豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

コリン・ウイルソン『殺人百科』--ヒチコックの“ロープ” 2 

2008年03月26日 | 本と雑誌
 
 先日みたヒチコックの“ロープ”は、現実に起こった殺人事件をモデルにしていると、何かの解説に書いてあった。

 そこで、かつて読んだコリン・ウィルソンの『殺人百科』に載っているはずと思って、わが家の物置を探したが見つからなかった。
 きょう軽井沢に行ったので、ちょっと別荘に立ち寄って探してみると、コリン・ウィルソンの他の殺人モノと一緒に、本棚に並んでいた。

 コリン・ウイルソン/大庭忠男訳『殺人百科』(弥生書房、1963年)、改訂増補版と銘打ってある。
 帰宅してパラパラ眺めると、「秀才青年の『完全犯罪』実験」というのがあった。1924年の事件である。これだろう。

 シカゴ大学ロー・スクール(!)の学生ネイサン・レオポルド(19)と友人リチャード・ローブ(18)の二人は、ニーチェの超人哲学にかぶれ、自分たちは法や道徳を超越した存在だと信じ、刺激を求めて小さな窃盗を繰り返した後に、「完全犯罪」を計画、実行することになる。

 ローブの弟の同級生を誘拐して殺害しておきながら、親に身代金を要求したのである。しかし、死体遺棄現場にレオポルドが自分の眼鏡を落としたことから、警察の取調べを受けることになり、まずローブが、つづいてレオポルドも自白したという。

 実際の犯人の一人が「ローブ」という名前であることと、ヒチコックの映画の題名が「ロープ」になったこととの間に関係があるのかどうかはわからないが、ニーチェの超人哲学に影響されたというあたりは同じである。
 キネマ旬報『アメリカ映画作品全集』の“ロープ”の解説によれば、映画のほうのジョン・ドールとファーリー・グレンジャーも「超人思想に駆られた」と説明されている。

 映画“ロープ”の二人の関係を同性愛とみる見方があるらしいが、同書によると、現実のレオポルドとローブにはそのような傾向があったようだ。 
 ただし、メカスの『映画日記』か何かでは、評論家は男が二人登場すると何でも同性愛に結びつけて解釈しすぎると批判していた。

 現実の事件では、探偵役のジェームス・ステュアートのような学生寮の先輩は登場せず、地道な警察の捜査によって犯人は捕まっている。
 二人とも終身刑+99年の懲役刑を言い渡されるが、ローブのほうは獄中で同性愛の相手に殺され、レオポルドのほうは刑期を33年勤めた1958年に仮出獄を許されたという。
 訳者の追記によれば、1963年3月25日号の“ニューズ・ウィーク”誌にレオポルドのインタビューが載っているという。

 ちなみに、二人の弁護をしたのが、クラレンス・ダロウだという。ダロウも進化論裁判から同性愛殺人まで、ずい分さまざまな事件の弁護に登場するものである。ダロウの伝記『アメリカは有罪だ!』(サイマル出版会)にもこの事件が登場する。

 * 写真は、コリン・ウイルソン/大庭忠男訳『殺人百科』(弥生書房、1963年[改訂増補版])の表紙。

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きょうの軽井沢(2008年3月26日)

2008年03月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 きょう、今年はじめて軽井沢に行ってきた。

 今年の冬は寒くて、雪も多かったので、今日まで控えていた。

 天気予報では、9:00から15:00までは晴れのはずだったが、9:50にショッピング・プラザに到着した頃は曇り空で、時おり雨が降ったりもした。
 不思議なことにEast Wing はけっこう降っていたが、West Wing のほうは小降り。軽井沢の天気は、ずい分局地的である。

 昼すぎから時おり日も射してきたが、残念ながら浅間山は雲に隠れて見えなかった。佐久農協軽井沢店も水曜は定休日で、野菜の買出しはできなかった。
 帰りがけにツルヤに立ち寄ると、ようやく浅間山が雲の間から少しだけ姿を見せた。
 山肌にはまだ雪が残っていて、冬景色だった。

