豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

またお休みにします。

2006年09月17日 | あれこれ
 
 いよいよ後期の授業が始まります。このページもしばらく開店休業になると思います。
 春休みに続いて、この夏休みも、軽井沢やクルマの思い出を勝手気ままに書きつらねて来ました。まだまだ草軽電鉄をはじめ今は“幻の”軽井沢のこと、カローラやVWポロのこと、懐かしいポップスのこと、などなど書きたいのですが、たぶん時間が取れないと思います。
 若い頃と違って、最近は、夏よりも秋の軽井沢のほうが好きになりました。空気は澄んで、空も雲も落葉松も浅間山もきれいだし、なんといっても人が少ないので落ち着きます。また、ドライブに行った時は、サンラインからの浅間山や眼下の千曲川の写真でもupしたいと思います。
 こんなページでも見てくださった方に感謝します。それでは。

 * 豆豆研究室の窓から眺める空の雲も、心なしか秋めいてきました。

(2006. 9.17)

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ヘレン・シャピロ

2006年09月10日 | テレビ&ポップス
 
 コニー・フランシスを載せたので、ついでに、ヘレン・シャピロのレコードも、ジャケットの写真といっしょに載せておこう。
 こちらは八木誠さんの解説から、1973年に発売されたレコードだということがわかる。東芝EMI(EOR-8168)となっている。「オリジナル・ロックン・ロール・シリーズ」の1枚で、このシリーズには、クリフ・リチャードやビーチ・ボーイズなどのアルバムも入っていたらしい。ちなみに、シリーズの監修者の1人に、あのニッポン放送社長というより、カメ&アンコウの亀淵昭信さんの名前もあった。
 解説によると、彼女がデビューするまでのイギリスの女性ボーカルのランキング(New Musical Express 誌)では、1位シャーリー・バッシー(“Gold finger ~”という声が聴こえてくる)、2位アルマ・コーガン、3位ぺトラ・クラーク(解説では“ペテュラ”となっているが)だったのが、1961年に彼女がデビューすると、1位へレン・シャピロ、2位シャーリー・バッシー、3位クレオ・レイン(この名前は知らない)という顔ぶれにかわったという。1962年も彼女が1位である。
 「子供じゃないの」、そして「悲しき片想い」はともに1961年のリリースである。ぼくは、もう少し後、たぶん1962年になってから弘田三枝子の日本語で最初に聴いたような気がする。いまへレン・シャピロの「悲しき片想い」を聴いても、“ウォー ウ ウォウ ウォー, オー イェー イ イェイ エー”という(歌詞カードによれば正確には“Wo wo wo oh yeh yeh yeh”だが)、あのヘレン・シャピロの声と弘田三枝子の声は似ている。弘田三枝子がカバーしたポップスって、今でも入手できるのだろうか。
 ということが気になって、「弘田三枝子」で検索したら、彼女のレコードのジャケットをupしているサイトに出会った。そして、ヘレン・シャピロをカバーしたシングル盤もちゃんと見つかった。何と「子供ぢゃないの 悲しき片想い」がカップリングされている。「ぢゃ」という表記にも驚いた。いくら40年以上前といったって、「ぢゃ」はないぢゃないか。
 ちなみに自分でも調べたら、“ジャパニーズ・グラフィティ 20”というシリーズの第2巻に「ルイジアナ・ママ 恋の片道切符」というのがあって、このなかに弘田三枝子の「ルイジアナ・ママ」や「悲しき片想い」も入っていた(「子供ぢゃないの」は入っていない)。もうひとつ“懐かしのポップス・ヒット”第1巻というのには、「悲しき片想い」、「子供じゃないの」が両方とも入っている。ちゃんと「子供じゃないの」という表記になっている。小野耕世編「60年代のカタログ」(主婦と生活社、1975年)260頁による。
 これらを見ていたら、また弘田三枝子のあの歌声が聴いてみたくなった。彼女は田辺製薬だか東京田辺だかの「アスパラ」という薬のCMソングを“アスパラでやりぬこう!”と元気よく歌っていた。駒沢学園か駒沢女子高か駒沢大学付属か、とにかく駒沢と名のつく女子高生だった。またしても欲しいものが1つ増えてしまった。しばらくは古本屋の店頭の古レコードに気をつけることにしよう。見つけたときの喜びを夢見て。どうもぼくには見つかるような気がする。 

 ただし、ここに書いたことも、実は1973年のカーペンターズ“Yesterday Once More”や、映画“アメリカン・グラフィティー”がヒットしたときの懐メロ便乗商法にのせられて、一回思い出さされた思い出の思い出かもしれない。ロックン・ロール・シリーズが1973年の発売らしいというのも、どうも怪しい。ヘレン・シャピロなんか、まさに“Every Sha-la-la-la, Every Wo-o-wo-o”だし・・。

(2006年 9月10日) 

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“雑音ラヂオのオールディーズ”

