新10の1『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争1

2014-09-25 22:29:36 | Weblog

10の1『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争1

 父は、自分の幼年期について、何一つ私に語らなかった。それでも一度くらいは話を聞いたことがあったのではないかと、頭を絞っても、まるで記憶の箱の中にないのである。父の生まれた年から4年後の1923年(大正13年)は、全国的な農村不況の年で知られる。その前年の9月には、関東大震災が起き、関東地方において未曾有の被害があった。私は、後に現住所(埼玉県比企丘陵の小川町)のとある古写真所蔵家を訪ね、黄色く変色を始めている写真を見せてもらったことがある。それらの中では、横浜正金銀行や東京有楽町駅の構内で人々が折り重なるようにして死んでいた。その多くは、一見の価値があると思えるものが多かった。そのときは、「死屍累々」ともいうらしいが、かくも人間はたやすく死ぬものか、との慨嘆を拭えなかった。
 1932年(昭和6年)年には、新米の値段が1年前の約半値に下がった。1935年(昭和9年)には冷害があり、一転して不作が全国の農村を襲った。東北を中心にまた悲しい出来事が相次いだ。そのときの西日本での状況はどんなであったろうか。そのとき父は15歳の少年期に入っていた。
 彼の青年期についても、私はほとんど何も知らない。山岳小説家の新田次郎に、『孤高の人』」という登山小説がある。そこに描かれていたのは、ひたすらに山が好きで単独の登攀(とうはん)を好む登山家の人生模様であった。私にとって、父はまさしく孤高の人であった。私が小学校低学年までの幼いときは、なぜだか思い出せないものの、たいそう叱られることがままあった。そういうことがあって、父にはなおさら近づくのが恐ろしくなっていた。その頃、我が家には、父には責任のない、多額の借金があることを既に聞いて知っていた。父の心に何が隠されているのかは、はかり知れなかった。「まだ、何かあるのかもしれない」という懸念があって、それが後の私の青年期には昂じて、父の孤独な背中を常に意識していた。
 父の身長は160センチメートルくらいであったが、肩幅の広い、それでいてプロレスラーのような厚い胸を持っていた。自分は将来、父のように上部で長持ちする躰をもち、元気に働いて、自らの家族を養っていけるだろうか、という気持ちに変わっていった。でも、父のことを「親父」と呼ぶことはしなかった。「おとうちゃん」から「とうさん」に呼び方を変えたのは、神戸に働きに出る20歳のことである。
 そんな父は、冠婚葬祭で、父の兄弟が勢揃いしたときなど、宴たけなわとなったところで、父の「18番」が出ることがあった。それは、浪花節的な歌であって、内容としては軍歌であろうか。舞台は進んで場は最高潮となる。耳の奥に残っている一つは「軍歌うとて意気揚揚と.....」だった。浪花節流の講釈も交えて、日焼けの黒い顔を赤く染めてうなっていた父の顔が懐かしく思い出される。
 いま一つは、あの「戦友」という歌である。中国戦線における日本兵の心情を歌ったこの「軍歌」には、戦うことを賛美したり鼓舞するようなところはない。来る日も来る日も行軍と戦闘に明け暮れる兵士の姿が浮き彫りになっている。けれども、それは侵略する立場からのアプローチであって、どう贔屓目(ひいきめ)に見ても「反戦歌」というのは当たらない。当時テレビで、同じ題の番組を放映していて、主題歌に「ここはお国の何百里/離れて遠く満州の/あかい夕日に照らされて/友は野末(のずえ)の石の下」云々とあった。
