新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

オリンピック・パラリンピックは開催されるのか

2021-06-03 08:53:03 | コラム
開催する以外の選択肢は残っていないと見ている:

我が親愛なるマスコミは、開催まで後残すところ50日に迫ったこの大会を「やるのやらないの」というような論調で、ウブな一般大衆を惑わして悦に入っているように思えてならない。

昨2日には尾身茂分科会長は国会(だったのだろうか)で、開催の意義に疑問を呈したり規模の縮小を論じたりしておられたようだった。マスコミ風に言えば「言論は自由」なのだから何を言われても構わないとは思う。私は尾身氏は勿論「専門家」という総理大臣にも世間にも(?)認められた資格の上で、政権に提言されたのだろうと解釈することにした。だが、あるお医者様が「あの人は医者ではない。政治家になったのだ」と吐き出すように言われたのを思い出した。

尾身氏はウイルスの襲来が始まって以来、何処の何方が如何なる理由であの地位に招聘されたのか知らないが、今や菅首相が何かと言えば「専門家に伺って」か「専門家に諮って」等々の決め台詞に登場する大政治家の如き存在になってしまった。しかも、菅首相は「この件は尾身先生から」と言って、屡々答弁を任せてしまっている。即ち、立派に菅政権の重要な構成員であるようなのだ。

その立場にあるとの自覚があれば、立憲民主党(だったのか)に向かって意見を述べられるのだったならば、菅政権の一員としての「雨が降ろうと槍が降ろうと、総理が言われたように通常開催する」と断言すべきではないのか。恰も朝日新聞のような批判的(客観的か?)とも聞こえかねないことを言われるのは、如何なものかと感じた。こんな事を言えばマスコミが「ほら見ろ。人が犬を噛んだ」とばかりに大衆を煽ろうと流していたではないかと受け止めた。本日の産経新聞に阿比留氏が書いていたことが(敢えて引用しないが)本筋だろうと思って読んだ。

私は開催すべきだとか、延期や中止の議論に参加する気はない。既に繰り返して述べたように「閃き」では「人気のない観客席の前で多くの選手たち(何で「アスリート」と妙なアクセントで呼ぶのか)が必死に世界的規模のメダル獲得競争に参加して奮戦している景色が見えていた」のだった。後付けの理屈では「国家として立候補して招請した競技を『COVID-19の制圧未だし』や『海外から9万人も来られて集団感染が多発しそう』と言ったような理由で中止できるのか。春日某氏は繰り返して『オリンピック憲章には云々』と声高に指摘していたではないか」となる。

「オリンピックの炎」とリレーも進行してしまったし、個人種目の予選会も着々と進み、出場の念願を果たした選手(戦士)たちがあれほど喜んでいたではないか。オーストラリアからは事前合宿の女子ソフトボール選手団が群馬県太田市に到着したではないか。私はこれらの現象を「既成事実の積み上げ」とは見ていない。総理大臣が「ウイルスに勝ったと示す大会を開催する」と言われていたではないか。また、誰も中止とも再延期とも言えないのだから、参加する國は粛々として予定通りに行動しているだけだろう。

朝日新聞のように反対の社説をぶち上げるのも一つの見識だろうが、そこには国家としての「覚悟」や「自覚」というような意識が完全に欠落しているのが酷いと思う。そういう論じ方もせずに「世論調査では反対と延期が」とばかり言う連中は、もっと始末に困ると思う。私はアメリカのメデイアを礼賛する気などないが、彼らのように常に「二者択一」で自社の立場を鮮明に出来ないマスコミは意気地がないと断じたくなる。「何だ。結局はマスコミ批判か」と言われそうだが。



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