豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

琵琶湖周航の歌

2008年05月31日 | あれこれ
 
 連休頃から引いたり治ったり、また引き直したりの何度目かの風邪のせいで、昼夜逆転の生活。しかたなくラジオの深夜放送(+昼間の放送も)のご厄介になっている。

 さいわい昨夜(今早朝というべきか)は、いつもはつまらないNHKの“ラジオ深夜便”で時間がつぶれた。
 昨夜は、なぜかNHKの滋賀放送局からの放送で、いつものような抑揚のない台本棒読みの老アナウンサーの声ではなかった。そして、テーマも、いつものような素人の海外居住者がぼそぼそした声で語る冗漫でどうでもいい地元の話題ではなく、“琵琶湖周航の歌”の誕生にまつわるエピソードを紹介していた。

 “琵琶湖周航歌”--正式には“琵琶湖周航の歌”というらしいが、ぼくはなぜか“琵琶湖周航歌”と覚えている--は、ぼくの好きな歌の1つで、職場のカラオケ仲間の1人である京大出身の先輩が一緒のときは必ず歌う歌である。
 学生時代に、合宿先の宿屋の娘に恋をしながら、打ち明けることもなく別れていくというストーリーがいい。とくに、この先輩は60歳過ぎの現在まで独身なだけに、歌にも気持ちがこもっている。

 その“琵琶湖周航の歌”が、京大ボート部の歌であることは有名だが、昨夜のラジオ深夜便によってその誕生の仔細を知ることができた。
 語っていたのは元NHK滋賀支局のアナウンサーで、退職後に自分でこの歌のルーツを調べた人だった。すでに先達もあって、かなりのことは判明しており、この人自身の新発見がどの部分なのかは、よく分からなかったが、いずれにせよ、“琵琶湖周航の歌”の歌詞と曲の成立はわかった。

 作詞者は小口太郎さんという。京都大学のボート部員(水上部といっていた)で、ほかにも多数の寮歌を作った人らしい。諏訪の出身で現在の諏訪清陵高校から三高に進学した。この歌を作ったのは21歳の時だったが、26歳で亡くなっており、諏訪湖を見下ろす丘の上にお墓があるという。
 小口さんが作ったこの詩をきいたボート仲間が、当時知られていた“羊草”という曲に合うといって勝手に曲をつけてしまい、それが流通することになったのだが、小口さん自身はこの曲に不満で、親友あての葉書には、“寧良の都”のメロディーで歌いたいと書いてきたという。

 “琵琶湖周航の歌”の曲については、これまで、“真白き富士の嶺”模倣説、イングランド民謡“羊草”(羊草とは睡蓮のことだという)流用説など、いくつかの説が流布していたそうだが、その後になって、吉田千秋さんという人の作曲した“羊草”という曲の楽譜が発見されて、これであると決着したようだ。

 吉田さんの発見は、昨夜の語り手のラジオでの問い合わせがきっかけになったらしい。吉田さんは吉田東伍という新潟の在野歴史家の子孫で、その吉田東伍を研究する人がラジオを聞いていて、吉田東伍には「千秋」という子があることを知らせてくれたという。
 吉田千秋は、府立四中から東京農大に進んだが、肺結核のために中退し、24歳で亡くなったという。そして偶然に彼も21歳の時にこの“羊草”を作曲している。
 ラジオでは、“真白き富士の嶺”も“寧良の歌”もイングランド民謡の“羊草”もみんな流していたが、どの歌もどことなく曲調が似ている。しかし、現在流通している“琵琶湖周航の歌”のメロディーは間違いなく、吉田千秋さんの“羊草”である。 

 吉田さんという人も異能の人だったらしく、子どもの頃から個人雑誌を刊行して、方言の研究だの、(寝ぼけながらきいていたのではっきり記憶してないのだが)いろいろなことに関心を持っていた人だったらしい。
※ 吉田東伍さんは日本書紀の研究家としても業績を残した人らしい(坂本太郎ほか『日本書紀(5)』岩波文庫、1995年、611頁の解説を参照)。

 番組の最後に、京都大学合唱団がアカペラで歌う正調“琵琶湖周航の歌”が流れたが、何箇所かぼくが聞き知ったのとは違う所があった。加藤登紀子の歌い方で覚えたのだろうか。

