新11『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争2

2014-09-26 07:26:15 | Weblog

11『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争2

 1952年(昭和27年)7月の朝方、母は産婆さんの手を借りて、病院には行かず、家で私を生んだ。そのため、母の嫁入り箪笥には、いまでも私のへその緒がほんの小さな桐箱の中に保存されている。
 貧農の家に生まれたというのはたぶん当たらない。では富農の家に生まれたのかと言われると、それも外れている。西下の中では、戦後の農地改革によって大方は「中農」になっていた。もっとも、同じ新野にあっても、・地域によっては、もっと貧しい家の子供が、大勢いた地域もあった。その頃、我がのほとんどの家では、今の物質的な豊かさに比べれば、食べるものは格段に質素であったろう。着るものも、つぎはぎだらけのものを厭わずに着ていた。今の子供であれば、顔をしかめて拒否するのかもしれないが、当時はそんなに珍しいことではない。そんな家族や村の雰囲気をかぎ分ける動物的嗅覚が何歳かの頃まで働いていた、といっていい。
 自分の姿が写っている最も古い写真は、2枚ある。1枚は、家の縁側にもたれるようにして兄と二人で写っているものである。写真というものに初めて出逢ったのか、レンズの方角をまぶしそうに見ている。もう1枚は、家の庭で、たすき掛けをした母の背に負ぶわれた私が、祖父と祖母、それに一緒の写真に写っている。私を除いてみんなが笑っている。家は瓦葺きとなっている。おぶわれているのだから、こちらの方がなんとなく古い。残念ながら、この2枚とも写してもらったという記憶は残っていない。
 幼い頃、早苗(仮の名)姉さんに負ぶわれ、子守をしてもらっていたらしい。姉さんは父の姉の子供である。伯母さんが若くして亡くなったので、小学校の4年から中学3年までの6年間を我が家で暮らしていた。大人になってからも、「泰司」とか「泰ちゃん」と呼んでくれるときの眼差しが緩んでいた。随分と背中越しにおもらしをして、お姉さんを困らせていたようだが、それで叱られた記憶は全くない。子守歌を歌ってもらっていたかどうかもわかっていないが、そうだとしても「よしよし」とか色々あやしてもらったりしたのではあるまいか。
 後年、母に頼んで当時の写真を出してもらって、色々と眺めてみたことがある。どうやら、自分の記憶は確かなものではなかったらしく、なかなかに思い出せないシーンが多かった。撮ってもらった覚えのあるのは幼稚園に上がる前の頃からのものだ。この頃から写真がぽつりぽつりと増えてくる。人間の長きにわたる記憶は、いつからのものであろうか。人によっては、母親の胎内にいた時の記憶を諳んじたり、大胆に自身「前世」を語る人もいる。「霊能力者」に至っては他人の前世や、亡くなっている人の霊とか魂を見つけ出し、その言を現在形で聞くことさえできるというのだから、私は今でも信じる気持ちになれないものの、もし事実とすれば驚くほかはない。
 私の場合は、そんな神秘的なことは何もない。実際の記憶で一番古いのは、家庭用の水源と隣り合わせの堀に滑ってはまり、渾身の力を振り絞って這い上がった時のものである。その堀は隣り合う3軒の共同井戸であって、大根やさと芋といった野菜の土を落としてきれいに水洗いするもので、深さは1.5メートルを超えていたのではないか。
 そのときは、その堀の水の中に二度沈んだ。足を滑らせてたぶん頭から転げ落ちた。水の中では何が何だかわからなかった。体中の血液が逆流する思いであった。極限まで慌てたのだろう。1、2秒のことなのかもしれないが、ただただ重く、苦しかった。
 一回目の浮上で、岸にとりついた。しかし、歯が立たなかった。2度目も失敗となる。このとき私は、確かに鬼と化したに違いない。そして、三度目の浮上でついに「死に神」を振りきった。縁の石に両手の爪を突き立てるようにして生還したことを、今でもはっきりと覚えている。
 あのときは「九死に一生を得た」という表現がぴったりする。生物としての本能というべきか、「火事場の馬鹿力」にも似ていたのであろうか、渾身の力を発揮したことで運命の女神も幼い私に味方をしてくれたのだろう。おかげでお地蔵さん姿の墓の下に入らなくて済んだ。墓の中は随分と冷たいだろうし、そこに入ると土が沢山被せてあるので、もう外に出ようと思っても這い出ることができないだろう。濠に落ちたことを、どうして親にうち明けなかったのかについては、自分でも覚えていない。多分、怖かったことを忘れたかったか、親に言って叱られるのを恐れたからだろう。
 いま一つの古い記憶は、家族の前、中の土間にいて体を痙攣させながら泣きじゃくっている自分のことだ。その後どうなったかは記憶が途切れているので仕方がない。祖父がひきつけを起こした私をさ笠づりして「しっかりせい」とバシッとひっぱたいて正気に戻らせてくれたと言う話も、その時のことであったのかもしれない。「ひきつけ」と呼んでいたのは、今風にいうと「熱性痙攣」(てんかん)ということになるのだろうか。だがそれは病気のことである。原因は何だったのだろうか。そのときは何に対して、何を悲観するなり怒って泣いていたのか今でも知らない。父に怒鳴られたのかもしれず、風邪絡みでそういう状態になっていたのかもしれない。後年、母はある日のこと、ラジオ体操をさぼった私のことを父が激しくおこったことを打ち明けてくれた。母は『この子は直ぐ癇癪を起こす、かんの強い、気性の激しい子だ』ということで随分と心配したらしい。気がついてからしばらく家の外に出されていたようだが、外の空気を吸い込んでいるうちにだんだんに気分が落ち着いてきて、泣くのをやめたという。
