新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月23日 その2 英語の駄洒落

2017-08-23 08:14:18 | コラム
駄洒落にこういうのもありました:

賢弟?の若かりし頃の傑作だと思っていますが、ビールを一杯飲んで、

“I cannot answer.”

と一言。「答えられない」即ち「堪えられねー」でした。

その他には 私は ”Look at zama!”も屡々文章の中に取り入れていました。ご想像の通りで「ざまを見ろ」なのですが、英語では何というのか、参考までにプログレッシブ和英辞典を見ると ”It serves you right.” とありました。「へー」でした。私が瞬間に考えたのは、”You must realize It was your own fault. でしたが、長すぎてもう一つ物足りない思い。”It came right back on you.” とも考えてみました。

お後が宜しいようで。


私を不安にさせるアメリカ

2017-08-23 07:58:12 | コラム
トランプ大統領は何処まで覚醒するか:

トランプ大統領は共和党の候補者に選ばれる前から暴走気味で、私に「彼は単なる無知で、無知だからあのようなスローガンや政策を掲げるのか、あるいは何もかもご承知でありながら無知を装っているだけか。だが、無知のように思えてならない」と言わせていた。

就任後半年を過ぎて、事態がここまでに到って遂にと言うべきか何と言うべきか「懐刀」か「黒幕」かの如きだったステイ―ブ・バノンを解任した。聞くところでは、かのメキシコとの国境に壁を設けるとか、イスラム教徒入国させないとか、不法移民を強制送還するとかの政策を吹き込んだのはバノンだったそうだ。ということは、今後はトランプ大統領が自分で政策を打ち出すというのか。

それら以外にも我が国や中国と韓国との貿易赤字を削減するとの交渉に打って出たのは、増加する一方の国防費や対DPRKとの軍事作戦の準備に膨大な国費を投じるので、貿易赤字を看過できない事態に立ち至ったという理屈があるようだ。私でさえ、この理屈には納得できない面が多々ある。

アメリカが今日の貿易赤字を生むようになった原因は数々あるが、その点を顧みずしてアメリカに売りつけている諸国が悪いのだという論理は最初から破綻している。韓国の得意とする言い分ではないが、トランプ大統領とバノンの言い分には根本的に「歴史認識」が欠如している。日米繊維交渉の1970年代に立ち戻って考えて見れば明らかだが、輸入に依存せねばならない体質にしてしまったのはアメリカ自身である。

その歴史を顧みずして、2017年の時点で貿易赤字を断面を見て「輸出してくる国が悪いのだから、関税を課して懲罰し、NAFTAの如き条約を結んであるカナダとメキシコとは再交渉し、対米輸出を減らさせる方向に持っていく」というのは、余りにも手前勝手で自らのこれまでの所業を知らなすぎる。尤も、ブライトバートの親方だったバノンが貿易とは何かを熟知していなかったとしても、私は驚くには当たらないと思う。ましてや、不動産王が対日、対中国、対韓国の貿易実務の実態とその歴史を何処までご存じだったかとの疑問もある。

国際情勢に目を転じてみれば、私は今日の対中国、ロシア、DPRKとの関係は混迷の度を加えたと言えるかも知れないが、そこを今日のように難しくした原因と責任の大半は、トランプ大統領自身にあると思えてならないのだ。その陰にバノンがいたかどうかなどは知る由もないが、私はトランプ大統領がやって来たことは「マッチポンプ」だったと思えてならないのだ。

それは、確かに金正恩は核実験の強行だのmissile発射等で暴走しているかの如きだが、トランプ大統領も国際平和の為もあっただろうが、航空母艦を派遣するなどして強力な「軍備」を誇示して所謂「チキンレース」に持っていったではないか。習近平に対する姿勢と言動にしてもブレ過ぎていないか。

そして、現在彼の周囲に残ったのは、彼との対比では寧ろ穏健にしか見えない恰も軍事政権の如きになった感がある、ペンス副大統領を除いた、軍人ばかりと、クシュナー以下の親族である。トランプ大統領は「ここから先にアメリカを何処に向かって動かしていくのだろうか」と、私は不安になり、どうなることかと考え込まされている。

多くのメデイアは、既に電話会談で文在寅大統領に語りかけたようなFTAの締結を、我が国にも迫ってくると予測している。そうすることが、今やトランプ大統領にとって数少ない盟友となった安倍総理が率いる同盟国日本に対して採るべき姿勢だろうか。彼には最早その辺りの簡単な理屈も解らないのか不安になる。

