新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

再び「顔相学」関連の話を

2021-01-26 08:36:30 | コラム
表情が何を物語るのか:

私は先日「顔相学」を論じた際に、西村康稔大臣が確信を持って対策を打ち出しておられない事が顔付きに表れていると指摘した。更に、坂井学官房副長官の風貌が自信のなさの表現ではないかと批判した。これらの指摘は決して根拠がない事ではないと述べておこうと、あらためて採り上げてみようと思う。

その根拠の一つに日本大学フェにクス元監督の故篠竹幹夫氏の言葉がある。篠竹氏は「俺に体調が悪いとか、僅かでも何らかの悩み等があった場合には、その弱味が何処からともなく顔付きなり何なりに隙となって現れるようだ。すると、部員たちはその微妙な隙というか変化を感じ取って、微妙に手を抜いた練習をしてしまうか、気合いが入っていない試合振りにしてしまうのだ。即ち、指導者足る者は常に心身を万全に整えて、その場に臨まねばならないのだという事だ」と語られた。「あの強気一辺倒の如き篠竹氏にしてこの言ありか」と痛感した。

この篠竹監督の言わば反省の弁を何人かの同大学の先生方と、他の大学の教授にも語ってみた。反響はと言えば全員が肯定されたのだった。即ち、皆が「教壇に立つ際に常に心身共に完全な状態ではない事はあり得るし、何らかの悩みか弱い点があるものだ。すると、恐ろしい事に学生たちは瞬時にその辺りを見抜いて、適当にしか講義を聴いていない状態になってしまうのである。我々は一瞬たりと雖も、学生たちに隙であるとか弱みを見せてはならないのである」と認められたのだった。組織の指導者や教員足る者の心構えの基本を聞かされたのだと受け止めた。

不肖私の経験も振り返ってみれば、リタイア後の1994~96年にかけてはアメリカの民主党政権からの「紙類の輸入を増やせ」との圧力があって、業界の言わば至るところで「アメリカの紙パルプ業界の実態と、アメリカの製紙業か恐るるに足らず」との講演をする機会を与えられていた。そこで見えてきた事に「一段高い演壇に立てば、聴衆がどれほどおられても、どの方乃至はどの辺りの方々が聞いておられないかは手に取るように見えてくるし、こちらが自信がない事を語っていれば、まるで手応えがないことなど、聴衆の表情が無残に教えて下さる」という点だった。

換言すれば、「多くの聴衆に語りかける時には、事前に十分に原稿を練り上げておく事も肝腎だが、自信を以て語りかけねば、ほぼ間違いなく相手にされないという厳然たる厳しさがあると認識してかかるべきだ」なのである。国会では野党が屡々「事前通告をしていませんでしたが」と断って質問するのを聞く事がある。そう言う時に自信がないと言うか、揚げ足を取られるような答弁をすれば、その表情を読んだ野党に付け込まれるのだろうと思いながら聞いている。

今回申し上げておきたかった事は「講演や講義などをする場合には、準備不足による自信のなさや、知識の不足等が表情に出ないように、万全の態勢でその場に立つべきではないか」なのである。新型コロナウイルス制圧対策などには、未だに全世界に確立された手法もなく特効薬もない時点である以上、「これで万全であるとは断言しないが、我々を信じてついてきて頂きたい」くらいの宣言をして「緊急事態宣言」を発出されても良かったのではないか。小池都知事のように「ご協力頂きたい」では、言葉は丁寧でも弱すぎる恨みが残るし、表情を読まれてしまう。



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