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11月27日の日曜日、秩父鉄道が主催する「秩父路峠道ハイキング・秋色の眺望 大霧山へ」に参加しました。
秩父は中学校の遠足で長瀞に出かけただけ・・・いつかは秩父の山々に登ってみたいと思っていましたが、一人で出かける自信が無く、憧れのままとなっていました。
和同開珎ゆかりの地であり、困民党の秩父事件にもかかわった黒谷(くろや)を訪れること、そして 自由歩行方式のハイキングで自分のペースで歩くことができることから出かけました。
「やや健脚向き」となっており、766メートルの大霧山へ登る10キロ4時間というルートに一抹の不安がありましたが、毎日1時間は歩いているので大丈夫だろうと気軽な気持ちで参加しました。
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熊谷駅で秩父鉄道に乗換。切符売り場では「秩父路遊々フリーきっぷ」を求めるハイカーが並んでいます。乗客のほとんどがハイカー、秩父鉄道では土曜・日曜・祝日に沿線ハイキングを主催、乗車割引券を発行、ハイキング専用列車運行の感があります」。
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和同開珎のモニュメントがあるユニークなホーム。トイレの順番を待つ女性ハイカーが列を作っていました。
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駅前で受付を済まし、バス乗車券(1000円)とルート地図を受け取り、ピストン運行のバスに50人ずつ乗車。当日、約500名のハイカーが参加したと後で知りました。
9時10分のバスに乗車。
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海抜300メートル位でしょうか。大霧山まで4百メートル強を登ります。
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旧道に入り、七曲がりの道を登ると定峰神社に。
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10分ほど更に進むと、定岳寺を囲むように南斜面に開けた十数戸の定峰の里にでます。
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さらに進み県道を横切ると、昔ながらの細い山道です。「ワナに注意」の標識。イノシシ捕獲用でしょうか。
見晴らしが利かない桧の林の中を登っていくと旧定峰峠です。
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石で囲った祠があり、ダイダラボッチの伝承が伝わる切通しは、昔は東秩父と秩父を結ぶ主要な往還であったのでしょう。今はハイカーがわずかに訪れるだけ・・・多くの旅人や牛馬が行き来した頃の賑わいが偲ばれます。
峠の南北に連なる峰々を結ぶ「外秩父七峰縦走ハイキングコース」を大霧山へと北に登ります。
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桧の樹林に杭を打ち階段状にした急坂を登ります。桧平を越え、尾根沿いを進むと雑木林に入り、落葉した明るい道となり、西に秩父盆地、東に東京大学天文台がある876メートルの堂平山や笠山などが放牧場越しに見えます。ハングライダーが飛んでいました。
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前方に大霧山が見え、いったん急坂を鞍部まで下り、そこから頂上を目指します。
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頂上からの眺望は素晴らしいの一言・・・北東に赤城山、北に日光連山、北西に上越国境の山々、北西に八ヶ岳、東に奥秩父の山々・・・上越の山々は雪に輝いています。
頂上は昼食を取るハイカーで大混雑、腰をおろる場所を探すのにも一苦労でした。
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大霧山山頂からは下り一方の坂道が続きます。木々の葉は落ち、遠くの集落を見ながらの快適な下りが続きます。
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このまま進めば粥新田峠ですが、峠すぐ手前の石碑で左に曲がり、「関東ふれあいの道」に入ります。牧場のフェンスに沿って、上三沢へ向かいます。だらだらと下る道にうんざりした頃に最初の民家に・・・振り向くと大霧山が見えます。
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待機しているバスに、50人ずつ乗り込み、長瀞駅へ・・・
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*和銅黒谷駅と上三沢でのバスの乗車時に、それぞれ50人ずつカウントして、参加人員を把握
*ルートを示す矢印がいたるところに掲示
*桧平と大霧山の急な下り斜面、迷いやすい粥新田峠手前の「関東ふれあいの道」分岐点の三箇所には係員が待機
*4人の係員がルート最後尾を歩き、遅れ気味のハイカーに付き添い、上三沢発15時の最終バスに間に合うよう誘導
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慶雲五年、西暦七〇八年、武蔵国秩父郡であったここ黒谷で高品質の自然銅、「にぎあかがね(和銅)」が発見され、朝廷に献上されました。大宝律令が発布され、通貨の必要性を痛感していた朝廷はこれを喜び、年号を「和銅」と改め、本格的な銭貨である和同開珎(わどうかいほう・わどうかいちん)を鋳造・発行しました。
2008年、和銅発見から1300年であることを記念して、秩父鉄道では「黒谷駅」を「和銅黒谷駅」と改め、和同開珎モニュメントをホームに建てました。駅近くにある聖神社には和同開珎が祀られ、地元の人々からも銭神様と呼ばれ、お金儲けの縁起の神様として親しまれています。
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明治時代初め、自由民権運動が盛んになり、政府のデフレ政策で生糸相場の暴落・過重な税負担・高利の借金に苦しむ農民蜂起が全国各地でありました。明治17年、秩父では、農民に同情した名主・商店主・教師・役場の書記などが指導者となって、困民党と称し、総理・副総理・会計長・参謀長・大隊長などを決めるなど3,000名の組織的な反政府蜂起を起こしました。
粥新田峠を越えて進軍してきた東京鎮台の軍隊によって蜂起は鎮圧され、総理の田代栄助は黒谷に潜んでいるところを逮捕されます。
ハイキング途中、定峰の里で出会った年配の女性に秩父事件について尋ねると、田代栄助が親戚筋であること、直系の子孫が健在であることを教えていただきました。秩父事件については学校で習ったとのこと・・・127年たった現在でも困民党が地元の方の記憶に生きていることに感動しました。