 例によって、ツルヤの駐車場から眺めた(わずらわしい電線越しの)浅間山の写真をアップしておく。

 2008/3/26

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“市民ケーン”

2008年03月23日 | 映画
 
 “市民ケーン”を見た。 

 何か面白くなさそうで、昔から敬遠してきた映画だったが、ひょっとして食わず嫌いかもしれないと思って、先日500円DVDを買った。

 そして、きのう(3月22日)の卒業式の後、夜の追い出しコンパまで時間があったので、研究室のパソコンで見ることにした。

 やっぱり、ぼくの苦手な映画であった。面白くないのである。水野晴郎の解説によると、さまざまな新しい試みを取り入れた映画らしいが、「次にどうなるのだろうか?」という気持ちが全然起きないのである。

 途中、アル中の2番目の妻に会いに行くあたりでついに眠ってしまい、目が覚めたら、貧しかったコロラドでの子供時代に使っていた、そして成金になったとき、迎えに来た後見人役の銀行家に投げつけた木製の雪そりがゴミとして燃やされるシーンだった。

 「バラのつぼみ」という謎の文字も、その雪そりに書かれた文字だった。

 佐藤忠男『世界映画100選』(秋田書店、1974年)によると、オーソン・ウェルズ、25歳のときの作品で、モデルは「新聞王」ハーストらしい。

 かれの紹介によると、ハーストとピュリッツァーが競って煽るようなことをしなければ、米西戦争は起こらなかったかもしれないというくらいの影響力を持っていたという。
 映画の中でも、ケーンの新聞が「売らんかな」で戦争の危機をあおると、銀行家が「キューバで戦争なんか起きていない」と反論するシーンがあった。

 こういった内容がハーストの逆鱗に触れたため、彼の息のかかった新聞に酷評されたり、上映を妨害されたために、この映画は興行的には惨敗を喫したと書いてある。
 ぼくは、興行的な敗北の原因はそれだけでなく、内容のせいだろうと思う。なんか薄暗くて、汚い画面なのである。埃にまみれた物置部屋を見せ付けられているようで気がめいってくる。
 これでは、ハーストの妨害がなかったとしても、それほどヒットしたとは思えない。映画はただの娯楽、画面が動く大人のおもちゃ、時間潰しにすぎないと思っているぼくには無縁の映画だった。
 まあ、話のタネに見ておくかという程度の映画だった。

 * キープ(KEEP)版“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画[黒8] 市民ケーン”(1941年)のケース。

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卒業式

2008年03月22日 | あれこれ
 
 今日は卒業式。

 夜は追い出しコンパ。就職活動に忙しい3年生も結構集まった。

 卒業する4年生から、ネクタイとタイピンと花束、そして全員からの手紙を添えたアルバムをプレゼントされた。

 ぼくは専門科目のほかに、1年次配当の教養科目も担当しているのだが、手紙を読むと、ゼミ生たちの多くは、この1年生の時の授業が面白かったのでぼくのゼミを志望したと書いていた。

 ゼミ生たちとは、3、4年生の2年間だけの付き合いかと思っていたのだが、1年生のときからの付き合いだったゼミ生も少なくなかったことに気づいた。

 僕自身大学1年生のときにつまらない授業に失望させられた経験がある。なんとか3月までは高校生だった彼らをひきつける授業をしたいといつも思っているが、60近くなって少ししんどい気持ちにもなるときがある。
 しかし、ゼミ生たちから送られた手紙を読んで、またこの4月からも頑張っていい授業をしなければという気持ちになった。

 * ゼミ生から贈られた花束。

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“片目のジャック”

2008年03月20日 | 映画
 
 眠れない夜のために、映画のDVDをせっせと買い込んでいるのだが、そうなると、全然不眠にならず、何時だったか、夜中に“西部開拓史”を延々とみた日以来、わが家のNight Show は開店休業の状態。
 DVDが溜まってきたので、消化するために義務感から“片目のジャック”をみた。