 放送では語られていなかったが、小口さんも吉田さんも子孫を残すことなく世を去られた様子である。そうなると、ますます独身の我が先輩が歌う“琵琶湖周航の歌”とその悲恋には愛惜が感じられるだろう。
 ちなみに、同じくぼくの同僚の韓国語の先生(韓国出身の女性)で大変に熱い先生がいるが、彼女は日本の歌の中で、“真白き富士の嶺”が一番好きだといっていた。とくに、“小さき腕に 力も尽き果て 呼ぶ名は父母”の所は涙なしには歌えないという。彼女のことだから、涙とともに歌うだろう。

 * 写真は、歌ごえホール“炎”(京・四条河原町西)の歌集。奥付に昭和41年2月14日発行とあるから、ぼくが高校2年の修学旅行で京都に行ったときに入った歌声喫茶だろう。今もあるのだろうか。 

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有栖川公園(その2)

2008年05月27日 | あれこれ

 有栖川公園の広尾側出口から、あの亀のいる池の畔を振りかえると、池と木立ちの緑の向こうに背の高い塔と、その頂点に立つ金色のモニュメントが見えていた。

 笛を吹いている少年のようにも見えたが、あれは何だったのだろう?

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有栖川公園の亀

2008年05月26日 | あれこれ
 
 ついでに、おととい、有栖川公園の池で甲羅干しをしていた亀の写真もアップしておきます。

 有栖川公園の池の亀は、結構人気者らしく、“有栖川公園&亀”で検索すると、何件かヒットします。ぼくのと似たような写真つきのブログもありました。

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モディリアーニ展

2008年05月25日 | あれこれ
 
 無駄になってしまった“モディリアーニ展”の無料招待券。
 
 「もったいない」 
 船場吉兆の社長なら言うだろう。でも食べ物と違って人に害はないことだし、モディリアニ展に入れなかったおかげで、久しぶりに有栖川公園で森林浴をしたり、ぶらり東京バスの旅もできたのだから、いいじゃないか。

 賞味期限が迫っていたから、朝日新聞の集金のお兄さんは、4枚もくれたのだろう。

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星条旗通り--東京の坂道(第7回)

2008年05月24日 | 東京を歩く
 
 先月末の朝日新聞の集金のときに、集金のお兄さんから無料の招待券をもらっていたので、女房と“モディリアーニ”展に行ってきた。

 午後からは雨になるという予報だったので、9時半には家を出て、10時すぎに六本木の国立新美術館に到着。
 ところが入り口のもぎり嬢にチケットを渡すと、申し訳なさそうな顔をして、「この招待券でご入場になれるのは5月16日までです」と言う。本券のほうにはしっかり大きな文字で「2008年3月26日(水)~6月9日(月)」と書いてあるが、半券のほうには小さな文字で「5月16日(金)まで有効」と確かに書いてある。
 「割引券としてご利用になれますので、チケット売り場で入場券をお買い求めください」と言われた。期限切れの招待券でも1500円のところが1400円になるのだが、残念ながら、モジリアニは1400円払ってまで見たい画家ではない。タダだったからこそ、話のネタに見ておこうくらいの気持ちでやって来たのである。

 あのカマキリのようにひょろ長い首をして、土気色の憂鬱そうな表情の女性をお金を払ってまで見たいとは思わない。
 以前に、“モディリアーニ展”とタイアップしたNHKの番組で、モジリアニの絵を見た老ルノアールが、「あなたは絵を描いていて楽しいですか」と尋ねたというエピソードを紹介していた。
 ぼくもルノアールと同意見である。

 さて、せっかく六本木まで出てきたことだし、予報とちがって、やや湿気はあるものの五月晴れなので、六本木界隈を散歩することにした。

 新美術館まえの案内図を見ると、目の前の坂道が“星条旗通り”となっている。占領時代にマッカーサーが通ったのだろうか。この坂道を首都高に向かって下ることにする。
 道の右側は政策研究大学院大学の建物が屹立しているが、反対側の道沿いには大した建物もない。一体この坂道のどこが“星条旗通り”なのか、と訝しく思っていると、一軒の雑居ビルの通りに面した1階に、アメリカ古道具屋を見つけた。
 これが唯一の“星条旗”に関係ありそうな店だった。

