「真実は一つ」なのか:
「真実は一つ」:
この見出しは、言うなればマスメディアが好んで使う表現であるし、この世には「そうだ」と信じておられる方もまた多いと思っている。だが、私はこの見方は採らない。私が長年主張してきたことは「出来事が一つ」であり、その出来事を見ると言うか取材する者の(「側の」でも良いだろう)立ち位置と角度、そして何よりも肝腎なことはその者の思想・信条・教養・哲学・経験・視点等々次第では、たった一つの出来事が全く異なった形となって無数の報道のされ方になるし、専門家や学者の方々の意見や見解の発表になってしまうのだ。
解りやすい例を挙げてみれば「実際にはそういうことはなかった戦時中の慰安婦の問題」にしても、朝日新聞や吉田清二が見れば強制連行になってしまうし、ありもしない性奴隷のような記事になって世界中に不当に流布されてしまったのだった。朝日新聞の立ち位置も兎も角、「思想」からすれば、あのような形になってしまったのだった。それでも朝日は恰も真実だったかのように伝えるのだ。これだけが根拠ではないが、私は「真実は一つ」論を「甘い」と排除するのだ。
“We are making the things happening.”
これを意訳してみれば「我々が当事者である」とでもなるだろうか。この表現は我が生涯の最上の上司だった副社長兼事業部長と合意していた物の見方である。我々はアメリカの紙パルプ・林産物に最大手メーカーの1社としての意図で世界最高の製品を市場に送り出すべく、最善の努力をしてきた。その製品については市場の評価もあるし、業界の専門誌による論評もある。時には「何でそう言うのか」と言いたいような酷評もある。そこで副社長が言うには「当事者ではない業界誌に何が解るのか、即ち“They are not making the things happening,”だ」と言ったのだった。
彼が強調していたことは「その真意は専門誌として色々と論評されることに異議はないが、当事者ではない人たちに何処まで製造業の実態というか苦労と言うか、最高の稼働率を上げて、品質管理を最重要視して、変化し且つ進歩していく世界の市場の需要動向(「ニーズ」なんていうカタカナ語は使いたくないのだ)に遅れないように合わせて行っているのは我々だ。そこまでを知らずして論評するのは気楽なものだ」という点だったのだ。そこには“We are making the things happening.”という誇りもあるのだ。
私は1972年からアメリカ人の世界に(事業部における只一人の日本人社員として参加したという意味)飛び込んで、恐らく私以外に何人の日本人社員が経験しただろうとと自負している「トランプ大統領の強固な支持層である労働者階層、即ち職能別組合員たちと何度もそれこそ膝つき合わせて語り合い「君等の労働力の質の向上と、品質改善へのより一層の努力如何で、我が社は世界中でも品質に厳しい日本市場における#1サプライヤーの地位に上り詰めねばならない。そうなることで、君等の職の安全(“job security)が確保できるのだ」と説得したのだった。
このような経験をしたことで、彼等の中には英語も良く解らない移民も難民もいると知り得たのだった。言い方を変えれば「アメリカの労働組合の在り方を内側から見てその実態を知り、アメリカの製造業が抱えている問題点を詳細に学び得たのだった。こういう経験をしたことから、私は業界の評論適確且つ正確にする為には“We are making the things happening.”の世界を経験して置くことが必要ではないかと確信するようになったのだった。
実際にこのような経験をした者としての視点からの評論を、専門誌に載せる機会を与えられていた。勿論、私は外部からの論評を排除するのではなく、記者の方々の評論は貴重なものだると思って常に注意を払って読んでいたのはいうまでもない事。重ねて言うが「彼ら記者さんたちは当事者ではない」のだ。
