豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ロビン・フォックス「生殖と世代継承」・その1

2024年02月24日 | 本と雑誌
 
 ロビン・フォックス/平野秀秋訳「生殖と世代継承」(法政大学出版局、2000年)を読んだ。
 第1部「生殖」は、第1章「一夫多妻の警察官事件」、第2章「子供を渡さない代理母の事件」、第2部「世代継承」は、第3章「乙女とゴッドファーザー」、第4章「姉妹の息子たちと猿のオジ」という全4章からなる。著者は人類学者らしい。ぼくの恩師だった先生は、アメリカでは法律家以外の、医師や看護師、社会学者、人類学者らが堂々の判例批評を執筆することを羨んでいたが、この著者もその一人であろう。 
 かなり以前に、いわゆるベビーM事件を扱った第2章だけは読んでいたが、それ以外の3章は今回初めて読んだ。モルモン教徒たちの一夫多妻制を擁護する第1章なども大へんに面白かったが、今回は「ベビーM事件」の復習から。

 第2章のベビーM事件も、忘却のかなたにあったが、第1審判決(およびその前段階としてベビーMの身柄を依頼者に引き渡すよう命じた暫定決定。ともにソルコフ判事による判断)の内容に改めて驚いた。著者は(とくに第1審の)判事が採用した「親としての国家(parens patriae)が親に代わって子の最善の
利益を保護する」という裁判所の権限、および「契約は履行されるべし」という法律上のルールに対して反対を表明する。
 著者は、代理母(ホワイトヘッド夫人)が、生まれた子Mを依頼者夫婦に引き渡すことができずにアメリカ中を逃げ回った行動に同情を示す。彼が依拠するのは、母親(実母)が妊娠中そして出産時に胎内の子との間に形成する「母と子の絆」に関する心理学的知見である。この「母と子の絆」論に従って、著者は母親という身分から子を奪うことは契約の対象にすることはできないし、インフォームド・コンセントの点からも本件代理母契約は無効であるという。生んだ子を奪われないという母の利益は子の利益でもあるともいう。

 著者はメイン「古代法」が唱えた「身分から契約へ」という法の近代化の図式にもかかわらず、子を産んだ母という「身分」は、「契約は履行されるべし」というルールに優先すべきであるといい、さらにニュージャージー州最高裁判所衡平部家庭部門が1947年に採用した「親としての国家(parenns patriae)」論は、国家が親族組織から子を養育する権限を剥奪する理論であると非難する。
 著者にとっては、近代法の「発展」は、国家が親族組織(家族や親も含まれる)から権限を簒奪して、国家の権限を強化する歴史だった。そもそも近代法は「個人主義」の名の下に、孤立した「個人」を国家と対峙させることによって、(国家にとって最大の敵対者であった)親族組織を弱体化させてきた。ロックら社会契約論者が想定した「個人の個人の間の契約による国家の設立」は歴史的事実ではなく、ホッブズが「自然状態では個人と個人の弱肉強食の闘争状態だった」というのも誤りで、実際の自然状態では「部族と部族の間の闘争状態だった」という。
 中学校の公民科以来、社会契約論になじみ、立憲民主主義を信奉してきたぼくにとってはショッキングな立論である。

 著者は、ベビーM事件の「M」は “money” の「M」であると揶揄した論者の意見を肯定的に紹介する。
 依頼人(スターン夫婦)の妻は実は不妊症ではなかったこと、夫はホロコーストから家族内で唯一生き残ったユダヤ人だったことも忘れていた。
 著者は、代理母であるホワイトヘッド夫婦の親としての不適切さとして裁判所が挙げた「不品行」の数々ーー夫の職業が清掃作業員であり、妻がかつてゴーゴー・ガールをしていたことや、夫婦が居所を転々として親族家庭に居候したり、パンダの大型の縫いぐるみを上の子に買い与えたこと(!)などーーを、労働者階級の文化として文化相対主義の立場から擁護する、というか少なくともマイナス材料として衡量することを批判する。

 代理母契約は、弱者である代理母を依頼人が搾取するものであるという批判は、代理母が臨床で実施され始めた当初はかなり強く主張されたが、その後は(日本以外の諸外国では)議論の主流ではなくなった感がある。「親族」組織の復権を唱えるらしい著者の立場からすると、不妊女性の母親や姉妹(オバや従姉妹なども)が代理母となる代理母契約はどういう評価になるのだろうか。親族間の代理母でも認められないのか、親族間なら認められるのか。
 著者は、金持ちは決して代理母になることはなく、貧乏人が依頼者になることも決してないとして、「搾取」論を補強していたが、親族間での代理母契約であれば、金持ちが代理母になり、貧乏人が依頼者になることもあるだろう。そもそも「無償」の代理母契約であれば認められるのだろうか。

 第1章の「一夫多妻制」、第3、4章の「世代継承」における「母の兄弟(=息子にとってのオジ)」の問題も、「目から鱗」の面白さがあったが、次回につづく。

 2024年2月24日 記
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