豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

マジョレット製 “カローラ・ランクス”

2008年09月30日 | クルマ&ミニカー
 
 ネット上で、カバヤのお菓子“ワールド・ラリーカー”というシリーズに、“トヨタ・カローラ(ランクス)”もあることを知ったのが、おとといの日曜日。
 さっそく近くの西友の地下食品売り場に行ってみたところ、“玩具菓子”というコーナーに5、6点売れ残っていたので、“トヨタ・カローラ・ランクス”と“シトロエン・クサラ”と“プジョー308”を買って帰った。

 売り場の棚に「商品入替えのため取扱い中止」という不吉な掲示があったのだが、帰宅後またネットを見ていたら、このシリーズは既に販売中止になっていて手に入らないとあった。
 そこで、昨日は仕事でいけなかったのだが、きょう仕事に出かける途中で、おとといの西友に立ち寄って、“玩具菓子”コーナーに行ったところ、何と“ワールド・ラリーカー”シリーズはなくなって、代わりに“リラックス くまさん”とかなんかとかいう女の子向けのお菓子が置かれていた。ショック!!

 ただし、このカバヤの“ワールド・ラリーカー”シリーズの箱には「対象年齢3才以上」と書かれているが、このミニカー、3歳児にはちょっと無理なのではないか・・・。“何とか熊さん”のほうがこのコーナーにはふさわしい。

 ということで、結局、ぼくが入手できたマジョレット製ミニカーは、上の3台だけになってしまった。“スバル・インプレッサ”、“フォード・フォーカス”などは「幻のミニカー」になってしまった。
 しかし、逆にいえば「商品入替え」のぎりぎりの所で、よくぞ“トヨタ・カローラ(ランクス)”をゲットできたものである。
 やっぱりランクスとは縁があるのだろう。

 * 写真は、カバヤ食品の“ワールド・ラリーカー”シリーズの“トヨタ・カローラ”(箱入り)。

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カバヤの “ワールド・ラリーカー”

2008年09月28日 | クルマ&ミニカー
 
 きのう小田部家正『カローラ物語』を読んでから、ネットで“カローラ”ないし“カローラ・ランクス”で検索に引っかかる項目をあれこれ眺めていたら、“カローラ・ランクス ラリーカー”について書いてあるというプログに出会った。

 ぼくにとっては、F1カーというのは到底“クルマ”の概念に入るとは思えないのだが(エンジンに車輪がついただけの走る機械である!)、WRCというのはいかにもクルマが町(村)を駆け抜けるようで大好きである。WRCのDVDも時おり借りてみている。

 そのラリーカーにカローラ(といってもヨーロッパではカローラのセダンは発売されておらず、カローラといえばランクスのことである)が参戦しているとは知らなかった。
 日本車といえば、スバル・インプレッサか、スズキ・スイフトではないか。

 で、そのプログに書かれている“カローラ・ランクス”のラリーカーというのは、実はミニチュアカーのことであった。「マジョレッタのカローラ・ラリーカーをゲットした!」と写真入りで誇らしげに書いてあった。

 “カローラ・ランクス”のミニカーとは聞き捨てならない。さっそくあれこれ関連するコトバをGoogleで検索して、ようやく理解した。
 スーパーなどで売っているカバヤ(懐かしい!)の玩具菓子(最近は「食玩」というらしい)に“マジョレット ラリーカー シリーズ”というのがあって、何種類かのラリーカーのミニカーが「おまけ」(といってもこっちの方が本体)で入っているらしい。

 散歩のよい目標ができた。
 きょう、さっそく昼食後に、この“カバヤ”のお菓子探しの旅(散歩)に出た。
 近所のスーパー4軒を全部まわってみることにした。1軒目は西友。休日の昼下がり、ガキどもでごった返している売り場で、子どもに頼まれたお菓子を探すオヤジを装いながら、カバヤを探す。
 
