豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

御茶ノ水を空中散歩(2024年2月27日)

2024年02月29日 | 東京を歩く
 
 2月27日(火曜日)、眼科の定期検査のため御茶ノ水へ出かける。
 風速10メートル近い北風が吹き、寒くて歩きにくい。

 冒頭の写真は、井上眼科の待合室から見下ろした御茶ノ水駅周辺。上から見下ろすと、こんな光景だったのか。
 真中よりやや下の方に中央線(総武線)と地下鉄丸ノ内線が通っていて、御茶ノ水駅に沿った神田川では駅舎の改修がまだ続いている。もう工事が始まって数年になると思うが、いつまで続くのか。
 向かって左側の橋が御茶ノ水橋、右側が聖橋。
 線路の向う側の高層ビルは東京医科歯科大学病院、その左側には順天堂病院が並ぶ。新しい建物に看板がかかっていたので、よく見てみると「順天堂大学大学院」とあった。
 右下に見える緑地は湯島聖堂。その昔息子たちが受験の際に初詣のお参りに行った。
 ※写真を間違えてアップしてしまい、湯島聖堂は写っていなかった。

 30歳の時に入院した日立病院は、聖橋を北上して湯島天神に向かう道沿いにあった。この写真に写っているのだろうか? 病院に向かう道の周辺はラブホテル街だった。
 ※同じく、この写真には写っていない。
 同じ病室には上野のソープでボイラーマンをしているという優しいおじいさんがいた。派手で明るいお姉さんたちが見舞いに来たりしたこともあったが、夜になると喘息で苦しそうに咳をしていた。
 ぼくの病気は一生付き合わなければならない病いと覚悟していたのだが、幸い2005年の春頃の増悪を最後に寛解状態となり、2020年に定年退職した後に、内視鏡検査をした医師から完治を宣言された。やっぱり社会的なストレスが原因だったのだろうか。しかし、今度は目である(泣)。

   

 検査と診察の間に1時間半も空き時間があったので、先に昼食をとることにした。外に出てみたものの風があまりに強かったので、同じビルの地下の食堂街で済ませることにした。
 10軒ほどが軒を連ねていたが、「肉の万世」に入ることにした(上の写真)。
 新聞で「万世」が閉店するという記事を読んだような気がしたので選んだのだが、あとで調べると、閉店するのは「肉の万世」秋葉原店だけだった。あの総武線の万世橋近くの車窓から特徴的な牛のイラストの看板が見えるあの店だろう。
 2、3人順番待ちがいたが、2分と待たずに案内され、ハンバーグと生姜焼き定食(下の写真)を注文すると、5分たらずで出来上がった。待っている間に、フォックス「生殖と世代継承」の解説を読もうと思ったが、1ページも読んだか読まないうちに注文の品が届いてしまった。

     

 食事を終えて、1時45分に診察室前に戻ると、予約時間前だったのに名前を呼ばれた。ここでもフォックスを読みそこなった。

 2024年2月27日 記

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ラジオ深夜便 星加ルミ子とビートルズ

2024年02月28日 | テレビ&ポップス
 
 一昨日(2月26日)のNHK「ラジオ深夜便」午前4時からのコーナーに星加ルミ子が出ていた。
 星加ルミ子は日本人で初めてビートルズとの単独インタビューに成功した音楽ジャーナリストとして有名だが、ぼくは1960年代の終わり頃に、どこかの民放テレビ局で毎週土曜日の午後にやっていた「スパーク・ショー」の司会というかDJとして覚えている。
 「スパーク・ショー」は森永製菓の提供で、星加と木崎義二ともう一人(大橋巨泉だったかも・・・)の3人で進行した音楽番組である。3人の進行役は、スタジオから少し高い「アップダウン・クイズ」の解答者席のようなところに座っていたように思う。フロアでは一般の来場者が曲に合わせてツイストなんかを踊っていた。
 「スパーク」というのはその頃森永から出ていた炭酸飲料「森永スパーク」から取ったのだろう。

 その星加が、ビートルズとの3回のインタビューの思い出を語っていた。
 彼女自身は、デビュー当初のビートルズをそれほど買っていなくて、アルバムが3枚くらい出た頃から評価するようになったという。その頃に所属雑誌社から派遣されてイギリスだかアメリカで最初に出会い、その後ビートルズ来日の折に同じホテル(赤坂東急だったか?)に宿泊するように指示されてインタビューし、最後に「フール・オン・ザ・ヒル」のレコーディング中の彼らにインタビューしたという。半睡状態で聞いていたので、正確かどうかは怪しい。
 
 彼女はジョン・レノンと同じ1940年生れで、ビートルズの200何曲かのうちでは「ヘイ・ジュード」が一番好きだと言っていた。これはぼくも同感。ただし、ぼくの場合は「ヘイ・ジュード」の曲の魅力だけではなかった。
 当時ぼくは信濃町にある出版社でサラリーマンをしていたのだが、時おり昼食を食べに行ったスナックにジューク・ボックスが置いてあった。100円でドーナツ盤を1曲か2曲聞くことができたのだが、「ヘイ・ジュード」は最後のリフレインが終わるまで8分以上かかる曲できわめてコスパ(?)がよかったので、しょっちゅうかけたのである。あの頃のヒット曲の中には2分30秒足らずで終わってしまう曲もあった。
 でも本当は、同世代だったそのスナックの女の子に「ぼくはヘイジュードが好きだ!」と訴えていたのかもしれない。

 デビュー当初のビートルズを好きでなかったという点でも、ぼくは彼女と同じである。
 ぼくが中学3年の時に「抱きしめたい」が日本でヒットした。クラスの中にエレキギターを学校に持ってきて弾いているのがいたけれど、その頃のぼくは、ジリオラ・チンクェッティ「夢見る想い」、ボビー・ソロ「頬にかかる涙」、シルビー・ヴァルタン「アイドルを探せ」や、キングストン・トリオ「花はどこへ行った」、PPM「500マイルも離れて」、ブラザーズ・フォア「七つの水仙」などなどが好きで、ビートルズは騒がしくて苦手だった。
 ただし、「抱きしめたい」は、これを聞くと中学3年の中学校のあれこれの光景や同級生のことが蘇ってくるので、今ではぼくの好きな曲の1つになっている、

 ぼくがビートルズを好きになったのは、いつ頃からだったのかはっきりとは記憶にないが、「イエスタデ―」や「ミッシェル」など落ち着いた曲がはやるようになった頃だったと思う。
 今でもぼくの「ビートルズ・ベスト5」は、「ヘイ・ジュード」「ヒア ゼア アンド エブリウエア」「アンド アイ ラブ ハー」「ロング アンド ワインディング ロード」「フール オン ザ ヒル」あたりである。
 唯一ぼくが持っているレコードも、「ラヴ・ソングス--ザ・ビートルズ31」(東芝EMI、1977年)というアルバムだけである(上の写真)。2枚組3600円で、英語の歌詞パンフレットと、解説の冊子がついている(下の写真)。

      

 “Love Songs -- The Beatles 31” という「このアルバムで、ザ・ビートルズはロック・バラードの美しさ、優しさをも鮮やかに証明している」とうプロデューサー(ジョージ・マーティン)の言葉が帯(?)に書いてある。
 このような変化が、ぼくをビートルズ好きにさせたのだろう。残念ながら、「ヘイ・ジュード」と「フール オン ザ ヒル」はこのアルバムには入っていなかった。