2006年09月09日 | テレビ&ポップス
 
 ぼくがもっとも頻繁に見ていたサイトに、“雑音ラヂオのオールディーズ”というのがある。
 1950年代から70年代(もっと最近の曲もあったかも)にかけての懐かしいポップスが聴けるサイトであった。「雑音ラヂオ」というくらいだから、おそらく古くからの熱心なポップス・ファンがラジオの音楽番組から録音しつづけてきたものを掲載しているのだろうと思っていた。世の中にはずいぶん熱心な人もいるのだなと感心しながら聴いていた。
 はじめて“雑音ラヂオ”に出会ったのは、2、3年前に、ホンダの軽自動車ライフのCMに竹内まりあの「ジョニー・エンジェル」が使われたときである。久しぶりにあの曲を聴いて、シェリー・フェブレーのもとの歌が聴きたくなり、検索したところこのサイトにめぐり合ったのである。当時は確か7000番台の訪問者だったように記憶する。
 とにかく収録された曲数の多いことにびっりした。「ジョニー・エンジェル」だけでなく、手元にレコードもテープも残っていないけれど、懐かしくて聴きたかった曲がほとんど入っていたのである。それ以来、“雑音ラヂオのオールディーズ”はぼくのジューク・ボックスになった。本を読んだり、原稿を書いたりするときはいつもBGM代わりにこれを聴いていた。
 やがてクルマの中でも聴きたくなって、気に入った曲をCDにダビングしようとしたが、ガードがかかっているらしく、できなかった。あれこれ試してみると、パソコンをわが家のコンポに接続すればカセットに録音できることが分かった。当時乗っていたポロにはカセットと後付けでCDチェンジゃーしか付いていなかった。早速ぼくは時間をかけて、“マイ・ベスト・アルバム”を作成した。
 懐かしのオールデイズものはカセット、CDが結構売られているが、自分にぴったりの選曲というのにはまったく出会わない。そればかりか、そういったアルバムの中には、たいてい自分の嫌いな曲が1曲や2曲入っていることも多いのであえて買う気になれないでいたところだった。
 ぼくの作ったカセットは、A面①ジョニー・エンジェル(シェリー・フェブレー)、②マイ・ホームタウン(ポール・アンカ)、③素敵な16歳(ニール・セダカ)、④素敵なタイミング(ジミー・ジョーンズ)、⑤ポケット・トランジスター(アルマ・コーガン)、⑥可愛いベイビー(コニー・フランシス)、⑦大人になりたい(〃)、⑧思い出の冬休み(〃)、⑨ベイビー・フェイス(ブライアン・ハイランド)、⑩ビキニのお嬢さん(〃)、⑪パイナップル・プリンセス(アネッツ)、⑫ルイジアナ・ママ(ジーン・ピットニー)、⑬サマー・ホリデイ(クリフ・リチャード)、B面①アンチェイント・メロディ(リアン・ライムス)、この胸のときめきを(ダスティ・スプリングフィールド)、②愛しのラナ(ヴェルベッツ)、③シェリー(フォー・シーズンズ)、④悲しき16歳(ケーシー・リンデン)、⑤けんかでデート(ポールとポーラ)、⑥すてきな新学期(〃)、⑦悲しき少年兵(ジョニー・ディアフィールド)、⑧悲しき足音(スティーブ・ローレンス)、⑨悲しき片想い(ヘレン・シャピロ)、⑩涙の口づけ(ブライアン・ハイランド)、⑪プリーズ・ミスターポストマン(マーベレイツ)、⑫悲しき雨音(カスケーズ)、⑬この世の果てまで(スキーター・デイビス)の26曲である。
 このほかにも、オゥ・プリティ・ウーマン、ダウン・タウン、太陽を探して、悲しき街角、悲しき天使、ワン・ボーイ、トゥ・ヤング、ヤング・ワールド、ターミー、ダニー・ボーイ、アイドルを探せ!、夢見る想い、などしょっちゅう聴いたけれど、録音しなかったものもある。
 録音した曲も全部もとの歌で記憶に残っているものばかりではない。ぼくたちの時代には、“ザ・ヒットパレード”で日本人の歌手が日本語で歌ってヒットした曲も少なくない。ぼくの一番最初の記憶にあるのも、1962年、中学1年生のときに、西荻窪駅北口の映画通り(当時は映画館が3軒並んでいた)入口の電柱につけられた商店街のスピーカーから流れていた中尾ミエの「可愛いベイビー」だったし、「ルイジアナ・ママ」は飯田久彦である。彼は豪徳寺の少し下高井戸寄り、まさに紅梅キャラメル本社の近くに住んでいて、ぼくの従兄と松沢中学校の同級生だった。他にも、弘田三枝子、田代みどり、田辺靖雄、尾藤イサオらの声が思い浮かんでしまう曲も少なくない。
 ところで、思い出すきっかけとなった竹内まりあのジョニー・エンジェルも入ったオールデイズのアルバム“ロングタイム・フェイバリット”は、あまりにも「竹内節」が強くて、残念ながらぼくの記憶のなかのオールデイズを壊してしまいそうなので1回しか聴かなかった。竹内まりあは「不思議なピーチパイ」以来ぼくの好きな歌手ではあるのだが・・。ちなみに彼女はぼくと同じ3月20日生れのはずである。ぼくより何歳も若いけれど。
 残念なことに、このカセットはもう手元にない。曲名を手書きした箱だけが残っている。実は、2年前の今頃ぼくは事故を起こし、(事故原因はいまだに納得していないのだが、とにかく)ポロは廃車としてしまったのである。買い替えたクルマ会社の人が廃車処理をしてくれたので、トランク内の荷物やこのカセットを回収するように頼んだのだが、彼はカセットを忘れてしまった。あのカセットは、修理されたポロと一緒に輸出されて、今頃は中東かロシアで聴かれているのだろうか。
 その後も“雑音ラヂオ”は成長を続け、曲数はどんどん増え、訪問者数も50万件近くなっていたと思うが、ここ半年くらい前から、聴ける曲は10曲くらいに制限され、好きな曲をいつでも聴けるというわけには行かなくなってしまった。きっと著作権の関係だと思う。当初ぼくはてっきりマニアが録音して集めたものを流していると思っていたのだが、音質がよいところを見ると、そうではなかったのかも知れない。最近はほとんどアクセスしていないが、どうなっているのだろうか。
 懐かしい曲たちは、ふたたび思い出のなかだけに封印されてしまった。

* 写真は、コニー・フランシスの“グレイテスト・ヒッツ”のジャケット(MGMレコードMM2057)。ジャケットなどに発売年月が記載してないので、いつ頃のレコードかは不明だが、POLYDOR K.K.JAPAN KI 7309 とあるのは1973年9月発売という意味だろうか・・。1980年頃までは、まだレコード屋に注文すれば取り寄せてくれていたと記憶する。
 なお、ジャケットの解説(鈴木道子氏)によると、1959年の「カラーに口紅」が彼女の日本でのヒット第1号で、1961年に映画「ボーイ・ハント」の主題歌(日本語版も吹き込んだそうだ。この曲も切ない感じが大好きだった)、「夢のデイト」、翌1962年3月に「大人になりたい」の日本語盤をヒットさせている。「大人になりたい」のB面が「可愛いベイビー」だったらしい(! “5へぇー”くらい)。いずれにしても、ぼくの中学1年生のときの記憶と年代的にぴったり合致している。

(2006年 9月 9日)