 マーロン・ブランドが、唯一自ら監督、主演した映画だそうだ。「なんでマーロン・ブランドが西部劇?」と不思議だったが、映画も不思議なものだった。

 メキシコで銀行強盗をしたマーロン・ブランドは、相棒のカール・マルデンに裏切られ、奪った金は持ち逃げされたうえ5年間刑務所にぶち込まれる。
 5年経って脱獄した彼は、メキシコの強盗仲間と組んで、今ではカール・マルデンが保安官を務める町の銀行を襲撃し、保安官に復讐することにする。

 襲撃前に、彼はまったく恨んでいないように装って保安官を尋ねる。ちょうど町の祭りの夜で、保安官の妻の連れ子のメキシコ娘と恋におち一夜を共にし、やがて彼女は妊娠する。
 祭りの翌朝、諍いに巻き込まれた彼は相手を撃ち殺すと、彼を恐れていた保安官は、彼の利き腕を銃座で潰して拳銃を使えないようにしたうえで追放する。

 復讐を誓った彼は、海辺の町で養生し、復讐のために拳銃の稽古に励む。しかし尋ねてきた娘と話しているうちに、彼はオレゴンに去る決心をする。
 ところが仲間たちは、銀行を襲撃したうえ、彼に濡れ衣を着せてしまう。再び捕らえられ、しかし娘の手助けで脱獄した彼は保安官を撃ち殺してしまう。

 娘は彼に妊娠したことを告げ、一緒にメキシコに逃げようというが、彼は「いつか君がこの町で幸せに暮らしているのを、君に気づかれずにそっと見に来る」と言い残してひとり旅立っていく。

 “片目のジャック”とは、トランプのジャックのことだそうだ。ジャックはすべて横顔で片目しか見せていない。水野晴郎の解説では、ジャックはマーロン・ブランドのことで、スペード(もと相棒への復讐)ともハート(メキシコ娘との恋)ともペアになりうるという意味だと書いてある。
 しかし、映画の中では、マーロン・ブランドが保安官に向かって、「おまえは片目のジャックだ。片方では偽善者面をしているが、もう片方は悪党だ」と吐き捨てていた。 

 マーロン・ブランド自身は、「堅気づら」をするのが嫌で、自分の子を妊娠した娘を捨ててまで、“片目のジャック”になることを拒んだように思う。

 舞台は、最初はメキシコ、そして復讐相手が保安官をしている町は、なんとカリフォルニアのモントレーである。あの“エデンの東”の。
 西部劇なのに、海が出てくる。彼が臥薪嘗胆のおもいで拳銃の稽古に励んだのは、波が打ち寄せるモントレーの海辺であり、海岸沿いには海風に腰が曲がった松並木が続いている。近くには中国人(ひょっとしたら日本人)も住んでいる。

 こんな風景が登場する西部劇は他にもあるのだろうか。
 マーロン・ブランドの風貌も西部劇向きではない。いくら舞台をメキシコとモントレーに設定しても・・。
 しかし、西部劇であることを無視すれば、不思議なというか奇妙な味の映画ではあった。あのマーロン・ブランドのラブ・シーンとか、時おり見せる上目遣いなどはちょっと脳裏から消えそうもない。なんとも不気味で。
 しかし、逆に言えばやっぱり、「なんで西部劇なのだろうか・・。」

 * 写真は、キープ(KEEP)版“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画[赤21] 片目のジャック”(マーロン・ブランド監督・主演、1960年)のケース。

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My Birthday !

2008年03月20日 | あれこれ

 きょうは、ぼくの誕生日。

 1950年3月20日のちょうど今頃、夕方の5時半頃に生まれたらしい。

 去年の誕生日も古い写真を載せたので、今回も、最近の西部劇マイ・ブームにあやかって、少年時代のぼくのカウボーイ(?)姿を。

 昭和36年7月のアルバムに貼ってあった。
 いちおうテンガロン・ハットをかぶり、首にはマフラーを巻き、腰のベルトには拳銃をぶら下げているのだが、デニムのズボンの下が運動靴というのが、ちょっと・・・。

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“紳士協定”