 このレコードについた解説の中には、星加ルミ子の解説もあって、ラジオ深夜便で語っていた彼女とビートルズとの交流も書いてある。彼女は「ミュージック・ライフ」という雑誌の編集者で、最初の出会いは1965年のロンドン、アビーロードのEMIスタジオで、最後は1970年のアメリカでの解散コンサートに同行した時だったという。出会いの場面など深夜便を聞いたぼくの記憶と少し違う所もあるが、彼女が日本で一番ビートルズと直接交流できた一人であったことはまちがいないだろう。

 2024年2月28日 記

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ロビン・フォックス「生殖と世代継承」・その2

2024年02月26日 | 本と雑誌
 
 ロビン・フォックス「生殖と世代継承」(法政大学出版局、2000年)、第2回で取り上げるのは、第1部第1章「一夫多妻のモルモン教徒の事件」について。

 一夫多妻を推奨するモルモン教の信者である警察官(ポッター)が、一夫多妻であることを理由にユタ州マレー市警を1982年に解雇されたため、解雇無効を訴えた(ポッター対マレー市事件)。
 アメリカ諸州では、1862年のモリル法から1887年のエドマンズ・タッカー法に至る一連の法律によって一夫多妻は違法とされてきた。ユタ州では、州に昇格する際の「ユタ州憲章」(1894年)の第1条で、宗教感情への寛容は認められるが、一夫多妻婚ないし複数婚は永久に禁止されると規定した。
 1820年代に東海岸で共同生活、共同農業を始め、最終的にはユタ州に集住することになったモルモン教の信者であるポッターは、モルモン教徒にとって一夫多妻は救済のために必要な宗教的信条であり、解雇は連邦憲法修正1条が保障する信教の自由およびプライバシー権を侵害する、一夫多妻を禁止するユタ州憲章も憲法に違反すると主張した。第1審のユタ州裁判所は即決裁判でポッターの訴えを却下し、連邦控訴裁判所も第1審を支持し、連邦最高裁判所は上訴を受理しなかった。

 ポッター事件判決を検討する前提として、著者が検討したレイノルズ対合衆国事件(1878年)連邦最高裁判決は、一夫多妻制は「良俗」違反であるという理由で、モルモン教徒の一夫多妻を禁止したモリル法を合憲とし、クリーブランド対合衆国事件(1946年)連邦最高裁判決は、一夫多妻はアジア・アフリカでのみ行われることで、西欧では「悪習」である(イギリスでは犯罪である)として、一夫多妻禁止を合憲とした。
 これらの判旨に対して、著者は西欧における一夫多妻(的な婚姻慣行)の実例を多数指摘して、連邦最高裁の「良俗違反」論、「悪習」論に反駁を加える。多数派のキリスト教会は、反セックスの立場から、教会によって聖別された結婚のみが唯一の合法的性交、生殖の手段であるとした。しかしこれも歴史的に一貫したものではなく、グレゴリウス帝が一夫一婦制を強制する600年頃までは、西方・北方民族においても一夫多妻制は「悪習」ではなかったし、その後も教会による禁止は実効性をもつことはなく、貴族や王家の間では複数婚は普通のことであり、複数の女性をもつ法王すら存在した(38頁)。
 一夫一婦制が強制されることになったのはメロヴィング朝の終焉に至った後のことである。キリスト教の一夫一婦制は、女性嫌悪、狂信的な独身主義、反セックスによるものであると著者はいう。イギリスでも、1603年にジェームズ1世が一夫多妻を犯罪化するまでは、(世俗のイギリス)国家は複数婚に関心がなく、教会裁判所の管轄に委ねていたが、1753年のハードウィック婚姻法によって教会は婚姻を完全に支配下に置くことになった。

 レイノルズ判決は、一夫多妻制は家父長制を助長し、独裁専制政治を招くというリーバー説(コロンビア大学教授!)を援用したが、過度の一夫一婦制をとるドイツにおいて独裁者ヒットラーが登場したように、一夫多妻制と独裁政治とは関係がないと反論する。 
 国家が教会とともに一夫一婦制を強制するようになったのは、国家は官僚を必要とし、教会は神職を必要とするが、彼らが(一夫多妻によって)親族集団を形成することを避けるためであったという。
 一夫一婦制の下でも、離婚が増加することによって子どもは両親から引き離され、継親との関係で苦労することになる。一夫一婦制の下で離婚と再婚を繰り返す夫婦は、「時系列的複数婚」と見ることができるし、移動性の高まりによってニューヨークに法的妻をもち、他州に複数の愛人をもつ(著者の知り合いの)弁護士の例などと複数婚的な関係も存在する。
 人類学的には、一夫多妻制のほうが一夫一婦制よりも安定的であったと著者はいう。安定化のための工夫として、複数の妻は原則として姉妹とする、複数の妻は別居するが財産は平等に共有する、複数妻の性的、経済的地位を平等とする、年長の妻に優位な地位を与え若い妻の魅力に対抗させるなどのルールが形成されている(53頁)。複数婚の際には、最初の妻に同意権を与えるとか、女性の婚姻年齢を下げる一方で男性の婚姻年齢を引き上げるなどの方策も書いてあった。
 一夫多妻制は、権力をもった男のための制度であるという批判に対して、著者は、それは一夫一婦制の下で権力のある男が複数性交できるのと同じであると反論する。

 次に、著者は、宗教上の行為に州政府が介入するためには、州は「止むを得ざる理由」が存在すること、すなわち「公共の福利が危険にさらされること」を証明しなければならないとしたウィスコンシン対ヨーダー事件連邦最高裁判決(1972年)などとの整合性を検討する。
 連邦憲法で認められた「結婚の権利」に干渉するためには、州には「絶対不可欠な理由」を示す「厳格な審査」が必要とされるとして(マイヤー対ネブラスカ、スキナー対オクラホマ判決)、ラビング対ヴァージニア判決は、白人と黒人との異人種結婚を禁じた州法を連邦憲法14条違反で違憲無効とした。
 ところが、ポッター事件判決は、「止むを得ざる理由」の審理に際しては近代社会において現に行われている習慣を考慮せよという主張を退け、一夫一婦制はわれわれの社会の中に不可分に組み込まれており、われわれの文化はこの制度の上に築かれている、結婚は家族および社会の基盤であり、この基本的価値に照らして、州は複数婚の禁止を強制し、一夫一婦制の結婚関係を擁護する止むを得ざる必要性があると(根拠を示すことなく)判示した(60頁)。 
 著者は、ユタ州が実際に一夫一婦制の基盤の上の成立しているという証拠は何も示されていないばかりか、離婚の容易化によって一夫一婦制による核家族の終焉に力を貸してきた立法や法廷のほうが、結婚の神聖さを主張する一夫多妻制の擁護者より、「われわれの文化の基盤」に対してよほど深刻な打撃を与えていると批判する(66頁)。

 最後に著者は、一夫一婦制は「自然」であるとの主張を反駁する。
 戦争などによって男女の性比が不均衡になった場合、多くの女性は夫をもてず、女児殺しが増え、独身のままでいるか、売春婦、尼僧になるといった現象が発生するのに対して、一夫多妻制ではすべての女性に家庭と家族を約束できた(一夫多妻のほうが「自然」であった)という議論も可能であるという。モルモン教が一夫多妻制を採用したのも、発足当初は女性信者が男性信者より2000人も多かったからだったという。
 そして一夫多妻のモルモン教徒の養子縁組に関する判例において、変化の兆しが現われていることなどを指摘して本章は終わる。

