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せっちゃんの毎日

せっちゃんの日々の記録

雪の香り

2016-01-22 06:38:12 | 昔話
今朝も早出出勤の為、4時起きです
冬場の4時は真夜中(?)
朝、起きると先ずは、ベランダから「雪は降ってない?」
と覗きます。
最近では道路の状態など気になって、その日の予定を立てます。
テレビを点けても先日のバス事故の事や
24日からの爆弾低気圧!!の事が報じられています

私は、北海道の豪雪地帯に生まれ育ちました。
雪やシバレには当たり前の様に生活していました。
若いときは、一日中雪かきをしていた時もあり
そんな生活に不満も不安も無かったように思います。

父は電気工事屋でしたので、冬場の仕事は殆どありません
ですが私は家電屋でしたので、季節に関係なく仕事でした
先ずは、店の前の雪かきから始まって
その日の仕事の予定を見て、
9時に店を開けます。

車には必ず、ヘルパー(雪にぬかった時にタイヤにかませて脱出する物)
スコップ等を積んで置きます。
当時は、タイヤもスパイクタイヤでしたので
アイスバーンでもポンピングブレーキで停まる事が出来ました。
若かった所為もありますが
そんな豪雪地帯でも平気で運転していました
訪問先のお宅では、
雪かきもされずに駐車する場所も無いので
ここでもまたまた雪かきです(笑)
吹雪の日などの農道は真っ白!です
今考えると何度も死ぬ目に会っていたのです(?)
それでも大した事故も起こさず
35歳の時、内地に越していました

内地に来て、驚いた事はとにかく寒かった!!
家の中も外も同じ気温なのです(?)
雪も滅多に降りませんから暖房器具もコタツや電気ストーブ
寒冷地育ちの私には耐えられない事でした。

内地に来て、何度目かの引越しをして
今の地に落ち着いたのですが
同じ市でも山を越しただけで雪の降り方が違います

ここでは、降り続いた雪でも
街に行くと殆ど消えて無くなっています。

「住めば…」と言いますが
夜明け前の空に真綿のような雪が舞って
ふと、雪の香りを感じて郷愁に浸ってしまいました

居酒屋「クラブみゆき」

2015-04-12 19:29:35 | 昔話
大分 桜も咲きかかってきているこの頃

花見の名所「榴ヶ岡公園」の桜も見ごろで

花見の宴も最盛興でしょう


先日 車の中から撮った(榴ヶ岡)桜の状態です。

冷たい雨が降りしきる中で、

山の方はまだまだのようです。

お天気が良くてもモモ(犬)がヒート中なので、散歩も出来ないようです。


先日 DVDの半額のはがきを貰って、

借りてきた『深夜食堂』

昭和の香りがする画像に見入ってしまいました。


そう云えば、私の故郷の家の近くにもこんな居酒屋がありましたっけ…


夕方 7時くらいから開く居酒屋

引き戸の入り口に「おでん」と書かれた赤い提灯に灯が入ります。

紺色ののれんには、白抜きで『居酒屋 みゆき』と書かれていました。

私は、20歳になったばかりで、お酒も飲めるようになっていましたから

兄やトラック野郎のアサちゃんなどと常連になって通っていました。

ここのママさん、色白のぽっちゃりしたおばちゃん

若い頃は、べっぴんさんで、

どこぞの呉服問屋の社長のおめかけさんだったようです。

当時は、旦那も亡くなっていて50を過ぎた頃じゃなかったでしょうか(?)

そして、もう一人、お隣のパーマ屋(美容院)の先生(?)がお手伝いに

このパーマ屋は、私の母が毎日セットに通っている店で

名前もお洒落な『ベルモード』と云う名前でした。

このパーマ屋の前に白いか黒いか分からないモップのような犬がいました。

娘が3歳くらいの頃「この犬種はベルモード犬て言うんだよ」と

教えてくれましたがお二人共、

独身ですので番犬代わりに飼っていたようです。


居酒屋の間口は2軒も有ったでしようか、

奥に一坪ほどの畳の小上がりがありました。

メニューは、夏でもおでんが有りで

市販されているカマボコや乾き物がメインでした。

お酒も焼酎、2級酒、ビールくらいでしたか(?)