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推理小説とクルマ

2006年09月08日 | テレビ&ポップス
 
 最近ぼくが“はまっている”ものの1つは、スカイ・パーフェクト・テレビ(略してスカ・パー)で放映されている(いた)海外の推理ものである。とくに気に入っているのは、「フロスト警部」、「女警部ジュリー・レスコー」、「ダルグリッシュ警部」である。「刑事タガート」もまずまずである。
 もちろんストーリーも、低調な日本の地上波のテレビドラマなどよりはるかによく出来ているが、これらの番組に出てくるイギリスやフランスの郊外の風景と、それを背景に走りまわるクルマが様になっているのである。
 イギリスの刑事ものでは刑事たちの乗るフォードが、徳大寺氏にいわせれば“安物クルマ”なのかもしれないが、それでもやっぱりいい雰囲気を醸し出している。ちょうど刑事コロンボにあのおんぼろ車が似合っていたように。ジュリー・レスコーでは、警察の車はどれもプジョーだった。実際のフランス警察がプジョーなのかどうかは知らないが、ジュリー・レスコー警部はおそらくプジョー406だったと思う。イギリスの刑事たち、とくにフロストなどと比べると、はるかにソフィスティケイトされた警部なのである。それでも、フロストのフォード(?)も、レスコーのプショーも、どちらの車もその風景のなかにきわめて馴染んで見えるのである。
 これに対して、日本の推理もの、刑事ものには車は似合わない。柴田恭兵、舘ひろしが刑事で、舞台が横浜だったとしても、やっぱり日本の刑事ものに車は似合わない。それでは日本の刑事には何が似合うかというと、これは“聞き込み”と“張り込み”であろう。その名もずばり、松本清張原作の「張込み」という映画(野村芳太郎監督、1957年、松竹)は実に印象的な映画であった。今ではわずかしかその面影をとどめない昭和30年代の佐賀市を舞台に、そのほとんどの場面が大木実演じる刑事が犯人の立ち寄り先と思われる妻の家をのぞむアパートの一室で“張り込む”姿を描いたものである。日本の刑事には、車ではなく、張り込みこそよく似合っているように思う。
 どう頑張ってみても、日本の刑事ものに車が似合わないということは、結局は、日本の風景に車は似合わないということなのだろう。車は文化である。日本も車という道具は輸入し、受容したが、それは鹿鳴館と同じようなもので、日本の風景、とくに日本の道路に馴染むような文化の一部には、とうとうなれなかったのではないだろうか。

 話はかわるが、スカ・パーといえば、KBSワールドかSo-netチャンネルで放映されている韓国ドラマの「復活」と「ソウル1945」というのも面白い。「復活」のほうは、双子の兄弟が入れ替わったことが育ての親たちに気づかれないというリアリティのなさに目を瞑ればけっこうスリリングだし、「ソウル1945」のほうは、1945年という年が韓国(というか朝鮮半島の人たち)にとってどのような年だったのかということがよく理解できる。とにかく、いい韓国ドラマは最近の日本のテレビドラマと違って入念に作られている。
 最近のわが家では、ニュース以外はあまり日本の地上波テレビを見なくなってしまった。

 * 写真は、J・シムノンのメグレ警部ものの決定版だった「メグレ警視シリーズ」の第1巻「メグレと殺人者たち」(河出書房、1976年)。第1巻から表紙にシトロエン2CVが描かれている。他にも、第4、5巻などの表紙に2CVが登場する。水野良太郎氏の絵である。
 1969年、大学1年のぼくは第2外国語でフランス語を選択し、NHKラジオのフランス語講座を聞いていたが、当時のテキストの表紙と挿絵が水野氏のものだった。三保敬太郎氏の軽快な主題歌(?)とともに懐かしい。

(2006年 9月 8日) 

 ** きょう午後スカ・パーの“ミステリー・チャンネル728”で“女警部ジュリー・レスコー”第23話 幽霊の仕業というのをやっているのを観た。遊園地のシーンや長女が誕生祝にスクーターを買ってもらうシーンなど、前にも見たような気がする。 レスコー警部が乗っているプジョー(もっと後ではシルバーだったような気がするが、きょうのはブルー・グレーだった)のロゴがかすかに見えたのだが、405だったか、406だったか確認できなかった。わが家に絵葉書のある404でないことは確かだが。1997年製作とあったが、その頃は5だったのか、6だったのか。(9月9日追記)

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密室裁判か、テレビ裁判か

2006年09月07日 | あれこれ
 
 アメリカでは1978~79年開廷期が終わり、裁判所も夏休みだが、「タイム」誌の7月16日号に、興味深い裁判記事がいくつか載っているので紹介してみよう。
 1つは、本号のカバー・ストリーともなっていGannet Co. vs. DePasqualle事件。ニューヨークにおける元警官殺害事件の予備審問手続中、被疑者側の弁護人からDePasquale判事に対して、「不利な報道によって、依頼人の公正な審理を受ける機会が危険にさらされる」として、一般民衆と新聞を法廷から排除する要求が出された。訴追者側からの異議もなく、同判事はこの要求を認めて、彼らを退廷させた。このため退廷させられた新聞社側が、合衆国憲法修正6条の「あらゆる刑事訴追手続において、被訴追者は、迅速にして公開の裁判を受ける権利がある」、および同修正1条の「アクセス権」を根拠にして同判事の決定を争った。
 合衆国最高裁は5対4の僅差で「一般民衆は、修正6条の『公開の裁判』の保障を根拠として刑事裁判を傍聴する憲法上の権利はない」と判断した。スチュワート、バーガー、ポーウェル、レーンキスト、スティーブンスを代表して多数意見を書いたスチュワート判事は、開かれた裁判に対する社会の利害と、被告人の公正な裁判を受ける権利との較量に対する判断は他日に期すとした上で、「修正6条の『公開の裁判』の保障は、もっぱら刑事被告人にのみ属し、一般民衆はこの保障を受けない」と判示。また修正1条を根拠とする刑事裁判傍聴の権利も否定した。
 バーガー長官は同意意見の中で「本決定は予備審問手続にのみ適用される」としたが、レーンキスト判事は「当事者が選択すれば、いかなる手続においても、また理由の如何を問わず、自由に一般民衆および新聞を排除できるべきだ」と述べている。
 これに対してブラックマン判事は次のように反対意見を述べている。本件では何ら問題となるような報道は行われていなかった。沈黙の壁の向こう側では正義は生きることができない。「判事が一般人に退廷を命ずることができるのは、被告人の公正な裁判を受ける権利を確保するためにはどうしてもそうする必要があり、しかも退廷によって一般民衆を偏見にみちた情報から守ることができる場合に限られる」と。
 「タイム」誌は、「もし新聞が法廷から排除されていたら、ウォーターゲート事件は一体どうなっていただろうか」と、多数意見を批判する。またバーガー意見に対しても「刑事事件の90%は正式手続に至らない段階で処理されており、警察・検察による職権乱用の大部分も予備審問までの段階で行われているので十分な限定にならない」と反論している。
 