 ぼくたちは、一夫一婦制の陰に隠れて行われてきた一夫多妻的な現実から目をそらしてはいないだろうか。一夫一婦制を規定したわが明治民法の下でも一夫多妻的な妾を抱えた既婚男性の実例は500例以上紹介されている(黒岩涙香「畜妾の実例」社会思想社)。一夫多妻制を支持するかどうかはともかく、一夫多妻制は検討の余地のない「悪習」であるとか、一夫一婦制でさえあれば無条件で一夫多妻制に優越すると主張するのがはばかられる程度には説得的な論旨であった。
 モルモン教の一夫多妻制は、最近の離婚に許容的な一夫一婦制の婚姻よりはるかに「結婚の神聖」を重視しており、信仰に無縁のぼくなどは世俗化の極点に近づきつつある最近の一夫一婦婚のほうが気楽そうで親近感を覚えるくらいである。

 2024年2月26日 記

 ※なお、第2部「世代継承」の主たるテーマである「母方のオジ」の親族関係上の地位は、著者によればインセスト(近親相姦)禁止よりも人類学上重要なテーマであるというが、ぼくの理解をこえるので省略する。ただ、ここでも著者は、国家法による広範囲に及ぶ近親婚禁止は、近親婚によって親族集団が強大化することを国家が恐れたからであると指摘して、近親婚禁止も「国家と親族集団との戦い」の一端であると指摘していることを紹介しておこう。著者によれば、個人主義の(個人の)ほうが国家にとっては親族集団よりも与しやすいというのである。

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ロビン・フォックス「生殖と世代継承」・その1

2024年02月24日 | 本と雑誌
 
 ロビン・フォックス/平野秀秋訳「生殖と世代継承」(法政大学出版局、2000年)を読んだ。
 第1部「生殖」は、第1章「一夫多妻の警察官事件」、第2章「子供を渡さない代理母の事件」、第2部「世代継承」は、第3章「乙女とゴッドファーザー」、第4章「姉妹の息子たちと猿のオジ」という全4章からなる。著者は人類学者らしい。ぼくの恩師だった先生は、アメリカでは法律家以外の、医師や看護師、社会学者、人類学者らが堂々の判例批評を執筆することを羨んでいたが、この著者もその一人であろう。 
 かなり以前に、いわゆるベビーM事件を扱った第2章だけは読んでいたが、それ以外の3章は今回初めて読んだ。モルモン教徒たちの一夫多妻制を擁護する第1章なども大へんに面白かったが、今回は「ベビーM事件」の復習から。

 第2章のベビーM事件も、忘却のかなたにあったが、第1審判決(およびその前段階としてベビーMの身柄を依頼者に引き渡すよう命じた暫定決定。ともにソルコフ判事による判断)の内容に改めて驚いた。著者は(とくに第1審の)判事が採用した「親としての国家(parens patriae)が親に代わって子の最善の
利益を保護する」という裁判所の権限、および「契約は履行されるべし」という法律上のルールに対して反対を表明する。
 著者は、代理母(ホワイトヘッド夫人)が、生まれた子Mを依頼者夫婦に引き渡すことができずにアメリカ中を逃げ回った行動に同情を示す。彼が依拠するのは、母親(実母)が妊娠中そして出産時に胎内の子との間に形成する「母と子の絆」に関する心理学的知見である。この「母と子の絆」論に従って、著者は母親という身分から子を奪うことは契約の対象にすることはできないし、インフォームド・コンセントの点からも本件代理母契約は無効であるという。生んだ子を奪われないという母の利益は子の利益でもあるともいう。

 著者はメイン「古代法」が唱えた「身分から契約へ」という法の近代化の図式にもかかわらず、子を産んだ母という「身分」は、「契約は履行されるべし」というルールに優先すべきであるといい、さらにニュージャージー州最高裁判所衡平部家庭部門が1947年に採用した「親としての国家(parenns patriae)」論は、国家が親族組織から子を養育する権限を剥奪する理論であると非難する。
 著者にとっては、近代法の「発展」は、国家が親族組織(家族や親も含まれる)から権限を簒奪して、国家の権限を強化する歴史だった。そもそも近代法は「個人主義」の名の下に、孤立した「個人」を国家と対峙させることによって、(国家にとって最大の敵対者であった)親族組織を弱体化させてきた。ロックら社会契約論者が想定した「個人の個人の間の契約による国家の設立」は歴史的事実ではなく、ホッブズが「自然状態では個人と個人の弱肉強食の闘争状態だった」というのも誤りで、実際の自然状態では「部族と部族の間の闘争状態だった」という。
 中学校の公民科以来、社会契約論になじみ、立憲民主主義を信奉してきたぼくにとってはショッキングな立論である。

 著者は、ベビーM事件の「M」は “money” の「M」であると揶揄した論者の意見を肯定的に紹介する。
 依頼人(スターン夫婦)の妻は実は不妊症ではなかったこと、夫はホロコーストから家族内で唯一生き残ったユダヤ人だったことも忘れていた。
 著者は、代理母であるホワイトヘッド夫婦の親としての不適切さとして裁判所が挙げた「不品行」の数々ーー夫の職業が清掃作業員であり、妻がかつてゴーゴー・ガールをしていたことや、夫婦が居所を転々として親族家庭に居候したり、パンダの大型の縫いぐるみを上の子に買い与えたこと(!)などーーを、労働者階級の文化として文化相対主義の立場から擁護する、というか少なくともマイナス材料として衡量することを批判する。

 代理母契約は、弱者である代理母を依頼人が搾取するものであるという批判は、代理母が臨床で実施され始めた当初はかなり強く主張されたが、その後は(日本以外の諸外国では)議論の主流ではなくなった感がある。「親族」組織の復権を唱えるらしい著者の立場からすると、不妊女性の母親や姉妹(オバや従姉妹なども)が代理母となる代理母契約はどういう評価になるのだろうか。親族間の代理母でも認められないのか、親族間なら認められるのか。
 著者は、金持ちは決して代理母になることはなく、貧乏人が依頼者になることも決してないとして、「搾取」論を補強していたが、親族間での代理母契約であれば、金持ちが代理母になり、貧乏人が依頼者になることもあるだろう。そもそも「無償」の代理母契約であれば認められるのだろうか。

 第1章の「一夫多妻制」、第3、4章の「世代継承」における「母の兄弟(=息子にとってのオジ)」の問題も、「目から鱗」の面白さがあったが、次回につづく。

 2024年2月24日 記

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石神井公園の河津桜(2024年2月24日)

2024年02月24日 | 東京を歩く
 
 2月24日(土)午後。
 きのうの雨は夜半にやんで、朝から晴れ。気温も10℃をこえて日ざしが暖かそうだったので、久しぶりに石神井公園まで散歩に出かけた。旧日銀グランド脇を抜け三宝寺池に降りて、池の畔を半周した。
 冬なのか春なのか、穏やかな日ざしを浴びて池が光って、「逆さ富士」のように周囲の風景が水面に映っていた(上の写真)。
 鴨が暢気そうに羽を休めて日向ぼっこをしていた。この冬は雨が少なかったのか、池の淵には水が干上がって泥湿地になっているところもあった(下の写真)。以前は池のこの辺りにワニが棲息しているという噂がささやかれていたこともあったが、この渇水ではワニも隠れていることはできないだろう。

    
   

 旧日銀グランドの庭園を歩いていると、「かわづざくら」という標識がついた木があったが、花はほぼ散ってしまっていて、河津桜らしさは感じられなかった。しかも逆光なので、ただの枯れ木にしか見えないだろう(下の写真)。
   

