豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

中川善之助 『婚姻の儀式』ほか

2020年06月30日 | 本と雑誌
   
 ★ 陰木達也「帝国期日本の法学者の婚姻史研究と東アジアーー「招婿婚」概念の成立と展開を手がかりに」比較家族史研究34号(比較家族史学会、2019年。ただし手元に届いたのは2020年5月)

 この論文は、中川善之助が、自ら編集した『家族制度全集(第1巻)史論篇、婚姻』(河出書房、1937年)に執筆した「婚姻史概説」で提起した「招婿婚」(しょうせいこん=ムコ取り婚)概念を出発点として、「招婿婚」をめぐる議論の展開を日本および台湾を中心に検討したものである。
 しかし、ぼくが興味を持ったのは、招婿婚の展開それ自体ではなく、「婚姻予約有効判決」と呼ばれている大正4年1月26日の大審院連合部判決に対して、岡松参太郎が加えた批評について検討した個所である。
 岡松は「無過失損害賠償責任論」で有名な京都帝大の民法学者だが、後藤新平から委嘱を受けて日本統治下にあった台湾原住民の旧慣調査に当っていた。その岡松が、この大審院判決を契機として、儀式によって婚姻の成立を認める台湾の蕃族の慣習と同様に、日本においても儀式によって婚姻の成立を認めるべきであると提言していたのである。当時のわが国も、婚姻の儀式によって婚姻の成立を認めるのが社会一般の慣習であり、近代西欧法を継受した明治民法の届出婚主義(婚姻届出によって婚姻は成立するとした)は当時のわが国の慣習上は無理があるとして、立法者意思には反するが届出婚主義を廃棄し、儀式を経た事実上の夫婦に婚姻の効力を付与すべきであると提言したのであった。
 岡松の一連の業績を詳細に検討したきわめて有意義な論考であり、岡松の上記大審院判決に対する評釈を読んでいなかったぼくには大変に勉強になった。大学図書館が再開されたら、著者が引用した岡松の論考を読みに行こうと思う。

 惜しむらくは、唄(ばい)孝一の同判決にかかる一連の論文への言及がないことである。大審院判決の意味を究明すべく、事件が起きた下妻を何度も訪れ、(昭和28年当時)現存する当事者ら(原告、被告を含む)に面談までした、唄の論文を読んでいたら、さらに深みを増したものと思う(唄論文を読んだけれども、援用する価値なしとしたとはぼくには思えないのだが)。


★ 唄孝一『内縁ないし婚姻予約の判例法研究』』(唄孝一・家族法著作選集第3巻、日本評論社、1992年)

                             

 明治31年(1898年)制定の明治民法は、夫婦が婚姻の法的効果(同居協力義務、貞操義務、婚姻費用分担義務、死亡時の配偶者相続権、離婚時の財産分与請求権など)を享受するためには、戸籍法の方式に従った婚姻の届出を必要とした。
 立法者はいわゆる「内縁」を法的に保護する必要を認めておらず、当初は大審院判例も内縁の保護を否定した。表向きの理由は、近代法が要求する届出をしないようなカップルはたんなる私通、野合にすぎず、法的保護に値しないということだが、ホンネでは内縁や婚約を不当に破棄する(大部分の場合は)男の都合を優先させるためだったといわれる。明治民法の底流には「男」の都合が貫かれていた。
 しかし明治民法制定当時のわが国では、習俗に基づいた婚姻の儀式を挙げれば二人は社会的に夫婦と認められたため、あえて婚姻届出をしないまま共同生活を営むカップルも少なくなかった。もしそのような関係を正当な理由もなく一方的に破棄されたとしても、破棄された側は泣き寝入りをするしかなかったのである。
 これに対して、穂積重遠ら一部学説が批判を加えた結果、大審院は大正4年1月26日の連合部判決によって、かかる関係(それが「内縁」だったかは、後に唄論文が疑問を呈することになる)を「婚姻予約」と法律構成して、正当な理由なく「婚姻予約」を破棄した当事者(多くは男)に対して債務不履行による損害賠償の支払いを命じうると判決した。
 ちなみにこの事件で訴えていた原告の女性は、結論的に敗訴しており、損害賠償を得ることができなかったのだが、この点も当時の民事訴訟法学の限界だったのか、大審院に何らかの意図があったのか謎が残っている。
 さて、上記のように、この大正4年大審院判決に関しては唄の一連の調査研究がある。唄の論文は今回初めて読んだものではないが、陰木論文へのコメントの不十分な部分を補うために紹介しておきたい。

 大正4年大審院連合部判決については、一般的には上記のように理解されてきたが、昭和30年代になると、本書に収録された唄孝一ら(唄および当時唄ゼミに所属した都立大学学生2名。「学生も研究者」というのが唄の持論だったという)の一連の現地調査、研究によって、当該事案の当事者は、何がしかの婚礼の「儀式」は行ったようだが、その3日後には女性は実家に帰って(返されて)いることが判明した。
 はたしてこの2人の関係が、一定期間の共同生活の継続を必要とする「内縁」といえるかどうかについて唄は疑問を提示し、むしろ「足入れ婚」(唄は「アシイレ」と表記する)などと称する「試し婚」の段階か、それよりさらに前の段階--嫁が実家を出る儀式、婿宅での嫁取りの儀式、親戚縁者を招いての宴会の儀式、同棲の開始といった一連の段階的な「婚姻の儀式」の途中--の「未完成婚」、あるいは判例の文言通り純粋な「婚姻予約」(唄は「純粋婚約」という)だったかもしれないことを示唆したのである。


★ 中川善之助「婚姻の儀式(一~五・完)」法学協会雑誌44巻1~5号(昭和元年、1926年)

          

 大正4年大審院判決は、「婚姻の儀式」を経た(しかし婚姻届出はしていない)当事者の関係を「婚姻予約」として法的に保護することを認めたが、この「婚姻の儀式」を徹底研究したのが、当時は若手研究者で、後に家族法学の第一人者となる中川善之助であった。
 中川の本論文は、執筆当時(1926年)のわが国において「婚姻の儀式」が婚姻法上いかなる意義を有するかの解明を目的とする。執筆の契機となったのが、まさに上記の大正4年大審院連合部判決だったことは、論文自体から明らかであるが(連載第4回、法協44巻5号87頁以下)、この大審院判決は「内縁」関係を「婚姻予約」と法律構成して保護した判決であるとする通説的な理解のさきがけとなった論文(の一つ)である。
 陰木論文に触発されて、今回改めて読み直した。大変な勉強の成果であるにもかかわらず、中川らしく、論述はおおらかである。
 唄が中川らの理解に異議を唱えたことは上述のとおりであり、この大審院判決は「内縁」を保護したのではなく、実際には、試し婚、未完成婚、ないし純粋な婚約関係の保護を認めたにすぎないと考えられるようになった。しかし、この判決をきっかけに、わが国において(民法には規定のない)「内縁」関係が判例法によって少しづつ保護されるようになったことは歴史的な事実であり、その後の中川がこの流れに掉さしたことも間違いない。

