goo blog サービス終了のお知らせ 

令和・古典オリンピック

令和改元を期して、『日本の著名古典』の現代語訳著書を、ここに一挙公開!! 『中村マジック ここにあり!!』

歴史編(30)ささなみの

2009年07月08日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月23日】

ささなみの 志賀の辛崎からさき さきくあれど
           大宮びとの 船待ちかねつ

ささなみの 志賀の大わだ よどむとも
           昔の人に またもはめやも

【唐崎 淀む大わだ】       


大津宮陥落ののち 十数年が過ぎ 
持統天皇の御代みよ
父 天智天皇の供養にと 近江への行幸みゆき

近江の湖畔 
たたずむ 柿本人麻呂 
口をついて 言葉がほとばしる 

玉襷たまだすき 畝火うねびの山の 橿原かしはらの 日知ひじり御代みよゆ れましし 神のことごと 
つがの木の いやつぎつぎに あめの下 らしめししを
 
《畝傍の山の 橿原の 神武じんむ御代みよを 始めとし
 引き継ぎきたる 大君おおきみの 治め給いし 都やに》
そらにみつ 大和やまとをおきて あをによし 奈良山ならやまを越え 
いかさまに おもほしめせか
 
《何をおもたか 大和捨て 奈良山越えて はるばると》
天離あまざかる ひなにはあれど 石走いはばしる 淡海あふみの国の 
楽浪さざなみの 大津の宮に あめした らしめしけむ
 
《近江の国の 大津宮おおつみや 都移しを したんやろ》
天皇すめろぎの 神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言えども 
春草の しげひたる かすみ立ち 春日はるひれる ももしきの 大宮処おおみやどころ 見れば悲しも

《それや言うのに その都 目当ての場所は 草繁り 大宮大殿 見当たらん
 どこ行ったか 雲かすみ 悲しさ募る 大宮処》
                         ―柿本人麻呂―(巻一・二九)

人麻呂の 故宮ふるみやへの 追慕ついぼまず
ささなみの 志賀の辛崎からさき さきくあれど 大宮びとの 船待ちかねつ
《唐崎は そのまんまやが 待ってても 古都人ふるみやひとも 船も来えへん》
                         ―柿本人麻呂―(巻一・三〇)

ささなみの 志賀の大わだ よどむとも 昔の人に またもはめやも
せんいな 淀水よどみずみたいに とどまって 昔の人に おうおもても》
                         ―柿本人麻呂―(巻一・三一)

高市黒人たかちのくろひと かける言葉もない
思いは同じ 歌で
いにしへの 人にわれあるや ささなみの ふるみやこを 見れば悲しき
《この古い 都見てたら 泣けてくる 古い時代の 人やないのに》 
                         ―高市黒人たけちのくろひと―(巻一・三二)

日が落ち 寂しさ募る湖辺うみべ
鳴く千鳥が 人麻呂の胸を 締め付ける 
淡海あふみうみ 夕浪ゆうなみ千鳥ちどり けば こころもしのに いにしへおもほゆ
《おい千鳥 そんなに啼きな 啼くたんび 古都みやこ思うて たまらんよって》
                         ―柿本人麻呂―(巻三・二六六)

湖畔に落とす影ふたつ 比良おろしが寒い 



<唐崎>へ



<淡海の海>へ


歴史編(31)見れど飽かぬ

2009年07月07日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月24日】

見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑とこなめ
              絶ゆることなく また還り見む

【宮滝の激湍】


持統天皇の治世も  ようやく 安定を見たころ 
天皇は 思い起していた 
(吉野 
 夫大海人おおあまと 越えた雪の峰 氷雨ひさめふる山路やまみち 父天智との確執かくしつの後 手に入れた 地位 
 ああ 吉野が恋しい  そうじゃ 離宮を作ろう 宮滝に離宮を) 

風光明媚な 吉野宮滝 
立派に った離宮
持統女帝の 吉野行幸みゆきが 重なる
行幸の 従駕人じゅうがびと 
そこには 必ず 人麻呂の姿があった 
みかどへの 捧げ歌 人麻呂はうた
 