 首都高下、六本木通りに出て、また道案内図を眺めて行き先を考える。そして有栖川公園を目ざして歩くことにする。

 六本木通りを横切って、“テレビ朝日通り”を西南方向に歩き出す。
 通りに面したところは、オープン・カフェなどが並んでいるが、通りの左側には古いお寺があったりして(われら夫婦の先祖の真言宗のお寺もあった)、路地を少し入ると古い平屋や二階建ての住宅も残っている。
 高台のせいもあって、意外に青空が開けている。同じ六本木でも、以前に歩いた芋洗坂だの饂飩坂だののように高層ビルの谷間を歩いている感じはない。
 六本木方面に下る坂道が何本かあったが、帰宅して、例の『タモリの東京坂道美学入門』で調べたが、“狸坂”以外は名前のない坂だった。

 中国大使館の辺りは、2、3日前に警備の警官が切りつけられる事件があったためか、いつも以上に厳重な警戒をしいている。
 一目で麻布中学生とわかる少年の一団が中国大使館脇の路地から出てきたので、麻布中学校、高校も見物しておくことにした。
 こんな立地なら、麻布高校出身の川本三郎が向田邦子の昭和の東京を論じたくなるのも理解できる。

 やがて左手に見えてくる、レンガ造りの3階建ての建物が愛育会病院である。レンガは新しくなっていたが、以前からくすんだレンガ造りだったように記憶する。

 ぼくの従弟は昭和28年2月27日に愛育会病院で生まれたが、付き添いのために上京した祖母までもが胃ケイレンを起こして入院してしまったので、ぼくの母は、妹(ぼくの叔母)と祖母を看病するハメになって、当時まだ2歳だったぼくを連れて、連日愛育会に通ったという。
 祖母の病状が少し回復してからは、ぼくはこの有栖川公園で祖母と遊んでいたという話を聞かされ続けてきた。まったく記憶はないが、「有栖川」というコトバは妙に印象に残っている。
 その従弟は後に麻布中学に進学したが、愛育会病院前にも、有栖川公園にも麻布中学生があふれていて、マックで100円マックを頬ばったり、カップ麺を持ちながら歩いたりしていた。

 愛育会病院の隣りが有栖川公園(正式名称は“有栖川宮記念公園”)。

 一歩足を踏み入れると、もう木々の香りが漂ってきて、まるで軽井沢のようである。木々が生い茂り、小川も流れている。こんな街中でせせらぎが聞こえる。さぞかし大量の“マイナス・イオン”を吸収できたことだろう。
 有栖川宮というのはどういう人物なのか知らないが、戦前の公家さんというのはなんとも広大な敷地の家を持ち、ずい分豪勢な生活を送っていたものである。
 ただし、出口(広尾側)近くにある池は水がよどんでいて、近づくと悪臭がしていて、がっかりである。

 その池の端で釣りをしていた日本人の子供たちに向かって、赤ん坊を抱いた外国人(白人)の男が、怒った顔をして、英語(らしき言葉)で大声で怒鳴りつけていた。「魚を釣るな」とでも言っていたのだろうか。
 子供たちも何を怒鳴られているのかわからず、きょとんとしながら無視して、釣り針に餌をつける作業を続けていた。頑張れ、ニッポン男児! 日本にいながら日本語も喋れないような外国人は無視してよろしい。
 不愉快なので睨みつけてやったら、睨み返された。
 今日の散歩コースでは、何人もの外国人を見かけたが、最近の東京に湧いている外国人は、どうも“外国人の品格”に欠けるような輩が多い気がする。 

 そんな人間どもの争いもどこ吹く風とばかりに、何十匹もの亀が首を伸ばし、重なりあって甲羅干しをしていた。

 外苑西通りに出て、たまたまやって来た新宿駅西口行きの都バスに乗って、外苑東通りを日赤下、青山墓地、青山一丁目、権田原、信濃町、四谷三丁目、四丁目と懐かしい街々を通って、帰宅した。

 心配した雨には降られなかった。

 * 写真は、“星条旗通り”坂の途中から国立新美術館方面を見上げた風景。 

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川本三郎『向田邦子と昭和の東京』

2008年05月18日 | 本と雑誌
 
 川本三郎は、『朝日のようにさわやかに--映画ランダム・ノート』(筑摩書房、1977年)以来、ぼくの好きな物書きの一人である。
 とくに、『シネマ裏通り』(1979年、冬樹社)や『町を歩いて映画のなかへ』(1982年、集英社)など、映画関係の随筆が好きだった。