 中川論文は、婚姻における「儀式」の意義と法的効果の歴史をさかのぼり、広い地域と民族について検討した。法律学というよりは、民族学や人類学的な記述が論文の中心になっている。基本的には法律進化論の立場に立ち、歴史的に諸民族の間で、社会が原始的な状態から発展するに従って社会の最も基礎的な制度である婚姻制度は、安定した強固な(永続的な)制度として保障されるようになり、それにともなって「婚姻の儀式」が確立することになる。
 中川によれば、婚姻の儀式は、婚姻の「浄化性」と「公示性」を社会的な動機として実施されてきたのであり、社会が複雑化するにつれて婚姻の儀式が強く要請されるようになったという。「公示性」の要請は説明するまでもないが(婚姻成立を公に示す)、婚姻の儀式のもつ「浄化性」ということの意味がぼくにはよく理解できなかった。
 中川によれば「儀式は常に之に依て結合する性的関係を社会意識に対して浄化する作用を有つ」というのだが(法協44巻1号49頁)、儀式がなければ「不浄な」私通、野合に過ぎない性的関係が、儀式を経ることによって「浄化」されるという意味なのだろうか。広辞苑を引いてみると、「浄化」には、不潔なものを清潔化するという一般的な意味のほかに、卑俗な状態を神聖な状態に転化することという宗教的な意味もあるようだ。

 上記、唄の調査研究のあとでは中川(その先生である穂積重遠)の功績がやや色あせた感は否めないが、中川のこれ程の浩瀚な「婚姻の儀式」研究があったればこそ、わが裁判所は内縁保護の判例法を形成することができたのだと思う。
 ただし、わが大審院は昭和初期の段階で、すでに内縁保護の要件として婚姻の儀式を要求しなくなっている。昭和6年2月20日大審院判決は、双方が誠心誠意将来の結婚を約束したのであれば婚約は有効に成立し、結納取り交わしなどの儀式や家族らへの周知は必要ないとしたのである(「誠心誠意判決」などと呼ばれる)。儀式はあくまでも内縁の成立を証明する証拠方法の1つに過ぎず、儀式がなかった場合でも、関係者の供述など諸般の事情を総合勘案することによって内縁の成立が認められる(無儀式主義)。

 * ちなみに冒頭の写真は台湾の九份の夜景。「九份」というのは「9家族」という意味で、もともとは9家族によって拓かれた集落から次第に人口が増えていって、その後の発展につながったことによると、ガイドさんが説明していた。映画「千と千尋の神隠し」の舞台にもなったそうで、訪れた当日は大雨だったにもかかわらず日本人観光客であふれていた。
 ちょっと無理があるが、台湾の家族に関係がなくもないので。

       *   *   *

 さて、きょう6月30日で、定年退職からちょうど3か月が過ぎたことになる。
 無職になって、時間があり余るようになったら何をしたいのか、在職中はまったく何の思いも浮かばなかった。
 いざ仕事を辞めて時間に余裕ができてみると、夕方の散歩(せいぜい6000~7000歩)とテレビ(ほとんどはBS放送のイギリス・ミステリー)を除くと、結局は読書に費やす時間が大部分だった。しかも、家族関係のものに食指が動いてしまう。
 これからの読書計画を立てるために、この3か月間の読書は、なるべくこのコラムに読書ノートを記しておくことにした。3か月でこの程度だから、1年12か月間ではこれを4倍した程度しか本は読めない。あと10年くらい余命があるとして、その10倍程度である。
 やはり優先順位をつけて、イギリスの宗教教育関係の判例報告をまず済ませなければいけない。『エミール』だの『告白録』だの、『統治二論』だのは劣後させなければならないだろう。 

 2020年6月30日 記

 

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ニコラス・フリーリング 『雨の国の王者』(ハヤカワ・ミステリ)

2020年06月28日 | 本と雑誌
 
 ニコラス・フリーリング『雨の国の王者』(早川書房、ハヤカワ・ミステリ、)が推理小説の世界でどのくらい評価されているのか、そもそも最近の推理ファンに知られているのかさえ分からないが、ぼくが最も好きな推理小説(警察小説?)の一冊である。
 警察ものはぼくの好きなジャンルで、J・シムノンの『メグレ警部』はハヤカワ・ミステリや河出書房版で数十冊読んだ。エド・マクベインの『87分署』シリーズ(ハヤカワ・ミステリ)も20冊近く読んだし、マイ・シューバル+ペール・ヴァールの『マルティン・ベック』シリーズ(角川書店)も邦訳のあるものは全部読んだ。しかし、ニコラス・フリーリングはこの『雨の国の王者』1冊だけである。

 ぼくが『雨の国の王者』を読み終えたのは、1976年4月5日(月)と最終ページに書き込んである。サラリーマン生活2年目の4月である。夏の雨の軽井沢で読んだように記憶していたが、東京の春の雨の季節に読んだようだ。
 同書の解説を見ると、主人公ファン・デル・ファルク警部シリーズは、『アムステルダムの恋』『猫たちの夜』『バターより銃』という3冊がハヤカワ・ミステリから出ていたらしいが、読んでいない。『雨の国の王者』を気に入っておきながら、なぜ他のものを読まなかったのかは記憶にない。題名が悪かったのだろうか。

 『雨の国の王者』も、事件の内容はまったく記憶にない。しかし、ぼくのお気に入りになった理由はしっかり覚えている。事件の背景にある雰囲気が良かったのである。「雨の国の王者」という題名の含意も分からなかったが、「雨」の描き方が、雨が好きなぼくにぴったり合ったのである。
 あえて言えば、メグレ警部に近いだろうか。以前に書き込んだメグレもののどれだったかのラストシーンで、ブリューノ・クレメール演ずるメグレが雨の中庭に立ちすくむ場面があったが、『雨の国の王者』にもあの雰囲気があった。

         

 背景にある雰囲気が好きだという点では、87分署シリーズも同じである。87分署のキャレラ刑事の捜査よりも、犯罪が起き、捜査が行われるニューヨーク(アイソラ)の雰囲気がいいのだ。とくに87分署は、最初の一行と最後の一行がいい。
 「雨だ。これで三日間降り続いたわけだ。いやな三月の雨--華やかな春の訪れを押し流して、陰鬱な灰ひと色にあたりを包んでいる。」(『大いなる手がかり』加島祥三訳)とか、「窓から見たそとの景色は、十月から十一月にかけての、昔ながのさわやかに澄んだ秋景色。オレンジと黄金の色に染まった木々の葉が、あくまでも青くあくまでも冷たい青空に、くっきりと燃え上っている。」(『キングの身代金』井上一夫訳)など、冒頭の一行だけで、ストーリーの中に引き込まれてしまう。
 最後の一行もいい。最も印象に残っているのは、「明日の新聞は一面トップで伝えるだろう。熱波去る」というのだが、どの作品の最後だったか、ハヤカワ・ミステリをひっくり返したが見つからなかった。


         
 
 さて、『雨の国の王者』だが、このファン・デル・ファルク警部シリーズが、7月18日(日)に、BS放送560チャンネル “AXN ミステリー・チャンネル” で放映されるという。
 予告編をやっているが、舞台はアムステルダム、時代は現代に移されている。主人公を演ずる役者はぼくのイメージしていたファン・デル・ファルクとは程遠い。原作の主な舞台がアムステルダムだったのだ。それすら忘れていた。イギリスの雨の記憶になっていた。

 1960~70年代のアムステルダムと現在のアムスでは、イメージも違いすぎる。子どもの頃に読んだ『嵐のまえ』『嵐のあと』(岩波少年文庫)に描かれた、風車とチューリップの国、スケートの国という、オランダに抱いていた印象は今ではなくなってしまった。
 数年前に観光旅行で1泊しただけだが、アムステルダムは、運河はゴミが浮いて汚れていて、行きかう人もどこか冷たい印象だった。その意味では、今回のファン・デル・ファルク役の俳優はあっているかもしれない。
 予告編の第2弾も始まったが、「神秘」「麻薬」「移民問題」と、現代の病めるアムステルダムの抱える問題が扱われるらしい。そんなわけなので、テレビのファン・デル・ファルク警部は、見るのが怖い気持ちでいる。