やすみしし わご大君の きこす あめの下に 
国はしも さはにあれども 山川の 清き河内かふちと 
御心を 吉野の国の 花らふ 秋津の野に 宮柱 太敷ふとしきませば

天皇おおきみの お治めなさる 国々は 仰山ぎょうさんあるが
 山川の 綺麗きれえなとこと 気に入りの 吉野の国の 秋津野あきつのに 宮殿みやどの作り おわしまし》
百磯城ももしきの 大宮人は 船並ふねなめて 朝川渡り 舟競ふなこそひ 夕河渡る 
《お連れの人は 朝となく ゆうべとなしに 船遊び》
この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす  
水激みずたぎつ たぎの都は 見れどかぬかも

《流れ続ける 川水と たこたこうに 茂る山 その滝の宮 見飽けへん》
                         ―柿本人麻呂―(巻一・三六)

見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑とこなめの 絶ゆることなく また還り見む
《見飽けへん 吉野の川に また来たい またまた来たい ずうっとずっと》 
                         ―柿本人麻呂―(巻一・三七)

人麻呂は 得心した 
(これぞ 神の宮 寿ことほぎの歌)



<滝の河内>へ

歴史編(32)依りて仕ふる

2009年07月06日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月26日】

山川も りてつかふる 神ながら
              たぎつ河内かふちに 船出せすかも

【宮滝の吉野川】



持統帝は 高殿に 登り立つ 
「おお なんという 眺めじゃ 
 青垣あおがきを 並べたような 山々
 逆巻く流れの 川 
 皆 われを たたえているようじゃ
 人麻呂 いま一首を 所望しょもういたす
 山をめ 川をめ」
天皇は はしゃいでいた 

やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川  たぎ河内かふちに 
高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 

《天皇さんは 神さんや 吉野の川の 河淵かわふちに 御殿やかた造られ 登りみる》
たたなはる 青垣山あおかきやま 山神やまつみの まつ御調みつきと 
春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉もみちかざせり
 
《山の神さん 飾りやと 春には花を 咲かせはり 秋には黄葉もみじ 作りはる》
ふ 川の神も 大御食おほみけに つかまつると 
かみつ瀬に 鵜川うかはを立ち しもつ瀬に 小網さでさし渡す
 
《川の神さん 御馳走ごちそうと 上流かみで鵜飼を 楽しませ 下流しもで網取り さしなさる》
山川も りてつかふる 神の御代かも
《山や川 みんな仕える 天皇おおきみさんに》
                         ―柿本人麻呂―(巻一・三八)

山川も りてつかふる 神ながら たぎつ河内かふちに 船出せすかも
《山川の 神もつかえる 天皇おおきみが 逆巻く川に 船出ふなでしなさる》
                         ―柿本人麻呂―(巻一・三九)

人麻呂の 歌声は 山を越え 川面に流れてゆく 

みかど行幸みゆきに 人麻呂の歌 
それは 欠かせぬものとなっていた 
まさしく「大王おおきみは 神にしあれば」が 確立した時代
それは また 人麻呂の「歌聖」としての 評判が 確立した時代でもあった 



<宮滝>へ

歴史編(33)鳴呼見乃浦に

2009年07月05日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月27日】

【鳥羽市小浜あみの浦 向いは答志島】

鳴呼見乃浦あみのうらに 船乗ふなのりすらむ 孃嬬おとめらが
           珠裳たまもすそに 潮つらむか

くしろく 手節たふしの崎に 今日もかも
           大宮人おおみやびとの 玉藻たまもるらむ

潮騒しほさゐに 伊良虞いらご島辺しまへ 漕ぐ船に
           妹乗るらむか 荒き島廻しまみ


持統天皇六年(692)三月 
伊勢行幸みゆき
多くの官女たちを連れての 行幸であった 
中納言三輪朝臣高市麿みわのあそみたけちまろ
「春の農作業を目前にして なんたる・・・」 
とのいさめを 無視して
しかも 通過地の国造くにのみやつこらに 冠位を授け 調役免除する といった大判振る舞い 
お供の 騎兵や荷担ぎ達の 調役までも免除 

留守居るすいの人麻呂は 思いやっていた
たみの気持の 在りどころを お忘れかも
 いや 言うまい 言うまい わしは 歌
 海では 官女どもは 楽しんで るだろう
 帰ったなら 
 「人麻呂さま 見ていたのですか」 
 と言わせてやろう) 