 あった!! 全然お菓子の体裁をなしていない。どう見たってパッケージ入りのミニカーである。5、6個しか残っていなかったが、しっかりとスポイラーにTOYOTAの文字が入った“カローラ”(ランクス)があった。1個325円(税込み)だった。
 展示棚には、「商品交替のためお取扱い中止」と掲示されている。
 いつなくなってしまうか分からないので、“シトロエン・クサラ”と“プジョー307”も合わせて買うことにした。

 箱を見ると、このシリーズには、“フォード・フォーカス”、“プジョー206”、“シトロエンC2”、“同C4”、“スバル・インプレッサ”などもあるらしい。
 実は、“プジョー307”は箱の外から覗いて“フォード・フォーカス”だと思って買ったのである。その程度の精巧さである。

 目的はほぼ達したのだが、せっかくの散歩なので当初の予定通り、ほかの3軒のスーパーも全部回った。2軒目と4軒目ではカバヤは扱ってなくて、3軒目では、“ラリーカー・シリーズ”ではない、パッケージも異なるカバヤのミニカー(食玩)が置いてあった。一般車に混じって、シトロエンのラリーカーもあった。
 次の散歩のインセンティブにするために、きょうは買わないで帰ってきた。

 ミニカーというものにはあまり興味もなく、むかし女房からもらったシトロエン2CVのミニカーと、ランクスが絶版になった時にカローラ店のなじみの営業さんに頼んで譲ってもらったカローラ・ランクスの店頭展示用のミニカー(結構大きい)くらいしか持っていないが、ネット上を遊泳してみると、世の中にはずい分ミニカー・ファンがいるようだ。
 職場近くの秋葉原には、京商という専門店のショップがあるらしい。一度授業の合間に散歩に出かけてみよう。
 
 
 * 写真は、カバヤ食品の“Kabaya Majorette Rally Car Series”の、トヨタ・カローラ(ランクス)、プジョー307、シトロエンXSARA(左から)。
 なぜか、ランクスとシトロエンは1/57なのに、プジョー307だけは1/58と刻印してある。プジョーを1/57にできなかった理由が何かあるのだろうか?

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『カローラ物語』

2008年09月28日 | 本と雑誌
 
 小田部家正著『カローラ物語--ベストセラーカー2000万台の軌跡』(光人社、1997年)を買った。

 著者および出版社には申し訳ないが、アマゾンの古書で(中途半端な値付けだが)なんと203円だった! 送料の方が高い(一律340円だが、実費は200円程度だろう)。
 幸福堂だか幸運堂という古本屋で(包装紙に書店名がないので分からなくなってしまった)、品質は「良い」とされていたが、届いた本は「非常に良い」といってよいレベルだった。

 さっそく、ぼくにはまったく理解できないエンジンの話などはすっ飛ばして、わが家のマイカーの歴史と重なりあう個所を中心に一気に読んだ。
 2つの点で面白かった。1つは、ぼくの過去を思い出したこと、もう1つは、いまだにカローラに乗っている理由らしきものが分かったことである。

 1950年に生まれた自分のこれまでの「歴史」をふり返るときは、標題に「戦後史」とか「同時代」とかいった言葉が含まれている本を読んできたが、これまでのところ、そんな標題の本はいずれも自分をふり返る契機にはならないことが多かった。
 ところが、以前にもふれた徳大寺有恒『ぼくの日本自動車史』や、小関和夫『国産二輪車物語』、そして今回の『カローラ物語』などは、これまで忘れかけていた日々を甦らせてくれるのである。

 わが家の最初のマイカーであるスバル360のあの2気筒のエンジン音や振動、前開きのドアの閉まり音の安っぽさ、スバル1000が納車されたときの室内空間の広さやエンジンン音の静粛さへの驚き、ドアの閉まり音の心地よさ、などなど。
 その後わが家のマイカーは、スバル1100、スバル・レオーネを経て、いつの間にかカローラに代わったのだが、それがいつだったのかまったく記憶にない。
 スバル時代とは違って、車の買い替えがそれほどの事件ではなくなっていたのだろう。