 今顧みれば、父の晩年、まだ元気で機嫌がよいときに、青年時代にどうしていたのかをなぜたずねてみなかったのか、いまさら悔やんでみてもどうしようもない。寡黙な人であったから、自分から話すことはほとんどないと、承知していた筈なのだが。
 さて、1937年(昭和12年)、日本による中国への本格侵略が始まる。そのとき、父は17歳になっていた。当時の新野(にいの)尋常小学校は戦後の小学校と同じ地にあった。その頃の父の移った一枚の写真をみたことがある。木造校舎の前の顕彰記念碑に寄り集まって、麻の色の兵隊服を着て数人の兵士が写っていた。その中に、りりしいというか、たくましいというか、銃を手にした父の出征の姿が残っている。
 新野の青年学校卒業後、父は広島県呉の海軍工廠に行く。「赤紙」による招集であったのであろうから、家族としてはまさに「長男を戦争にとられてしまった」ことになる。1940年(昭和15年)には、甲種合格で岡山歩兵第10連隊に入隊した。その日のことを祖母は、「登は体がつええから、甲種合格になったんじゃ」と述懐していた。それより8年前の1932年(昭和6年)には満州事変、1936年(昭和10年)の日華事変と、中国大陸では日本軍による侵略戦争が始まっていた。
 いま歴史を振り返ると、救いがたいのは、当時の日本のファシストたちが、中国などアジアの国々に対し、自治の能力がないのだから、日本が進出していって統治してやるのだと言っていたことである。おりしも、当時の一般の兵隊の生活は、「軍律」でがんじがらめであった。営舎での1年くらいの間のことは聞いていない。敗戦後に作家の野間宏が書いた長編小説「真空地帯」のような上官によるいじめ、ある場面では柱に登って「ミーン、ミーン」と蝉の鳴き声を真似をしていたように、上官の命令ならどんな理不尽なことでも甘んじていたのかどうなのか、本人から聞いたことがないので、父の場合のことは知る由もない。
 これは父の入隊のことではないが、岡山からの中国へ1937年(昭和12年)進撃した日本陸軍に、岡山駐屯の陸軍歩兵第10連隊(赤柴隊)があった。この部隊が、中国に渡り、その「敵地」でどのように振る舞ったかが、小説の中に収められている。そこには、戦後の多くの日本人が知らずに済ませてきているかもしれない、大陸侵略の生々しい模様がこう描かれている。
 「津山市出身の陸軍歩兵上等兵棟田博は、この間の戦闘の状況を小説にして、『分隊長の手記』として2年後に発表したが、その中には部下の兵隊といっしょに畑の野菜を盗んだり、大きな赤牛を殺して食べたり、家人の避難した農家を占拠して鍋釜も持ち出し、村に牛も豚も鶏一匹一いないのは不便極まるし、腹立たしいものだと記している。家人の居なくなった民家を「掃除」と称していえ探しして、めぼしいものを略奪するさまも、淡々と記している。」(岡山女性史研究会「岡山の女性と暮らしー「戦前・戦中」の歩み」山陽新聞社刊)
 これを読んで、私も含め「小説の世界だけのもので、嘘に決まっている」とか、「たかが小説の中の世界でのこと」だとか、心をへの字に閉じて過去を顧みないようでは、人間としての良心が問われるのではないか。
 翌年1941年(昭和16年)12月8日、日本の連合艦隊による真珠湾への奇襲攻撃を皮切りに、日本が大国アメリカに総力戦を挑んだ太平洋戦争が勃発した。父はそれに先立つ同年3月、そのまま田舎には帰らず、広島県呉の海軍工廠から貨物船で中国大陸に渡ったようだ。彼は上海から揚子江(長江、チャンヂャン)を遡上して南京(ナンジン)を経由、九江(チィオウジャン)を経て徳安(トゥーアン)に到着した。そこで中支派遣軍平野隊に入営し、第三機関銃中隊に編入される。ここに機関銃中隊というのは、近代化した兵器を装備した俊英の部隊であったようで、げんに父は中隊長直属で、彼の馬を引いていた。
