新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月15日 その2 私の英語論

2017-11-15 11:35:49 | コラム
私が考えている英語とは:

私は以前にも述べましたように、1972年に偶然の積み重ねで「行きたい」とも「行こう」とも「行ける」とも考えていなかったアメリカの会社に転進してしまいました。それ以前に新卒で採用して頂いた会社では約16年間全く英語とは無縁の国内販売の営業担当でした。最早、英語は趣味にしようかとすら考えていました。

しかし、13歳から学校教育で教えられ、そこに加えるにGHQの秘書の方から厳しく教え込まれた生きたEnglishの基礎が固まっていたようで、転進前のM社のオウナーから受けたインタビューでも前日まで英語の世界にいたかのようにごく普通に語ることが出来ました。これは「三つ子の魂百まで」とでも言いましょうか、基礎をどのように固めておくかという重要な勉強法があると示していると思いました。

そして、その転進した先の2社が完全に仏文学者のTK博士が指摘した「支配階層」に属する大手で、その中で知らず知らずの間に「支配階層の英語」に感化されていきました。その格調を表す例として屡々採り上げてきたことで「swearword如きを我が社の社員が使うことなどまかりならん」という厳格さがありました。しかしながら、我が国の学校教育ではslang(=俗語、隠語、符牒)と汚い言葉と見做されているswearwordなどの存在などは全く教えられていないのです。

そこで見えてきたことが、我が国の学校教育で懸命に善意で教えているのは「科学としての英語」であり、生徒や学生に優劣の差を付ける為の手法であって「English」とはほど遠いものだというどうしようもない事実でした。それは数学のように教えているだけで、彼らの国アメリカとの文化と思考体系の違いが全く加味されていないというか、違いを知らないというか、解っていない為に、読解力は付いても実用性に乏しい英語しか教えていないという事実でした。そのような教え方をされた方々が「6年や8年も勉強しても一向に話せるようにならないのは何故か」という見当違いの不満を言うという笑おうにも笑えない事態が発生するのでした。

実用性などは英語を勉強する者の全員が必要とはしないのですが、通じなかった連中が不満を言い出すもので、言われた文科省等が慌てて小学校3年からとか、何処の馬の骨かも解らないような食い詰め者と呼んでも良いと私が見做す何の役にも立たないnative speakerを連れてくる愚挙まで犯しています。この点は、彼らの英語がどのような階層に属するかの判断すら出来ていないから生じる過ちだと思っております。

何度も採り上げてきた例ですが、London Cockneyやオーストラリアやニュージーランドの訛りの中にはI came here today.が「アイ・カイム・ヒアー・トウダイ」と「今日ここに死にに来た」と聞こえるようになってしまうのです。そういう英語を覚えてどうするのですか、お里が知れるだけです。

このような結果になるのは、英語圏の諸国では訛りも発音も違うこと、slangとswearwordの区別も付かない英語を教え、idiomatic expressionsを教えていないのです。更に自分の意見こそが尊重される文化の国の言葉なのにThey say ~.だの I was told ~.だの It is said that ~.だのという伝聞を表現する英語を教えてしまうのです。彼らは伝聞をほぼ絶対に評価しません、特にビジネスの世界では。なお、何処で切るかの問題ですが、It is saidで一旦切って、新たにthat以下を読むか言うようにすることが正しい英語です。この点では、トランプ大統領は不正確だと指摘しておきます。

私は1990年春にエッセーの連載を始めた頃には「それはそれで良いのだ」と我が国の学校教育の英語を批判する気もなく、論じたこともありませんでした。だが、そのように実用性に乏しく、一歩間違うと低層階級の英語に訳も解らずに染まってしまうような人が多いと気付くようになって、リタイヤー後には英語教育の批判をTK博士たちと始めましたし、数校の大学や某市の市民講座で「本当のEnglishとは」を語るようになりました。

しかし、こういうEnglishに対する支持者は少なく、私のあの本にした以外の英語論を出版使用と企画して下さった方々は、出版社に「これを出版しても売れないだろう。それは、この本を読んで面白いと評価するだろう読者は、こういう種類の本を必要としない英語というかEnglishの知識の持ち主だから」との理由でボツになりました。それほど我が国では学校教育の英語とTOEIC如きが信頼されているのです。

我々と敢えて申し上げますが、支配階層にある一握りのアメリカ人たちの中で22年以上も過ごし、子供の頃から習い覚えた本当のEnglishを普及させることは極めて難しいと認識しております。ではあっても、仮令遠吠えであっても、ブログでは書き続ける所存です。

最後に一つ、あの本を出して感激した挿話を。あの本を2冊買って下さった某商社の幹部が友人で翻訳を生業としておられる方に贈られたところ、「どうして私がこの本を探していると知ったのか。この本は我々同業者の中で知れ渡っているので、探していたのだ」と言われたそうです。上梓して良かったと感動でした。未だ未だ言いたいことはありますが、それはまたの機会に。


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