 もう1つの記事は、この最高裁決定とは反対に、審理の模様をテレビ中継することが認められたというお話。
 1978年1月にフロリダ州立大学の女子寮で起きた暴行殺人事件の審理を進めているフロリダ高裁は、この度、本件をテレビで生中継することを許可した。これは、予備審問手続を公開する必要はないという前述の最高裁決定にも抵触しないという。
 本件の被告バンディ(32歳)はワシントン大学を卒業後、ワシントン州知事再選委員会などに勤めたのち、74年にユタ大学ロー・スクールに入学。このユタで17歳の少女を誘拐したとして1~15年の刑を宣告され、服役中の77年に脱獄、今回の事件の直前にフロリダに移っていた。
 彼がユタ州へ移るとワシントン州での女性連続殺人事件はなくなり、ユタで同様の事件が続発、彼がコロラド滞在中には同地で女性が失踪している。警察は、バンディを4年間、4つの州にまたがる36件の女性殺害という史上最悪の事件の容疑者とみているが、被害者の体に残された歯型と目撃証言以外、訴追側にあるのは精況証拠ばかり。
 判決の行方が注目されるところだが、ただしバンディはたとえ本件が無罪になっても、すでに宣告された刑の他、殺人、重窃盗等の余罪があり自由の身になることはない、とのことである。

 * 写真は、このコラムに登場するシアトル、フロリダ連続殺人事件を扱った「週刊マーダー・ケースブック」1995年10月24日号(省心書房)の表紙。顔写真が犯人のテッド・バンディ。
 子ともの頃、軽井沢旧道の三笠書房で、犯罪現場の写真などが掲載されたアメリカの犯罪雑誌を立ち読みして恐い経験をしたのに、その後も性懲りもなく、牧逸馬だの、切り裂きジャックものだのといったこの手の本をついつい目にしてしまう。

(2006年9月7日。初出は、1979年9月)

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東京オリンピック--15歳の主張

2006年09月06日 | あれこれ
 
 何となく書きたいこと 

 つい2、3日前の新聞に、東京オリンピックを各国がどのように見たかという記事が掲載されていた。それによると、アメリカ、イギリスでは「親切のオリンピック」などとほめていたが、フランス、イタリアなどの国々では「観衆はまるで儀式を見ているようだ。日本人はスポーツに冷淡な国民だ」と批判していたそうだ。
 僕が気になったのは、もちろんフランス、イタリアの批判だ。はたして日本人はスポーツに冷淡な国民だろうか。そんなはずはない。チャスラフスカ選手は、日本旅行中にトラック一台分のおみやげを贈られたという。これは多少オーバーかもしれないが、真のオリンピック精神というものを日本人に教えてくれたセイロンの選手に、日本人形や山のような激励の手紙が送られたこともあった。品物が贈られたばかりではない。開催前から懸念されていた拍手も公平に送られていた。
 それでは、フランス、イタリアの言い分は誤っているのだろうか。確かに日本人はオリンピックに対して好意も示した。そのことはフランス、イタリアにもわかってもらえたろう。しかし、彼らにはそれ以上に、儀式的で堅苦しい日本人の印象が強かったのだと思う。例えば閉会式である。整列してて出てくるはずだった選手団がスクラムを組んで出てきたとき、ラジオのアナウンサーは、「アメリカの選手が見えます。ソ連も、ドイツも、そして日本の選手が」と放送していた。当然、日本の選手もいると思ったのだろう。しかし、日本選手団だけは、最後に八列縦隊になって出てきた。見ていた者もだれだって、各国選手たちと肩を組み、手を取りあって行進している日本選手のほうがよかったに違いない。
 決して日本人はスポーツに冷淡な国民ではない。しかし、堅苦しい一面があるためにこのような批判を受けるのは非常に残念なことである。堅苦しい人間が多い理由はいろいろあるだろうが、ぼくは、今の学校が少し生徒をおさえすぎることにあると思う。けれど戦争中に教育された人の多い先生方に、すぐに生徒を自由にしろと言っても無理だろう。それではだれがそういう気風を築いていくのか。それは、他ならない僕たちではないか。現在は、受験だ、何だで束縛されることが多いかもしれない。しかし、心の中にはいつもこういう考えをもって何事にものぞみたい。そして、そんな気風が日本にも確立したら、今度は僕たちの手でオリンピック大会を招き、僕たちの新日本を世界に示そう。

(2006年 9月 6日。初出は、1965年3月)

 * 当時15歳だったぼくが書いて、中学校の卒業文集に掲載された1965年の(!)東京オリンピックに対する「青(少)年の主張」 である。こんな文章を卒業文集に掲載してくれるほど、ぼくが在籍した中学校は自由だったのである。校歌には「自治の楽園 いま花開く」とあった。この中学校での3年間はぼくにとって人生最良の日々の1つであった。ちなみに、もう一度オリンピックを招きたいなどという気持ちは、今ではまったくない。招致の経済効果からオリンピックが論じられるなど、日本もオリンピックもあらぬ方向へ行ってしまったのだから。
 ** 写真は、「月刊朝日ソノラマ」1965年12月号(東京オリンピック特集号)の表紙。東京オリンピックの名場面の録音とともに、オリンピックの最中に起きたソ連のフルシチョフ首相の失脚のニュースも録音されている。

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ひまわり--映画で法学入門(第2回)

2006年09月05日 | 映画

 映画で法学入門--その2 

 “映画で法学入門”といっても、映画を観ているうちに知らずに法律学の入り口に到達できるなどといった便利な映画があるわけではないが、教科書に登場する法律問題の具体的な場面を映画によって体験してもらおうというのが今回の趣旨である。そして映画“ひまわり”(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1969年)を観ながら「失踪宣告の取消と重婚」という法律問題について考えてみよう。

 失踪宣告という法制度 
失踪宣告というのは、戦争や船舶の遭難などによって生死が不明となってしまった人に対して、いつまでも生死不明のままにしておくことは、その人の残した財産の管理や処分の点で、また残された配偶者の再婚など人生の点でも困難を招く場合が少なくないことから、一定の要件をみたした場合には家庭裁判所が失踪宣告を行い、(危難が去った時、つまり)戦闘が終結した時点や船舶が沈没した時点で死亡したものとみなす制度である。これによって失踪宣告を受けた者について相続が開始し、同人の財産を処分することが可能となり、その配偶者は再婚が可能となる(民法30条以下)。『司法統計年報』によると、毎年ほぼ2000件台の失踪宣告が行なわれている。