2008年03月18日 | 映画
 
 エリア・カザン監督、グレゴリー・ペック主演の“紳士協定”をみた。

 グレゴリー・ペックは社会派のルポ・ライター役。女房を亡くし、進歩的な雑誌に連載を始めるために、西海岸からニュー・ヨークにやって来た。

 雑誌社の社長の姪のアイディアで、反ユダヤ主義を批判する記事を書くことになる。そして、常に対象の中に飛び込んで取材するというペックの流儀を活かすために、今回はペック自身がユダヤ人を装って、周囲の反応を伺うという手法をとることにする。

 ルポ・ライターのよく使う手段ではあるが、このようなテーマの場合に、ユダヤ人を装うことがライターとしての倫理にかなっているのか、疑問に思った。とくに、自分の子供にまで、周囲に「ぼくにはユダヤ人の血が流れている」といわせるあたりは、相当に問題である。

 かつて、鎌田慧さんが自らトヨタの期間労働者となって工場にもぐりこみ、『自動車絶望工場』を書いて、どこかのノンフィクション賞にノミネートされた際にも、審査委員の誰かが、執筆目的で労働者になったことを批判したことがあったが、それとこれ(“紳士協定”)とではわけが違うのではないか。

 最初は意気投合して結婚まで約束する社長の姪に対しても、その「偽善」を強く批判して、決別してしまう。
 結婚したら住もうとした彼女のお気に入りの地域には、暗黙のうちにユダヤ人を排除する「紳士協定」があるので、安らかな生活のためには地域ではユダヤ人を装わないでほしいという彼女の願いを退けたのである。

 エリア・カザンの本当の標的は、諸々の解説によれば、製作当時のアメリカを覆っていた赤狩り=マッカーシズム批判であるらしいが、それは措くとしても、アメリカの反ユダヤ主義の凄まじさには驚く。
 州立大学の入学者数を州の人種比率に応じて配分する政策なども、結局は頭脳優秀なユダヤ系学生に対する逆差別になるという批判があったが(バッキ事件)、背景にこの映画で描かれているような反ユダヤ主義もあったのだろうか。

 ケースを飾っているレトロなアメリカ車とニューヨークの夜の通り、そしてグレゴリー・ペックの眉をしかめた表情につられて買ったのだが、なかなか厳しい内容の映画だった。 
 しかし、こういうメッセージ性の強い映画で堂々と主演を演じているグレゴリー・ペックがますます気に入った。
 彼は、西部劇から“アラバマ物語”の田舎弁護士(あそこでは最終的にはアメリカ式「大岡裁き」?に終わっているが)、そして“紳士協定”のニュー・ヨークのルポライターまで、どれも似合っている。

 リベラルが総崩れになってしまった「9.11」以後のアメリカに(入江昭『歴史を学ぶということ』講談社現代新書、163頁以下)、もしエリア・カザンが生きていたら、どんな映画を作るのだろうか。

 * 写真は、キープ(KEEP)版“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画[赤28] 紳士協定”(1947年、原題は“Gentleman's Agreement”)。

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ヒチコックの “ロープ”

2008年03月17日 | 映画
 
 きのうは、ヒチコックの“ロープ”。

 西部劇には不似合いなジェームス・ステュアートの現代物を見ようと思った。

 大学時代の同級生二人組みが、「自分たちは他人より優れているから、劣っている愚者を殺す権利がある」などと決め込んで、同級生を殺す。
 しかも、その死体を隠した大きな衣装箱の上にテーブル・クロスを掛け、酒や食事をのせて、パーティーを開くのである。
 被害者の恋人や父親まで招待しただけでなく、彼らと殺人についての会話までかわす趣味の悪さ--というか、狂気ぶりである。
 
 主犯を演じているジョン・ドールという役者の演技がうまい。一般的に悪役というのは演じやすいが、この映画の悪役は、そう単純な悪役ではない。下唇(下顎?)を突き出して、憎々しいくらい冷静に話すあたりはなかなかである。
 本当は、自分が被害者より人柄も容貌も経済力も劣っているために彼を嫉妬しているにもかかわらず、それらのことが動機ではないと心から思っているように見えてきた。
 ただ、招待客の一人であるジェームス・ステュアートに、「君は興奮すると吃るね」と指摘されながら、発覚しかかった段階でやたら吃るのは、演出としてどうか。