 石神井公園に別れを告げて(大袈裟か)、帰途につく。
 通りすがりの小さな公園に植えられた木が、鮮やかなピンク色の花をつけていた。樹木の名前が表示されていなかったので自信はないが、花の色と形、幹の模様からみて河津桜ではないかと思う。旧日銀グランドのとは違って、こちらの方が枝ぶりも花びらもきれいだった。
   

 大泉学園通りの桜並木のソメイヨシノは寿命が近づいているのか最近は発色が悪く、ぼくが小学生だった頃のような春めいた感じがしなくなってしまった。東京ではあまり見かけない河津桜だが、この公園の河津桜は色も華やいでいて春らしい感じがした。

 2024年2月24日 記
   

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午後のじゅん散歩(テレ朝)は軽井沢

2024年02月23日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 毎週金曜日は午後にも “じゅん散歩” をやっているが(テレ朝)、今日の “午後のじゅん散歩SP” は軽井沢から小諸への散歩。そういえば先週の “午後散歩” も軽井沢だったか。

 旧軽井沢の万平ホテルから例の赤い観光バスに乗って、テニスコート脇を通って、碓氷峠を見晴台に向かう。長野県側の方の神社を参拝して、見晴台から周囲の山並みを眺めて下山(上と下の写真)。
 「むかし武士たちがこの道を登ったのか」と高田純次が言っていたが、30年前に、ぼくは3歳だった次男を背負ってこの道を下った。
     

 軽井沢駅に戻り、しなの鉄道で小諸に向かう。 
 しなの鉄道の車両は、グレーと赤色のツートンカラーだったのが、いつの間にかグリーンとイエローのツートンカラーに変わり、さらに輝くブルー色のボディーカラーに変わっていた(下は軽井沢駅に停っているしなの鉄道を見下ろす写真)。
     

 車窓から浅間山を眺め、信濃追分駅を通って列車は小諸駅に(下の写真)。
     
     
 
 人通りのない小諸駅前で喫茶店に入り、北国街道沿いの蕎麦屋でしぼりそばを食べて、きょうの散歩は終了。昨年の夏に撮影したものらしく、半そでシャツでも小諸では暑そうだった。
 懐かしい風景を眺めることができた40分(?)だった。

 2024年2月23日 記

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雨に煙る公園

2024年02月21日 | 東京を歩く
 
 雨が好きだと書きこんだら、本当に雨になった。その雨が小降りになったので、夕方から散歩に出かけた。暑いくらいだった昨日とは一転、寒かったのでマフラーと手袋で出かけた。
 本当は少し出かけるのが億劫だったのだが、歩きはじめると、雨に煙った夕暮れの街並みが、なぜか懐かしい風景のように見えてきた。上の写真と下の写真は散歩の途中で立ち寄った公園の風景。実際に見える光景よりも、カメラのレンズ越しの画像のほうが鮮明になってしまった。小雨に煙っている公園をそのまま撮るにはどうしたらよいのか。
 小学生の頃の、梅雨時の放課後に歩いた近所の街並みと、大学生の頃の、こちらは五月の雨の渋谷の街並みが思い浮かぶ。
    

 雨の中の散歩というと、リトル・ペギー・マーチの「なぜだか判らない」、ジーン・ケリー(?)「雨に唄えば」、バート・バカラック「雨に濡れても」、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「雨を見たかい?」などを思い出す、と言いたいところなのだが、なぜか三善英史の「雨」がまっさきに思い浮かんでしまう。
 しかも、渋谷駅前の “Tea for Two” という喫茶店(今もあるのだろうか?)の2階席から見下ろした歩道と、東武ホテルに向かう公園通りを行きかう人たちのかなり鮮明な画像が思い浮かぶのである。調べると、CCRの「雨・・・」も三善の「雨」も、どちらも1972年の発表だから、ぼくが大学4年のときの思い出と時間的には矛盾しないけれど、「なぜだか判らない」。

   

 もう一つ、きょうの昼間、BSテレビ(501ch)「日本映画専門チャンネル」で、「生きる Living」を見た。黒澤明の「生きる」をリメイクした映画である(2023年)。カズオ・イシグロが脚本を書いたという。背景は1953年のロンドンになっているが、ストーリーは黒澤の「生きる」とほぼ同じである。
 あのようなテーマはイギリス人にも通じるのだろう。日本の「生きる」ほどヒットしたかどうかは知らないが。「我等の生涯の最良の年」、「三十四丁目の奇跡」、「素晴らしき哉、人生」などのようないわゆる “Heart-worm Story” の系譜に入る作品だろう。
 主人公が後輩の公務員に対して、「何のために生きているのか、考えてほしい」と書き残すシーンがあった。
 「ぼくは何のために生きているのだろうか」。そんなことを考えなくなって久しいことに気づかされた。
 雨のシーンではないけれど、雨に濡れたような夜の公園で、主人公(ビル・ナイという俳優らしい)がブランコに腰を下ろて歌う回想シーンがあったので(上の写真)。

 2024年2月21日 記

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ぼくの探偵小説遍歴・その5

2024年02月19日 | 本と雑誌
 
 ぼくの探偵小説遍歴、第5回

 ★フェーマス・トライアルズ(日本評論新社)
 犯罪実話小説というべきか、法廷小説というべきか迷うが、実際に起きた有名犯罪事件(刑事裁判)のドキュメントがある。英米では、実際の裁判記録(訴訟記録)を、起訴状、陪審員の選定過程、冒頭陳述、証拠調べ(主として証人尋問、とくに反対尋問)、最終弁論、裁判官による陪審への説示、陪審員の評決、そして判決までを、原資料に基づいて記録したシリーズものがいく種類か出版されている。中には100巻近く出ているものもあるらしい。
 「フェーマス・トライアルズ」シリーズ(日本評論新社、1961~2年)はその一部の翻訳である。
 「白い炎」(西迪夫訳)、「浴槽の花嫁」(古賀正義訳)、「S型の傷」(平出禾訳)、「冷たい目」(小松正富訳)、「山に消えた男」(時国康夫、中根宏訳)の全5巻だが、訳者は英米法に詳しい弁護士や検事だけでなく、アメリカに留学した(当時)現役の裁判官まで含まれており、戦後の新刑事訴訟法(英米刑事司法型の当事者主義)に対する裁判官も含めたわが法曹の意気込みが感じられる。「浴槽の花嫁」は副題にもなっているジョージ・ジョセフ・スミス事件の裁判記録で、この事件は牧逸馬「浴槽の花嫁」のネタでもある。