 “ひまわり”の二人はどうしたか
 映画“ひまわり”の舞台は第二次大戦末期のイタリア、主人公は、ソフィア・ローレン(妻)とマルチェロ・マストロヤンニ(夫)のイタリア人夫婦である。新婚早々のマルチェロはロシア戦線に出征し、雪の平原を敗走中に凍傷を負って取り残されてしまう。記憶を失った彼はやがて命を救ってくれたロシア人女性リュドミラ・サベリエヴァと結婚し、女の子が生まれる。イタリアのミラノでは、妻ソフィアが彼の生存を信じて帰りを待ちつづけている。わずかな情報を頼りにロシアまで夫探しの旅に出たソフィアは、夫が新しい家庭を営む家を見つける。そして新しい妻リュドミラに会い、彼女に案内されたロシアの片田舎の駅でついに汽車から降り立つ夫と再会する。その瞬間、夫の記憶がよみがえる。動き出した汽車に飛び乗ったソフィアは、座席につくなり泣き崩れる。車窓にはひまわり畑が地平線までつづいていて、ヘンリー・マンシーニのテーマ曲が流れる。
 しかし、話はこれで終わらない。かつての妻と再会した瞬間に記憶をよみがえらせたマルチェロはソフィアが忘れられなくなり、もはや愛されていないと悟ったリュドミラは身を引く決意をし、夫をイタリアに帰国させる。嵐の夜に夫はソフィアが住むミラノのアパートを訪れる。話をするだけと言っていたマルチェロだが、ソフィアと会うと「どこかへ行って二人で暮らそう」と迫る。そのとき隣の部屋で赤ん坊が泣く。今はソフィアにも新しい夫がおり、男の子が生まれていたのだ。そして、その子にはマルチェロと同じ名前がつけられていた。翌朝、ミラノ駅を出発する汽車のデッキにマルチェロは悄然として立ちすくみ、ホームで見送るソフィアの目に涙があふれる。

 失踪宣告の取消と再婚の効力
 ソフィアが再婚していることから、マルチェロは失踪宣告を受けたと思われる。失踪宣告を受けた者が実は生きていることが分かった場合には失踪宣告は取り消されることになっている(民法32条。イタリア民法がどうなっているのかは分からないが、日本の話だと思ってほしい)。しかし失踪宣告が取り消されても、失踪宣告以後その取消以前に善意で行った行為の効力は失踪宣告の取消によって影響されないという民法の規定がある(32条1項但し書)。「善意」というのは法律用語では「失踪者が生きているとは知らないで」という意味であり、その事情を知っていた場合を「悪意」という。再婚のような行為についてもこの民法の規定が適用されるかをめぐっては、学説の間でさまざまな議論がある。
 再婚の両当事者ともに失踪した前夫の生存を知らなかった場合にのみ再婚は有効とされ、前の婚姻は復活しないというのが通説であり、戸籍の実務もそのような扱いとなっている。この説によれば、“ひまわり”ではソフィアはマルチェロの生存を知っているから(悪意)、たとえ新しい夫がそのことを知らなかったとしてもソフィアの再婚は無効ということになろう。
 しかし、このような夫婦の愛情が絡んだ問題についてまで財産上の取引と同じ扱いをすることには無理があるとして、再婚夫婦が善意であろうと悪意であろうと、前の婚姻が復活するとともに再婚も有効で二つの婚姻は重婚状態となり、前の婚姻を離婚とするか再婚を取り消すかは当事者三人で話し合って解決するしかないという見解も昔から有力に唱えられている。“ひまわり”でいえば、ソフィアとマルチェロとの話し合いによって、かつての婚姻を復活させないことになったということだろうか。
 同じく当事者の善意・悪意は不問としつつ、このような場合は常に再婚だけが有効で前の婚姻は復活しないという説もある(学生諸君の間で広く読まれているという内田貴教授の『民法Ⅰ総則・物権総論』(東大出版会)など)。法制審議会が答申した婚姻法改正要綱(平成8年)もこの立場を立法化することを提案している。

 学生諸君の感想は
 私は自分が担当している1年生の講義の際にも、“ひまわり”を観た感想文を書いてもらった。受講生の9割以上の諸君がこの映画の結末を支持していた。圧倒的多数の学生がその理由として挙げたのが、ソフィアの新しい家庭にもマルチェロの新しい家庭にも子どもがいるということだった。この問題の解決に子どもの有無を考慮する主張は法律学者のなかには見当たらない。そもそも婚姻の効力は、子どもの存否とは関係なく決定されることになっているのである。しかし、私はこれらの感想文を読んで、学生諸君の健康さを感じたのであった。
 法律というのは紛争解決のための道具の一つにすぎない。有力な道具であることは確かだが、あくまで道具であって、法律家にとって本来の目標は紛争の解決である。何のために道具の使い方の修練を積んでいるのかを忘れてしまっては本末転倒である。「失踪宣告の取消と重婚」というテーマをめぐる学説の理解や記述にはつたなさも目についたが、ソフィア=マルチェロ夫妻の間に生じた紛争の望ましい解決策を彼らは正しく模索してくれたと私は思う。
 そして、愛されていないリュドミをマルチェロとの婚姻に縛りつけ、同じくソフィアの新しい夫を現在の婚姻に縛ることは、リュドミラやその子らにとっても不幸なことであるから、今でも愛し合っているソフィアとマルチェロとの婚姻が復活したほうがみんなにとってかえって幸せであるという、これもまた青年らしい感想が数通あったことも最後に指摘しておこう。

(2006年9月2日。初出は、2002年9月)

 * 写真は、「ひまわり」から、ソフィア・ローレンが夫と再会する直前のシーン。ようやく探し当てた夫(マルチェロ・マストロヤンニ)には、新しい妻(リュドミラ・サバリエヴァ)がいた(筈見有弘編「ソフィア・ローレン」芳賀書店、1975年より)。
 ** せっかく「ひまわり」の話なので、次の書き込みまでは、背景もひまわりにしておきます。