 犯人たちの大学時代の先輩であるジェームス・ステュワートが、次第に犯行に気づいていくところが、まさにぼくが抱いているジェームス・ステュワートである。
 “怒りの河”の元強盗犯や、“西部開拓史”のマウンテン・マン(狩猟者)よりはずっと彼らしい。

 水野晴郎の解説によれば、この映画は、現実の事件の90分間の進行時間と上演時間をまったく一致させており、しかも、ノーカットの10分間のシーンを9つつないだだけで構成されているそうだ。
 窓の外の都会の空が次第に夕暮れに染まり、やがて夜景になったのには気づいたが、そんな手法だったとは気づかなかった。

 この映画は、アメリカで実際に起こった事件をモデルにしたものだという。かつて熱心に読んだコリン・ウィルソンの本にもとの事件の紹介がないかと思い、物置を探したが、見つからなかった。
 たぶん『殺人百科』あたりに載っているのではないだろうか。そういえば、きのうは、テレビで“復讐するは我にあり”もやっていた。柳葉敏郎に緒形拳の凄みはなかった。

 * 写真は、“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画[黒4] ロープ”(1948年)

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“An American Tragedy”--“陽のあたる場所” 3

2008年03月16日 | 本と雑誌
 
 映画“陽のあたる場所”の原作“An American Tragedy”のabridged 版。

 Nelson Readers の1冊で、10年ほど前には北星堂書店から発売されていた。80ページに簡約されたうえに、高校生程度の英語力でも読めるようにリライトされているので、英語力のないぼくには大いに助かる1冊である。

 あの頃、行方昭夫さんが『英文快読術』(岩波同時代ライブラリー)で、retold版でもよいから多読することを薦めていた。
 そして、わが国でも入手できるその手のretold版の紹介のなかに、なんとこの“アメリカの悲劇”が出ていたので(47頁)、紀伊国屋書店で購入した。

 “陽のあたる場所”よりは原作に忠実に要約しているので、主人公も、モンゴメリー・クリフトのような、ただの「二股」男には思えなかった。

 ただし、映画でよかったことが1つある。主人公が邪魔になった恋人を殺そうとする湖で、鳴いていた水鳥の鳴き声を実際に聞くことができたことである。

 原文では“Kit,kit,kit,ca-a-a-ah!”となっている。

 死を象徴するような不気味な鳴き声だと書いてあるのだが、実感がわかない。wier-wier という鳥で、新潮文庫では「ワイアワイア」となっている(下巻117頁)。

 映画の字幕で「あび」となっていたが、とにかく嫌な鳴き声である。本当に「あび」とかいう鳥の鳴き声なのか擬音なのかは分からないが、本物だと信じよう。
 実際の鳴き声は、できることなら生涯聞かないで済ませたいものである。

 * “An American Tragedy”(Nelson Readers 北星堂書店、1994年)の表紙。

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ドライザー『アメリカの悲劇』--“陽のあたる場所” 2

2008年03月15日 | 本と雑誌
 
 “陽のあたる場所”の原作、セオドア・ドライザー『アメリカの悲劇(上・下)』(大久保康雄訳、新潮文庫、1978年9月発行)の表紙。同文庫では、シオドアと表記されている。

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“陽のあたる場所”

2008年03月14日 | 映画
 
 “ウィンチェスター'73”で見そめたシェリー・ウィンタースに会いたくて、“陽のあたる場所”を観た。

 ここでは、貧しい農家出身の娘で、毎日縫製工場で水着を箱に詰める作業をするだけの女子工員役である。清楚といいたいけれど、役柄とはいえ野暮ったくて質素すぎる姿であった。この演技でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたというだけのことはある。
 でも、やっぱり、“ウィンチェスター'73”の「酒場女」のほうがよかったなあ・・・。

 成り上がろうという野心を抱いて同じ工場にやって来たモンゴメリー・クリフトが彼女と付き合い、妊娠させてしまった直後に、富豪の娘エリザベス・テーラーと出会い、彼女と相思相愛になるのだが、リズが彼のどこに魅かれたのかが伝わらなかった。