 ニコラス・フリーリングはイギリスの作家と思いこんでいたが、ハヤカワ・ミステリの解説によれば、彼はロンドンで生まれ、フランスで育ち、オランダその他ヨーロッパ各地で生活しながら、作家デビューしてからはオランダに戻り、その後はストラスブールで生活しているという。英語版からの翻訳を読んだのと、その年のアメリカ探偵作家クラブ賞受賞作だったという宣伝から、そのように誤解したのだろう。
 テレビを見るのが怖いだけでなく、原作を再読するのも怖くなってきた。1976年の4月の東京の雨の思い出とともに、そっとそのままにしておいた方がよいような気持ちに傾いている。
 
 2020年6月28日 記


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モンテスキュー 『法の精神(上巻)』

2020年06月27日 | 本と雑誌
 
 ★ モンテスキュー『法の精神』(野田良之ほか訳、岩波文庫(上巻)、1989年。根岸国孝訳、河出版・世界の大思想、1974年)

 <承前>

 まだ第1部と第2部(岩波文庫版の上巻)を読み終えただけの段階だが、上巻の核心は、一般的には、第2部で論じられる三権分立論といわれているが、ぼくは、(三権分立よりも)民主政の本性としての「徳」を指摘したことが最大の功績と思う。
 
 モンテスキュー『法の精神』は三権分立を提唱したと中学や高校の教科書に書いてあるが、本書第2部が三権分立論にあたる。ここで説かれる三権分立はジョン・ロックの『市民政府論』(『統治二論』)に由来するものとされる。上巻291頁あたりの記述はロックを下敷きにしているらしい。ただしロックが権力を立法権と執行権とに二分していたのに対して、モンテスキューは第3の権力として裁判権を執行権から独立させたところ(287-9頁)に特徴があると解説にある。
 ロックの『市民政府論』は、かつてきちんと読んだつもりでいたが、執行権と裁判権が分離していなかった記憶はない。ロックは、父(家父)が家族に対して有するとされる生殺与奪の権を家父の家族に対する裁判権(jurisdiction)と述べていたが、言われてみれば父には当然「執行権」も帰属しているだろうから、加えて「裁判権」も認められるとなると、(少なくとも)父には「執行権」と「裁判権」がともに帰属していることになる。
 改めて『市民政府論』(鵜飼信成訳、岩波文庫)を眺めると、ロックは君主制を支持していたばかりか、その君主に執行権も立法権(の一部)も付与しているではないか。モンテスキューがロックを下敷きにしているということ自体が怪しくなってくる。そのうちロックも(これまた買ったまま放置してある)加藤節の新訳(『統治二論』単行本)で読みなおすことにしよう。
 いずれにしても、モンテスキューの三権分立は、公民の政治的自由--各人が自己の安全についてもつ確信から生ずる精神の静穏--を保障し、権力の濫用を防止するために、立法権力と執行権力と裁判権力とを同一の君主または同一の団体に帰属させてはならない(291頁)という点では現代の権力分立に通ずるが、今日的な立憲主義(立憲民主主義)体制、あるいは議院内閣制のもとでの三権分立とは性質を異にする。

     *   *   *

 彼の民主政ないし民衆政に対する批判の中には、現在でも傾聴に値するところがある。もしモンテスキューが現代に生きていたら、彼は立憲君主制を支持しそうな気がするが、(立憲?)君主制の失敗を経験して、戦後に生きるぼくとしては、貴族政ないし君主政の復活によって民主政の欠陥をしのぐわけにはいかない。やはり民主政の課題を乗り越えていくしかない。
 モンテスキューは、民主政(共和政といっている個所もある)の原理は「徳」(“vertu”[フランス語])であり(71頁)、民主政における教育の目標は「徳」であると言う(95頁)。ぼくたちは、教育によって「徳」の涵養を目ざすしかない。ちなみに、モンテスキューにおいて、「教育」は、父親による教育、教師による教育、世間による教育という3段階に分けられる(87、95頁)。
 岩波文庫版(上巻)の巻頭には「著者のことわり」という文章が付されており(河出版にはない)、そこには、共和政における「徳」とは政治的な「徳」であり、その「徳」とは「祖国への愛」と「平等への愛」であると記されている(31頁)。
 以前このコラムで新渡戸稲造の「平民道」について書いた際に、阿部斉さんの “virtue” 論に言及したが、モンテスキュー『法の精神』の冒頭で民主政(共和政)における「徳」(英語で “virtue”)に出会えたことは、ぼくにとって、この本の第1部を読んだことのもっとも大きな収穫であった。阿部さん(編集者時代に面識があったので「さん」付けにさせてもらう)の “ virtue ” 論もモンテスキューに由来するのだろうか。
 すべての民衆が教育によって「徳」を積み、「有徳」の人士となることは見果てぬ夢だろうし、学校教師にとって “mission impossible” かもしれないが、父親としてならできることはあろう。いずれにしても、君主の「徳」(モンテスキューによれば「名誉」か)に依存することはできない。

     *   *   *
 
 まだ読んでいない中巻、下巻も含めたこの本全体のテーマは、政体(共和政[民主政と貴族政]、君主政、専制政)と、その地域の習俗と法律との関係にある(風土論)。ギリシャ・ローマ史のエピソードなどは斜めに読み飛ばしてでも、風土、習俗、日常生活などがその地域の法律にどのような影響を及ぼしたかを検討した個所に集中して読まなければ、ぼくには通読できないかもしれない。
 総目次を眺めると、興味深い項目があちらこちらにちりばめられている。中巻では、第3部第16編の一夫多妻制の章、第18編の婚姻、成年、養子などの章、第4部第23編の婚姻や種の繁殖、子の遺棄に関する章、下巻では第6部の相続を論じた諸章などである。政体論や風土論との関係に関するモンテスキューの議論はともかくとしても、何とかこれらの項目にたどり着きたいものである。
 以下では、第1部、第2部の中から、ぼくの注意を引いた記述を抜き書きしておく。取りとめもないのだが。

 ☆ 同父異母の兄妹間の婚姻は認められるが、同母異父の兄妹間の婚姻は認められない。なぜなら、民主政の原理である平等の要請からは、1人の者が「2つの(=2人の「父」の)相続財産」を得ることは禁止されるからである、という(111頁)。
 後に見るようにモンテスキューは、現代人の眼から見るとかなり広範囲に近親婚を認めている。「本性に反する罪」、モンテスキューによれば「宗教、道徳、政治のどれもが非とする犯罪」(351頁。今日的に言えば性犯罪をさすようである)に付けられた訳注では、「男色、獣姦、近親相姦などをさす」とあるが(453頁)、「近親相姦」が含まれるかは疑問である。もし含まれるとしても、その範囲は現代のぼくたちが想定するよりはるかに狭いだろう。
 ☆ 共和政における籤(くじ)による決定の妥当性(56頁)は、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』における籤の効用に通ずる。少なくともぼくは「籤の効用」を軽視しすぎていた。
 ☆ 姦通の訴追は公開の法廷が効果的である(119-120頁)。そうだろうか。現代人の羞恥心からは、公開法廷での真実発見は困難ではないか。ローマの家族裁判所は法律の侵害だけでなく、習俗の侵害についても裁判を行った。この裁判所によって公の訴追に服せしめられた犯罪として姦通があった。なぜなら共和国における習俗をこれほど侵害するものはないからである(212-4頁)。
 どうも、ぼくが長年抱いてきた先入観と違って、フランス人の貞操観に関しては、「家族のスキャンダル」のほうが例外的なようである。
 ☆ 「法律は君主の眼である。彼は、法律がなければ見ることのできないものを法律によって見るのである」(170頁)。
 『台湾研究入門』では、法律や制度の「可視化」機能という分析視角に疑問を感じたが、モンテスキューも「可視化」論者だったとは・・・。ぼくとしては、例えば、土地所有権制度は収税確保(納税義務者の確定)が目的であり(わが明治初期の地券制度から地租改正への変遷)、戸籍制度は兵役義務者の所在を確定し徴兵することが(主たる)目的であった。そこで重要なことは権力者が何のために「可視化したい=見たい」と考えたかであって、「可視化」それ自体にはあまり意味はないと思うのだが。
 