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ある愛の詩--映画で法学入門

2006年09月04日 | 映画
 
1 法律問題や裁判を扱った映画は結構あります。以下のリストは、今から約25年前(1976年)に僕が《法学セミナー》誌に執筆したコラムの抜粋です。

                    *
 
 純粋に法廷ものといえる映画は意外と少ない。O.プレミンジャーの「或る殺人」(59年)、B.ワイルダーの「情婦」(58年、原作はA.クリスティー)、H.ボガード主演の「暗黒への転落」(56年)、ヨーロッパ物では、弁護士の資格をもつA.カイヤットの3部作「洪水の前」(55年)、陪審批判の「裁きは終わりぬ」(54年)、「我々は殺人者だった」(日本未公開)など。同監督には女子学生の偽証心理を扱った「先生」(69年)もある。H.フォンダ主演の「12人の怒れる男」(59年)は陪審劇の傑作。S.クレーマーの「ケイン号の叛乱」(54年)、J.ロージーの「銃殺」(66年)、S.キューブリックの「突撃」(58年)などは軍法会議を扱う。クレーマー監督の「ニュールンベルグ裁判」(62年)も落とせない。
 E.カザンの「影なき殺人」(47年)や、「波止場」(54年)にも法廷シーンが見られた。
 冤罪(誤判)物も枚挙に暇がない。J.スチュアート主演の「出獄」(49年)、A.ヒチコックの「ダイヤルMを廻せ!」(54年)、「間違えられた男」(57年)、悪徳弁護士が絡む「6年目の疑惑」(61年)、サッコとバンゼッティ事件を描く「死刑台のメロディー」(72年)、S.へイワード主演の「私は死にたくない」(59年)などは冤罪を訴えた死刑囚の実話。C.ルルーシュの「愛と死と」(69年)も死刑制度がテーマ。「羅生門」の翻案物に「不時着」「暴行」(ともに64年)がある。ヒチコックの「私は告白する」(54年)は神父の証言拒絶権を扱う。
  「ドーバーの青い花」(64年)にも冤罪で服役した人間が出てくる。主演のH.ミルズもかわいかった。今ごろどうしているのだろう。
 親権をテーマとしたものに、S.へイワード主演の「愛よいづこへ」(64年)、「わかれ道」(65年)。P.ジェルミがイタリアの離婚法や慣習法を皮肉った喜劇に「イタリア式離婚狂想曲」(63年)、「誘惑されて棄てられて」(65年)。
 弁護士が主人公のストーリーには、ルルーシュの「流れ者」(71年。なんと弁護士が誘拐犯という設定)、G.ペックが善意の弁護士役を演じる「アラバマ物語」(63年)、刑事コロンボのP.フォークが弁護士役で登場した「泥棒がいっぱい」(66年)がある。
 法学部(ロー・スクール)の学生が主人公のものに、R.オニール主演の「ある愛の詩」(71年)、T.ボトムズ主演の「ペーパー・チェイス」(74年)がある(後者の原作者はハーバード・ロー・スクール出身の弁護士)。C.シャブロールの「いとこ同士」(59年)はフランスの法学部生が主役。 
 * 作品名の後の年代は日本公開年(19xx年) 
 
  2 ここまでは、1976年の記事です。これらの映画のうちいくつかは現在でもビデオやDVDが販売・レンタルされているので見ることができますが、残念ながら名画座などで見るしかないものも少なくありません。その後も法廷物の映画はたくさん作られましたが、僕があまり映画を見なくなってしまったので、フォーローできません。アト・ランダムに拾ってみると、J.フォスター主演の「告発の行方」はレイプ裁判を扱い、同じく「羊たちの沈黙」は心神喪失を装う殺人犯と対決する心理分析官を扱っています。報道による名誉毀損の被害を扱ったP.ニューマン主演の「悪意の不在」、同じくP.ニューマン主演の「評決」、R.デ・ニーロ主演の「真実の瞬間(とき)」、R.ギア主演の「真実の行方」、D.ムーアが陪審員を演ずる「陪審員」、リンドバーグ事件をモデルにした「判決」などが思い浮かびます。
 家族法の分野に関しては、離婚と親権を扱った「クレイマー・クレイマー」あたりが一番“法律的”でしょうか。25年前には日本映画をまったく扱っていなかったのですが、大岡昇平の原作を映画化した「事件」や、佐木隆三原作の「復讐するは我にあり」などといった“法廷もの”も出現しました。みなさんのおじいさん世代の日本の家族をテーマにしつづけた小津安二郎の諸作品も戦後日本の家族を考えるうえで必見です(「東京物語」その他)。
 * 最近では、野田進他『シネマで法学』(有斐閣)という本も出ています。

  3 さて、ここからが「映画で法学入門」ですが、はたしてそんなことが可能でしょうか。法律学の勉強というのは、結局は各法律の条文をよく読み、教科書などでその条文の意味を理解し、そして判例集などに当たってその条文がどのような事件の解決にどのような形で使われているのかを調べることを繰り返すしかありません。しかし、それだけでは法律家になることはできても、紛争の調停者、解決者になることはできないでしょう。世の中で起きるさまざまな事件のなかには、学生時代に条文を引き、教科書を読み、講義に出るだけの生活を送ってきた人には、とても太刀打ちできないものが少なくありません。
 人生は一回しか経験することができませんが、よくできた小説や映画は人生の経験を豊かなものにしてくれるでしょう。法律学の勉強に役に立つかどうかなどというケチな根性からではなく、ぜひたくさんの映画を観たり、小説を読んだりしてほしいものです。
 今回は、家族法のテーマのなかから、“婚約破棄の正当理由”を考える素材として『卒業』を、“失踪宣告と重婚”の問題を考えさせる『ひまわり』を、そして、アメリカのロー・スクール学生の勉強ぶりを垣間見ることができる『ある愛の詩』のさわりの部分を紹介しながら、みなさんが法律的な問題を考える素材を提供し、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
 (中略)
 考えてほしいことは、ごくわずかです。①婚約(=将来の結婚の約束)はどのような要件をみたせば成立するのか。そして、どのような理由がある場合に、どの段階に至るまでなら解消(破談)にすることができるのか(『卒業』)。②ついで、戦場で行方不明になった夫に対して国は死亡証明を出すが、ついに見つけ出した夫は異国の地で夫は他の女性と結婚していた、この夫婦は一体どうすればいいのだろうか(『ひまわり』)。③そして、たとえ難関の司法試験を目ざすロー・スクールの学生だって恋もするし、人を愛するのだということも、当然のことだけれど確認しておきましょう(『ある愛の詩』、『ペーパー・チェイス』)。
 
  4 ついでに、当時評論家たちの間で大変に評判の悪かった『ある愛の詩』を、めずらしくほめた河野多恵子さんの文章もつけておきました(昭和46年4月2日付け読売新聞文芸時評欄を参照)。昭和46年[1971年]という日付けに、われながら歳月の流れを感じてしまいます。ようするに、人が異性を愛する最初には必ず“純愛”という要素がある、しかし日々の生活は、男が“男らしく”、女が“女らしく”ありつづけることを困難にする状況に満ち満ちている、したがって私たちが日々“純愛”を貫きとおすことは難しいけれど、しかし日々の生活の中でたとえわずかだとしても、最初に二人の間に芽生えた“純愛”がきらめく一瞬がある。そのことを考えると、河野さんは人々が酷評する『ある愛の詩』を絵空事だとは思えないというのです。僕もそう信じたいのですが、どうでしょうか。

(2006年9月1日。初出は2002年 6月 5日)

 * 写真は、。「愛するって、けっして後悔しないこと・・」のセリフで有名な「ある愛の詩」から、セントラル・パークのスケート場でのデートのシーン。
 

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ホンダN360

2006年09月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 たびたびで恐縮だが、今回も徳大寺先生の引用から始めることにしたい。

 徳大寺氏の「ぼくの日本自動車史」(草思社)のホンダN360に関する評価のなかには、次のような一文がある。
 「大人4人が乗れ、エンジンはうるさいが、ガマンすればこのクルマで遠いところまで行けた。当時こいつで遠距離旅行をした若者はけっこう多いはずである(173~4頁)。

