たそうです…

恐山に行って『いたこ』に自分の本当の母親に逢わせて欲しいと行って来たようです。
出てきた『いたこ』は凄い東北なまりで、東北生まれのその従姉妹ですらも判読出来ずじまいでしたと…
只々、涙を流して泣いているばかりで、何の問いかけにもならなかったと言っていました
(昔、テレビでもやったことがある、『マリリンモンロー』を呼び出すと言う話!?マリリンって!東北人か??ってなお粗末な話)

そんな事は良いとして、先日ブログを見ていましたら同郷の方のブログに出会いました。
その中で、お寺さんが年に1回のご命日の日に遅く来て、わずか15分で帰られたとの話がありました。

私の亡き母もお寺さんには恵まれず(?)、四十九日の法要に『忘れてた!』で来られなかったのです。
オカルトでは有りませんがこの日は私が横浜に居たころで大学に行っていた長女と横浜の駅で待ち合わせをする事になり
お互いに電車の中に居たのでしたが、、、丁度、北海道の納骨の時間に私と長女のバックの紐が同時に『ブツン!』と切れたのです
『何かある?!』と田舎に電話しましたら予想通りな事になっていました
このお寺さん、先代の和尚さんの頃から何かと私と兄には気に入らないお寺で、
祥月命日に参りに来て、私の母に『ちょっかい』を出すとんでもない『生臭坊主』でした
ちゃぶ台に向かい合わせに座っている私の母の着物の裾を胡坐をかいた片足で触るのです…
母が怒りますとニヤニヤ笑って『まぁまぁ~そんなに怒りなさんな…ベッピンさんが台無しだ!』等とのたまうんですよ
私と兄とで坊さんがお経を読んでる間に被ってきた山高帽を後ろからずっぽり被せて逃げました…
子供の頃の悪戯ですから、それくらいは序の口でして、靴の中に画ビオを入れたり、座布団の中に剣山を入れたりと
『坊主』退治に工夫したものでした
次の代からですとお寺さんも養子を迎えたようで、この若和尚は計算高い人のようでした
『誰かが言ったか○○丸儲け』でお金にならない事はことごとく排除するようでして、恒例の盆踊りも全部寄付で間に合わせたようでした。

余り、色々書くと差しさわりがありそうなので、ここら辺にしておきますが…

その後、亡両親の墓はどうなったかと云いますと姉が『キリストさん』に変えてしまったようです。
未だに墓参りに行ってない親不孝娘ですが…『南無阿弥陀仏』じゃ無くって
『アーメン』になったようで切り替えに苦慮して居るところですよ…