静かに 瞑目めいもくすれば 波の音がする

鳴呼見乃浦あみのうらに 船乗ふなのりすらむ 孃嬬おとめらが 珠裳たまもすそに 潮つらむか
《あみの浦 船遊びする あの児らの 裾を濡らすか 潮満ちてきて》 
                         ―柿本人麻呂―(巻一・四〇)
くしろく 手節たふしの崎に 今日もかも 大宮人おおみやびとの 玉藻たまもるらむ
《喜々として 手節とうしの崎で きれえな藻 ってるやろか 今日もあの児ら》
                         ―柿本人麻呂―(巻一・四一)
潮騒しほさゐに 伊良虞いらご島辺しまへ 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻しまみ
《波荒い 伊良湖の島の 島めぐり 喜んでるか あの児も乗って》 
                         ―柿本人麻呂―(巻一・四二)
 
潮満つ浜辺・・・  
ゆれる玉藻・・・  
潮騒のとどろ・・・  
事は知らず 人麻呂は 歌心にひた




<鳴呼見の浦>へ



<手節の崎>へ

歴史編(34)ひむがしの

2009年07月04日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月28日】

ひむかしの 野にかぎろひの 立つ見えて
          かへり見すれば 月かたぶきぬ

【安騎野 東方全貌】

軽皇子かるのみこは 十歳になっておられた
「もう 狩りにお出ましもの 年齢としになられた」
「少し きついが 安騎野あきのが よかろう」 
「父君の 思い出の場所じゃ」 
群臣の 意見まとまり 皇子みこは 安騎野へ

持統天皇七年(693)冬 
(亡き草壁皇子くさかべおうじの 狩りにも お供した あれから 十数年か)
人麻呂は しみじみと思う 

やすみしし わが大王おほきみの 高照らす 日の皇子みこ 
かむながら かむさびせすと 太敷ふとしかす みやこをおきて

天皇おおきみ御子おこ 皇子おうじさん 立派に成長 しなさって 天皇おおきみ治める みやこ出発ち》
隠口こもりくの 泊瀬はつせの山は 真木まき立つ 荒山道を いはが根 禁樹さへきおしなべ
初瀬はつせの山の 山道を 岩よじ登り 木を分けて》
坂鳥さかとりの 朝越えまして 玉かぎる ゆうさりくれば 
み雪降る 安騎あきの大野に 旗薄はたすすき 小竹しのをおしなべ 
草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて 

《朝越えなさり 夕方ゆうべには 雪の降ってる 安騎野あきの着き
 ススキや竹を 敷きつめて 父君偲んで 旅宿り》
                         ―柿本人麻呂―(巻一・四五)
 
阿騎あきの野に 宿る旅人 うちなびき らめやも いにしへおもふに
阿騎野あきのまで 狩りに来たのに 昔来た 草壁皇子みこ思い出し みな寝られへん》
                        ―柿本人麻呂―(巻一・四六)
ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉もみぢばの 過ぎにし君が 形見かたみとぞ
《ここ阿騎野 荒れ野やけども 草壁皇子みこさんが はかのうなった 追慕ついぼの場所や》
                         ―柿本人麻呂―(巻一・四七)
ひむかしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
《日が昇る 月沈んでく 西空に 草壁皇子みこの面影 浮かんで消える》
                         ―柿本人麻呂―(巻一・四八)
日並ひなみしの 皇子みこみことの 馬めて 御猟みかり立たしし 時はむか
《今はない 草壁皇子くさかべみこが 馬並べ 狩に出たんも いまこの時分》
                         ―柿本人麻呂―(巻一・四九)

軽皇子みこの成長をよそに 思うは草壁皇子のことばかり




<真木立つ荒山道>へ



<安騎野(一)>へ



<安騎野(二)>へ

歴史編(35)標結へ我が背

2009年07月03日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月29日】

おくて 恋ひつつあらずは かむ
             道の隈回くまみに しめ


【穂積皇子の参籠した崇福寺址の礎石】

りによって 赤兄あかえの血を引く 皇子おうじなどと」
高市皇子たけちのみこは 苛立いらだっていた

二十歳近く違う異母妹いもうと 但馬皇女たぢまのひめみこを 迎えたのは 皇女ひめみこが 母氷上郎女ひかみのいらつめを 亡くした時だ
がわりの八年 但馬は十五才になっていた
太政大臣・高市のもと 政務で 訪れる異母兄あに穂積皇子ほづみのみこに 皇女ひめみこは 恋の火をともした