 ぼくの通った中学校は杉並区西荻窪にあったが、昭和36年から39年当時の西荻駅北口、和菓子の“三原堂”の向かいには、「映画通り」だったか「シネマ通り」と呼ばれる路地があって、映画館が3軒並んでいた。
 川本は阿佐ヶ谷に住んでいて麻布高校に通っていたらしいが、確か、川本の本のどれかに、その“西荻映画通り”のことが書いてあったと思う。

 前にも“ノンちゃん雲に乗る”で触れたけれど、『シネマ裏通り』には三原葉子のことが書いてあって、同書の最後のページには、“1981.2.8(日)読了。春の訪れか、暖かい。12、3℃はありそう。谷ナオミと三原葉子とジャック・レモンのことがいい”と書き込みがしてある。
 そんなわけで、川本というと、なぜか“西荻映画通り”と三原堂と三原葉子のことが思いおこされる。

 一時期は、『走れナフタリン少年』(1981年、北宋社)から『雑(ザッツ)エンタテイメント』(1981年、学陽書房)に至るまで、せっせと買っては読んだものである。『雑(ザッツ)エンタテイメント』の巻末には、“1981.10.25(日)秋冷。雑だったな”などと書き込みがある。

 彼の書いている内容に全面的に同感というわけではなく、1980年に『同時代を生きる「気分」』(1977年、冬樹社)を読んだらしいが、そのときは、彼とはまったく「同時代」を生きていないと強く感じた記憶がある。

 先日、このコラムの豪徳寺ネタを読んだ友人から、川本の『向田邦子と昭和の東京』がいいよ、と薦められたので、さっそく買って読んだ。

 第一章「・・・懐かしい言葉」を読んだときは、まずいなと思った。
 ぼくが向田で一番嫌いなところを、川本は褒めているのだ。向田は、ぼくも好きな作家で結構読んだほうだが、あの「ご不浄」だの「シャボン」だのといった言葉が出てくるたびに、いつも引っかかってしまうのだ。
 ぼくの伯母も明治末年の東京生まれで、余丁町小学校から三輪田を出た“東京っ子”で、沢村貞子のような喋り方をする人だったが、あんなふうな言葉は使わなかった。
 
 あれは、向田がそれこそ「字引き」をひいて、無理やり「昭和の東京」風を気取っていたのではないだろうか。ちょうど『三丁目の夕日』を見たときに、次々に登場するゴテシチとした昭和30年代グッズの氾濫にウンザリしたのと同じ気分になってしまうのだ。

 しかし、その後はいい。とくに第五章「家族のなかの秘密と嘘」がいい。これこそが向田の小説の核心のような気がする。ぼくとしては、「昭和」でも「東京」でもなく、『家族のなかの秘密と嘘』だけで向田邦子を論じてほしかった。 
 川本は他の章では、向田の小説と彼女自身の人生を重ね合わせて論じているが、この第五章では、まったく彼女自身の家族のなかの「秘密」と「嘘」との照合をしていない。
 彼女は多くの家族の「秘密と嘘」を書いたが、何か書かなかったことがあるのではないだろうか。

 川本のこの本に触発されて、きょう小津安二郎の『麦秋』を安DVDで買ってきて見た。
 登場人物たちの言葉遣いは、ごく自然にぼくの耳に入ってきた。向田の「字引き」で引いたような言葉はまったくなかった。安心した。

 * 写真は、川本三郎『向田邦子と昭和の東京』(2008年、新潮新書)の表紙。

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“黄色い大地”

2008年05月05日 | 映画
 
 風邪を引いてしまった。
 眠いのだが、横になると咳と痰が出はじて止まらない。苦しいので、夜中に起きだして、DVDを見ることにした。

 夜中用に買いだめしてあるDVDで見ないまま残っているのは、“荒野の七人”と“自転車泥棒”の2作のみ。しかし、どちらも今の気持ちにあってない。

 そこで、中国で買ってきたDVDの山から、何となく“黄色い大地”(原題は“黄土地”)を見ることにした。主人公の女の子の表情が、“初恋の来た道”を思わせたせいだと思う。
 きのうは、香港だか海南島だかで、聖火リレーをするチャン・ツーイーの映像もテレビニュースで見たところだった。

 舞台は1939年の中国、陝西省。黄河流域の山中の荒れた土地でわずかな粟を作り、山羊を飼う貧しい農民一家(父と姉と弟)と、延安から土地の民謡を蒐集するためにやって来てこの家に泊めてもらう八路軍の若い兵隊の数日間を描いたもの。

