【掲載日:平成22年11月12日】
一つ松 幾代か経ぬる
吹く風の 声の清きは 年深みかも
「おお 恭仁の京が一望だ」
「宴は この一本松の場所が良い」
天平十六年〈744〉新春
展望良い丘に 宴は張られた
聖武帝が 東国行幸に発たれ
諸国を巡り
ここ恭仁京に都され 足掛け五年を数える
帝の御心は 如何であったろうか
「咲く花のにおうがごとき」
と讃えられた平城の都
宮廷は爛熟・頽廃の度を加え
貴族の権謀術数は極に向かい
社会不安は増すばかり
加えて
悪疫流行
藤原氏四兄弟の死
藤原広嗣九州挙兵
乱平定待たずの行幸
不安募る平城帝都には とても戻れぬと
山青く水清い この地に留まられた・・・か
「市原王
この眺め 新たな年にふさわしいではありませぬか
ぜひともの 一首を」
家持は 市原王に 歌を請うた
一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも
《風の音 爽やかなんも そのはずや この一本松の 年輪見た分かる》
―市原王―〈巻六・一〇四二〉
「これは お見事な寿ぎ」
「では わたしも 京の永遠を願って」
玉きはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとそ思ふ
《限りある 人の命は 分からんが 枝結ぶんは 永遠思うから》
―大伴家持―〈巻六・一〇四三〉
度重なる 紫香楽離宮への行幸
昨年十月には 紫香楽の地での大仏造立の詔
追うかの様に
十二月 恭仁造作停止の令
恭仁宮の前途に 暗雲立ち込める