 何度も書くが、ぼくは現在乗っているカローラ・ランクスにほぼ満足している。しょっちゅう、フィアット・グランデ・プントがいいだの、シトロエンC3プリュリエル・チャールストンがいいだの、ゴルフⅥが気になる、ホンダのインサイトが気になるだのと書くのではあるが、ランクスから乗り換えようと決断するには至らない。

 『カローラ物語』を読んで、ぼくこそ真の“カローラ・マインド”を持った人間だと確信した。

 この本のなかに、昭和54年の第4代カローラの新聞広告が掲載されているが、そのキャッチ・コピーの1行目は、“長くつき合える人をいい友と呼ぶ”とある(189ページ)。
 カローラのセダンが数代、ランクスになって2代、まさにカローラの“いい友”の資格はあるだろう。

 きのう12か月点検を済ませて4年目に入ったわが2代目ランクスに乗って、神田に出かけた。土曜日でガラガラの新目白通りをランクスは新車に戻ったように快適に走った。
 「心配するな、そう簡単には乗り換えないから・・・」と“いい友”に話しかけてやりたい気分だった。

 「エコ替え」などと嘯いて買い替え需要を煽っている連中は、この本でも読んで少し自社の歴史をふり返ったほうがいいのではないだろうか。
 自分の作った物を4年や5年で買い替えさせようというのは、技術者という人たちにとって恥ずかしいことではないのだろうか。文科系の人間としては理解できないことである。

 * 写真は、小田部家正『カローラ物語』の表紙。古本なのに帯も破れずにしっかり巻かれていた。

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“メグレ警視 ローソク売り”

2008年09月27日 | テレビ&ポップス

 きょう、9月26日(金)の“メグレ警視”は、“ローソク売り”という変わった題名だった。

 おそらくテレビ・シリーズの“メグレ警視”は舞台を第2次大戦終了直後ということにしていると思われるが、そんな時期にフランスには“ローソク売り”などという職業があったのだろうか・・・。
 いくら戦争直後とはいえ、日常生活でローソクが使われることはもはやなかったのではないかと思うが、カトリックの儀式などに使われるので、そんな職業もあったのだろうか。

 原作は、またまた長島良三編『名探偵読本2 メグレ警視』(パシフィカ)によれば、“Vente a la bougie”、1939年の執筆である。邦訳は、少なくともこの『名探偵読本』が出版された1978年当時はなかった模様。この本にはストーリーの紹介も載っていない。

 どういう経緯でか、メグレが滞在する片田舎の安宿で、連続殺人(?)が起こる。滞在していた客たちは、みな、この宿の近所で競売にかけられた建物を競り落とそうとやって来た者たちである。
 彼らは、みなその競売建物の中には「宝物」があると信じているのだが・・・。

 解決までの数日間、宿の外はずっと雨が降り続いていた。
 足止めを食った客(容疑者)たちはトランプをして暇を潰しているのだが、食卓の上のローソクが消えるたびに人が死ぬ。メグレは風邪を引いていて、時にはベッドに横になりながら尋問をしたりもする。
 ラストシーンでは、グレン・ミラーのレコードが流れる。
 メグレものとしては、少し奇妙な味がした。

 * 写真は、FOX CRIME(247ch)“メグレ警視 ローソク売り”のタイトル。

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“メグレ警視 フィンランドの犯罪”

2008年09月25日 | テレビ&ポップス
 
 きょう(9月25日、木曜日)のFOX CRIME(247ch) “メグレ警視”は、“フィンランドの犯罪”という題名だった(テレビの原題名は“Maigret en Finlande”)。
 
 さっそく、長島良三編『名探偵読本2 メグレ警視』で調べたが、こういう題の作品はシムノンにはない。
 作品の梗概をみたところでは、どうも『オランダの犯罪』の翻案もののようである。宗左近訳『オランダの犯罪』(創元推理文庫、原題は“Un crime en Hholande”1931年)をみると、容疑者がフランスの大学教授であり、被害者や犯人の名前など、まさに『オランダの犯罪』の舞台をフィンランドに移しただけのものであった。