 還暦を過ぎてからか、いったいいつから自分は記憶というものが芽生えたのだろうかと、ふと考えることがある。一番古い記憶を汲み出そうとしても、そのすべはわからない。その後も一言も発せず黙々と思念し続けていると、何かの記憶がひょっこりしみ出てくるから不思議だ。それが本当のことであったかどうかは、多分わからない。頭の中で、作り上げた偶像である可能性もあるからだ。そんな自分の一番古い記憶は、たぶん4歳の頃のものといえば、1956年(昭和31年)の頃である。なにも覚えていない。この年の経済白書は高らかな調子で国民にこう告げた。
「いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど、びんぼうな日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや「戦後」ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。」
 人というものは、過去をひもとき、いまをひたすらに生き、未来の方向性を見つめる存在だ。当時の私は、もちろん、そんな世の中の大きな流れとは無縁のところにいた。自分の家族や親戚、そして近所の人が世界でありすべてであった。小学校に上がる前、6歳の1年間は幼稚園に通った。その頃のことはかなり覚えている。腕白でいたずら好きな子供であった。幼稚園のあったところは、勝北町西中(にしなか)のとある寺であった。地理的な位置としては、西下の北方が西中、その西中の北方が西上である。西上となれば、そこはもう山形仙の麓までさ続いている。
 さて、西中に戻るが、新野小学校から500メートルほど町道を北上したところの平坦な田圃(たんぼ)の中に、町立の保育園があった。開園は1953年(昭和28年)のことで、旧新居の村の法光寺の敷地内に、平屋の建物が併設されていた。
 通園には、優に4キロメートル(現在は1里)の距離を一人で歩いて通った。通園の途中、山形の方から南下してきた小学校の上級生の3,4人連れに眼を付けられることがあった。こちらから仕掛けた覚えはないものの、何か生意気なところがあったのだろう。当時は足に自信があって、首根っこを捕まれない限りは、束になって追っかけられても逃げ切る自信があった。
 それでもたった一本の道を塞がれ、向こうが待ち構えていることがあった。そんなときは大人の人の後に付いて登園した。それなら、登園をしなければよかったようにも思われるのだが、野や山を駆けずり回ったり、家での労働で多少とも鍛えられていたせいか、「なにくそ、負けるもんか」という気持ちがあって、そのいじめにへこたれるようなことはなかった。
 その寺の境内の敷地に町立の幼稚園が営まれていた。お坊さんはいただろうか、今では知る由もない。
「お花 お花
やさしく育った かわいい お花
ほらね
お日様 見あげて さいた
みんな おてて つなごう
大きな お花 になろう
新野の 新野 なかよし保育園」(作詞者と作曲者を知らず)
 先生の名も顔も覚えていない。女の先生が2人いただろうか。園内ではゲームをしたり、「お絵描き」をして過ごした。昼寝の時間があって、茣蓙を敷いて休んだ。不思議と、先生とみんなで何をしたかはこれといって覚えていない。読み書きも少しは教えてもらったようである。
 覚えているのは、朝にはチャンバラごっこをしていた。その頃か、漫画ではやっていたのが、『赤胴鈴の助』であった。
「剣をとっては 日本一に
夢は大きな 少年剣士
親はいないが 元気な笑顔
弱い人には味方する
おう、がんばれ
頼むぞ 僕らの味方
赤胴鈴の助」(藤原真人作詞・金子三雄作曲)
 幼稚園の休み時間では、男女ともブランコに乗って思い切り漕いだりして遊んだ。いまでも思い出すのは、誰やら級友の男の子がブランコが後方に振り切った次の瞬間、見ていた私の視界から消えた。はて、どこに行ったのかと探すと、田植え前の田圃のぬかるみの中に落ちていた。大きな怪我はなかったようで、みんなで胸をなでおろしたようなことがあった。
 ほかにも、何やら悪さをして押し入れに閉じ込められたことがあった。だが、鍵を外から掛けられたのに、「出して」と泣くでもなく、にやにやしていた自分をしっかりと覚えている。それから、ぜんざいの味も忘れられない。汁碗に白い餅、その上に赤いダイヤの異名を持つあずきが大きいスプーン一杯分くらいは載っていた。甘くて甘くて、舌がとろけそうで、とても幸せな気分になったことを思い出す。作り方は、小麦粉を水に浸してこねたものに、小豆のあんこを暖かい煮汁をかけたものである。甘いものを食べさせてもらった後は、昼寝の時間で、眠たい訳でもないのに、長いござを広めの部屋に敷いてしばし寝転んで「いい子」をしていた。

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