お通しも小皿に何かの和え物が出て、

それだけで300円で呑めた店でした。

この店に来るお客も色々で、近所の呑んべーのおっさんやらに

連れられて常連になる人が多かったようです。

店のママさんは『ママさん(かあちゃん)』と呼ばれていましたが

手伝いのベルモードの先生は『先生』と呼ばれていましたので

始めて来た客は「何の先生ですか?」と聞かれます。

それで「隣の先生です」と答えますが酔っ払いには

『その道の先生?』だったようで理解できたか怪しいものでした(笑)

またこの先生、ママさんと同じ年頃ですが

前歯が1本無いのです 

差し歯を失くしたようで(飲み込んだと言う説)笑うと何とも面白いのです。

噂では、未亡人らしく酔うと「髪結いの亭主」の話をしてくれます。

昔の事で、どんな悲劇(喜劇)だったか忘れましたが

『恋話』に縁のなさそうな感じでした、

彼は『佐田啓二(中井貴一の父)』に良く似た人らしかった?(笑)

そんな恋愛話を聞きながら呑む酒も少しの量で悪酔いしたものです

それでも、近所のおっさんは自分の身の上話などをして、

お互いに機嫌良く、飲んでいたようでした。


私達若者が行く時は何時も給料前のお金の無い時でした

安く呑めるので、合言葉を言いながら誘い合います

何処に居ても、電話で言伝しても
『クラブみゆきで待っているから…』と云います。

知らない人が聞きますと(秘密クラブのようで)

「何処の洒落たクラブ?聞かない名前ねぇ~」と言います。

私は決まって『未亡人ばかりが居るお洒落な店』と教えてあげました(笑)

「何か特殊な特技が無いと会員になれないのよ…」と教えると

トラック野郎のあんちゃんが女装して来た事がありましたよ(爆笑)

そんな悪戯をして、ふざけあった時代が懐かしく思い出されます。


今は、私の生家も無くなりましたが、当時の『みゆき』の跡も無くなり

二人の未亡人も生きていらしたら100歳に近い年齢に

なっておられる事でしょう。


そんな事を『深夜食堂』のDVDを見て、

ふと昭和のゆっくりとした時代を思い出して郷愁に浸ってしまいました。

プレーヤーで思い出した父の事

2014-12-23 07:03:03 | 昔話
今朝は、雪はさほどでも有りませんでしたが

突風が凄い

気温もかなり下がっています。

早出の主人を送り出して、もう一度ベットに行く気もないので

PCの前に座ってコメント欄を見ていたら…

機械物の好きだった亡父の事を思い出しました。


  

父は、電気工事業を営んでいましたが、

若い時は、物作りの天才でした(私が思う)

今みたいにこれ程に通信機器や機械類が有りませんでしたが

私が子供の頃に一人で電気蓄音機(レコードプレーヤー)を作った事です

勿論、真空管式のものですが、まだテレビも無い時代ですので

部品等も勿論ありません。

小ぶりな観音開きの箪笥のようなもので

溶接工場や建具やなどに行き、独学で勉強した図面で注文するのです。

この電蓄が出来た時は、お披露目会をした記憶があります

手先もとても器用な人で、二丁のペンチで餅焼き網を作ったり

私の玩具の知恵の輪なども作ってくれた事がありました。

何でも器械物は新しいものが好きで、車は基より

家電製品も電気計算機・和文タイプなど

余り必要のないようなものまで買うのです

自分の趣味では、カメラ・八ミリ・映写機、テープレコーダー等々

思い付くものだけでも

父の書斎に満載に置いてありました。

まだ、若かった時は、使っていましたが、取り説なども無く

買った所で説明を聞いてくるようでした(?)