 何週間か前に見た『メグレと幽霊』も、原作の舞台はフランス(パリ18区!)だったのをフィンランドで起きた事件に仕立ててあった。
 日本の夕方のテレビでやっている推理小説が、京都だの金沢だの湯布院だのを舞台にしたご当地ドラマが多いのと同じように、“メグレ警視”もフランス人に観光した気分にさせるためか、放映されているフィンランド人の視聴者に配慮でもしたのだろうか。
 その割には、フィンランド警察の警視正は間抜けな役柄であったが・・・。

 きのう(9月24日)の放送は、“メグレ警視 霧の港”というやつ。これの原作は、シムノンの“La port des brumes”(1931年)だろう。

 2作とも小さな港町が舞台で、運河に浮かべたヨットの中でメグレものを執筆したという、いかにもシムノンらしい雰囲気の漂う作品だった。

 * 写真は、FOX CRIME(247ch)“メグレ警視 フィンランドの犯罪”のタイトル。

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ウィーン・フィル コンサート

2008年09月23日 | あれこれ
 
 9月16日(火)のこと。

 従弟から、ウィーン・フィルのコンサートに誘われた。予定していた相方に用事ができて急に行けなくなってしまったのだという。

 およそクラシックには縁がないのだが、従弟とは久しく会っておらず、この夏軽井沢で会うこともできなかったので、せっかくの機会と思ってサントリー・ホールに出かけてきた。
 こんなプラチナ・チケットを「猫に小判」のような感じで申し訳ないのだが・・・。

 午後6時30分、ホール入り口で待ち合わせ。

 プログラムは、ハイドン:交響曲67番(以下を省略してよいのかどうかも不明)と、ブルックナー:交響曲第2番(以下同)。
 音楽については論評する資格も能力もない。しかし、CDやレコードがいかに「臨場感」を強調しても、実際の音の再現などまったく不可能であることがよく分かった。
 「臨場」するのと、「臨場感」とはまったく別物であった。「臨場感」などというものはまったくCDやオーディオ機器の評価基準にならないのではないかと思った。

 座席は、2階席、ちょうど皇太子の座った席のほぼ対面。第一バイオリンの斜め後方から、演奏者を見下ろす位置。
 指揮者(リッカルド・ムーティ)があまり指揮者らしい振る舞いをしないのも好印象。ぼくの“クラシック嫌い”は、指揮者の振る舞いの気持ち悪さと、クラシック・ファンの“御託”の鬱陶しさに由来する所が大である。
 演奏者の立ち居振る舞いも興味深かった。

 そして、観客席の面々を眺めているのも面白かった。

 指揮者か演奏者の個人的ファンらしき女性が最前列で、うっとりとした表情で聞き入っていたり、何か不満でもあるのか、腕組みしてふんぞり返って拍手もしない男、巨漢のバス奏者が登場したら大喜びしているお兄さん、退場する指揮者が2階席に向かって手を振ったのに歓喜するオバサン・・・、などなど見ていて飽きなかった。

 パンフレットを読んで意外だったのは、9月18日のプログラムに、ニーノ・ロータ作曲の“トロンボーン協奏曲”ほかが入っていたこと。

 ぼくのような門外漢にとって、ニーノ・ロータといえば“ゴッド・ファーザー 愛のテーマ”の作曲者である。ところが、彼はクラシックの演奏家、作曲家としても若くから才能を認められ、ニューヨーク・タイムズ紙で「20世紀のモーツアルト」とさえ呼ばれたという。
 クラシック界の一部には、彼のことを「映画音楽人」と揶揄する者もいたらしいが、このパンフの執筆者は、彼のことを「あらたなシンプルさ」を追求した作曲者として評価している。
 こちらを聴いてみたいところだった。

  ・・・

 余談だが、ぼくの祖父は、1929年から1931年にかけてドイツに留学していたのだが、なぜか祖父のアルバムには、当時ウィーン・フィルの指揮者だったフルトベングラーと一緒に写った写真がある。
 写真の裏面に“1929年8月、市参事官室で”と書いてある。