 これを皮切りに、父は作戦の所属を変えながら武漢(ウーハン)、漢陽(ハンヤン)、その後は洞庭湖(ドンティンフー)に注ぐシアン川を100キロメートル南下したところにある長沙(チャンシャー)、洞庭湖の西岸にある常徳(チャンドゥー)のあたりを転戦した。その場合、中隊が単独で作戦を行うときもあるし、時には大隊に加わっての任務遂行もあったらしい。本人の言から覗うに、占領と言っても、その時点でのものであって、部隊が現地を去ると再び中国軍が進出する。大方はその繰り返し、ゆえに父の中隊の全体の戦況としては膠着状態というのがふさわしかったようである。
 中国戦線や南太平洋では、日本軍は最初は破竹の勢いというか、どんどんと戦線を拡大していた。ところが、1942(昭和17年)には連合艦隊がアメリカ空軍と戦ったミッドウェー海戦において、決定的敗北を喫す。日本は、主要な空母を沈められた。また、1944年(昭和19年)夏にはマリアナ群島(とくにサイパン島)が陥落した。そのことで、日本の南方占領地からの物資の補給路は事実上途絶えた。なにしろ、日本国内産で賄える資源は限られているから、海外からこれらの物資が入らなくなるとたまらない。それからは、全体としての戦局は憂色の方向に大きく変わっていった。一般人にも、もし物事を冷静沈着に見る眼があったなら、もはや日本の敗北は避けられないと認識できたのではないかと推測される。
 その後の中国戦線では、父の所属していた派遣軍は、長沙からシアン川ー湘江(シアンヂャン)の川沿いに衡陽(ホンヤン)、さらには来陽(ライヤン)にまで遡り、6年間にわたり揚子江沿岸から現在の湖南省(フーナンション)を転戦して、1945年(昭和20年)の敗戦を来陽(ライヤン)で迎えた。そこで強制連行を伴う捕虜にはならず、武装解除されたようである。
 おりしも、はじめは破竹の進撃であった日本軍も、1943年(昭和18年)11月、江西省の遂川を基地とするB25など15機が台湾の新竹付近に、対日初空爆を敢行してからというもの、制空権は在華アメリカ空軍に掌握に握られる。アメリカ軍は、「広西省の桂林(グイリン)、柳州(ヤンヂョウ)、湖南省の衛陽、江西省の遂川地区に進出し、1944年初めには約160機に達していたとみられ、中国戦線の将来を左右するものとして注目の的」(臼井(うすい)勝美「日中戦争」中公新書から抜粋)となっていた。ここで敵に制空権を握られるということは、もはや陸地での戦闘も大きく制約されることにならざるをえない。このままでは、ずるずると後退していくしかなくなる。そこで、日本としては、この空軍基地なりを壊滅ないし、昨日不全にする必要に迫られた訳である。
 この作戦について、やや詳しく述べると、当時の「大本営」にて計画が立てられたのが、1944年(昭和19年)1月に入ってからで、その月(1月)の19日には、一号作戦の内奏を受けた昭和天皇が「作戦をやって勝つであろうが、治安がさらに悪くなることはないであろうな」と懸念したそうである。続く1月24日には、畑総司令官に「一号作戦要領」が下立つされ、4月頃から作戦が開始され、各方面の日本軍は苦戦を強いられながらも、衡陽、桂林、柳州の占領を果たした。
 「中南方面に作戦せる軍の将兵は約半年にわたり至難なる機動作戦を敢行し、しょうれいを冒し艱苦に耐え、随所に在華部空軍の根拠を撃破してよの作戦目的を達成し、もって全局の作戦に寄与せり。朕深くこれを嘉尚す」との勅語はこのとき発せられた。ところが、このときすでに長距離爆撃機B29がはるか奥地の成都周辺の基地群から黄海上空を越えて北九州に空爆のため飛来するようになっていたのだから、もう彼我の地から関係は勝負がはっきりついた形になっていた、といっていい。1944年(昭和19年)になると、日本軍の中国戦線での展開は手詰まりの状況となっていた。

(続く)

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