 超ロング・ショットで、荒れた黄土色の山の稜線に、青空を背景に親子が牛に鋤を引かせながら歩いているシーンが印象的だった。
 撮影がチャン・イーモウだというから、“初恋の来た道”の、あの葬送のシーンなどと似た画面が時どき現れる。
 主人公の娘が、天秤棹を担いで5キロ離れた黄河に水を汲みに行くシーンも繰り返し描かれていたが、これはどうも撮影部分の数十歩しか歩いていない感じだった。
 NHKの「激流中国」などで描かれた現代の中国奥地の貧しい農民の姿のほうがよっぽど悲惨な印象を与える。

 主人公の娘は、父親の決めた男と結婚することになり、昔ながらの花嫁行列を連ねて、男の家に嫁いでい行く。
 しかし、やがて婚家を逃げ出し、兵隊から聞いた、「男も針仕事をし、水汲みもする」という八路軍に入隊すべく、黄河を渡っていく・・・。

 旧中国といわず、およそどこの地域でも、結婚は最初は売買婚だった。中国が革命後に最初に公布した法律も確か婚姻法だったはずである。
 かつて天津郊外の周恩来記念館に行ったとき、その1950年(1949年?)婚姻法の現物が展示してあった。

 内容的には重い映画なのだが、主人公の娘役の表情によって救われている。福原愛をさらに一回り大きくしたような、春川ますみのデビュー前のような(見たことないけど)女の子である。
 売買婚にもかかわらず、父親の娘に対する愛情も伝わってくる。娘が編んだ草鞋のような靴を娘の前では履くのだが、娘がいなくなると「裸足の方がいい」といって脱いで、腰にぶら下げて農作業をしていた。

 全編に流れる民謡は、申し訳ないことに騒々しくてかなわなかった。夜中の2時3時に見ていることを割り引いたとしても。
 地域の人々が心から歌う民謡を、八路軍が蒐集して歌詞まで変えて(毛沢東を礼賛する歌詞になっていた)踊りながら歌っているラスト近くの光景(農民たちの雨乞いのシーンと対比されていた)も、作者の意図が見え見えで興ざめである。

 娘が河を渡るところで終わらせるべきだった。1984年当時は、あんなラスト・シーンをつけないと上映できなかったのだろうか。

 いずれにしても、中国映画はいい。いかにも“中国映画”といった雰囲気がある。スカパーで見る中国のテレビ・ドラマはつまらなくて、映像も汚いものが多いのに、映画はいい。
 日本映画も外国人には、こんな風に映っているのだろうか。

 監督は、陳凱歌、撮影がチャン・イーモウ(張芸謀)。1984年製作の陳凱歌監督のデビュー作らしい。

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“ティファニーで朝食を”

2008年05月04日 | 映画
 
 夕方ラジオを聴いていたら、何かの番組で「“ゴールデン・ウィーク”という言葉は、連休に映画を見てもらおうと映画会社が思いついた造語だ」と話していた。
 そうだったのか。
 それだからと言うわけでもないのだが、昼すぎから“ティファニーで朝食を”をみた。思い出の映画という意味でも、ぼくの好きな映画という意味でも、ベスト・スリーに入る映画である。

 おしゃれな映画である。
 “sophisticate”という単語のニュアンスをぼくは正確には分からないのだが、“ティファニーで朝食を”のような作品をいうのだろう、と勝手に決めている。そういう意味での「おしゃれ」である。 
 まず題名がおしゃれである。登場人物のシチュエーションや会話もおしゃれである。有体に言ってしまえば売春婦とヒモ生活を送る売れない作家の恋愛物語である! なのに、おしゃれなのである。 
 オープニングの、あの早朝のティファニーのショウ・ウィンドウに黒いドレスのオードリー・ヘップバーンがタクシーでやって来て、パンをほおばるシーンもおしゃれである。

 ヘップバーンの衣装やヘアスタイルもおしゃれなのだろうが、ぼくはジョージ・ペパードのアイビー・ルックが好きだった。ヘップバーンの飼い猫がペパードの肩に飛びのる写真が、当時ぼくのおしゃれの教科書だった“Men's Club”に載っていた。
 ジョージ・ペパードは、細いニット・タイのずい分下のほうにタイピンをつけているのに気づいた。
 ぼくは高校生の頃にこの映画を見て、タイプライターで原稿を書く作家になりたいと思った。