 祖父はドイツ滞在中、克明な留学日記を残している。
 1929年8月は1日から29日まで連日日記を書いているが、ずっとベルリンに滞在していた様子で、ウィーンを訪問したとか、フルトベングラーと会ったということは、まったく書いてない。
 生前の祖父からフルトベングラーについてのエピソードを聞いたこともない。そもそも、祖父は映画や芝居が好きで、ドイツでも映画や芝居は結構見ていたようだが、音楽にはあまり興味がなかった。
  
 日記によると、友人がベルリンにやって来たり、日本の役人が視察に来た際に、通訳代わりにベルリン案内をさせられたりしたことがあったらしい。そんな関係でベルリン市庁舎を訪問したときに、偶然フルトベングラーと同席したのだろうか。
 この時期、内務省の「スパイ的」役人の案内をさせられたことや、日本の「資本家代表の顧問」という人物に1週間近く付き合わされたことなどが記してある。
 こんな地位の人物であれば、ベルリン市庁舎の参事官室を訪問したとしても不思議はない。

 * 写真は、おそらくベルリン市参事官室にて、祖父(中央)とフルトベングラー(向かって右側。なお、左側の人物は不明)。
 

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豆豆研究室の窓から その4

2008年09月23日 | あれこれ

 ついでに、もう一丁!

 さっきとほぼ同じ頃、新宿方面をズーム・アップしたもの。
 
 向かって左端の尖がった建物が、新宿駅南口のドコモ・タワー(何という名前か不明)。

 * 2008年9月22日(月)午後4時54分、豆豆研究室から西の空を眺める。

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豆豆研究室の窓から その3

2008年09月22日 | あれこれ
 
 それから約30分経過した頃の、同じ風景。

 研究室から、西の方、新宿方面を写したもの。

 30分経っているのに、かえってさっきより西の空が少し明るく(というほどでもないが)なっている。

 * 2008年9月22日午後4時53分頃の新宿方面の夕景色。

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豆豆研究室の窓から その2

2008年09月22日 | あれこれ
 
 ほぼ同じ時刻に西側の窓から写した、新宿方面の秋の空。
 
 まんなか辺の、へこんだあたりに新宿駅南口のドコモ・タワー(?)がわずかに見えているのだが・・・。

 東側はまだ空があんなに青かったのに、西側はご覧のように、すでに暮れなずんでいる。

 * 2008年9月22日午後4時24分頃の、豆豆研究室から眺めた新宿方面の秋の夕暮れ。

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豆豆研究室の窓から

2008年09月22日 | あれこれ
 
 きょう9月22日(月)から後期の授業開始。
 
 前期試験の追試の監督、採点が終わった8月11日から、ほぼ1か月の夏休みが終わった。休み中にも何度か大学には所用で出かけたが、学生のいない大学はひっそりとしていた。
 後期開始とともに、キャンパスは学生で埋まり、急に賑やかになった。やはり学生あっての大学である。

 毎年恒例の、研究室の窓から眺めた都心の秋空をアップしておく。
 いつもこの時期になると、下界はまだ暑さが残っている年でも、上空には秋の気配が漂っている。
 ことしは、きょうの午後4時23分から、4時53、4分にかけて、数枚撮ったので連続してアップする。
 最初の1枚だけが東側の窓からの風景、残りは西の窓からの風景である。
   
 こんな秋空を眺めていると、ヴィレッジ・シンガースの“バラ色の雲”を思い出す。
 “バラ色の雲と 思い出を抱いて
  ぼくは 行きたい 君のふるさとへ ♪”

 この曲、ひょっとするとブルー・コメッツだったかも・・・と心配になって、ネットで調べたら、ちゃんしヴッレッジ・シンガースで合ってました。
 ブルー・コメッツの“北国の二人”と記憶が混じっていたのですが、それもそのはず、両方とも橋本淳の作詞だった。
 
