新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私の音楽の好み

2014-03-26 14:11:03 | コラム
私の好む音楽の始まりはクラシカルだった:

頂門の一針の主宰者渡部亮次郎氏に私の音楽の好みを指摘されたので、ここでそもそも私が如何なる音楽から聞き始めたかを回顧してみる。

クラシカル:
昭和20年4月13日の空襲で焼かれてしまった家には昭和16年の小学校3年まで住んでいた。藤沢の鵠沼には腺病質だった私の転地療養と疎開をかねて引っ越した。その家には昭和12年12月に交通事故の被害で亡くなった父なのか、あるいは母だったのものかは知らないが、クラシック音楽のSPの文字通りのアルバムが数多くあって、時折それらを蓄音機で聞いていたものだった。

覚えているだけでもビゼー(Bizet)のカルメン、ヴェルディー(Verdi)の椿姫等のオペラやかイタリア人の大歌手・ルソー(Caruso)、ベートーヴェンのものもあって、未だに有名なアリアの記憶に残っている。ただそれだけのことで、特にクラシカル音楽のファンになれた訳ではなかった。

ハワイアン:
後に、進駐軍に学校制度をいじられて高校生とやらにされてしまった頃に、鵠沼では慶応の学生が中心になって当時としては時代の先端を行っていたかの感があったハワイアンの5人組のバンドが幾組か現れて格好良い音楽を聴かせてくれたものだった。その中に直ぐ近所に住んでおられた2年上の鳥山親雄さんが後には有名な寺部頼幸とココナッツアイランダースのメンバーのギターとヴォーカルを担当されるプロになってしまわれた。

ジャズ:
私はその鳥山さんに手ほどきを受けてハワイアンだけではなくジャズも興味を持って聴くようになって行った。そこに高校の同級生のT君が「実は俺もジャズファンなのだ」と当世風に言えばカミングアウトして同好の士となった。彼は慶応大学工学部に進学したほどの機械好きで、レコードプレーヤー(彼は飽くまでも再生装置と称したが)を組み立てるようになって、当方の隣家に住んでおられた当時日本コロムビアの営業部長さんだった方にお願いして、輸入発売されたばかりのベニー・グッドマンの2枚組の伝説的カーネギーホール・コンサートのアルバムを手に入れ、2人で何度も何度も繰り返し聞いては感激していた。

その後はどうやって小遣いを工面したかの記憶は一切ないが、2人は交替でジャズのレコードを買っては、サッカー部と野球部の練習と学業の合間にT君の家の自作の蓄音機でSPがすり切れそうになるまで聴いたいた。因みに、T君は野球部員で昭和24年に我が母校がたった一度だけ出て優勝した時の外野の補欠の一員だった。なお、当方も昭和23年の国体の決勝で負けてしまった蹴球部員だった。

T君とは進学した大学も異なったこともあってともにジャズを聴く機会も減ったが、その頃華々しく出てきたジョン・コルトレーンのテナーサックスの前衛的というか聞き辛いシート・オブ・サウンドとやらに辟易となって、「ジャズも今やこれまで」とほとんど見切ってしまった。

その後の長い空白期間を経て、アメリカの会社に思いもかけず転進した私は、本当に偶にアメリカでも?ジャズを聴く機会があって、矢張り捨てたものでもないと見直すようになった。そして、1967年=昭和42年に借金を積み重ねて新築した藤沢市の家の装飾にでもと購入したステレオ・プレーヤーのために何と言うこともなく買ってしまったのが、1953年に懐かしき日劇で聴いたJATPのピアニスト、オスカー・ピーターソンの後の名演"The Trio"だった。

それから購読し始めた、今では廃刊になったジャズの専門誌"Swing Journal"の紹介する新盤を買い求めるようになり、更に有名なジャズ専門店の新宿駅西口のオザワレオードで勧められるままにこれという名盤・名演奏を買い続けた。1990年に業界の専門誌にエッセーの連載を始めされて貰った頃にはいっぱしの評論家を気取るまで聴き込んでいた。

しかし、何時のことかも記憶がないが、アメリカ出張から戻って勇んで西口に赴くと、何としたことがオザワが廃業していた。オザワではCDが出始めた頃に「もうアナログのレコードの時代が終わって、我々の商売は生き残れなくなる日は遠くない」との悲観的な見通しをきかせてくれていた。しかし、それほど素早く廃業するとは夢にも思わなかった。買う場を失って意欲がなくなった。

私は渡部亮次郎氏が指摘されたように確かに演歌は好みではない。だが、それとは異なった次元で毛嫌いするのが、所謂フォークソングというのだろうか井上陽水であるとかその同類項の「何とか色の手ぬぐいを巻いて・・・」だの何のという、当時の若者に圧倒的に受けた魂が抜けたように聞こえる軟弱な歌である。批判も反論も出ると覚悟して言えば、戦後の我が国の若者を腑抜けにしたのがあの手の自分で作詞作曲をして歌う連中であるとさえ考えている。

また、何を作って同じ節回しで狭い音域の歌でしかない小室某や、桑田佳祐如きを崇拝する風潮には感心出来ない。それ以外では妙に反戦意識を盛り込んだ加藤登紀子や森山良子も願い下げだ。

クラシカルへの回帰:
話変わってクラシカルである。2006年1月に第1回目の心筋梗塞で入院した際に、専門誌の編集長さんにモーツアルトの10枚組CD(何とAVEXの発行である)をお見舞いに頂戴した。身体を動かして良いと許可が出てからは連日連夜聴きまくった。これは重病と闘っていた私に心の平安というか安らぎもたらしくくれた。非常に安定した心理状態で治療を受けさせて貰えた。何と言って編集長さんとモーツアルトに感謝すべきか解らない。

退院後も医師の許可もあって執筆というか翻訳業を再開した際に、これまでは60分程度の演奏時間があるジャズのCDを使って計っていた時間を、モーツアルトに何気なく切り替えてみた。すると、これが入院中と同じで素晴らしい効果を挙げた。即ち、英語表記の中国や南米の地名や人名を漢字ないしは方かなに訳す際の苛々が発生しなくなったのである。心静かに検索なり何なりを続けて訳し終えるのだった。そこで、ジャズをBGMには使わなくなったのだった。

しかし、ジャズを全く聞かないのではなく、クラシカルとともに仕事を離れた時間帯にかけては聴いている。これは長年の習慣で、好みの音楽を聴くことで心が安まって何も書き物用の発想が湧いてくるだけではなく、色々と物思う絶好の時間となるのである。モーツアルト以外には陳腐だがベートーヴェン、ショパン、シューベルト、リスト等の他には多くの名ピアニストのピアノ演奏を静かに聴いている。因みに、今、かかっているのはモーツアルトだが。


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