 2020年6月27日 記


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モンテスキュー 『法の精神』

2020年06月26日 | 本と雑誌
 
 ★ モンテスキュー『法の精神』(根岸国孝訳、河出書房新社 “ 世界の大思想 ”、1974年)(野田良之ほか訳、岩波文庫(全3冊)、1989年)

 民法改正をはじめとする立法過程論ないし立法学を検討するなら、最初に立ち向かうべきは政体および風土・習俗と立法との関係を論じた古典中の古典、モンテスキュー『法の精神』から読むべきである、といった高邁な気持ちから読みだしたのではない。読まないままに放置してある本のうち分厚い本から読んで行こう、『結婚の生理学』、『エミール』(ただし上下巻の2冊のみ)と来たから次は文庫本で全3巻の『法の精神』にチャレンジしようといった程度で読み始めたのである。

 最初は野田良之ほか訳(以下では野田訳と略す)の岩波文庫版(全3冊)で読み始めたのだが、どうもすんなりと読み進めることができない。学生時代に買ってそのままにしてあった根岸国孝訳の河出・世界の大思想版の該当箇所を読み比べたところ、根岸訳の方がしっくりくる個所もある。
 例えば、野田訳では「官能」と訳しているところが意味不明のため(そもそも「官能」という日本語自体の意味がよくわからないのだが)、根岸訳を見ると「助平」と訳してあるではないか!「助平」も「官能」に劣らず分かりにくいが、かと言ってフランス語の原語にあたったところでフランス語のニュアンスはぼくには分かるまい。ほかの箇所では野田訳の「官能のはたらき」(上巻347頁)に対して、根岸訳は「感覚作用のはたらき」となっている(178頁)。
 おそらく現代語で言えば「性的な」くらいのニュアンスを1748年当時は露骨に表現することができないので、こんな言葉を用いたのではないかと思う。

 流れとしては「助平」式の根岸訳のほうがスムースに読めるのだが、正確を期したという野田訳も捨てがたい。例えば、根岸訳の「政法」というのが分からないので、野田訳を見ると「国制の法」となっていて、“droit politique”という原語も注記してある。結局、野田訳を読みながら時に応じて根岸訳を参照することにした。
 ちなみに、岩波文庫版は、ラテン語の翻訳の校正に協力したのが、私の編集者時代の大先輩である横井忠夫氏ということを「凡例」で知った。氏は十数か国語を操る語学の秀才で、誤訳に関する著書(『誤訳悪訳の病理』)などもある。この本からは、「誤訳を避けたければ、保険だと思ってとにかく辞書を引きなさい」という教訓を得た。訳者の一人である稲本洋之助氏と東大法学部の同級生だったとも聞いている。

          

 1週間かけて、ようやく岩波文庫版の上巻(第1部、第2部)を読み終えた。通読することそれ自体を目的に読みだしたのだが、内容が広汎にすぎて全体像がつかめない、下手をすると読み通すことができないかもしれない。手強くて、バルザックやエミールのようにはいかない。
 ギリシャ史、ローマ史、ペルシャ史、ロシア史、中国史、さらには日本史などの、それも古代から近世に至る史実が前提になっており、その知識を欠くぼくにはモンテスキューが持ち出す事例が説得的なのかどうかさえ判断できない。誰かの解説に書いてあったが、この本は全体の構成に難があり、各項目の配列にも問題があるという。ぼくのような浅学の者が論述の流れに乗れないわけだ。
 しかも、「啓蒙思想家」のはずなので、もっとフランス革命に至る歴史の流れに掉さす内容かと思っていたが、意外に貴族政に好意的な記述が目につく。これも解説によれば、この本はエルヴェシウスから「反動の書」と烙印を押されたという。
 モンテスキューは、高等法院副院長の官職を金で買い、その官職を売却した金で老後の生活を維持した法服貴族だったと解説に書いてある。自己保全という人間の本性に正直であれば、モンテスキューが貴族政を支持するのも当然だろう。古代ローマのことは詳細なのにフランスの当時の王政(ルイ王朝)への言及は余りない。ローマを語りつつ当時のフランス王政を批判しているのだとしたら、ぼくにはそのような「奴隷の言葉」を読み取る能力はない。素直に貴族政支持者の言説として字面とおりに読んでいる。

 長くなったので、上巻(すなわち第1部、第2部)の内容については、つづきで。

 2020年6月26日 記



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戦時中の「夜這い」など--政府刊行物から

2020年06月25日 | 本と雑誌
 
<民法・家族法関係>

 次は、民法ないし家族法関係。この分野からは足を洗う予定でいたのだが、そう簡単には抜けられそうもない。
 まずは、以前に古本屋で見つけて買ったまま放置してあった政府刊行物を2冊。
 
★ 臨時法制調査会『第3回総会議事速記録(民法改正関係)』(臨時法制調査会、1946年。昭和21年10月22日、23日、24日(内閣総理大臣官邸において)と表紙に記載あり)

 戦後の新憲法制定に伴って明治民法の親族法も大改正されたが、その過程で、とくに「家」制度の廃止を軸とする新民法(家族法)の提案(民法改正要綱案)に関する同調査会での審議の議事録。
 なんとか「家」制度の廃止を阻止しよう、せめて裏口から新民法の中に「家」をもぐりこませようと守旧派が抵抗したことは有名だが、その一斑を伺うことができる。
 同議事録の中で新民法に抵抗して発言しているのは、ほとんど牧野英一ひとりであるが、頻繁に発言を求め、多言を弄する割には意外にもその舌鋒は鈍い。「なんだ、この程度だったのか」と拍子抜けするくらいである。
 70年も経過した後になって、しかも活字になった発言を読んだだけでは、牧野の発言に迫力は感じられないが、審議当時、年長の牧野から「中川君」、「我妻君」などと君付けで呼ばれて質問を受けた中川、我妻らにとってはそれなりの迫力が感じられたのかもしれない。

 そんな感想を持つことができるのも議事録が残されており、それを読むことができるからこそである。議事録は残さなければならない。もちろん発言者が誰かも明記しなければならない。
 都合が悪くなれば議事録は廃棄してしまう、そもそも議事録を作成しない、発言者の名前は匿名にする(官僚のお膳立て通りの結論を導くのだから発言者が誰かは記載できないのだろう)、議事運営規則すら設けないなど、平然と居直る現政権下の諸審議会・諮問委員会などは、とにもかくにも記録を残した戦時中の内務省にも劣ると言わざるをえない。次の本に収められた各道府県の内務省宛て報告書の中には、その県で開かれた対策会議の議事録が付されたものもある(205、217頁の奈良県などは、発言者の氏名、所属も記載されている)。


 ★ 内務省警保局『銃後遺家族を繞る事犯と之が防止状況』(刑事警察資料15輯、昭和14年、1939年)。

             