“Firsthand information”:
これはつい先日採り上げたばかりのアメリカ人が尊重する「自分で取材したか直接に聞きだした事柄を報告する」と言うことである。アメリカ人の物の考え方では「常に個人の主体性を尊重し、各人が思い通りの意見を述べることが肝腎なのであり、何処の何方かのご意見を伝えるとか上司に報告することなどはあってはならない」のである。換言すれば「伝聞」の報告など聞きたくないと言われてしまう世界だ。「伝聞」に相当するのが“second hand information”なのである。即ち、自分の意見がない者などは、その場にいないも同様だと、全く評価されない世界なのだ。
彼等は「物の見方は人それぞれで異なっているのは当然だ」という考え方だから、誰かが自分とは異なる意見を発表しても気にすることなくというか、感情を交えずして議論を展開するのだ。その時の勢いはかなりきついので、馴れないうちはハラハラしながら聞いている。だが、そのうちに何れかの意見が通って手打ちとなり握手して「今日はお陰では素晴らしい意見交換が出来た。これからデイナーにでも行くか」となるのだ。要するに「自己主張のぶつかり合いの世界」なので、恐れることなく自分の意見というか、見解を披露しないと生きていけないのだ。自分の意見が正しいか正しくないかの問題ではないのだ。
私が永年お世話になった紙業タイムス社の前社長・高橋吉次郎氏が良く記者たちに言っておられた事は「取材してきた情報をそのまま記事にしたのでは価値がない。その内容と意義を自分なりに分析し評価して一度ばらしてみた上で、自分の見解も組み込んで記事にせねばならないと思え」だった。尤もだと思わせられる点がある指摘だ。我がW社ジャパンの副社長だった今や92歳の長老は現職時代に「通訳とは破壊と再構築だ」と言っておられた。即ち、「語り手の意図を十分に理解した上で、一旦バラバラにして、その場で再構築して別の言語にせよ」という意味だ。
長老の通訳論は高橋前社長の指示と一脈通じている考え方だと思う。通訳が自分の考えを余計に組み込んではならないのだが、我々が営業上担当してきた通訳では文字通りの直訳では意味を為さない場合が多々あるのだ。話が多少ずれてしまった感があるが、外国人を相手にする場合には臆することなく自分自身の思いなり意見なりを臆することなく堂々と述べることだ。他者の意見を引用する場合には「何処の誰がこう言っていたので」と伝聞である事を示すのが、言わば“fair”であると思う。
「真実は一つ」:
この見出しは、言うなればマスメディアが好んで使う表現であるし、この世には「そうだ」と信じておられる方もまた多いと思っている。だが、私はこの見方は採らない。私が長年主張してきたことは「出来事が一つ」であり、その出来事を見ると言うか取材する者の(「側の」でも良いだろう)立ち位置と角度、そして何よりも肝腎なことはその者の思想・信条・教養・哲学・経験・視点等々次第では、たった一つの出来事が全く異なった形となって無数の報道のされ方になるし、専門家や学者の方々の意見や見解の発表になってしまうのだ。
解りやすい例を挙げてみれば「実際にはそういうことはなかった戦時中の慰安婦の問題」にしても、朝日新聞や吉田清二が見れば強制連行になってしまうし、ありもしない性奴隷のような記事になって世界中に不当に流布されてしまったのだった。朝日新聞の立ち位置も兎も角、「思想」からすれば、あのような形になってしまったのだった。それでも朝日は恰も真実だったかのように伝えるのだ。これだけが根拠ではないが、私は「真実は一つ」論を「甘い」と排除するのだ。
“We are making the things happening.”