それが年と共に分からなくなり、

何度聞いても理解できなくなっていたようです。

私が電器屋をやっていた時、『ラジカセ』を聞かせたら

『一番、良いのを持って来い!』と買ってくれたのは良いのですが、

何度、教えても覚えません

勿論、取り説なども読みませんし、

せっかく録音した物を消してしまったりして、

カンシャクを熾していました

それでも、機械物が好きで、一人暮らしの時にも

8トラのカラオケやレーザーディスク・電動ミシンなど

一度も使ったことの無いものが沢山ありました。


今 私も父の年代になり、器械物を扱うにも理解できなくなり

父が思った歯がゆさが解った様に思います。

きっと、文明の一環を担っていたように思っていた父が

どんどん理解できなくなって行く辛さは物を買い求める事で

払拭しようと思っていたのではないかと思います

きっとあの世で、

今の電子機器などを見て首を傾げているのではないでしょうか?


これからも色々な発明がなされてゆく事と思いますが

もっとスローライフに行かないものかと

パソコンに向かい思うこの頃です。

「トラック野郎」が逝ってしまった。

2014-12-03 05:43:57 | 昔話
昨日からの風雨…

朝方からは気温が下がって、

夜明け前の暗い空にチラホラ白いものが舞っていました。


先日 報道で『菅原 文太さん』も

亡くなられて居たそうで、懐かしい昭和の名優がまた消えてゆきました。



この人の映画で思い出す私の『トラック野郎トラック野郎パートⅡ

アサちゃんは、以前にも昔の思い出で書きましたが、

今もお元気で居るのでしょうか…


アサちゃんは、私が18歳の頃からの知り合いで、当時25か26歳位と思われます。

とてもユニークな人で、何時も見ていた、出で立ちは

上は白い鉄火シャツ、ラッパのブルージーンズにピンクのラメ入りの腹巻

それに、豆絞り柄のハチマキと、当時のトラック野郎さながらの出で立ちでした。

そんな出で立ちに何故か女物のサンダルを履いていました(笑)

それに大型のダンプをギンギラギンに飾り『ブイブイ』言わせながら街を走っていました。

当時、私は、家電屋の店をやっていましたので、朝晩、出勤の時に店の前を通ります。

母が外を掃いていると大きなラッパ型のクラクションを鳴らして通って行きます

亡き母は、彼の大のファンで、彼が来ると『アサが来たのねぇ~♪』と歌っています(笑)

アサちゃんは近くの運送屋さんに勤めていて、地方にも出掛けて行き

何時も母にお土産を持ってくるようで、母を『母さん、母さん』と慕っていました。

母も内地に行っている兄の代わりのようで、嬉しそうでした。

休みの日などは、ガソリンスタンドで車を洗っている私のところに来て、

『何処かに行くべ…』と声を掛けてきます。

当時、日曜はスタンドが休みで、ガソリンがあまり入っていませんでしたので

「ガソリンが無いもの…」と云いますと

ガソリンを捜して、友人宅へ行き、友人も誘ってガソリン捜し…

結局、何処にも無くて、断念するところに、

私の父の車が満タンでしたので、そこから半分頂く事にしました。

当時は、誰も自家用車などは持っていなくて、私の車も仕事用のライトバンです

ガソリンも入って、総勢4人で、「さて何処に行く?」と聞きますと

アサちゃんが「留萌に行くべ…

おっかぁが食堂をしてるから、なまら美味い!日本一のラーメン食わせるよ」と云うのです

早速、行き先が決まり、皆で「らーめん♪らーめん♪」と唄いながら行きました

処が着いたらお店の前に暖簾が有りません?