 ★「実録裁判」シリーズ(旺文社文庫)
 法廷小説といえば、ガードナーの「ペリー・メイスン」ものがまず思い浮かぶが、R・トレイヴァ―「裁判(上・下)」(創元推理文庫)はそのものズバリの題名。同書の帯には、「私は本書に想を得て「事件」を書いた」という大岡昇平の推薦文コピーが記されている。大岡昇平「事件」(新潮社、1977年)は、出版当時ベストセラーになり、映画化もされた。後に創元推理文庫にも収録されたようだ(未見)。トレイヴァ―には「地方検事」(東京創元文庫)というのもある。著者はミシガン州の元地方検事、州最高裁判事だそうだ(上の写真)。
 学習参考書の旺文社から出た旺文社文庫というのがかつてあった。漱石、芥川、中島敦など教科書に採用された小説が多かったが、その旺文社文庫から「実録裁判」シリーズという裁判ものが何点か出た。
 E・R・ワトソン編「実録裁判・謀殺--ジョージ・ジョセフ・スミス事件」(1981年)などを刊行した(上の写真)。「謀殺」はいわゆる「浴槽の花嫁」事件の実録。巻末の解説で、平野竜一教授が陪審への不信感を述べている。
 この「実録裁判シリーズ」は、「謀殺」の他にも、「目撃者--オスカー・スレイター事件(上・下)」「疑惑ーーミセス・メイブリック事件」「情事ーージャン・ピエール・ヴァキエ事件」「密会ーーマンドレイ・スミス事件」の全5巻があったようだが、ぼくは「謀殺」しか持っていない。読むのが相当しんどくて、1冊で投げ出したのだと思う。
 実録裁判シリーズのほかにも、F・L・ウェルマン「反対尋問」(1980年)、被告の伊藤整自らがチャタレー裁判を記録した伊藤整「裁判(上・下)」(もとは新潮社)、や八海(やかい)事件や「首なし事件」などで有名な正木ひろし弁護士の戦時下の時評集「近きより(1~5)」も同文庫で復刊した。ぼくは法律雑誌の編集者だった頃に、その旺文社文庫の担当編集者とお会いしたことがあった。エネルギッシュな方だった印象がある。なお、ウェルマン「反対尋問の技術(上・下)」は、わが社の先輩編集者だった林勝郎さんの翻訳で青甲社から出ていた。 

 ★医療(裁判)小説
 日本のものでは黒岩重吾「背徳のメス」(角川文庫)、札幌医大で実施された日本最初の心臓移植に疑問を呈した渡辺淳一「白い宴」(角川文庫、1976)などが思い浮かぶ。
 アメリカでは、マイケル・クライトン「緊急の場合は」(ハヤカワ文庫)が有名だった。ロビン・クック「ハームフル・インテントーー医療裁判」(ハヤカワ文庫、1991年)がぼくが最後に読んだ医療推理小説だった。最終ページに「最後まで読みはしたが、噴飯ものだ! 1991.8.23」と書き込みがしてあるが、内容はまったく覚えていない。訳者は林克己さん。ぼくが1960年代の子ども時代に読んだアームストロング「海に育つ」(岩波少年文庫)の訳者だろう。息の長い翻訳家である。
 帯に「身に覚えのない医療ミスで告発された麻酔医が、病院に潜む真犯人を追いつめる」とあるので、興味をもったのだろう。慈恵医大青戸病院において腹腔鏡手術による死亡をめぐって執刀医が逮捕起訴された実際の事件を想起させるコピーである。この事件については、小松秀樹「慈恵医大青戸病院事件ーー医療の構造と実践的倫理」(日本経済評論社、2004年)を参照。(つづく)

 2024年2月19日 記

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ぼくの探偵小説遍歴・その4

2024年02月18日 | 本と雑誌
 
 ぼくの探偵小説遍歴、第4回

 ★「メグレ警部」(河出書房)
 ジョルジュ・シムノン「メグレ警部」シリーズは、第1期の24巻は全巻そろえて読んだが、飽きが来て36作までは数冊だけ、それ以降は1冊も買ってない。最終的には全50巻出たらしい。企画した長島良三さんには敬意を表するが、ぼくにはそこまでの「メグレ」愛はなかった。河出版シリーズの表紙の挿絵は、ぼくが学生時代に聞いた「NHKフランス語講座」テキストの挿絵を描いていた水野良太郎で、懐かしかった。シトロエン2CVも何回も登場した(下の写真)。
          

 「メグレ警部」もののうち、「男の首」「怪盗レトン」「サン・フォリアン寺院の首吊人」などは角川文庫版で、「オランダの犯罪」「サン・フィアクル殺人事件」(創元推理文庫)などの品切れ本も古本屋で買い集めた。「黄色い犬」「港の酒場で」など旺文社文庫や、「メグレ罠を張る」「メグレと老婦人」などハヤカワミステリ文庫からも、メグレものが何冊か出ていた(上の写真)。「罠を張る」巻末の日影丈吉の解説によると、シムノンは1945年から55年の間はカリフォルニアで暮らしており、同地で多くのメグレものを書いたという。パリの空気感が濃厚な小説なだけに意外である。

              
 長島良三訳「メグレ警視」(集英社文庫・世界の名探偵コレクション10、1997年)には本邦初訳の短編が数本収められているほか、長島訳「メグレ警視のクリスマス」(講談社文庫、1978年)には「メグレのパイプ」なども収録されている。長島著「メグレ警視」(読売新聞社、1978年)や、長島編「名探偵読本2・メグレ警視」(パシフィカ、1978年)という解説ムック本も買った。後者にはシムノンのメグレ警部もの全編(確か102作)の刊行年と邦訳の題名が掲載されていて、役に立った。上の写真は、G・Simenon“La pipe de Maigret”(Press de la Cite版、1957年)の表紙>
 ブリューノ・クレメールがメグレを演ずるテレビドラマの「メグレ警部」はよかったし、ジャン・ギャバンのメグレもよかったが、ローワン・アトキンソン(豆豆先生!)が演じるメグレは「?」だった。何でイギリス人の俳優(コメディアン)がフランス人警官役を演じたのか。 

 ★「刑事コロンボ」(二見書房)
 「刑事コロンボ」は、NHKで放映されたテレビドラマが面白かった。コロンボ役のピーター・フォークも好きな役者だった。彼が出演した「グレート・レース」はお洒落な映画だった。主題歌 “Sweet Heart Tree” もいい曲だった(ヘンリー・マンシーニだったか?)。ただし彼の声はダミ声で、小池朝雄の吹替えのほうがよい。
 テレビがヒットしたので、ノベライズ小説も発売された。「刑事コロンボ 二枚のドガの絵」、「別れのワイン」(?)(二見書房)を買った。「二枚のドガの絵」は内容は忘れてしまったが、題名だけは印象に残っている。逆に「別れのワイン」のほうは題名は不確かだが、内容は覚えている。犯人のソムリエがワインセラーのエアコンを一時的に切ったことが決定的な証拠なのだが、自慢家の犯人(ソムリエ)はワインセラーの中のワインを一口飲んで、顔をゆがめて「このワインは温度調整ができていない」とケチをつけたことで、自白に追い込まれるという話だった。
 飽きっぽいぼくは、小説化されたコロンボはこの2冊で飽きてしまった。テレビ番組の方はかなり長い間せっせと見たが、やがて新鮮味はなくなり、コロンボの犯人への詰めより方がまどろっこしい上に嫌味に思えてきた。最近でもミステリー・チャンネルで数十話一挙放送されたりするが、まったく見ることはない。   

 ★犯罪実話小説
 コリン・ウィルソン「殺人百科」(弥生書房)をきっかけに、「スクールガール殺人事件」(新潮社、1975年)など、彼の殺人ものにはまった時期があった。シカゴ大学ロースクールの学生が少年を殺した事件も本書に入っているが、ヒチコックがその事件を映画化した「ロープ」も面白かった。クラレンス・ダロウ「アメリカは有罪だ―ーアメリカの暗黒と格闘した弁護士ダロウの生涯(上・下)」(サイマル出版会、1973年)には、実際の「ロープ」事件で被告のシカゴ大生の弁護人を務めたダロウの回顧談も入っている。
 ジェロルド・フランク「絞殺--ボストンを襲った狂気」(ハヤカワ文庫、1979年)は、当時アメリカで起きた連続殺人事件に取材したノンフィクション。T・カポーティ「冷血」(新潮社)と並ぶ殺人事件ドキュメント小説の嚆矢といえる。青木雨彦「ノンフィクションの楽しみ」は、「絞殺」は私にとってもはや「古典」であると書いている(「ハヤカワ文庫への招待」1979年12月、29頁)。