 表題どおり、日中、太平洋戦争中のわが国で、応召軍人が内地に残した家族(とくに妻)に対して加えられた犯罪行為の実例を内務省が各道府県に収集・調査を命じ、各道府県からの回答と、それに対する対策を指示した実例集。
 「部外秘」と表紙に印刷してあるが、古本屋で売られていた。内務省か警察関係者が持ち出して、戦後になって古本屋に売ったのだろう。戦時下の家族生活の一斑を示すものとして、家族法の勉強の一環と言えなくもない。
 夫が召集されたのを幸いと、残された妻に夜這いをかけたり、姦通に及んだり、強姦を働いたり、かと思うと、遺家族に支払われる軍事扶助料を横領したり、出征軍人に貸した金を返せと虚言を弄して遺家族から金員を詐取したり、遺妻に支払われる扶助料や下賜金を横取りするために遺妻に離縁を迫ったり・・・と、あの日中・太平洋戦争の時代にも、わが国内にはとんでもない御仁が少なからず存在したのだった。

 姦通罪は親告罪なので、夫が告訴しない場合にはかかる事件を(非親告罪の)住居侵入事件として立件したという話は授業で聞いたが、その件数が多いだけでなく、姦夫が村長だったり、義父だったり、隣組だったり、徴兵担当吏員だったりと、唖然とする例も少なくない。加害者の氏名、住所、年齢、職業まで記されているが、仮名ではなさそうである。
 「夜這い」と呼ばれる慣習(悪習)が以前から存在していたことへの言及が何か所か見られ、その県名や地域名も記載されている(154、283、285頁など)。「斯かる悪習も平時は兎も角さしたる問題とはならず経過して来たが・・・」といった記述もあり(78頁)、「夜這い」に対する往時の警察の態度を示す法社会学的な資料としても有用である。
 これら事犯に対する基本的な対処方針は、決して個別の犯罪を処罰することが目的ではなく、これらの事犯がなくなり(減少し)、「平和にして秩序ある銃後」(2頁)、村が平和になることこそ「銃後警察の姿である」(80頁)と書いてある。戦時中の警察活動の実態を知る刑事学・刑事政策の資料としての価値もあろう。

 時あたかも、新型コロナの蔓延で、自粛だ、自粛違反だと喧しいが、自粛ムードの中を「夜の営業」による感染拡大や、六本木ヒルズの多目的トイレを他目的で使用した芸人の話題、給付金詐欺の事件などが報じられている。50年、100年くらいでは、人はあまり変わらないようだ。

 2020年6月14日 記


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『台湾研究入門』,『台湾を知るための60章』

2020年06月15日 | 本と雑誌
 
 <台湾について>

 なぜ台湾に関心があるか? 一つはわが家族の “ Family History ” である。
 ぼくの祖父は台湾総督府の下級役人の子どもとして、1890年代に台北で生まれた。祖父が亡くなった折に相続手続のために除籍簿を取り寄せた。しかし、祖父(というより曾祖父)は台湾に赴任する際に本籍を従来の内地から移さなかったため、戸籍からは、台湾における祖父ら家族の状況、いつ台湾に着任し、どこに住所を定め、いつ内地に引揚げたのかなどは一切わからない。
 植民地に対する後ろめたさからか、幼少だったために記憶がないからか、生前の祖父は台湾について多くは語らなかった。ただ、一つだけ忘れられないエピソードを聞いたことがある。4、5歳の頃に台風で増水した近所の川(淡水河か)を見に行った祖父は川に落ち、流されたのを、台湾人の大工が飛び込んで助けてくれたというのである。
 その台湾人がいなければ、現在のぼくは存在しない。祖父は生涯「回家」することはなかったが、「湾生」であることは間違いない。
 
 冒頭の写真は、台湾総統府の土産物屋で売っていた、旧台湾総督府庁舎の絵葉書。裏面は7銭の切手が着いた日本統治期の郵便はがきになっている。ちなみに総督府の建物1919年落成とある。

                  

 ★ 若林正丈・家永真幸編『台湾研究入門--魅惑的な社会を俯瞰する』(東大出版会、2020年)
 さて、この本の恵贈を受けた知人から読後感が送られてきたので、私も書いておくことにした。知人は「宝島」が了解できなかったと言っていたが、研究者にとっての「宝庫」といった意味のようだ。
 「台湾への新たなる誘い」、「『宝島』といわれる島・台湾という来歴を知るために」など様々な惹句が表紙に書いてあり、さらに上記副題のほかに、“ Invitation to Taiwan Studies ” というサブタイトルらしきものもついている。グラフィック・デザイナーの意匠なのだろうが、どれがこの本の特徴を示しているのか。どれもがこの本の特徴ということだろう。

 とくに強い関心を持って観察を続けてきたというわけではない「台湾」の来歴を何とか理解することはできた。鄭成功前後から、日本統治期、中華民国期、国民党支配期(蒋介石から蒋経国までの時期、その後の李登輝まで)、二大政党(政権交代)期(現在の蔡英文まで)の経過が理解でき、統一と独立と現状維持の拮抗も理解できた(と思う)。
 中でも、蒋経国末期から李登輝、陳水扁、馬英九、蔡英文に至る民主化の流れがよく分かった。しかもその法的な表現が(戒厳令の解除、刑法の言論処罰規定の廃止、特別立法を除けば)「中華民国憲法」の改正(増修)によって行われ、現在でも台湾統治の基本法が「中華民国憲法」であるというのもはじめて知った。「台湾大」の台湾化という流れからは意外である。
 そもそも台湾では「中国語」が通じないということも、この本ではじめて知った。日本語の映画はもちろん、「中国語」(普通語というやつか)の中国大陸映画も台湾の観客にはほとんど通じないことを知った。「台湾語」に多少似ている厦門(アモイ)語の映画なら何とか意味が通じるということを、この本で知った。北京も台北も旅行したことはあるが、現地の人たちがしゃべっている言葉は同じ中国語、せいぜい方言の違いくらいだと思っていた。『60章』によれば、ピンインも本土と台湾では異なるらしい。
 正直言うと、『入門』は、全くの門外漢には「入門」書としてはやや難しかった。とくに、「国府」、「台湾大」、「本土化」、「国語」、「可視化」などといったこの領域特有の用語法が、素人読者にはすんなりと頭に入ってこない。

 1950年生まれの「戦後民主主義世代」のぼくにとって、台湾は微妙な対象である。
 文化大革命の虚実が明らかになるまでは、少なくともぼくは人民中国に幻想を抱いていた。アメリカの支援を受けて人民中国に敵対する台湾(中華民国、国府)は反共、蒋介石の恐怖政治が行われる非民主主義国家である、しかし、かつて台湾を植民地として支配した者の末裔として、戦後の台湾政治を批判することは倫理的に遠慮がある。
 そんな世代から見ると、日本側と台湾側とを問わず、これらの本の著者である若い台湾研究者たちはのびのびと意見を述べていると感じられる。
 蒋介石、蒋経国の統治もぼくの抱いていたイメージよりは穏やかに描かれている。ぼくたちの時代の台湾に関するマスコミ報道は国民党の統治を黒く描きすぎていたのか。同じく、日本統治時代もぼくのイメージよりも穏やかに描かれている。かと言って、「『報怨以徳』の蒋介石に感謝」、「八田與一は偉かった」式の俗論とは無縁の、まさに等身大の台湾(著者らの言葉では「台湾大」の台湾か)が描かれている。
 