高市たけち兄様にいさまが嫌っていても いいの わたしは)
秋の田の 穂向ほむきに寄れる 片寄かたよりに 君に寄りなな 言痛こちたくありとも
《なにやかや うるそう言われ つらいけど あんたに寄りたい 稲穂いなほみたいに》
                         ―但馬皇女―(巻二・一一四)

(しばらく 別にするか) 
穂積皇子に 天皇のちょくりた
近江朝鎮魂ちんこん供養での 志賀の山寺への参籠さんろうめい

(離されて たまるものですか) 
おくて 恋ひつつあらずは かむ 道の隈回くまみに しめ
《残されて 泣いてるよりは うて行く 通る道々 (追っ手止める)標縄しめ張れあんた》
                         ―但馬皇女―(巻二・一一五)

思わぬ後追いに 憤懣ふんまんやるかたない 高市たけち
皇女ひめみこを 離れの部屋に閉じ込める
(ここまで なさるか それでも・・・) 
人言ひとごとを しげ言痛こちたみ おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
《あんまりに やかましよって 心決め 一線越えた うちのせいちゃう》
                         ―但馬皇女―(巻二・一一六)

高市の憂慮ゆうりょをよそに 皇女ひめみこは 信じた道を行く



<志賀山寺址>へ

歴史編(36)雁に副ひて

2009年07月02日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月30日】

ことしげき 里に住まずは 今朝けさ鳴きし
             かりたぐひて なましものを

【吉隠への登り道】


和銅元年(708)の秋近い日 
但馬皇女たぢまのひめみこ訃報ふほうが届く
恋の火を燃やした日から 十三年が過ぎていた 

(いまさら 弔問ちょうもんにも 行けぬか
 それにしても あの情熱は すごかった 
 わしが 皇女ひめみこを避けたのは あながち 高市皇子たけちのみこを はばかっただけでは なかったのだ 
 監視をくぐり 忍んでくる  
 寄越よこす文は 日ごと夜ごと
 情念の文字がおどっていた
 が途絶え 安堵したのを 覚えている
 あれから 幾年月としつきか・・・)

その冬は 例年に無い冷え込み 
平城ならの都は 猛然たる吹雪に見舞われた
横なぐりの 雪を眺める 穂積皇子ほづみのみこ 
皇子みこの胸に 今更の思慕が 頭をもたげる
降る雪は あはには降りそ 吉隠よなばりの 猪養ゐかひの岡の 寒からまくに
《雪そない 降ったらあかん 猪養岡いかいおか あの人の墓 寒がるよって》
                         ―穂積皇子―(巻二・二〇三)

皇子に 人には言えぬ 思慕の芽が 膨らむ 
但馬皇女の 命日を迎えた日 
昔来た 皇女ひめみこからの 最期の文を 開いていた
今朝聞いた 雁の声が この文を 思い出させたのだ 
 情熱が静まり どこか あきらめの見える歌・・・)
ことしげき 里に住まずは 今朝けさ鳴きし かりたぐひて なましものを
《人の口 うるさい里捨て 今朝鳴いた 雁と一緒に てしまいたい》
                         ―但馬皇女―(巻八・一五一五)
(返し歌を 手向けてやらねば 
今朝けさ朝明あさけ かり聞きつ 春日山かすがやま 黄葉もみちにけらし わがこころいた
《雁の声 明け方聞いた 春日山 黄葉こうようしたんや 胸締めつける》
                         ―穂積皇子―(巻八・一五一三)
(あの人は もう居ないのだ 
 雁と一緒に行ってしまったのか 
 浅茅あさじの花と一緒に散ってしまったのか) 
秋萩は 咲くべくあるらし わが屋戸やどの 浅茅あさぢが花の 散りぬる見れば
《秋萩は もう咲くんやろ うちの庭 浅茅の花は 散って仕舞しもうた》
                         ―穂積皇子―(巻八・一五一四)
(どうして あの時・・・) 
皇子の胸に 甲斐なき悔悟の念 