   
 ★現代教養文庫(社会思想社)
 牧逸馬「浴槽の花嫁」(現代教養文庫、1975年)の牧逸馬シリーズなどをきっかけに(上の写真)、この世界には「リッパロロジスト」なる「切り裂きジャック」の研究者!が存在することを知り、その手の人たちの本も読んだ。
 仁賀克雄「ロンドンの恐怖ーー切り裂きジャックとその時代」(ハヤカワ文庫、1988年)、島田荘司「切り裂きジャック・100年の孤独」(集英社文庫、1991年)、E・B・ハナ「ホワイトチャペルの恐怖--シャーロック・ホームズ最大の事件(上・下)」(扶桑社ミステリー、1996年)、そして、コリン・ウィルソン(仁賀克雄訳)「切り裂きジャック--世紀末殺人鬼は誰だったのか?」(徳間文庫、1998年)などである(下の写真)。
    
 コリン・ウィルソンに挟んであった新聞記事によると、犯行現場に残されていたDNA鑑定の結果、切り裂きジャックの正体はポーランドからの移民「アーロン・コスミンスキ」だと判明したとするラッセル・エドワード氏の新著が刊行されるという(毎日新聞2014年9月8日夕刊)。ぼくは買わなかったが、S・ハリソン構成「切り裂きジャックの日記」(同胞舎)と、B・ベイリー「切り裂きジャックの真相」(原書房)という本の新聞広告の切り抜きも挟まれていた。

 この手の本の遍歴が1990年代末で終わっているところを見ると、1960年代末に軽井沢旧道(本通り)沿いの三笠書房で初めて犯罪実話雑誌を立ち読みした時の恐怖(怖いもの見たさ)から始まったぼくの犯罪小説への関心は20世紀の終焉とともに下火になっていったようだ。
 現実に起きた犯罪を取り上げたドキュメントにまさるスリリングなフィクション小説に出会うことはなかったし、これからもないと思う。 (つづく)

 2024年2月18日 記

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ぼくの探偵小説遍歴・その3

2024年02月17日 | 本と雑誌
 
 ぼくの探偵小説遍歴、第3回。

 ★創元推理文庫(東京創元社)
 ようやく大人の本の世界に入った。ぼくにとって探偵小説の入り口は東京創元社の創元推理文庫だった。背表紙に黒猫(ミステリー)か時計(倒叙もの)のマークがついた作品が多かった(冒頭の写真はペリー・メイスンものの何冊か)。
 コナン・ドイル「シャーロック・ホームズ」は創元推理文庫版でそろえた。当時は短編集は4冊出ていたと思うが(「冒険」「生還」「回想」「最後の挨拶」)、ホームズの短編は2冊で飽きた。長沼弘毅など「シャーロキアン」ものも何冊か買ったが、そんなに入れ込むほどの魅力はぼくは感じなかった。法律を勉強する者にとっては、ホームズと言えば、オリバー・ウェンデル・ホームズだろう。
 アール・S・ガードナー「ペリー・メイスンもの」や、ウィリアム・アイリッシュ「暁の死線」なども創元推理文庫版で読んだ。「暁の死線」は章ごとに時間経過を示す時計のイラストが入っていた。「黒衣の花嫁」式のアイリッシュとは違う一面があった。

          
 ヒラリー・ウォー「失踪当時の服装は」、同「事件当夜は雨」(上の写真)。「失踪当時の服装は」にはぼくが生まれた日、1950年3月20日のことが出てくる。この日付けが出てくる小説は他に知らない。
 W・マッキヴァーン「悪徳警官」など、悪徳警官ものも好きなジャンルだった。
BSのテレビドラマの「警部フォイル」「女警部ヴェラ」「刑事モース」などにも悪徳警官が頻繁に登場する。アメリカだけでなく、イギリス警察でも常態なのだろうか。
   
 ★早川ポケットミステリ(早川書房)
 エド・マクベイン「87分署」シリーズは、事件の背景の何気ない景色や季節の描き方、それと書きだしと結びの文章が好きだった。「明日の新聞の見出しには“熱波去る”の文字が躍るだろう」という最後の一文があったような・・・。
 一番印象に残っているのは「被害者の顔」という作品。平凡な主婦と思われていた女性が殺されたが、捜査が進むとその女性の様々な「顔」が明らかになり、彼女の人生のどの側面(=顔)が犯行の原因になったかの究明が解決につながるといったストーリーだった(下の写真)。
     

 ジョン・ボール「夜の熱気の中で」も印象的だった(シドニー・ポワティエの映画も)。アメリカ南部の、夜になってもじっとりした熱気が伝わってきた。「十二人の怒れる男」(ヘンリー・フォンダ)や「アラバマ物語」(グレゴリー・ペック)なども同じように汗の滲む南部の熱気が印象がある(映画の印象かも)。
 逆に、雨と言えば、ニコラス・フリーリング「雨の国の王者」。
 これを読んだときには「これがぼくの一番好きな推理小説だ」と思った。理由は覚えていないが、感傷的な文章だったのか。ぼくは雨をうまく描いた小説が好きである。雨の日それ自体も好きである、出かける必要がなければ、だが。これ以外のファン・デル・ベルク警部ものは読んでいない。
 BSで放映されているドラマの「ファン・デル・ベルク警部」は主人公のイメージが違いすぎるうえに、時代と舞台が現代の病んだオランダに変更になっていて、1950年代のオランダに対してぼくが抱いた「風車とスケートの国、オランダ」のイメージが粉砕されてしまった。

     
 ウィリアム・アイリッシュ「黒衣の花嫁」「喪服のランデブー」「幻の女」「死者との結婚」(コーネル・ウーリッチ名義かも)などの感傷的な文章、ストーリーも嫌いでなかった(上は、ハヤカワ文庫版の表紙)。
 羽仁未央のエッセイで、「アイリッシュの小説は好きだけど、私が編集者なら表紙に彼の写真は載せない」と書いていたのを読んで笑えた。確かにハヤカワ文庫の裏表紙に載った著者の写真は、内容から想像する作者のイメージとあまりに違いすぎた。「ティファニーで朝食を」のジョージ・ペパードまでの容貌は期待しないけれど。
 マルコ・ペイジ「古書殺人事件」、べロック・ローンズ「下宿人」、レイモンド・ポストゲイト「十二人の評決」はいずれも長らく品切れだったので渇望していたところ、ポケットミステリ1000冊か2000冊突破記念で復刊されたので喜んで買って読んだが、いざ読んでみるとどれもそれほど面白くはなかった。「下宿人」は切り裂きジャックがモデルだが、結局「下宿人」がジャックだったかどうかは分からずじまいでがっかり。

        
 早川ポケットミステリにも、メリー・メイスンもの、メグレ警部ものが何冊が入っている。「モース警部」の原作も何冊か入っているが、テレビドラマで済ませた。
 「フロスト警部」の原作は創元推理文庫(?)に入っているが、これも厚すぎて読む気にならないのでスルーして、テレビドラマで済ませた。

