新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月27日 その3 小室圭氏に関する報道に思う

2019-08-27 14:26:52 | コラム
マスコミ報道は不親切ではないか:

アメリカで新学期を迎えるに当たって、またもや小室圭氏の奨学金等を巡っての報道がやや過熱気味である。私がこういう報道を見たり聞いたりしている限りでは、メデイアは事実を解りやすく且つ正しく報じていないと思わせられている。言うなれば「ミスリーディング」なのである。即ち、アメリかではやれ朝から晩まで予習・復習やレポート書きや欠席してはならない等々の束縛があるようなことが如何に過剰負担である事や、授業料も含めた学費の負担が(我が国との比較で)過剰である等々である。

私が不思議に思うことは、何も報道機関だけに限ったことではなく我が国にはアメリカやヨーロッパの4年制の大学や大学院に留学の経験をお持ち方は多いと思う。そういう伝手があれば、外国の大学等での大学の在り方と勉強の仕方が我が国とは大いに異なっていることくらい先刻承知のマスコミ人は多いだろうと推察している。だが、マスコミ報道では勉強が大変だの言葉の負担が大きいので苦労が多いのだろうなどという当たり前のことを、さも大変なことのように報じている。ミスリーディングであり誤解を招きやすいと非難したい。

かく申す私は1951年(昭和26年)4月に何も知らずに英語の教育が優れていると聞いていた上智大学文学部英文学科に入れて頂いた。当時の上智ではほとんどの授業がドイツ人を主体とした神父様の教授の担当で、英語を含めて70%近くの講義は英語で行われていた。そのこと以外に驚かされたのが講義が始まった直後に、教務課の人がガラガラと手押し車に乗せた分厚い原書を持ち込んで全員に配布してから神父様がおもむろに「この本を読んで来週の今日までに概要を纏めてレポートを出すこと」などと言われるのだった。「本気か?出来る訳がない」と思った。

ところが、イエズス会が世界各国で運営する大学の一つである上智大学においては、これはごく普通の教え方と学習法であり(後になって知り得たことだが)「出来っこない」などとふてくされてレポートを提出しないと、その評価は「0点」という無残な結果となりその他の出席点、試験の点数、平生点等々を合計して算術平均する」のだから、提出しないとたちまち原級留め置きという厳しい結果が待っているかも知れない事態となってしまうのだ。

小室氏は我が国のプロテスタントの大学であるInternational Christians Universityの出身だから、このような我が国とは大いに異なる文化の下にあるアメリカの、しかも法科大学院に敢えて進まれたのである以上、そういう言うなれば「大変さ」を先刻ご承知で行かれたのだろうと推察している。そうでなかったとしたら一寸無謀である。しかも、言葉の負担などは一般の方々が想像される以上に過剰なのである。簡単に言えば、俗に言う「日常会話などは問題なく出来る」などいう生易しい段階が通用する世界ではないのだ。

私もW社に転身後13年目の1988年に、本社が開催されたあるセミナーに参加したことがあった。それは言わば「日本とは」というような勉強会で、月曜日から金曜日まで朝は8時から夕方5時まで、1時間のランチブレイクを挟んでぎっしりと講義が続くのだ。その間にコーヒーブレイクもあるが、何時講師から質問が飛んでくるかも解らない緊張感の下に講義を聞き且つメモを取っていなければならない大変な内容だった。

妙な言い方で恐縮だが、私の英語力を以てしてもグロスで9時間の緊張の維持は不可能で、切れた瞬間には「英語という川がゴウゴウと音を立てて流れているだけになってしまい,ついていけなくなってしまう」のだった。そして、そこは良くしたもので、その瞬間を見抜いたかの如くに講師から「君、今までの所の概要を纏めて見たまえ」などという質問が飛んでくるのだ。こんなのは未だ簡単な方で、いきなり「ここで何が息抜きにする為にjoke(冗談でも良い)を一席述べて見ろ」というのもある。その苦心のjokeが受けないと、全員に$1を採られてしまうペナルティーが科されるのだ。