 * 写真は、豆豆研究室の東側の窓から眺めた2008年9月22日午後4時23分の空。

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マイケル・ムーア“シッコ(SiCKO)”と日産マーチ

2008年09月21日 | クルマ&ミニカー
 
 近所の中古車販売店に“アイリッシュクリーム”色の日産マーチ12Sが82.9万円で売りに出ている。
 マーチの“25th Anniversary edition”の“25th happiness”というやつである。

 プライバシー・ガラスなどいくつかオプションもついていて、新車価格124万円相当と表示してある。
 走行距離はわずか24km、車検は今年の3月から進行しているが、新車保証期間は残っている。
 なぜ、このような「未使用車」が新車価格の3分の2程度の値段で売りに出ているのか、ぼくにはまったく分からない。

 しかし、いずれにせよ、日産マーチの“アイリッシュクリーム”は好きである。
 もともとは、徳大寺先生が、『間違いだらけのクルマ選び』の何年版かで、このマーチの“ビーンズ”(以前はそんな色があった)のようなソリッド系はいいとほめていた。
 多分その影響だろうと思うが、マーチの外形にはこんな色が似合っている。

 そして、これもかつてマイケル・ムーア監督の“シッコ(SiCKO)”を見たときに、フランス人のお医者さんが、夜間の急患の往診に向かう時に乗っていたのが、白のマーチだった(現地では“マイクラ”)。
 日本人は、国産のコンパクトカーよりもプジョー207だの、ルノー・ルーテシアだの、そしてぼくのようにシトロエンC3だのを有り難がるが(「所有するよろこび?」)、このあごひげを蓄えた格好のいいフランス人医師が乗っている白のマーチは、パリの夜景に魅力的に映えていた。

 “シッコ(SiCKO)”では、悲惨なアメリカ医療の対極にある理想の医療として、フランス、カナダ、キューバが紹介されていたのだが、このフランス人医師は、24時間対応の“S.O.S.Medecins”という医療サービス組織に所属する医師だった。
 もともとこの組織は、あるお医者さんが深夜に配管トラブルに見舞われた際に、24時間体制の配管修理会社のお世話になったことをきっかけに、配管の修理が24時間体制なのに、医療サービスが24時間体制を組んでいないのはおかしいと考えて発足させたという。

 「夜中に子どもが泣きやまない」、「嘔吐がとまらない(大人の患者)」といった相談に応じて、この白いマーチで患者の家にかけつける。
 やっていることも格好いいが、そのお医者さんがマーチを選んで乗っているというのも格好いいではないか。
 助手席には巨漢のマイケル・ムーア監督が同乗しているが、窮屈そうではあるが、肩がぶつかったり、頭が天井に当たるということもない。
 
 自分に自信がある人にとっては、これで十分なのである。シトロエンC3 プリュリエル チャールストンを有り難がるというのは、ぼくが自分に自信がないからなのかも・・・。

 * 写真は、マイケル・ムーア監督の“シッコ(SiCKO)”(GAGA)から、夜間往診に向かうフランス人医師(とムーア監督)を乗せて夜のパリを走る白の日産マーチ。

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“メグレ間違う”

2008年09月20日 | テレビ&ポップス
 
 FOX CRIME(247ch)の“メグレ警視”シリーズは、見たり見なかったり、見たとしても途中からだったりして、何を見たのか不確かになってしまった。
 きょうも(9月20日、土曜)、夕食の後で、ふとチャンネルをFOX CRIME に合わせたら偶然“メグレ警視”をやっていた。見ているうちに、8月頃見た“メグレ間違う”(原題“Maigret se trompe”)であることを思い出したが、ボケているのかラスト・シーンが記憶になかった。

 メグレものには弱い立場にある犯罪者の側にメグレが身をおいて捜査を進める話と、犯人ではないとしても上流階級に対する嫌悪感をにじませた話があるが、今日の話は後者の典型であった。
 殺人の原因を作った大学教授が、殺人犯よりも悪人として描かれており、彼に対するメグレの嫌悪感が全編にみなぎっている。 