★早川書房ほかのハードカバー
 ドロシー・ユーナック「法と秩序」(早川)、
 ジョセフ・ウォンボー「オニオン・フィールド」(早川)、
 同「ブルー・ナイト」(早川)など1970~80年代に読んだ早川の単行本も悪徳警官ものだったか。
 V・ビューグリオシー「裁判――ロサンゼルス二重殺人事件」(創林社、1979)なんてのも読んだ。実話だったのかフィクションだったのか内容は覚えていない。
 このあたりの単行本はかさばるために断捨離してしまったので確認できない。
     
★スパイ小説
 スパイものは、ジョン・ル・カレ「寒い国から帰って来たスパイ」(早川書房)、イアン・フレミング「007ロシアより愛をこめて」(創元推理文庫)くらいしか読んだことはなかったが、フレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」は面白かった印象がある。
 「ロシアより愛をこめて」は間違いなく裏表紙につられて買ったのだと思うが、それらしかったのはこのシーンを描いたページだけで期待(?)外れだった(下の写真)。
      

 サマセット・モーム「秘密諜報員アシェンデン」(創元推理文庫ほか)はモームの実体験がもとになっている。第1次大戦中のスイスが舞台だが、スパイのはかなさが印象的。「禿頭のメキシコ男」(だったか?)というエピソードがよかった。モームはぼくが好きな作家で、「木の葉のそよぎ」「コスモポリタン」などの短編がとくにいい。
 「法王の身代金」「ジャッカルの日」など、一時期角川書店から出た単行本も何冊か読んだ。

     
 マイ・シューヴァル、ペール・ヴァ―ルー「笑う警官」など、最初はハードカバーで読んだが、その後のマルティン・ベックシリーズ(全5冊か)は角川文庫版で読んだ。好きなシリーズだったが、パートナーのどちらかが亡くなってしまい、シリーズも終わってしまった。スウェーデンもかつてのリベラリストにとっては理想の国だったが、その後は失楽園になってしまった(上の写真)。 (つづく)

 2024年2月17日 記

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ぼくの探偵小説遍歴・その2

2024年02月16日 | 本と雑誌
 
 ぼくの探偵小説遍歴、第2回はラジオやテレビ番組ではなく、いよいよ小説になる。

 ★岩波少年文庫
 中学生の頃のぼくは「岩波少年文庫」を読む「岩波少年文化人」だった。ボール紙の箱に入ったハードカバーの時代だった。箱の中央と表紙の中央にイラストが入っていて、本文の中にも何ページおきかにイラストのページがあった(下の写真)。
 岩波少年文庫の中では、ドラ・ド・ヨング(吉野源三郎訳!)「あらしの前」「あらしの後」が一番好きだった。オランダの片田舎を舞台に、オランダ人の少女と進駐してきたアメリカ兵との淡い恋が描かれていた。軽いタッチで描かれたペン画の挿し絵も好きだった。挿し絵と挿し絵の間を飛び石のように渡りながら文字を読む読書だった。文字だけの書籍は今でも苦手である。
 岩波少年文庫の探偵小説(というか冒険小説)では、エーリッヒ・ケストナー「エミールと探偵たち」(小松太郎訳のもの)、アストリット・リンドグレーン「カッレ君の冒険」、「名探偵カッレとスパイ団」(カッレ君シリーズにはもう1作あったような気がする)、セシル・D・ルイス「オタバリの少年探偵たち」などを読んだ。
        

 ※下の写真は、最近の岩波少年文庫版のケストナー「エミールと探偵たち」。2、30年前に息子に買ってやった本が残っていた。新訳では「エーミール」と表記してあるけれど、ぼくにとっては「エミール」である。「エデンの東」のラストシーンの「ティムシェル」(野崎孝・大橋健三郎訳)を「ティムショール」のほうがヘブライ語の発音としては正しいのだと今さら言われても困るのと同じである。
               

★少年少女推理小説全集(あかね書房)
 中学校の図書館に置いてあった。全10巻程度のハードカバーで、表紙扉の次のページにカラーのパラフィン紙が1枚挟んであった。
 ウィリアム・アイリッシュ「恐怖の黒いカーテン」では黒色のパラフィン紙だった。ガストン・ルルー「黄色い部屋の秘密」、A・A・ミルン「赤い館の秘密」などもこのシリーズで読んだと思う。
 ※ google で検索すると、このシリーズは「少年少女世界推理文学全集」(あかね書房)で、1963~4年に刊行されたというから、まさにぼくが中学2年から3年の記憶と符合している。このシリーズは全20巻で、ホームズ、ルパン、ポー、クイーン、クリスティから、チェスタートン、クロフツ、ヴァン・ダイン、チャンドラー、ガードナー、モーム(アシェンデン)!などまで入っていたらしい。「赤い家の秘密」と「黄色い部屋の謎」は合本で訳者は神宮輝夫、「恐怖の黒いカーテン」は福島正実訳だった。
 全10巻くらいと思っていたのは、ぼくの中学生時代にはまだ図書館には全巻そろっていなかったからだろう。現在は絶版で、ネット上では各巻3000円から3万8000円などというとんでもない値段がついている。「恐怖の黒いカーテン」は後に復刊された際に買った覚えがあるが、あかね書房版だったかどうか・・・。晶文社あたりだったかも。
 ※どうも「黒いカーテン」ではなく、「さらばニューヨーク」(晶文社、1976年)だったようだ。

 中学校の図書館には、別の出版社の児童推理小説シリーズもあった。
 エラリー・クイーンの「色=カラー」シリーズが並んでいて、「青いにしんの秘密」というのを読んだ。死者が遺した「青いにしん(herring=鰊)」というメッセージが実は綴りのミスで、「ニシン」ではなく何か別の物体が解決のカギだったという話だった。翻訳で読む日本の中学生に分かる訳がないだろう。ばかばかしくなって、それ以後エラリー・クイーンは一切読まないことにした。
 ちなみに、ぼくがその論旨に共感するところの多いオックスフォード大学の家族法、医事法の教授に “Herring” という名字の方がいる。

★「中学時代」(旺文社)や「中学コース」(学研)に毎号付録として付いてきた文庫本サイズ、50頁程度の本文はザラ紙の推理小説(抄訳版)も読んだ。
 パット・マガン「探偵を探せ」、同「被害者を探せ」、ジョン・バカン「三十九階段」などはこの手の付録本で読んだ記憶がある。
 イーデン・フィルポッツ「赤毛のレッドメーンズ」もこの手の本で読んだような気がする。後に新潮文庫版の「赤毛のレッドメイン家」(何と橋本福夫訳だった!)を見て、「レッドメーンズ」の「ズ」(s)が(レッドメイン)「家」の意味だということを知った。辞書によると「s」が「~の家」を意味するのは「おもに英国」だそうだ。アメリカにもケネディ一家のように、「~家」はありそうだが。

 ※冒頭の写真は、「探偵を探せ」「39階段」などの創元推理文庫版。残念ながら、旺文社や学研の学習雑誌の付録についた文庫本は手元に残っていない。以前、少年雑誌の付録(や明星・平凡の歌本)などが沢山置いてある神保町の矢口書店や古書会館のミキ書房で探したが、1冊も出会うことはできなかった。  (つづく)