 ぼくにとって、この本を読んだ最大の収穫は、日本統治時代に台湾の旧慣調査を行った岡松参太郎の事績を知ったことである。偶然同じ時期に届いた「比較家族史研究」の最新号に岡松の業績を検討する論考が載っていて、これも併せ読むことで改めて家族法学者としての岡松参太郎のユニークさを知ることになった。「比較家族史」論文によると蕃族の旧慣を援用して、わが国の(明治)民法の届出婚主義を(当時の日本の実情に合わせて、婚礼の儀式が行われれば届出がなくとも婚姻の成立を認める)儀式婚主義に改めるべきであると、大正初期に主張するのだから、その発想に驚嘆する。これについては改めて書きたいと思う。

 同時代のぼくの記憶に残っている台湾独立運動家は、林景明さんである。彼が、台湾へ強制送還されるために羽田で飛行機のタラップに連行される姿を望遠カメラで俯瞰した写真が新聞か雑誌に載っていたと記憶する。この本も次の本も林景明さんのことにふれていないが、ぼくの記憶がゆがんでいて、彼の重要性は低いのだろうか。
 台湾における共産党ないし社会主義者はいなかったのか(李登輝も京大の学生時代は社会主義的だったので当初は国民党に睨まれていたとは書いてあった)、逆に、戦後大陸側に残った国民党の残党はどうなったのか、そういう人がいたのか?も知りたいところである。
 下の写真は国父記念館(台北)の孫文の坐像。衛兵交代式が行われる。

         
  

 ★ 赤松美和子・若松大祐編『台湾を知るための60章』(明石書店、2016年)

 『台湾研究入門』は難しすぎたと著者の一人に感想を語ったところ、それではこの本を読んでみるようにと勧められたのが『台湾を知るための60章』である。
 『60章』では芸能やスポーツなども含めて、様々な「台湾あるある」式の項目が建てられていて、懐かしい人物や出来事を思い起こすことができた。
 政治的コレクトネスでは、以前から居住していた民族を「先住民」と称するようになっているが、台湾では「先住民」のほうが蔑称であり、「原住民」が使われていることを知った。台湾研究者がこともなげに「原住民」と記述することに違和感を抱いていたのだが、こんなこともこの本で知った。

 台湾出身のスポーツマンとしては、(王貞治はあまりにも有名すぎるので除くと)楊伝広が一番懐かしい。
 彼は1964年の東京オリンピックに台湾代表として(当時は「中国」代表だったか?)、近代10種競技に出場した。その前年に彼は世界新記録を出していたのだが、オリンピックでアジア人に勝たせるわけにはいかないということだろう、10種競技の配点が彼に不利な方向で変更されたため、本番ではメダルを取ることができなかったと報じられたと記憶する。
 競技が終わって、夕闇に包まれた今はなき国立競技場のフィールドに膝を抱えて座り込む彼の姿が忘れられない。スポーツに政治が介在することを思い知らされた最初の出来事でもあった。
 アサヒグラフの「東京オリンピック」特集号には彼の写真が載っていたはずである(下の写真。台湾選手となっている)。

     

 若い台湾研究者たちには楊伝広は忘れられた(知らない)存在なのだろう。郭源治や陽岱鋼とおなじくアミ族の出身だったようだ。

 翁倩玉(ジュディ・オング)はぼくと同じ1950年生まれだった。NHKで放映された「三太物語」でおきゃんな女主人公を演じていた頃からのファンだったぼくは、高校生時代に、彼女が通うアメリカン・スクールからの下校時に、武蔵境駅で会えるのではないかとホームのベンチで待ち伏せしていたこともあった。
 当時は芸能雑誌にタレントの住所が書いてあって、確か彼女の住所は三鷹市中原だったので(当時のぼくの生徒手帳には番地まで書いてある)、彼女は是政のアメリカン・スクールに通っているだろう(ぼくの決めつけである)、それなら武蔵境で乗り換えるだろう、だから待っていれば会えるかもしれないと勝手に決めていたのである。武蔵境からはアメリカン・スクールの生徒が中央線に乗りかえてきたが、もちろんジュディ・オングには一度も会うことはできなかった。そもそも電車通学などしていなかっただろう、と今にして思う。

      

 上の写真は、1965年ころの新聞広告に載った彼女の笑顔。1965年の学生日記(旺文社)の1月2日(土)のページに挟んであった。この日のテレビの単発ドラマに出ている彼女を見て、好きになってしまったようだ。

 個人的な興味としては、同性婚だけでなく、その他の家族の問題、離婚後の子の監護(日本以上の少子化だから子の奪い合いも少なくなかろう)、婚姻住居の帰属(台北も住宅難であると聞いた)、老親扶養の問題、相続紛争の実態など、簡単にでもふれてほしかった。第3子の男女比が1・3対1という紹介があったが、禁止されているという人工生殖による男女の産み分けによらずにこの結果は不可能だろう。
 台湾の国際法上の地位についてはもっと知りたいところである。中国との関係(分断国家なのか?)だけでなく、金門、馬祖、釣魚(尖閣諸島)などの現状を国際法ではどのように説明しているのだろうか。金門、馬祖島が大陸から2kmしか離れていないことも今回初めて知った。あんなところを台湾はよくぞ死守したと思う。アメリカの力だろうか。

 このところ、毎朝(または夜中に)CCTV大富で「密査ーー国共合作の裏舞台」というドラマを見ているが、頻繁に出てくる「中統」と「軍統」という組織が何だかわからなかったが、この本で知ることができた(321頁)。
 ついでに、7月5日(日)午前7時に、日本映画専門チャンネル(501ch)で「湾生回家」が放映される。ぜひ見なければならない。 

 2020年6月16日 記

 ※追記  『学生日記 1965』には付録がついているのを発見した。その中の「スポーツ記録」という欄に、陸上の世界記録<男子>十種競技 9121点 楊伝広 台湾 1963年 とあった。楊伝広は東京五輪ではメダルを取れなかったが、彼の世界記録は1965年時点でも更新されていなかったようだ。ちなみに日本記録は、鈴木章介 大昭和 1963年 6579点である。


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ルソー 『エミール』 ほか

2020年06月11日 | 本と雑誌
 
 定年退職後、これまでに読んだ本の感想文をいくつか。
 手あたり次第に読んでおり、時系列では内容的に一貫性がないので、内容別に整理した。バルザック『結婚の生理学』など、すでに書き込んだ本は除く(一部重複あり)。

 <「教育」とは何か>

 親の教育権についての報告という宿題を背負ったまま定年を迎えてしまったので、まずはこれに片をつけなければならない。ということで、「教育」とは何か、を考える本を数冊読んでみた。

 ★ Ph. アリエス『「教育」の誕生』(新評論)
 ★ 堀尾輝久『現代教育の思想と構造』(岩波書店)
 両方とも、部分的に読んでいたのだが、時間ができたので通読した。とくに堀尾氏のものは昨年末に東京女子大学の丸山真男資料室(?)で開催された彼の講演を聞きに行ったこともあったので、真っ先に読んだ。
 定年前にやり残した仕事の一つが、子どもを教育する親の権利の問題であり、しかも一番勉強させてもらった研究会で、親が信仰する(特異な)宗教に基づいた教育を子どもに課することの可否が争われたイギリスの裁判例を報告する宿題を果たさないままでいる。
 親の教育権を論じた先行研究にはあまり納得していないのだが、さりとて自信をもって自説を展開できるわけでもない。

 ★ ワロン/竹内良知訳「一般教養と職業指導」『ワロン・ピアジェ教育論』(明治図書)
 ぼくは新制大学は、戦前の教育制度でいえば「実業学校」であると思っており、そのような性格を持つ新制大学で「職業教育」はどうあるべきかを考えてきたが、そのような動機からたまたま手元にあったこの本(のこの論文)を読んでみた。

                
     
