新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月2日 その2 続・英語の実践的学習法

2016-04-02 16:41:10 | コラム
カタカナ語の不思議:

先ほど、余程「英語の実践的学習法」を記載した時に触れようかと思ったが考え直したことがあった。それは”stewed prune”の”stew”のカタカナ表記だった。私のカタカナ語排斥論に対して時偶「そこまで拘るのは嫌みだ」と厳しく批判する方がおられるので、一寸躊躇ったのだ。

この”stew”はカタカナ語で「シチュー」と表記される広辞苑に「肉・魚介・野菜などを煮汁の中でゆっくり煮込んだ料理」とある「シチュー」のことだ。”stewed”となっているのはその動詞形の過去分詞(形容詞用法)で動詞では「肉・果物などをとろ火でとろとろ煮込む」という意味となると、ジーニアス英和にある。発音記号では勿論「ステイユー」とカタカナで書けるかのようになっている。それが我が国では発音しにくかった為か、勝手に「イ」を挟んで「シチュー」になってしまったようだ。良くある事だ。

ここまでで「そんなことどうでも良いじゃないか」という声も聞こえてくるような気がする。それはそれでも結構。だが、何時でも言ってきたように「カタカナ語をお使いになることを阻止する気はない、それは英語を離れてカタカナ語として戸籍を得てしまったいるのだから。せめて元の単語はこういうものだと知っていて頂ければそれで十分」なのだから。

何時でも不思議に思うことは「何処の何方が勝手にカタカナ語を創り出して広く遍く使わせるようにしているのかな」なのだ。それにつけても思うことは「カタカナって便利のようだが、罪作りでもあるな」ということ。

英語の実践的学習法

2016-04-02 09:27:00 | コラム
”Prune”を忘れていた:

私は在職中のアメリカ出張中には朝食に屡々”stewed prune”を注文していた。果物の代わりだと考えていた。ところがある時”breakfast meeting”でそれを注文すると上司が「君は”constipation”(=便秘)にでも悩んでいるのか」と尋ねてきた。何のことかと思ってポカンとしていると彼は「それは言わば”laxative”(=下剤)の働きをすると我々は認識しているのでその時に食べるが、君は屡々注文するから尋ねたのだ」と解説してくれた。

そう聞かされてみれば、アメリカ到着直後の2~3日間にはそういう傾向があったが、何気なく朝食べていた”stewed prune”に助けられていたのだと、初めて解った次第だったのだ。それ以降はそういう時以外は食べないようにしていたが、何か他の果物を食べたことがなく「アメリカで数少ない美味いもの」と皮肉を言った生のオレンジジュースを摂ることにしていた。それ以外のアメリカで美味いものとして私が推薦していたのは”clam chowder”(=スープの一種)で、”clam”は「ハマグリ」のことだと思っていたが、「二枚貝の総称」とジーニアスに出ていた。

そこで”prune”である。2月18日からの家内の「すべり症」手術の入院が、何度も述べてきたように「漸く退院か」と思わせてくれた時に不慮の障害が発生して2度も延期された。その最初が3月14日だったのだが、それ以降精神的な悩みが続いていると認識した結果か、便通がやや滞り気味となって小さく且つ密かな悩みとなっていた。実は、我が家では常にその問題を抱えていた家内の為に近所のAEON系の食品スーパーで売っている「種なしプルーン」を常時食べるようにしていた。

ところが、入院後は馴れぬ一人暮らしの難しさに取り紛れていたことに加えて精神的にもろい私の性格の為もあって、「種なしプルーン」を買い置きすることをコロッと忘れていた。昨日も朝から多少”constipation”気味でウンザリしていたのだった。そこで昼食の材料を買いに入ったそのスーパーで天啓のように閃いたのが「そうだ、種なしプルーンを買おう」だった。ところが暫く買っていなかった為に度の棚に置かれていたかを失念し、散々探して漸く買い求めることが出来た次第だった。

その効果は今朝から現れて「良かった」という状態で、早速そのことを採り上げることにしたのだった。だが、此処で初めて”prune”をジーニアス英和で調べてみると「干しスモモ(dried plum)」とあった。Oxfordには”a dried plum that is often eaten cooked”とある。それではと”plum”は見れば「セイヨウスモモ」となっていた。「スモモ」は広辞苑には「李」云々とあった。初めて知った。

此処で言いたいことは「私の英語の単語知識はこういうもの」であり、それを何も日本語でどうなっているかは、極論すればどうでも良いことで、そういう場合にはこういうつもりで使えば良いのだ覚えておくこと」と主張してきたことの一つの典型的な例だと思う。要するに”stewed prune”を注文する時に、それが日本語でどうなっているかを知らなくても通用するのだという意味だ。このように流れの中で覚えた表現を増やしておこうと言いたいのだ。

私の英語の表現と単語の知識の中にはこのように「日本語でどうなっているかを調べたこともないが、その使い方は知っている」という例が非常に多い。今回も”plum”は「スモモ」だとは知っていたが、乾燥させて調理すると”prune”になると初めて知ったような具合になる。一つだけ言い訳をすれば「英語しかない世界に暮らしていれば、それがそのような日本語に訳されているかなどを、その都度調べている暇も余裕もない」となる。兎に角”prune”を思い出して良かった。