また、私には自分が何をしているのか、何をしたいのかもお解りでないような大統領率いるアメリカが、尖閣等々以下の我が国を言葉通りに守ってくれそうな同盟国として、何処まで頼りにして良いのか、不安に思えてならない。それは、日米安保条約の誠実な実践がトランプ大統領の執務室の机の上にあるだろう膨大な”To do list”の中で、何番目に載っているだろうかを懸念するという意味だ。

因みに、私は「米国」という言葉遣いを採らない。思うに新聞が紙面上の字数を減らすためにカタカナ4文字の「アメリカ」を回避していると思っている。あれは、その昔「亜米利加」とした名残だろうが、何故か「亜」にならなかったようだ。

8月22日 その4 甲子園の野球

2017-08-22 16:52:21 | コラム
今日、言っておかないと:

実は、私の閃きでは広島の広陵高校が最もくさかった。私はあの主の野球を売り物にしているかのような高校(誤解と誤認識だったらお許しを)が好みではなく、明徳義塾とともに嫌っていた。だが、今年はマスコミが大阪桐蔭を春夏連覇と騒ぎすぎるので、先ず来ないだろうと予測していた。これは過去にも何度もあったことで、騒ぎ立てられて勝ち抜いたことは希である。

であれば、広陵しか残らないと見ていたが、果たせるかな天理を破ってしまった。実はこの試合は外出していて見ていなかった。だが、帰宅して東海大菅生が9回裏に同点に追い付いたのは見たが、東海大菅生の力もそこまでと見えたので観戦を止めてPCに向かうことにした。あの9回の裏に2点差を追い付いたのは立派だったが、菅生後からはあそこまでと見えていた。

決勝戦の予想などは野暮だとは思う。だが、閃きでは広陵は流れに乗っているかのようなので有利かも知れないのだ。花咲徳栄は決勝戦まで出てきたのは素晴らしいが、広陵と比べれば大試合の経験が足りない気がする。だが、勝負の行く末は解らない。

8月22日 その3 英語の駄洒落

2017-08-22 16:47:04 | コラム
言うまいと思えど今朝の寒さかな:

頂門の一針の第4452号に馬場伯明氏が駄洒落の英語を投稿しておられた。掲題はその尤も古典的なものと認識している駄洒落の原型で

You might(think)on my head today’s some fish.(=言うまいと思えど今日の寒さかな)なのだが、馬場氏は“You might(think)on my head today’s hot fish.” に変えられ夏の季節に合わせて「暑さかな」と更に洒落のめされた。

更に馬場氏は「このようなダジャレ英語表現は、正統な英語の実践と教育について積極的 に本誌でも指摘されている本誌の常連投稿者のMさんから軽蔑され 叱責されるだろう。」とご心配だった。だが、何を隠そう私はこのような駄洒落は大好きなびです。そこで、これも古典的な

“Fully care cowards to become mid note.”などというのを作って一人楽しんでいた。これは言うまでもなく「古池や蛙飛び込む水の音」である。記憶は確かではないが、この原型は“Full in care, cow was to become mid not.”だったと思う。

馬場氏は他にも数多く採り上げたおられたが、その中でも私が最も好みであるのが“To be to be ten made to be”で「飛べ飛べ、天まで飛べ」である。これはご存じの方も多いかも知れない。極めて興味深い話題を採り上げられたものだと敬意を表したい。

私はこういう音を合わせたもの以外に「そんなのbefore breakfastだ」というのも、普通の日本語の会話に中に入れていたことがあった。ところが、これを聞いた商社の若手は、光栄にも私が使っていた以上本当の英語表現だと誤解しで、「英会話」の中で真似てしまったそうである。「酷いじゃないですか。恥をかきました」とクレームを付けられた。これは生きた英語では”It’s a cinch.”か”It’s a piece of cake.”となる。

その他にも”Look at zama!”も屡々文章の中に取り入れたものだった。ご想像の通りで「ざまを見ろ」なのだが、英語では何というのか、参考までに和英辞典を見ると”It serves you right.”とあった。「へー」だった。私が瞬間に考えたのは、”You must realize It was your own fault.”だったが、もう一つ物足りない表現だったかと反省。