 2024年2月16日 記

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ぼくの探偵小説遍歴・その1

2024年02月15日 | 本と雑誌
 
 わが先祖をたどる旅の道すがら、今まで交流のほとんどなかった遠縁の一人と出会った。
 手紙やメールを交換するうちに、彼女が相当な推理小説マニアで、玄人はだしの推理小説に関する書誌情報を作成していることを知った。「玄人はだし」と書いたが、それは推理小説に関してであって、彼女の本職が図書館司書(的な仕事)だったというから、「書誌情報」作成は本職といえるかもしれない。
 その彼女が作成した膨大かつ網羅的な推理小説目録を眺めるうちに、ぼくもごく個人的な(極私的というのか)推理小説の読書遍歴を書き留めておこうという気になった。「遍歴」というほど読んではいないし、ぼくの場合は「推理小説」というよりも「探偵小説」ないし「犯罪小説」と呼んだほうが実体に近いかもしれない。
 ※上の写真は、(信濃)追分宿、旧中山道沿いの木立の中に建つシャーロック・ホームズ像。なんで信濃追分にシャーロック・ホームズ?と訝しく思ったが、碑文を読むと、新潮文庫版のシャーロック・ホームズを翻訳した延原謙がここ追分の地で翻訳作業を行っていたことに因んで建立されたとあった。ついでにロンドンのベーカーストリート駅前に立つホームズ像も(下の写真)。
     

 さて、どのように「ぼくの探偵小説遍歴」を書きはじめるか迷ったが、一応時系列に従って、かつ発表媒体別に書いてみることにした。

 第1話は、探偵「小説」前史として、ぼくが子どもだった頃のラジオ番組から始めたい。
 ★ラジオ番組
 始まりは昭和30年代の小学校時代から。
 江戸川乱歩の「少年探偵団」「怪人20面相」や、南洋一郎の「怪盗ルパン」ものは、貸本屋にたくさん並んでいたが、読んだことはない。おどろおどろしい(まがまがしい?)紙芝居のような表紙の画が嫌いで手に取る気にもならなかった。
 ただし、「少年探偵団」はラジオ番組で聞いていた。ストーリーは何も覚えていないが、主題歌の「ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団 勇気凛凛 虹の色~ ♪」は今でも覚えている。「とどろく とどろく あの足音は ぼくらの仲間だ 探偵団 胸に輝く 誓いのバッジ~ ♪」というのもあった。どちらかはテレビドラマの主題歌だったかも。
 当時定期購読していた月刊誌「少年」の広告をみて少年探偵手帳やBDバッジ(少年探偵団の団員章、100円玉ほどの大きさで髭文字風のBとDが刻印されていた)を買った。誘拐された時にこのバッジを道々に落としておいて救助を待つのだが(ヘンゼルとグレーテル!)、1個50円か60円もしたバッジをそう簡単に撒くわけにはいかないだろう。幸い誘拐されることはなかった。
 ※「少年探偵手帳」は後に復刻版が出版された。串間努「完全復刻版・少年探偵手帳」(光文社知恵の森文庫、1999年。下の写真)

     

 ラジオ番組では、「名探偵ルコック」がラジオドラマ化されたのを聞いた(たしかNHKラジオだった)。中学1年生だった昭和37年のことである。中学1年の時だけ同級だった土方君というのと前日に聞いた「ルコック」についてしゃべった記憶があるので、昭和37年だろうと思う。食べ残したパンのかけらに手紙をしのばせて脱獄するとか何とかいうエピソードがあった(ような)。
 ずっと後に国書刊行会から「ルルージュ事件」が刊行された広告を見たが(調べると2008年だった)、その頃にはもはやルコックを読みたいとは思わなかった。
 ちなみに、わが家に初めてテレビが届いた日に最初に見た番組はNHKの「事件記者」だった。昭和33、4年のことで、水曜日の夜8時からだったと思う。
 テレビドラマの「月光仮面」、「まぼろし探偵」(吉永小百合が出ていた)などは「探偵もの」と言えるかどうか。月光仮面の「原作 川内康範」という画面が幼な心に焼き付いていたので、後に「川端康成」と名のる作家がいるのを知った時には、「こいつは川内康範のパクリだ!」と思った。
 「怪傑ハリマオ」も見たが、ハリマオは「冒険」ものか、せいぜい「密偵もの」というべきか。
 ※ヒーロー倶楽部編「君は、ハリマオを覚えているかーーわれらのヒーロー・グラフィティ1953→1969」(PHP文庫、1985年。上の写真)の表紙にハリマオのスチールが載っている。(つづく)

 2024年2月15日 記

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きょうの軽井沢(2024年2月12日)

2024年02月12日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 ネタのない日はネットで見つけた軽井沢の画像で。

 冒頭は気象庁監視カメラの「浅間山(鬼押)」で見た現在の浅間山。冬晴れなのか春の日ざしなのか、浅間山の山肌が輝いている。

 次は長野国道事務所の定点カメラから、最初は「長倉」。通称プリンス通りの南軽井沢交差点を西に曲がったところである。「気温2・9℃、路面温度0℃、路面乾燥」と表示されている。日は傾き始めているようだ。
     

 同じく「鳥井原東」交差点の現在の画像。道路わきに雪が積み上げてあるが、道路は乾いているように見える。
     

 次は軽井沢町役場のライブ・カメラの画像。町役場前の国道18号のように見えるが、浅間山の姿は写っていない。どういう角度で撮ったものなのか。
     

 昨日2月11日は亡くなった母の生誕100年に当たる日だった。大正13年(1924年)、神戸の須磨の生まれで、亡くなって12年が経った。

 2024年2月12日 記

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「公園には誰もいない」--雪の東京

2024年02月06日 | 東京を歩く
 
 昨夜から今朝早朝にかけて、東京では今年最初の雪が降った。
 大雪警報が出たり、甲州街道が通行止めになったり(交差する道路があんなにたくさんあるのに、どうやって甲州街道を通行止めにすることができたのだろう?)、かなりの大雪を期待したが、今朝起きてみると、数センチだけ積もった雪は早くも融けはじめていた。
 下の写真は今日の夕方のテレビで放映していた甲州街道の上空からの写真。
     

 午後から近所を散歩したが、その途中の公園を撮ったのが冒頭の写真。雪の公園には誰もいなかった。
 東京の雪というと、いくつかの思い出があるが、学生時代の1969年から1974年の間のある正月に(何年だったかは忘れた)、友人と行った都心の美術館の窓から眺めた雪景色もその1つである。
 どこの美術館だったのか、誰の展覧会だったのかも覚えていないのだが、皇居を見下ろす都心のビルの上層階(7、8階だった)にあった。サントリー美術館だったか・・・。
 50年前のその日も東京に雪が降った翌日で、美術館の窓から見下ろした、雪をかぶった皇居の木々や一面真っ白の芝生の雪化粧が印象に残っている。下の写真は本日(2月7日)のテレビに映った今日の皇居前を見下ろした光景。ぼくが50年前に眺めた皇居の雪風景はもっと一面の銀世界だったような記憶がある。
     

 そして、その光景とともに、ぼくは結城昌治の「公園には誰もいない」(講談社文庫、昭和49年、1974年)を思い出す。
       
 
 結城昌治も好きだった作家の1人で、「軍旗はためく下に」をはじめ何冊か読んだのだが、「公園には誰もいない」の表紙が一番印象に残っている。東京で雪が降り積もると、なぜかこの本の表紙が思い浮かぶ。今日の散歩でも、誰もいない公園を通りかかった際に、結城のこの本の表紙の絵を思い出した。カバー挿画は木村茂、デザインは亀倉雄策とある。亀倉は講談社文庫全体のグラフィック・デザインだろう。
 話の内容は覚えていないが、裏表紙の作品紹介を見ると、失踪したシャンソン歌手の死体が軽井沢の別荘で発見されたことから私立探偵の捜査が始まるとある。結城の作品に「軽井沢」ものがあったとは・・・。

 2024年2月6日 記

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