<吉隠>へ

歴史編(37)舎人はまとふ

2009年07月01日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月31日】

埴安はにやすの 池のつつみの 隠沼こもりぬの 行方ゆくへを知らに 舎人とねりはまとふ

【埴安池の址 香具山中腹より】


壬申の乱  
高市皇子たけちのみこの 勇ましくも 雄々しい姿 それを思うたび  
皇子みこられた 香具山の宮をおおう悲しみ 
戸惑う舎人の嘆き 
人麻呂は 続けて詠う〈前半は「不破山越えて」〉 
・・・わご大君 皇子みこ御門みかど神宮かむみやよそひまつりて
使はしし 御門みかどの人も 白拷しろたへの 麻衣あさごろも

《(亡くなりはった)皇子おうじ御殿みやを 飾ってまつり  白装束しろしょうぞくの つかえの人は》
埴安はにやすの 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿ししじもの いしつつ
ぬばたまの ゆふへになれば 大殿を ふりけ見つつ うづらなす いひもとほり

日中ひなか一日 腹這はらばい伏して 夕べ来たなら いずり回る》
さもらへど さもらねば 春鳥はるとりの さまよひぬれば なげきも いまだ過ぎぬに
おもひも いまだきねば

《心うつろに 狼狽うろたえばかり 嘆きは消えず 思いも尽きず》
ことさへく 百済くだらの原ゆ 神葬かみはふはふりいませて 麻裳あさもよし 城上きのへの宮を 
常宮とこみやと 高くしまつりて 神ながら しづまりましぬ

《野辺の送りに 百済原くだらを通り 城上きのえ常宮とこみや 高々作り 御霊みたま鎮めと おまつり申す》
しかれども わご大君の 万代よるづよと 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや  あめの如 ふり放け見つつ 玉襷たまだすき かけてしのはむ かしこくありとも
まつりしつつも 万世よろずよまでと おもうて作った 香具山宮を
 いついつまでも 心に懸けて 皇子みこを偲んで 振り仰ぎ見ん》
                      ―柿本人麻呂―(巻二・一九九後半)

ひさかたの あめ知らしぬる 君ゆゑに 日月ひつきも知らに 恋ひ渡るかも
高市皇子たけちみこ 天昇られた おもうても 何日っても 諦めきれん》
                         ―柿本人麻呂―(巻二・二〇〇)
埴安はにやすの 池のつつみの 隠沼こもりぬの 行方ゆくへを知らに 舎人とねりはまとふ
《埴安の 池の淀んだ 水みたい お付きの舎人 行きどころない》
                         ―柿本人麻呂―(巻二・二〇一)
哭沢なきさわの 神社もり神酒みわすゑ 祷祈いのれども わご大君は 高日知らしぬ
《哭沢の 神さんの前 酒えて 祈ったけども 甲斐かいないこっちゃ》
                         ―桧隈女王ひのくまのおほきみ―(巻二・二〇二)