 ★ 新渡戸稲造『自警録』(講談社学術文庫、1982年、原著は大正5年(1916年)刊)
 新渡戸が「実業の日本」に連載した実業人向けの人生訓。彼は、一高校長として訓示するときと、「実業の日本」(彼は同社の編集顧問だった)に執筆するときとでは論調も用語も使い分けていたという。
 実業学校としての新制大学において、講義をする際にどのようにテーマを設定し、どのような話し方で語りかければよいかを考える際に一番参考になったのは、新渡戸が「デモクラシー」を「平民道」として論じたことだった。ただし、このことを論じたエッセイは『自警録』ではなく、教文館の全集のどれかに収録されていた。
 ※新渡戸稲造全集5巻(1970年、教文館)に収録された「随想録」(明治40年、丁未出版社刊)のなかに「平民道」が収録されているが、この随想は「デモクラシー」の訳語として「平民道」を当てるという内容ではなかった。ネットで調べると、青空文庫に「平民道」という題名のエッセイ集が収録されているようだ。

 「道」とは、政治学者がいう(といっても阿部斉さんが『政治』(UP選書)の中で書いていたのを読んだだけだが)民主主義における “ virtue ” (徳)というやつだろう。スペルを確認するためにウィズダム英和辞典(三省堂)を引いてみたら、“ virtue ” の語源は「男らしさ」であり、語義の中には「(女性の)貞節、貞操」というのもあった。どのように転義すると、こんなことになるのか。辞書を読むと面白い発見がある。

 ★ 刈谷剛彦・吉見俊哉『大学はもう死んでいる?』(集英社新書)
 そういえばこんな本も読んだ。「大学はもう死んでいる?」というより「東大はもう死んでいる?」という書名のほうが内容にふさわしいだろう。近代化のためのテクノクラート養成を目的に作られたキャッチアップ型教育機関である(とぼくには思われる)東大が21世紀にはどうしたらよいかを論じているが、道は険しそうである。
 普通の大学の職業教育を考える上ではあまり参考にならなかった。
 
 ★ ポール・ウィリス/熊沢誠・山田潤訳『ハマータウンの野郎ども』(ちくま学芸文庫、1996年)
 原題は “ Learning to Labor ” であり、「ハマータウンの野郎ども」はあまりにひどくはないか。書名からは何の本か分からない。邦語訳の副題「学校への反抗、労働への順応」の方がよい(ただしこの翻訳者の訳業はすばらしい)。
 階級社会であるイギリスの「中等学校」(「セカンダリー・モダン・スクール」とルビが振ってある)が下層労働者階級の子弟(「野郎ども」“ lads ”)の教育に失敗した1960~70年代の状況を(当事者へのインタビューを中心とした)参与観察で記述した部分と考察からなる。
 当時のイギリスの中等教育は、上流階級の子が「グラマー・スクール」、中産階級の子が「テクニカル・スクール」、そして労働階級の子が「セカンダリー・スクール」と歴然と分断されており、階級間の移動は極めて例外的だったようだ。「階級」が目に見えないわが国の「実業学校としての新制大学」における職業教育の在り方については、残念ながらあまり参考にはならなかった。
 イギリスの中等学校で行われようとした職業教育が「野郎ども」には効果がなかったのに対して、「野郎ども」は(やがて自分たちもその一員になる)下層労働階級に属する親から職業に必要な多くのこと(商品のちょろまかし方などまで含めて)を学んでいるというのは(こういうのも「文化資本の相続」なのだろうか)、親の教育と学校の教育の拮抗という面では興味ある事例を提供してくれる。

 ★ コンドルセ/渡邊誠訳『革命議会における教育計画』(岩波文庫、昭和24年)

     

 最終ページに1990年3月22日、石神井公園駅側きさらぎ文庫で購入、300円と書き込みがあった。こんな古本屋が石神井公園駅近くにあったとはまったく記憶にない。駅南口の正面に新刊本の書店はあったが。
 著者の教育制度論でいえば、今日の日本の「大学」はアンスティチュ( institut ) だろう。それは小学校・中学校の初等教育の次に位置し、アンスティチュ(仏和辞典には「学院」という訳語が載っている)の後には高等教育機関としてリセ( lycee )と学術院(早稲田みたい?)が続く。リセは今日では「高校」に相当するが、コンドルセのリセは今日の「大学」のようである。
 コンドルセによれば、わが国の現在の「大学」に相当する「アンスティチュ」では、「人として、市民として、将来如何なる職業に就くにせよ、知っていれば役に立つようなもののみでなく、これら職業の大きな各分野、例えば農業・機械技術・軍事のごとき職業に役だつことのできるすべてのものを教授し、しかも、さらに普通の開業医・助産婦・獣医にとって必要な医学上の知識をも授ける。」とされる(29頁)。
 最後の開業医云々はともかく、現在の大学に求められているのは、まさに、このアンスティチュの教育であると思う。
 
 ★ ジャン・ジャック・ルソー/今野一雄訳『エミール』(岩波文庫、1962年、1964年)
 全3巻のうち、上巻と下巻だけ読んだ。上巻は以前に読んだ形跡があったが、下巻は初めて読んだ。中巻の部分は、堀尾輝久ほか『ルソー「エミール」入門』(有斐閣新書)の要約で済ませた。実は『入門』の要約の方がルソーの言いたかったことが多く理解できた。
 堀尾氏の本とのつながりもあるが、実際はバルザック『結婚の生理学』を読んだのをきっかけに読もうと思ったのである。ああいう18、19世紀の饒舌な長々しい文章を読むのがあまり苦痛でなくなったのである。やはり時間があり余っているからだろう。
 『エミール』は教育論というより、小説として読む本だろう。バルザックの『結婚の生理学』が家族論(貞節論)なのか小説なのか、ぼくには分からないが、『エミール』は『結婚の生理学』よりは小説的である。
 下巻で、エミールがソフィーと出会い、恋愛し、結婚し、そして最後にエミールが父となることを先生に報告に行き、生まれてくる子どもは自分たちで教育すると宣言するのだが、親から引き離され家庭教師による教育を受けたエミールが、自分の子は自らの手で育てると宣言することが「自然教育」の結末というのは反語的である。
 一種の「捨て子(の再生)物語」として読んだ。

 下巻の最初の数十ページには、ルソーの女性論が書いてあるが、かなり固定的な性別役割分担論で貫かれている。最近のジェンダー論者はルソーをどう読むのだろうか。
 バルザックとのつながりで言えば、姦通に関して、「世にも恐ろしい状態があるというなら、自分の妻に信頼をもたず、・・・わが子をだきしめながらも、他人の子を、自分の不名誉の根拠となるものを、自分の財産をうばいとる者を、だきしめているのではないかと疑惑を感じている不幸な父親の状態がそれだ」などという記述に出会った(下巻13頁)。
 フランスだからと言って、 “ 家族のスキャンダル ” のように陽気に笑って済ませる問題ではないようだ。

 2020年6月10日 記


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ホイジンガ 『ホモ・ルーデンス』

2020年06月01日 | 本と雑誌
 
 ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(里見元一郎訳、“ ホイジンガ選集1 ”、河出書房新社、1971年)を読んだ。
 何で、どういう脈絡で読み始めたのかは、忘れてしまった。数日前に読み始めたのに。
 読まずに放っておいた本の中から、放ったらかしておいた時間の長いもの(=古い本)から順番に読もうとでも思ったのだろうか。
 
 一番初めに読んだのは、第4章「遊びと裁判」である。
 何で裁判が「遊び」なのか? 当事者は必死である。それを「遊び」とは! かつて騒がれた割には噴飯ものではないのか、と思いつつ、改めて最初から読み始めた。

