入試業務も前半戦が一段落したので、昨夜、久しぶりに映画を見た(ただしDVDで・・・)。
見たのはウィリアム・ワイラー監督の“黄昏”(1951年)。
昨年末に、ジェニファ・ジョーンズが亡くなったという記事を見かけたので、買っておいたDVDである。時代がもう少し現代に近いのかと思っていたが、19世紀末のシカゴというのが期待はずれだった。しかし、ぼくはジェニファ・ジョーンズという女優はあまり好きではないのだが、この映画の役はよかった。
最近見る映画は一本おきに「当たり」と「はずれ」にぶつかるが、今回は順番通り「当たり」だった。
原題は“Carrie”。
これだけだと何のことか分からないが、セオドア・ドライザーの小説『シスター・キャリー』の映画化である。
実はカバーの水野晴郎による解説を読まないで見はじめたのだが、ヒロインの貧しい娘キャリー(ジェニファ・ジョーンズ)が田舎からシカゴに出て来て、就職した縫製工場のミシンがずらっと一列に並び、女工たちがミシンをかけているシーンが小津安二郎“一人息子”の飯田蝶子が働いていた信州の製糸(?)工場のシーンに似ていたので、水野さんの解説を読み、原作が『シスター・キャリー』だということを知った。
『シスター・キャリー』は何年か前に岩波文庫に入ったが、「今さらドライザーでもないだろう・・・」という気がして読まなかった。映画で済ませることができて助かった。『アメリカの悲劇』は若いころに小説を読んでいて、2、3年前に映画で“陽のあたる場所”を見たので、だいたい原作と映画との距離はあんなものだろうと見当がつく。
そうと知ってもう一度見ると、ミシンのシーンは小津の“一人息子”にも似ているが、“陽のあたる場所”のシェリー・ウィンタースが働いていた水着の箱詰め作業工場のシーンにも似ている。
ストーリーは大したものではない。この田舎娘ジェニファの純真さに、妻子あるレストランの支配人(ローレンス・オリビエ)が恋をして、会社の金を盗んで二人でニューヨークに駆け落ちするのだが、追手に見つかり金は返さざるを得なくなったばかりか、オリビエは盗みの情報を流されたため就職もできなくなって落ちぶれて、ジェニファのもとを去ってゆく。
一方のジェニファは小劇場の女優として頭角をあらわすようになる。何年かの時が流れ、貧民街で死に瀕したオリビエは、大女優となったジェニファの楽屋を訪ねて小銭を無心する。ジェニファは二人でやり直そうといって身支度を始めるのだが、オリビエは、彼女が席を外したすきに彼女の財布から小銭を何枚か取り出し、楽屋から一人出ていく。
去り際に、オリビエは楽屋に置かれた姿見に映った自分の姿を一瞬見つめるのだが、このシーンはいらない。
とくに鏡に彼の正面が写っているのは興ざめである。おなじウィリアム・ワイラー監督の“ローマの休日”のラストはグレゴリー・ペックの後姿だけである。なんでローレンス・オリビエの表情を見せなければならなかったのか。
小津が言う「砂を噛まされた」シーンであった。
この書き込みのために、きょう改めてコマ送りしながら英語字幕で斜めに見直したが、ラストシーンの楽屋での二人の台詞の英語、とくにジェニファ・ジョーンズの台詞がよかった。
中学程度の文法でも分かる英語で、しかし気が利いていた。
“黄昏”も“陽のあたる場所”もともにセオドア・ドライザーの原作で、ともに1951年の公開である。マッカーシズムの時代に、よくぞこんなアメリカの格差社会を告発する映画が製作されたものである。
同じドライザー原作でも“陽のあたる場所”(ジョージ・スティーブンス監督)のほうは6部門でアカデミー賞を受賞しているが、“黄昏”は何も受賞しなかったようだ。しかし、キネマ旬報『アメリカ映画作品全集』の解説(日野康一と署名がある)は“黄昏”の脚本や主役二人の演技を激賞している。
* ウィリアム・ワイラー監督“黄昏”(1951年)。水野晴郎のDVDで観る世界名作映画(KEEP社)。
2011年2月15日 記