 この文章をきっかけに、大学2、3年頃に大学の友人3人で出かけた軽井沢へのドライブを思い出した。

 どうして徳大寺氏は、当時このクルマで遠出した「若者はけっこう多いはずである」などと決めつけた、しかし間違いなく現実であった文章を書くことができるのか不思議である。
 氏はクルマそれ自体だけでなく、よほどしっかりとその時代ごとの日本社会におけるそのクルマの位置を見きわめておられたのだろう。
 ぼくたちも、まさにその当時の若者たちの1人として、「こいつで遠距離(?)旅行」をしていたのである。

 時は(やや不確かだが)1970年から72年の秋である。ぼくは、大学の同級生3人で軽井沢への2、3泊のドライブを計画した。
 友人の1人が親父さんの会社の営業用の古くなったホンダN360なら2、3日持ち出してもよいというので、これを借りて、もう1人の友人と3人で秋の軽井沢に出かけた。

 当時東京-軽井沢間がクルマでどのくらいかかったのか、もう記憶にないが、3人で運転席、助手席、後部席と順番に交代しながら軽井沢に到達した。
 N360のサイズは、2995×1295×1345とあるから、現在の軽自動車などと比べてもかなり小さい。写真を見ると、自分の背丈と比べてもかなり小さな車であるが、しかし、友人だけで軽井沢に出かける楽しさを考えたら、クルマの狭さなど物の数ではなかったのだろう。狭かったという記憶はまったくない。
 
 これまた、徳大寺氏によれば、「日本ではスバル以降、FFの軽自動車でこれほどパッケージのすぐれたものはそう多くない」というから(173頁)、パッケージも悪くはなかったのだろう。
 狭さの記憶はないが、スピードは3人乗って90キロ出たことを鮮明に覚えている。急な下り坂でのN360での90キロは、遊園地のジェット・コースターのようで恐ろしかった。

 しかし、このドライブの一番の思い出は、このN360が中軽井沢駅近くで側溝に脱輪してしまったことである。
 ぼくたちは軽井沢に到着すると、まず中軽井沢駅前の「清水屋食堂」というところで昼食をとることにした。
 じつは、その前の年だったかの、軽井沢スケートセンターでのアイスホッケーの夏合宿の際に、この食堂で食事をしたことがあり、そのときに先輩の1人がこの食堂の娘さんか店員さんかに恋をしたということがあったので、その女性を見てみたいという気持ちもあった。(清水屋食堂の当時の娘さんか店員さん、もし見てたらごめんなさい。)

 店は、国道18号を中軽井沢駅前の交差点(あの桐万薬局さん)で右折して国道146号に曲がったすぐの左手にあったのだが、クルマを左に寄せすぎたため、左後輪が側溝にはまってしまったのである。
 どうしても抜けられないので、2人が降りて後ろから持ち上げて、押すことにした。今調べると、N360の車重はなんと475kgである。非力な2人の力でも車体は少し浮いた。そして、エンジンをふかすと後輪はみごとに側溝から抜けたのであるが、抜ける直前に「バギッ!!」というすごい音がして、なにやら謎の物体が後ろで押していた2人をかすめて飛んだのである。
 拾ってみると、それは幅20cm、長さ40cm、厚さ1cm弱ほどの鉄板だった。左後輪の下にもぐって調べてみると、そこには中学の技術家庭科の授業で習ったような、3枚の重ね板バネが付いていて、そのうちの一番短いやつが半分吹っ飛んでいた。
 最近のサスペンションはかなり気のきいたものになっているようだが、当時は(ショック・アブソーバーと呼んでいたが)ずいぶん簡単なものだったのである。 
 軽井沢の道路わきの側溝は、蓋がついて暗渠になっている所と、蓋がなく側溝がむき出しになっている所とが交互に出現する。おそらく、秋に落ち葉がたまったときの清掃の便宜のためだと思うが、このときの経験から、軽井沢の道でクルマを左に寄せるときは、つねに側溝に蓋があるかどうかに注意するようになった。この夏も側溝に脱輪して抜けなくなってしまった車に1回だけ出合った。 

 徳大寺氏の、見事に時代を言い当てた文章に触発されて、若かった頃のことを思い起こしたのだが、さて、当時ホンダN360でドライブを楽しんだ若者が、もし今の時代の若者だったらどんな車を選ぶのだろうか。
 学生時代だったら、親の車を借りるしかないが、サラリーマンになりたてで多少は自分の貯金があるというなら、おそらくマツダのロードスターの中古車あたりだろうか。
 上信自動車道などで私たちの車を追い越していく先代か先々代のロードスターに若者が2人で乗っているのを見ると(アベックは除く)、「ああ、昔のオレだ・・・」と懐かしい気持ちになる。
 徳大寺氏は、ジジイこそオープンカーに乗れと言うが、軽井沢でも時おり見かけるオープンカーのジジイは、なんかやっぱり無理を感じてしまうのである。本当はぼくも子どもたちが完全に独立して、4人で乗る必要がなくなってしまったら、ロードスターにも乗ってみたいのだが・・・。

 * 写真は、おそらく千ヶ滝のからまつの森あたりの一番標高の高ところで撮ったもの。当時はまだ落葉松が成長していなかったので(植えられてすらいなかったかもしれない)、浅間山がくっきりと見えている。

  2006/9/3

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三丁目の夕日--豪徳寺の場合は

2006年09月02日 | 玉電山下・豪徳寺
 今年の父の日に上の息子が「お父さんの時代の話だから・・」と「ALWAYS 三丁目の夕日」のDVDをプレゼントしてくれた。せっかくの息子には申し訳ないのだが、やっぱり違うのである。少なくとも、ぼくの世田谷、豪徳寺での昭和33年はあんなものではなかった。おそらく、同じ昭和33年、同じ東京といっても、上野駅近くの東京と世田谷、詐欺まがいの求人広告をうつ町工場とサラリーマンの家庭とでは、異なった経験があったのだろう。
 できることなら、東京中から昭和の風景の残っている場所を探し出して、オールロケでとって欲しかった。しかしセットで作られた背景は、サンシャインの「なんじゃタウン」に迷い込んだみたいだし、これでもかとばかりに使われている小道具類も「“昭和の懐かしグッズ”をかき集めてきました」みたいな感じなのである。たぶんああいう手法で昭和33年を描くことはもはや無理だったのだと思う。
 挿入された音楽もがっかりである。昭和33年で、夕日といったら、美空ひばり「花笠道中」や三橋美智也の「夕焼け空がまっかっか・・」(なんて曲名だったか?)は絶対に欠かせないはず。NHKラジオの尋ね人の時間だけでなく、民放で夕暮れ時にやっていた竹脇昌作のDJの独特の節回しも、昭和33年の豪徳寺、玉電山下のごちゃごちゃした商店街の思い出とともに聞こえてくる。日本信販提供だったが、「ニッポンシンパン」の「クーポン」って何だろう?と聞くたびに不思議だった。「アメリカン・グラフィティ」の昭和33年、東京版を期待したぼくには、BGMの点でも不満が残った。
 ただ1つ、リアリティがあったのは、吉岡秀隆が面倒をみるハメになったいわくありげな少年である。たしかに、昭和33年の豪徳寺にも、一体あの人たちはどういう関係なんだろう、どこから来て、何をしているのだろうという、わけあり気な家族がいた。そして、いつの間にか、「風の又三郎」か「時をかける少女」のように消えていってしまった。「三丁目~」でも、あの少年の出自など示さないでいてくれたほうがよかったのに、と思う。
 「三丁目~」は、やはり、西岸良平で読んだほうがいいだろう。ちなみに、ぼくが住んでいたのは、残念ながら、豪徳寺2丁目(ただし当時は「世田谷2ノ ~番地」と表記した)である。

