◻️211の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、馬越恭平)

2019-09-29 11:15:14 | Weblog
211の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、馬越恭平)

 馬越恭平(まごしきょうへい、1844~1933)は、実業家。備中国後月郡(現在の井原市)の生まれ。
 どういう気持ちであったのだろうか、13歳にて、母方の叔父に当たる播磨屋仁平衛の世話にて、鴻池家で丁稚奉公して働く。二年後にその働きぶりが認められ、仁平衛は自らの養子に恭平を迎え入れる。
 その播磨屋は、徳川時代から諸大名の金銭の用達を務める商家であった。各藩が軍費を調達するのに、金銭を貸し付けていたという。
 明治維新後は、表向き公宿になったらしいのだが、当人は、何とか東京に出て新時代の経済界で飛躍したいと考える。それを養家が承知しなかったため、妻子と別れ播磨屋を去って上京する決意を固める。
 播磨屋の事業で知り合いとなっていた大阪造幣寮の益田孝(後の三井物産社長)の世話にて、井上馨(かおる)の設立した先収会社に入るのが、1873年(明治6年)であった。その後身の三井物産で横浜支店長(1876)、元締役、売買方専務を務める。
 と、トントン拍子の出世であったようなのだが、やがて三井物産を退社して日本麦酒の経営立て直しに専念する。その後には、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の三社の合同により設立した大日本麦酒の社長になる。
 そればかりか、帝国商業銀行頭取をはじめ、100以上の企業の役員を歴任したというから、驚きだ。衆議院議員にもなり、1924年(大正13年)なには、勅撰の貴族院議員に選ばれる。
 茶人としても知られる彼にして、何かしらの安らぎを得ていたのではないか。

(続く)

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