勿論、終わってからはホテルに戻って予習と復習をしておかないと、翌日にまたペナルティーが待っていることになる仕組みだ。英語にはある程度以上の自信はあったが、この1週間のセミナーで実力不足だったかとイヤというほど反省させられた。私の後にこのセミナーに参加されたのがW社日本の代表者で海外駐在経験10年以上の海外事情に精通された英語力十分の実力者N氏だった。帰国された後は如何にも疲労された様子だったので「大変だったでしょう。私は完全にはついていけませんでした」と言ったところ「そうか。あんたもついていかなかったか。俺は自信を失いかけて帰って来たのだ」と述懐された。

そして「俺やあんたが日本のことの講義なのに駄目だったような状態なのに、アメリカの大学やビジネススクールに留学する連中は講義を聴いて本当に全てを解っているのだろうか」としみじみと言われたのが忘れられない。そうなんです。英語で講義を聴き、ノートを取って、講師に質問をして、的を外さずに討論をするなどと言うことは「日常会話には自信があります」などという水準とは全く次元が違うのである。ましてや、レポートを纏めるとか試験を受けるなどという技に至っては、native speakerたちにも劣らずにやっていくのは更にまた一層困難になるのだ。

ここまでを自慢話とでも思われては大変なので、もう一つ実例を挙げてアメリカと我が国との間にある「勉学における文化の違い」を語っておこう。それは我が国のプロテスタント系の著名な大学を出た者がMBAを取得しようと州立大学である(アメリかでは私立よりも一格下の評価である、念の為)UCLAのビジネススクールに進学された。1年目には周囲の者たちには負けることはないと確信したという。ところが、1年目が終わって痛感したことは「我が国とは異なって教えられたことだけを追いかけていたのでは評価の足しにならず、このままで劣等生の評価にってしまう」と深刻な危機感に襲われたそうだ。

それは与えられたレポート等の負担が異常に大きかったことも勿論だが、アメリカの勉強法は「自分の意欲と意志で研究の範囲を広げ、尚且つその分野に置いて教授や同期生と丁々発止と議論が展開出来るだけの勉強量と英語力がないと、全く評価の対象にならない」という大きな文化の違いの壁にぶつかったというのだ。彼は振り返って「我が国でも最初からアメリカ風の勉強の仕方で進めてあったならば、彼らnative speakerたちに負けずに済んだと思う」と述懐していた。尤も至極だと思う。

この点は,ハーバードのビジネススクールを経ているYM氏も全く同じ事を言っていた。彼は教授としても院生を評価していたのだが「分厚い本を読んでこい」というような宿題をやらないと全ての成績を算術平均されるアメリカ式では「兎に角良く出来たか出来ないかではなく、レポートはならず提出すれば、最低のことで参加したことに意味ありと評価出来る」と語っていた。そういう意味では、私は上智大学時代の「提出しなければ0点」の世界を経験したので、アメリカの会社に転進しても、そういう点では苦労はしなくても済んだ。

長々と述べてきたことの意味は「対外国との交渉事では、相手が何か反応か反響か、反論を求めているようなことを述べて当たってきた際には沈黙や黙殺や音無しでは、勿論時と場合と相手の品性にもよるが『静かな無視』や『上品な沈黙』や“benign neglect”は『黙っているのは屈服させた我が方の勝利だ』と思い込ませる結果になってしまうことがある」という文化比較論なのである。言うまでもないことだが、ここに言う相手には大韓民国を含んでいることは間違いない。

小室圭氏の話からここまで来てしまったが、もう一つ言いたかったことは「マスコミよ。キチンと報ずべきことは一般の読者と視聴者が正しく理解して下さるように姿勢を正して伝えるよう努力せよ」なのである。視聴者と読者はミーハーだけではないのだと知れ。


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