 * 写真は、「ALWAYS 三丁目の夕日」DVDのカバー(山崎貴監督、小学館、2006年)。

(2006年 9月 2日)

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東京オリンピック--ハグベリ選手

2006年09月02日 | あれこれ
 
 東京オリンピック、といっても、2016年だかに立候補したという笑止な「東京オリンピック」のことではない。もちろん、1964年の正真正銘の、そしてぼくたちにとっては唯一の「東京オリンピック」のことである。

 「アン・クリスチネ・ハグベリ選手」を書いたときに、彼女の記録は「アサヒグラフ」の東京オリンピック特集号を見ればわかるのだが、あえて調べないで記憶のままに書いておくことにした。しかし、気になっていたので、この際と思って物置から引っ張り出して、埃を払って調べることにした。

 ところが、驚くことに、女子100M自由型決勝の結果を示す電光掲示板の写真が確かに載っていたように記憶していたのだが、誌面には載っていなかったのである。あるのは、「1位 ドン・フレーザー(豪)59.5秒(オリンピック新記録)、2位 シャロン・シュタウダー(米)59.9秒、3位 キャサリン・エリス(米)1分00秒8」というキャプションだけだった。

 ぼくの脳裏には鮮やかに電光掲示板の画面が残っている、しかも、6位の選手までは名前と国名と成績が読み上げられた音声まではっきり記憶されているところを見ると、どうもテレビで見た中継とアサヒグラフの記事とが混同したようである。
 ただし、ハグベリ選手が第7コースでスタート台から飛び込む瞬間の写真はしっかり確認できた。フォームは一番きれいだが、タイミングは、残念ながら他の選手より一瞬遅れているように見える。

 ハグベリ選手の記録は見つからなかったが、背が破れてボロボロになった「アサヒグラフ」をこれ以上壊れないように気をつけて眺めてみると、東ドイツの飛び込み(飛び板飛び込みとある)で優勝した超美人のエンゲル・クレーマー選手とか、いかにもアメリカ娘風で、ぼくは好きだったデュンケル選手といった面々と再会することができた。

 * 写真は、「アサヒグラフ」1964年11月1日(東京オリンピック増刊号)の表紙。先頭を走っているのは、前回のメルボルン・オリンピックの1500Mで優勝したロン・クラーク選手(豪)。

  2006/9/2

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エデンの東

2006年09月01日 | 映画
 
 『エデンの東』―― わたしのおすすめの本

 スタインベックの『エデンの東』を読んだのは、1964年、中学3年生の夏休みだった。その年がジェームス・ディーンの没後10年にあたることから、夏休みに彼の主演した映画『エデンの東』がリバイバル上映された。ぼくは彼のしぐさをまねて、女の子を見つめるときは、いったんあごを引いて伏し目がちにしてから、おもむろに上目遣いに見つめるなどしたものだった。効き目はまったくなかった。

 上下2冊、2段組で、上巻が334頁、下巻が402頁ある原作も一気に読んだ。受験勉強から逃げていたのかもしれないが、おそらくそのテーマに惹かれたのだと思う。『エデンの東』のテーマは、父と息子との葛藤である。厳格なキリスト者の父は、真面目な兄を愛し、母親に似た弟を疎(うと)む。兄弟の母は厳しすぎる夫のもとを去って、売春宿の経営者に身を落としているのだが、弟はこの秘密を兄に告げてしまう。衝撃を受けた兄は第1次大戦に志願兵として出征し、戦死する。その知らせを受けた父も脳溢血で倒れる。
 死の床に伏せった父に向かって、ディーン演ずる弟は涙ながらに「ぼくはお父さんに愛されたかった」と語りかける。映画のラスト・シーンでは、父は弟を赦(ゆる)してしまう。しかし原作の最後の1行は違う。父はただ一語、声をかけるだけである。

 「ティムシェル!」 
 彼は眼をとじ、そして眠った。 (野崎孝訳)
 「ティムシェル」とは古代ヘブライ語で「人は道を選ぶことができる」という意味である。赦す、赦さないといった問題ではない。父に愛されようとなかろうと、人は自分で道を選び、その道を歩いてゆくしかない。父が息子に言えることは「ティムシェル」しかないのだ。

 あの時以来、ディーンの立場に身をおいて思い浮かべる『エデンの東』だったが、いつの間にか、今度はぼく自身が息子に向かって「ティムシェル!」と語りかける順番になってしまった。

 [ジョン・スタインベック/野崎孝・大橋健三郎訳『エデンの東(上・下)』  (早川書房、1955年、絶版)。現在でもハヤカワ文庫ノヴェルズから4分冊で出ているが、勝呂忠装丁のカバーがかかった単行本のほうが「早川」らしくて、ぼくは好きだ。古本屋で探してほしい。]

(2006年9月1日。初出は2003年11月)

 * 写真は、映画「エデンの東」のサントラ盤も入ったソノシート(キングカラーレコード「映画音楽ゴールデンヒッツ」。他に、「禁じられた遊び」「第三の男」「鉄道員」が入っている)。

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Try to Remember

2006年09月01日 | あれこれ
 9月になったので、背景を元に戻します。アルプスの背景は、やや重いらしく開くのがワンテンポ遅れます。
 夏休みもあとわずかでお終いです。この2、3日これまでの「豆豆博士の研究室」への投稿を加筆したり、写真を添付したりしました。軽井沢関係の本、古い絵葉書や写真、モームの憧れたロージー嬢(?)の謎の面影などを付け加えてあります。
 よかったら、見てください。

(2006年 9月 1日)

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