持統十年(696)七月のことであった 
人麻呂の 嘆きも 尽きない 



<埴安の池>へ



<哭沢の神社>へ

「万葉歌みじかものがたり」へのお誘い

2009年06月16日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月16日】

「万葉集」
それは、私にとって、生涯の伴侶となりつつある。
在りし日、犬養孝先生の講義に感銘を受け、犬養万葉の虜になってから、半世紀。
しかし、学究の徒とはならず、受け身での一観賞者に過ぎない日々を過ごしてきた。
また、その内容も、趣味の域を出ることなく、気の向いたとき、時間のあるとき、名著「万葉の旅」のページを繰り、時には、手に携えての故地散策程度のものであった。
しかし、このようなスタンスは、一変する。
きっかけは、「万葉の旅」記載故地三〇九ヶ所の完全踏破であった。
故地散策を重ねているうち、次第に募る「欲」に取り憑かれた。
記載故地の全てを訪ねてみたい。同じ場所に立ちたい。同じ写真を撮りたい。同じ角度・同じアングルで。出来ることなら、同じ季節の・・・。
探索は、始まった。故地の場所探し、ルート設定、列車便・バス便探し、僻地での宿探し。なかでも最大の苦労は、現地での撮影位置の特定。五十年近い歳月がもたらす、風土故地の変貌が待ち受けていた。困難極まる道筋ではあった。特に、運転免許なしの絶滅危惧種人間にとっては・・・。
しかし、計画・出発・道程・位置特定の喜び・帰路の充実感・事後の整理、これらの『わくわく』は、全ての困難を凌駕するに十分であった。
そして、完全踏破。
次に来たのは、達成感と虚脱感。
虚脱感を埋める、つぎの「欲」が、頭をもたげる。
「犬養孝揮毫歌碑の全探訪」。これは、もう麻薬だ。
最新除幕を合わせると、一三七基。
全探訪達成。またまた襲い来る虚脱感。
こうした虚脱感のなか、私は、犬養先生の功績に、改めての思いを馳せていた。
先生の数ある功績のなか、特筆すべきは、象牙の塔の中にあった「万葉集」を大衆一般のものとし、幾万とも知れない「万葉ファン」を誕生させたこと、これに尽きよう。
現在、万葉集の魅力を知らしめる活動に邁進している方々は大勢おられ、成果を挙げておられることも確かである。
それにも拘わらず、「万葉集」は、またも遠い存在になりつつあるのも現実である。
犬養先生が、鬼籍に入られた今、「犬養万葉ファン」も、高齢化の一途をたどりつつある。
一般の人々、特に若い世代の人たちに、万葉集が身近なものとして、その魅力を感じてもらう方法はないものであろうか。
切れかけた麻薬、禁断症状が出る前に、次なる「モルヒネ」を打たねばならない。
ふたつの思いが出会ったとき、「万葉歌みじかものがたり」の構想が生まれた。
万葉歌の訳をやろう。万葉集に収められた歌数は、四五〇〇首余り。全訳まで行くとすれば・・・。麻薬の効きは一生涯のものとなる。
さて、もう一方の課題のためには、何が必要か。
「万葉集を身近なものとして・・・」「身近なもの」「みじかなもの」・・・「短か・・・」
そうだ、短編の物語風にした歌解釈。これだ!
物語にすることで、歌の詠まれた状況・時代を見ることができる。そうすることで、歌の理解は深まり、身近なものとなる。
歌の現代訳では、関西風のニュアンスを織り込もう。何といっても、万葉時代の中心地は関西。関西言葉がスタンダードであったことに、疑いはない。訳が、関西風であることに、なんの躊躇がいろうか。いや、むしろ関西風が『歌ごころ』を伝えるに最適ではなかろうか。
加えて、訳は、彩(いろどり)のない散文訳でなく・・・。韻文調で・・・。
そこから見えてくる、古代日本の景色、風土、人としての喜び・悲しみ、恋のせつなさ・歓喜、愛の姿。
こうして、歌ごころ関西訳つきの「万葉歌みじかものがたり」は、誕生した。
評価のほどは、読者の皆様に委ねよう。
ただ、この麻薬、思わぬ副作用がある。
「原文」→「訳」と読んで、「原文」に目を戻してみると、
「あれあれ不思議、難しいと思った古典原文が味わい深さを伴って解(わか)るではないか」
「原文」を、文法・古語辞典・古典教養なしで、味わえる。こんな「訳文」があったであろうか。
しかも、これが古典の学習に繋がる。
「訳」→「原文」→「古語解釈」→「文法」と、スムースに進める。「枕ことば」「序ことば」の役目も分かる。名づけて『逆読み学習法』。
ともあれ、「万葉歌みじかものがたり」により、万葉時代の歌人(うたびと)が、何を、どのように感じ、歌にし、人間関係を形作っていたのかまでが、歌の理解と共に見えてくる。
『文法いらず、辞書いらず、素養もいらずに、分かる万葉』の門戸は、いま、あなたの前に開かれています。
初心の方、生徒さん、学生さん、愛好家、指導者の方、老若男女を問いません。
「一億人のための万葉集」に、ようこそ。
どうぞ、ズイと奥まで、お入りください。