 ここ1か月前後で見たもののうち、これまでに書き込んでいないものを列挙しておく。 

 “メグレと口の固い証人たち”;原題は“Maigret et les Temoins Recalcitrans”(1958年)、邦訳は、長島良三訳『メグレと口の固い証人たち』河出書房、メグレ警視シリーズ6)
 “メグレ警視 判事の家”;原題は“La Maison du juge”,1939年、長島良三編『名探偵読本2 メグレ警視』パシフィカ、187頁によると、邦訳はないようだ。
 “メグレ、たてつく”;原題は“Maigret se defend”, 1964年、邦訳は、榊原晃三訳『メグレたてつく』(河出書房、同シリーズ9)。

 その他にも数本見たような気がするが、思い出せない。

 * 写真は、FOX CRIME(247ch)の“メグレと口の固い証人たち”から。
 このシリーズに登場するシトロエンやルノーのクラシック・カーは、たくさん使われているようで、実は数台の使い回しであるらしいことが最近になって分かってきた。今回の話に登場するこのカラフルな小型車は何という車種なのだろうか。
 色といい、サイズといい、ぼくの好きなタイプである。

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浅間サンライン “コスモス街道”

2008年09月20日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 9月9日(火)の軽井沢。

 天気がよいので、ドライブかたがたメルシャン美術館に行ったのだが、火曜日はあいにく休館日だった。

 追分の先で国道18号から分岐して、浅間サンラインを普賢山荘に向かう。
 その途中、道の両側には、早くもコスモスが花を咲かせていた。軽井沢を少し離れると、あちこちの道端にコスモスが咲いている。
 追分そば茶家の南側の道を借宿の交差点方向に向かう道端なども、コスモスだらけである。

 秋のサンラインのことも、かってに“コスモス街道”などと命名しているが、“コスモス街道”というのは、長野県のどこか違う地方に本当にあるらしい。

 国道18号の上の原交差点には、“日本ロマンチック街道”(!)などという標識も立っている。“日本ライン”があるくらいだから、“ロマンチック街道”があっても驚かないけれど・・・。

 * 写真は、浅間サンラインの車窓から眺めたコスモス畑(?)。

 2008/9/20

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きょうの浅間山 湯川橋から(2008年9月19日)

2008年09月19日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 さる9月9日の昼すぎ、国道18号の中軽井沢駅手前、町役場を過ぎて、湯川の橋にかかるあたりから撮った浅間山。

 夏場は全景を見られない日も多いが、さすがに軽井沢はもう秋。裾野まで稜線をはっきりと見ることができる。
 追分を過ぎ、御代田に近づくと、軽井沢から眺めるのとはまったく違って、西側(小諸・長野方面)に向かって、裾野が長く延びている。
 本体の浅間山がかえって小さく見える。

 やっぱりぼくとしては、浅間山、前掛山、石尊山があの比率で並んでいる風景が好きだ。中軽井沢駅前あたりや、軽井沢スケートセンターから眺める、見慣れた風景なので。

2008/9/19

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軽井沢のマッチ箱

2008年09月19日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 軽井沢の戸棚の引出しから、古いマッチがいくつか出てきた。

 もうマッチなどというものを使わなくなって久しいが、軽井沢に来るようになった当初は、風呂は薪で焚いていたし、バーベキューをするときも新聞紙にマッチで火をつけて、木炭でやっていた。

 今日ほど「禁煙」、「分煙」とうるさく言われていなかったので、名刺代わりにマッチを配る店も多かった。

 “やす幸”、“鰻弁慶”、“かぎもとや”、“若菜館”、“松之雪”、“ティファニー”(!)、“シャレー”などの名前が見える。あとから“竹葉亭”のも出てきた。
 すでに軽井沢から撤退してしまった店も多い。上田や千曲川沿いにドライブしたときのものもある。“ティファニー”、“シャレー”などはどこにあったのか、記憶も定かでない。

 2008/9/19

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