新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

アメリカ合衆国と言う異文化の国の話

2024-06-12 07:15:35 | コラム
謝罪するという文化(習慣)がない国の話:

以前から「アメリカには謝罪の文化がない事が、我が国と大いに異なる点である」と指摘してきた。あらためて確認しておくと「文化(=culture)とはある集団の言語・風俗・習慣・思考体系を言う」のである。

我が国の古来の文化では「自らの非や過ちを認めて詫びること」はあるべき姿で美徳なのであると、誰もが承知していることであろう。何らかの諍いがあっても、潔く謝ることで事態を水に流して話し合いの場につけるのが、我が国ならではの麗しき文化だった。その異文化の極端とも言える例を挙げておこう。

“I am sorry.”と言うなかれ:
アメリカでは物事の考え方が正反対で「自ら過ちを認めて詫びる」というような考え方も習慣もなかった。ところが、我が国の英語教育では会話の中で“I am sorry.”という表現をいとも簡単に教えているようなのだ。アメリカ人にとってはこの言い方の意味は「私が悪う御座いました。貴方様が求められる如何なる補償にも応じますからお許しを」なのだから大変だ。恐らく、こういう意味になるとは教えられていないのではと疑っている。

謝る習慣がない為に、日本向け輸出の仕事の最先端に立っていたので、非常に苦労させられた。それは、往年には我が社の製品が日本の厳しい品質や高度の作業性の基準を満たしていなかった為に、品質不良のクレームが多発した時期があった。我が方の技術サービス担当者と私が急遽問題が発生していた工場に駆けつけて話し合いが始まるのだ。

だが、アメリカ人たちは絶対に「我が社の製品がご迷惑をおかけして申し訳ありません」という謝罪からは入って行かないのだ・。即ち“We are sorry.から話を始めては「如何なる補償にも応じます」と言ったのと同様であり、何も細部の話し合いもしていない時点で「補償します」などと認める権限は彼には与えられていないのだから。殆どの場合に日本側はこの姿勢を「傲慢不遜であり誠意が認められない」と、極端な場合には感情的になってしまう。

何度かこういう事態を経験して悟ったことは「アメリカには謝罪の文化はない事」だった。そこで考えた対策は、本部や工場の者たちに「謝っても補償を認めたことにはならないから、最悪でも“We regret such a problem has happened.“くらいを下俯いて静かに言って欲しい。私からは「このようにお詫びしておりますから、何卒穏便にと訳しておく。そうすれば先方様の強硬姿勢も軟化するから見ていてくれ」と告知するようにした。

アメリカ人たちは非常に躊躇した。そこで「日本の人たちは水に落ちた犬は撃たないのだから、安心して“We regret ~.“から入ってくれ」と説得した。恐る恐る試してみたら通用して良い雰囲気で交渉が進むようになった。ここまで行き着くのに数ヶ月を要した。これが「謝罪の文化がない国」を端的に表している一例である。だからというか何というか、アメリカの企業の世界で「謝罪の為の記者会見」などあり得ないと思う。

断言出来ることは「アメリカ人が“I regret または We regret ”から交渉を始めたならば、最大限に自己の過ちを認めて譲歩したこと」になるのである。この裏返しの危険性は、日本側からは如何なる場合でも、個人的にでも、潔くしようなどと綺麗に考えて“I am sorry.“などとは言い出さないことだ。この点は「文化の相違点である」と是非とも認識しておいて欲しい。拙著「アメリカ人は英語がうまい」には「海の向こうの謝らない面々」の一章がある。

但し、“I am sorry.“にも逃げ道はある。それは、会議の場などに微妙に遅刻したとしよう。アメリカには我が国のような厳格な「遅刻制度」は存在しないが、彼等は「君が遅れた為に、ここにいるX名は○○分の時間を浪費させられた」と責め立てることもあるのだ。このような場合には、会議室に入るなり“I am sorry, if I am late.“のように言えば、免責になることは充分考えられる。即ち、ifと言って「もし」か「仮に」と言ってあるのだから。

お仕舞いに, 20数年前にラジオの放送で使ったお粗末なギャグを。この時は「謝罪の文化論」を語って「迂闊に“I am sorry.“とは言わないようにと指摘していた。但し、日本には一人だけ言っても問題にならない人がいる。それは小渕総理で、“I am 総理.“だなんて言えるのだ」という、今思い出しても恥ずかしい駄洒落だった。


コメントを投稿