これを意訳してみれば「我々が当事者である」とでもなるだろうか。この表現は我が生涯の最上の上司だった副社長兼事業部長と合意していた物の見方である。我々はアメリカの紙パルプ・林産物に最大手メーカーの1社としての意図で世界最高の製品を市場に送り出すべく、最善の努力をしてきた。その製品については市場の評価もあるし、業界の専門誌による論評もある。時には「何でそう言うのか」と言いたいような酷評もある。そこで副社長が言うには「当事者ではない業界誌に何が解るのか、即ち“They are not making the things happening,”だ」と言ったのだった。
彼が強調していたことは「その真意は専門誌として色々と論評されることに異議はないが、当事者ではない人たちに何処まで製造業の実態というか苦労と言うか、最高の稼働率を上げて、品質管理を最重要視して、変化し且つ進歩していく世界の市場の需要動向(「ニーズ」なんていうカタカナ語は使いたくないのだ)に遅れないように合わせて行っているのは我々だ。そこまでを知らずして論評するのは気楽なものだ」という点だったのだ。そこには“We are making the things happening.”という誇りもあるのだ。
私は1972年からアメリカ人の世界に(事業部における只一人の日本人社員として参加したという意味)飛び込んで、恐らく私以外に何人の日本人社員が経験しただろうとと自負している「トランプ大統領の強固な支持層である労働者階層、即ち職能別組合員たちと何度もそれこそ膝つき合わせて語り合い「君等の労働力の質の向上と、品質改善へのより一層の努力如何で、我が社は世界中でも品質に厳しい日本市場における#1サプライヤーの地位に上り詰めねばならない。そうなることで、君等の職の安全(“job security)が確保できるのだ」と説得したのだった。
このような経験をしたことで、彼等の中には英語も良く解らない移民も難民もいると知り得たのだった。言い方を変えれば「アメリカの労働組合の在り方を内側から見てその実態を知り、アメリカの製造業が抱えている問題点を詳細に学び得たのだった。こういう経験をしたことから、私は業界の評論適確且つ正確にする為には“We are making the things happening.”の世界を経験して置くことが必要ではないかと確信するようになったのだった。
実際にこのような経験をした者としての視点からの評論を、専門誌に載せる機会を与えられていた。勿論、私は外部からの論評を排除するのではなく、記者の方々の評論は貴重なものだると思って常に注意を払って読んでいたのはいうまでもない事。重ねて言うが「彼ら記者さんたちは当事者ではない」のだ。
“Firsthand information”:
これはつい先日採り上げたばかりのアメリカ人が尊重する「自分で取材したか直接に聞きだした事柄を報告する」と言うことである。アメリカ人の物の考え方では「常に個人の主体性を尊重し、各人が思い通りの意見を述べることが肝腎なのであり、何処の何方かのご意見を伝えるとか上司に報告することなどはあってはならない」のである。換言すれば「伝聞」の報告など聞きたくないと言われてしまう世界だ。「伝聞」に相当するのが“second hand information”なのである。即ち、自分の意見がない者などは、その場にいないも同様だと、全く評価されない世界なのだ。
彼等は「物の見方は人それぞれで異なっているのは当然だ」という考え方だから、誰かが自分とは異なる意見を発表しても気にすることなくというか、感情を交えずして議論を展開するのだ。その時の勢いはかなりきついので、馴れないうちはハラハラしながら聞いている。だが、そのうちに何れかの意見が通って手打ちとなり握手して「今日はお陰では素晴らしい意見交換が出来た。これからデイナーにでも行くか」となるのだ。要するに「自己主張のぶつかり合いの世界」なので、恐れることなく自分の意見というか、見解を披露しないと生きていけないのだ。自分の意見が正しいか正しくないかの問題ではないのだ。
私が永年お世話になった紙業タイムス社の前社長・高橋吉次郎氏が良く記者たちに言っておられた事は「取材してきた情報をそのまま記事にしたのでは価値がない。その内容と意義を自分なりに分析し評価して一度ばらしてみた上で、自分の見解も組み込んで記事にせねばならないと思え」だった。尤もだと思わせられる点がある指摘だ。我がW社ジャパンの副社長だった今や92歳の長老は現職時代に「通訳とは破壊と再構築だ」と言っておられた。即ち、「語り手の意図を十分に理解した上で、一旦バラバラにして、その場で再構築して別の言語にせよ」という意味だ。
長老の通訳論は高橋前社長の指示と一脈通じている考え方だと思う。通訳が自分の考えを余計に組み込んではならないのだが、我々が営業上担当してきた通訳では文字通りの直訳では意味を為さない場合が多々あるのだ。話が多少ずれてしまった感があるが、外国人を相手にする場合には臆することなく自分自身の思いなり意見なりを臆することなく堂々と述べることだ。他者の意見を引用する場合には「何処の誰がこう言っていたので」と伝聞である事を示すのが、言わば“fair”であると思う。
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