 結論的に言えば、何を言いたいのかよく理解することができなかった。
 どの部分を読んでいても、「それで?」と言い返したくなってしまう。とくにオランダ語やドイツ語、ラテン語などの語源から「遊び」の系譜を説明する個所が結構あるのだが、これに引っかかった。

 著者はオランダ人で、「遊び」は “Spel” 、“speling”という語の訳語らしい(56、66ページほか)。そして書名にもなっている『ホモ・ルーデンス』 “ Homo ludens ” は、“ludus” というラテン語に由来するという。“ludus”は「学校」を意味し、遊学すなわち「どこどこに遊ぶ」を意味するらしい。
 しかし、これらのヨーロッパ系の言葉が、日本語の「遊ぶ」と1対1で対応しているのか納得できなかった。たとえホイジンガの主張が正しくて、ヒトが “homo ludens” だったとしても、それが「遊ぶヒト」と言えるかどうかは疑問である。
 『ホモ・ルーデンス』には他の訳者による訳本も出ているようだが、それらの本も「遊ぶ」という訳語を当てているのだろうか。

 たとえば、英語の “play” と日本語の「遊ぶ」を比べただけでも、その意味する範囲は大いに異なる。
 “play” にはスポーツ、ゲーム、演劇などが含まれるが、「遊ぶ」には(ホイジンガで重要な意味を持つとされる)演劇は含まれない(芝居を演ずる)。野球をする場合でも、 “play baseball” は野球で「遊ぶ」とは言わず、「野球をする」だろう。(そう言えば、野球ファンだった池井優氏が、試合開始の合図 “play ball” は「ボールで遊べ!」だ、と書いていたが、普通はそうは訳さない。)
 他方で、日本語の「遊覧」、「遊学」、「女遊び」や、「土地を遊ばせておく」などといった場合の「遊ぶ」は “play” に置き換えることはできない。
 
 「遊び」の対立概念だとする「真面目」も、オランダ語の原語は書いてなかった(ように思う)が、日本語の「真面目」と対応するのか疑問である。
 といった、言葉の問題だけでなく、全体としても、人間は「遊ぶヒト」であると説得されることはなかった。
 人生においては、「遊び」の部分もあるという程度であれば、それは同意できるが。

    *  *  *
 
 ぼくの人生の中で最もホイジンガ的な「遊び」だったなと思い出した出来事は、小学校4年生の頃の同級生Yくんの行動である。

 昭和34年の世田谷区梅ヶ丘、根津山あたりの出来事である。
 当時の世田谷は、まだそこかしこに畑が残っていて、ネギ坊主などが植えてあった。そして、畑の隅には肥料をためた肥溜めが掘ってあった。長方形で、幅は、長辺が1メートル強、短辺が70~80センチくらいだっただろうか。溜めてあるのは、落とし紙に使った新聞紙の切れ端などが混ざった人の糞尿である。

 何を思ったのか、遊んでいた同級生3、4人でこの肥溜めを飛び越える「肝だめし」をすることになった。
 ほかの子たちは無難に短辺の方を跳躍したのだが、Yくんだけは1メートルほどの長辺の方に挑んだのであった。
 校庭の砂場なら知らず、跳ぶのは肥溜めの上である。それを跳ぼうと挑んだYくんは、対岸に到達できず、あえなく肥溜めに落ちてしまった。
 幸い、深さは背が立たないほどではなかったので、Yくんは糞まみれになって這い上がってきた。

 みんな押し黙って(息を止めていたのかもしれない)Yくんの家まで、渋谷駅から淡島車庫を経て経堂駅に向かう小田急バスが通る道を、とぼとぼと赤堤方面へ歩いて帰った。
 家に着くとお母さんが出てきて、庭先だったか道路上でホースで頭から水をかけた。

 このYくんの行動を、だれも笑わなかった。
 なぜだったのだろう? ホイジンガによれば、長辺に挑んだYくんは、短い方しか飛ばなかったぼくたちに対して「名誉」を獲得したのだろう。
 正しい読みかたなのかどうかわからないが、読んでいる間じゅう、何度かYくん--正確には幼稚園も同じだったので「Yちゃん」と呼んでいた--のことが思い出された。

 ホイジンガに戻ると、「遊び」とは、「自発的な行為もしくは業務であって、あるきちんと決まった時間と場所の限界の中で、自ら進んで受け入れ、かつ絶対的に義務づけられた規則に従って遂行され、そのこと自体に目的を持ち、緊張と歓喜の感情に満たされ、しかも『ありきたりの生活』とは『違うものである』という意識を伴っている」ものである(56ページ)。

 文化は遊びの中から生まれ、演劇、音楽、(スポーツ)競技などだけでなく、祭り、宗教、学問、法律、国家生活の形式の中に結晶化しているという。
 遊びは2組の間で対立的であり、闘技的・競技的な要素を持ち、その不確実性から賭けや籤引きの要素を持つ。一般に「遊び」は「真面目」と対立するかに思われるが、遊びは真面目と両立するという。

 「裁判が遊び」とは何だ!と最初は思ったが、著者に共感した部分もある。
 そういわれてみれば、裁判は、少なくとも建前としては当事者双方の「弁論」によって争われるものである。
 しかも、裁判の最後は勝ち負けであり、しかも、偶然に当たった裁判官の性格や価値観によって、同じ問題でも結論(勝ち負け)が分かれることは頻繁に起こる。
 英米の陪審裁判の場合は、陪審員が裁判官の説示や法を無視して評決することはしばしば起きる(jury nullification)。陪審員の評決はいっそう「偶然」によることが多い。
 
 ぼくは「科学としての法律学」といった考え方には同意しかねるものであり、法律学の起源はむしろ弁論術にあったと思っている。
 定年後の読書としても、ウェルマンの『反対尋問の技術』や戒能通孝氏の『法廷技術』を読もうと思っていたのだが、「法廷侮辱罪」(や司法妨害罪)にも興味が広がり、法廷における「宣誓」の胡散臭さ(偽証罪の成否)にも関心が生じた。

 法律学における「くじ引き」についても考えさせられた。
 最近、法律学の世界でも「くじ引き」による決着への関心が高まっている。
 たとえば、わが婚姻法改正要綱は、結婚の際の夫婦同氏(民法750条)規定を廃止して、夫婦別氏(別姓)を認めることを提案しているが、夫婦間の子どもの氏については、婚姻届出に際して夫婦間で協議でして統一しなければならないと規定している。
 もし夫婦間で協議が調わなかった場合はどうするのか。1950年代までのヨーロッパ諸国のように夫の氏を子どもの氏にするという訳にはいかないだろうし、男の子は夫の氏、女の子は妻の氏というのも差別的である。夫婦のどちらの氏を称することが子どもの利益にかなうかなどを家庭裁判所裁判官が判断できるわけもない。
 そうなると、協議が調わない場合には「くじ引き」によって決するというのが後腐れがなくてよいのではないか。「子どもの氏をくじ引きで決めるなんて!」と言われそうだが、ホイジンガを読むことによって、以前よりは「くじ引き」への違和感は小さくなった。 
 
 本書によると、プラトンは『法律』の中で、人間は神の遊び道具として造られた、したがって人は美しく遊びながら人生を生きるべきだと語っているらしい(40ページ)。
 ぼくは時々、「人生というのは、神様か誰かによってあらかじめ作られたシナリオに従って進行しているのであり、ぼくたちはただそのシナリオを演じさせられているだけではないのか」という感覚に陥ることがある。
 プラトン『法律』も買ったまま放置してあるが、そのうち読むことにしよう。


 2020年6月1日 記
 

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