 “wardrobe”なんて単語も、この映画でペパードのワードローブを見て、はじめて実感できた。高校時代に使っていた岩波英和辞典の“wardrobe”を引いてみると、「衣裳戸棚;所持の衣類の全部」という訳がついている。
 ペパードがパトロンの女と別れて出て行くシーンに写っているワードローブは、まさに衣裳戸棚にして、所持の衣類の全部であった。
 一番好きなシーンは、お菓子のオマケに入っていた指輪にティファニーでイニシャルを刻んでもらうシーン。
 原稿料の小切手50ドルと現金10ドルしか持たずにティファニーに出かけて、10ドル以内で買える物をたずねるのだが、あんな老店員が本当にティファニーにいるのだろうか。
 きょうは、ヘップバーンがテキサスに置き去りにしてきた夫と再開するシーンで、朴訥な夫がヘップバーンに向かって、「悪い物を食べているのだろう。まるで骨と皮だ」とつぶやくシーンがよかった。
 何でもないような秋のニューヨークの街角の風景も印象に残った。

 原作ではホリーはベルリッツに通ってポルトガル語の勉強をするのだが、映画ではリンガフォンか何かを聞いていた。
 ベルリッツは今でもあるようだが、リンガフォンはどうなってしまったのだろうか。
 ラストの雨の中で、一度は捨てた猫を探すシーンも、きょうは素直に受け入れることができた。最初に見たときは、アメリカ映画はなんでもハッピー・エンディングにしてしまうと反発したのだったが。
 原作のホリー・ゴライトリーは、アパートのドアに「ホリー・ゴライトリー、旅行中」という貼り紙を残して、ブラジルへ旅立ってしまうのだが・・・。

  原作にもまったく登場しない“ムーン・リバー”なんて主題歌を作ってしまうのだが、その歌詩も映画の画面や台詞にとけこんでいた。

 * 写真は、パラマウントDVDコレクション/ハッピー・ザ・ベスト“ティファニーで朝食を”(1500円)のケース。

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“真昼の決闘”

2008年05月03日 | 映画

 連休前に“真昼の決闘”をみた。

 これは何度か見た記憶があるので、後回しにしておいたのだが、久しぶりに見ると、やっぱり悪くない。

 何といっても、シンプルさがいい。

 冒頭のタイトルのレタリングもあっさりしていれば、タイトル・バックの風景もあっさりとモノクロームで描かれる。しかも、いきなり敵役の悪党の表情のアップから始まる!
 
 そしてディミトリー・ティオムキンのテーマ音楽“ハイ・ヌーン”も、大した編曲もなく、あっさりとした感じで全編にわたって流れつづけている。
 とても決闘映画の主題歌とは思えないのだが、保安官ゲーリー・クーパーの風貌にはぴったり合っている。

 ある日曜日、このやや年を食った保安官は、保安官を辞めて、敬虔なクェーカー教徒であるグレース・ケリーと結婚式を挙げる。そして、まさに新婚旅行に旅立とうとしている時に、かつて彼が投獄した悪党が仲間とともに復讐にやって来るというニュースが飛び込んで来た。

 町の人間は後難を恐れて、誰一人保安官に協力しない。ゲーリー・クーパーはただ1人で4人組みと立ち向かわなければならなくなってしまう。
 最後には、信仰から武器を持つことを拒んでいたグレース・ケリーが援護して、クーパーは最後の敵を撃ち殺す。
 
 結婚式のシーンから、決闘で最後の1人を倒すまでの約1時間を、映画でも1時間で描いたことが、フレッド・ジンネマン監督が行った西部劇演出の革命だったと水野晴郎氏の解説にある。
 “ロープ”のときは気づかなかったが、今回はしばしば時計が画面に映し出されるので、そのことはわかった。

 フレッド・ジンネマンというと、“日曜日には鼠を殺せ”を思い出す。あの映画では、モノクロームの濡れたような画面が印象的だった。
 今回の画面は乾いた印象だが、でもやっぱりモノクロームでなければ、あの西部の乾いた空気は描けないだろう。

 この映画を見てから数日間は、頭のなかで“ハイ・ヌーン”のメロディが流れつづけていた。

 * 写真は、キープ(KEEP)版“真昼の決闘”のケース。 

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