8月22日 その2 臨死体験:

2017-08-22 15:11:56 | コラム
<strong>何物にも代えがたい貴重な経験だっただろうか:

私は2006年8月14日(月)の午後4時半過ぎだっただろうか、カテーテルで中下降肢にstentを入れる処置を受け部屋に戻った。一安心と寛いでいるところに突如として目の前に茶色の紗がかかったと同時に悪寒がして、「寒い」と見舞いに来ていた家族に告げた後でナースコールのボタンを押してから一時的に失神した。

あれから11年経った今年でも8月14日が月曜日なのは単なる偶然の為せる業だろうが、約1週間遅れであの時の臨死体験(だったのだろう)を回顧してみようと思い立った次第。

私の意識が朦朧とした辺りから病棟中の大騒ぎになり、病棟の主治医の先生や多くの看護師さんたちが駆けつけたのは承知していた。直ちにボンベが持ち込まれ酸素マスクがかけられたのも覚えている。

そのうちに主治医が「壁から酸素が取れる病室に移そう」と指示されて、隣の部屋にベッドごと移動した。そこで愚息の顔を認識したが、そこから先は記憶が曖昧となった。後で聞けば心臓マッサージを受けたそうで、心肺停止状態の近所まで行ってしまったようだった。未だにハッキリと覚えているが、そこは何も見えない真っ暗で静かな世界だった。別な表現をすれば、何かフワッと浮いていたような状態だったとでも言えば良いだろうか。恐らく脳に血液が上がっていなかったのだろう、苦しくもなく何処も痛くもない状態で、時々周囲の人が騒いでいる状態が解ったかと思うと、またフワッとした状態に戻って、何も見えず聞こえなくなってしまうのだった。

回復した後で考えたことだが「もしかして、あの先に死があるのだったらば、死ぬのは苦しくも何ともなく楽なものではないのか」だった。

そして更に聞こえたのは病棟の主治医の声で「カッテイングを入れろ」であり、婦長さんの「前田さん、解りますか」なのだった。だが、勿論反応出来る状態ではなく、もどかしい思いもあった。時には目が見える状態になる時もあり、彼女の顔を識別できるのだが、何分にもあの状況では声を発する方法も解らず、ただ頷くだけだったと思う。

そして、どれほど時間が経過した後だったか、「先生、30の60です」との看護師さんの声の後に、主治医が「ノルアドを後~CCだ」と叫ぶのも聞こえた。今でも覚えているが、その意味を理解する力はなかった。その後で「先生、40の90になりました」と聞こえてからは、目も少し見えて意識も少し戻ってきたと思う。それでも、フーッとまた何処かの暗闇に落ちていくことがあったようだった。

自分でも訳が解らないことは、その時でも聞こえていたことを理解できなくとも、記憶力は正常に作用していたことだった。それに11年も経った今でも記憶が失われていないのも不思議だ。あの見えていたような気がする暗い底なしの世界は、一体何だったのだろう。

そして、看護師さんの「130の60です」という声が聞こえたのだが、意識が戻ればそれが「血圧のことだ」くらいは判断できたし、「あー、助かったのだ」とも認識できていた。病棟の主治医の先生はそれから間もなく「もう安心だ」と引き上げられたのも承知していた。

終わった(?)時は7時半近くだったかも知れない。担当の看護師さんが保留されていた夕食を「食べられますか」と持ってこられたので、喜んで食べた。ハッキリと覚えているが「かにの爪」が主菜だった。ほとんど何も残さずに食べられた。それを見届けた看護師さんも「これなら大丈夫」と保証してくれた。見守っていた家内も愚息も「どうぞ、お帰り下さって結構です」と告げられて引き上げた。

実は、そんな重病人だと思っていた私は、中2日おいた17日の退院を許可されたのだった。しかも、18日にはSBS静岡放送の定期的ラジオの出演日で、主治医からは「何の心配もない状態だから、誰か付き添いを付けて行っても良し」と許可を頂いた。だが、流石に怖くて行こうという気にはなれずに急遽SBSに連絡し、お詫びして延期して貰った。

上記を「臨死体験」というのだろうが、生死の境を彷徨っていると見える患者には、意外にも周囲で何か言い合っている声が聞こえていることもあれば、私の場合は細切れであっても記憶に残っているのだということも経験した。これは矢張り貴重な経験だったのだろうと考えるようにしている。