「休みかなぁ~?」と裏口に回ってアサちゃんが呼びますと

お母さんが『うちのどら息子は死にました』と取り合ってくれません。

「店は休みか?ラーメン食わしてくれろ…」と云いますと

『店は止めた』と云います。

ですので、日本一美味いラーメンはドンブリごと羽をはやして頭の上を飛んでゆきました。

仕方ないので「何でも良いから食わせろ…」と云いますと『何も無いよ…』と

『10年も音信不通の息子が来て、何を食わせろと言うのか?』とご立腹!

仕方ないので、おずおずと店を出てきた私達は、

朝から何も食べていないので、『何か食べよう…』とお金を徴収

処が、誰も持っていません。

結局、車に入っていた小銭でインスタントの焼きソバか何かを一つ買い

お湯を入れて貰って、待つ事5分!

通称『ボク』君に排水にお湯を捨てて来るように言いました

暫くすると「あれ~!」と悲鳴!

皆で行って見ると、麺ごと排水に捨ててしまい、

焼きソバも羽をはやして飛んで行きました。

結局、何も食べないまま、焼きソバのソースとのりを舐めながら帰ってきました。

そんな思い出も、振り返ってみると楽しい良き時代でした。

お金の有る時には近くのジンギスカン屋に行って、

盛りっきりの梅割を呑み、ドンブリいっぱいのご飯にジンギスカンを食べた

あの記憶… 先の事など考えもしない楽しい時代でした。

思い起こせば、色々有った私の『トラック野郎』の思い出ですが…

写真も無くなった今、

古き良き時代の一ページとして、記憶に留めて置こうと思います。


心より『菅原文太』さんのご冥福をお祈りします。


ホワイトアウト

2014-02-18 18:02:09 | 昔話
先日の大雪

北海道で暮らした35年間が今では嘘のようです


主人が夜勤明けで帰って来て、買出しに行きました。



やっと、降り積もった雪も止んで、

でも、道路は『わだち』が出来て走り辛い!

昔話ですが…

連日 豪雪被害が報じられていますが、

雪国に生きて来た私なども何度も怖い目に遭ったものでした

今思い出してもよく、死なずに居られたものだと思います。


まずは、19歳の暮れの31日の日の事

家から車で15分ばかりの友人宅に用事で出かけました

雪が深々と降っていましたが吹雪いてはいませんでした

用事が終わって、帰ろうと車を方向転換させたところ、

前輪タイヤが切れているので思うように曲がれません。

運転に未熟な私が何度かそこから脱出しょうともがけばもがくほどに

タイヤが抜かって行きます

ちょっとの事だと思い、

車にはスコップもヘルパー(駆動のタイヤに敷いて上げる器具)も積んでません。

そして、私の格好もコートに短いブーツだけの軽装備です

困り果てて、近所のお宅に飛び込んでスコップを借りに行きました。

ところがどんどん雪が激しくなって来ました

その内、風も付いて来て吹雪きだしてきます

一時間、以上も車を掘り出していましたが

思うように本道路に行けません

段々、民家から外れ雪深くなって行き、視界も見えなくなって来ました

今で云う『ホワイトアウト』の状態です

今みたいに携帯電話も有りませんし、

助けを呼ぶにも吹雪で方向も分からなくなっていました。

それでも、ライトを点けながら車の雪かきをしていましたら…

ライトの向こうに人影がありました(?)

そして『大丈夫ですか?』と声を掛けてくれたのです。

その方は、先ほどスコップを借りた家の方でして、

心配して見に来てくれたのでした

手には『ヘルパー』を持って、抜かっていた車を上げてくれて

本道路まで運転して行ってくれました。

とても有り難かったです…

お礼を言って見上げますと

余り口をきいたことの無い中学の同級生の男子でした。

後日、お礼に伺い学生時代の話に盛り上がったのは言うまでも有りません

本当に、何度 死に掛けた事でしょう?

今でも生かされてるって事は、色々な教訓を伝えねばならない事なのでしょうね。