 邪魔になったシェリーを殺そうとして、湖でボートに誘う。ボートの上で、シェリーが語りかける「田舎に行って、貧しくても質素な生活をしよう。それでも人は幸せになれる」という言葉が、かえって彼に逃げ出したかった生活を思い起こさせてしまう。
 しかし、殺すことはできず、引き返そうとするのだが、バランスを崩したシェリーは湖に転落して死んでしまう。

 状況証拠は、すべて彼の有罪を指し示している。殺人罪で告訴され裁判が始まるが、法律家の悲しい性でここからは面白かった。

 原作は、セオドア・ドライザーの「アメリカの悲劇」、新潮文庫で上下2冊1000頁をこす長編である。
 テーマはもちろん20世紀初頭のアメリカを覆っていた(今はどうか・・)立身出世主義の悲劇であるが、全編を貫いているのは、宗教ないし(“拳銃無宿”のクェカー教徒ゲイル・ラッセルに言わせれば)信仰である。
 
 モンゴメリー・クリフトの育った家は、路上で布教活動を行う貧しい一家である。とくに母は強い信仰心をもっていたが、彼は路上でのそのような行動を恥じ、そこから抜け出したいと思い続けていた。そして、抜け出して都会へ出た。
 映画では、わずかにシェリー・ウィンタースとデイト中に、同じような一家に出くわしたモンゴメリー・クリフトが顔をしかめるシーン、故郷へ電話した際に、電話口に出た母親の背後に、そのようなグループの会合が写されているくらいしか出てこない。

 そして、最後に死刑執行を待つ息子のもとを訪れる母親がもう一度登場する。その時の母親の表情は、ゆるぎない信仰心を表現しているようでもあり、自分の過ちを覚っているようにも見える。この母親役の女優は原作のイメージどおりだった。
 ちなみに、原作のラスト・シーンでは、彼女の信仰は揺らいでいるように読める。

 しかし、映画は原作の柱の一つであろう、堅い(堅すぎる)信仰心のもたらす悲劇という側面は、ほぼすっぽり落としてしまっている。

 “エデンの東”も同様だった。スタインベックの原作では、ジェームス・ディーンの父親アダム・トラスクの強い聖書の教えへの帰依が柱になっている。
 そのゆえに妻は家を去って娼窟の主となり、母親似の次男キャルも反発する。そして、原作は、死の床にある父親が息子に向かっていう台詞、「ティムシェル」で終わっている。
 「ティムシェル」という聖書の言葉は、古代ヘブライ語で「人は道を選ぶことができる」という意味である。これがエホバを離れてエデンの東に向かった人間に与えられた宿命でもあり、可能性でもある、というのがスタインベックのメッセージだった。

 しかし、映画では、原作の宗教的側面をそぎ落としてしまったために、死の床にある父親は息子を許し、意地悪な看護婦をやめさせてくれと息子に依頼するなどという、happy ending になってしまっていた。

 何年(何十年?)か前に、NHKのテレビで“エデンの東”のテレビ版が5、6回もので放映されたことがあった。
 ティモシー・ボトムスが誰かが主役をやっていたが、そちらはかなり原作に忠実だった。ラスト・シーンもちゃんと「ティムシェル」だった。
 --と言いたいところだが、実は「ティムショール」と発音していた。ヘブライ語の発音に忠実なのかもしれないが、早川書房版の原作のラストに感動した者としては少しがっかりした。

 いずれにしても、映画と原作との関係は難しい。

 * 写真は、キープ(KEEP)版“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画[黒17] 陽のあたる場所”(1951年)の1シーン。シェリー・ウィンタース!

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“転校生”

2008年03月13日 | 映画

 上の息子は留学中、下の息子は野球の合宿中。
 夫婦二人の日々である。やがて、こんな生活がずっと続くことになるのだ。

 上の息子が置き去りにしていった“転校生”というDVDを観た。

 幼な馴染だった男女が中学生になって再会するのだが、二人で遊びに行った湧き水の池にはまり、水中でもがいているうちに、男女が入れ替わってしまう・・。女の子の身体に男の子の心が宿り、男の子の身体に女の子の心が宿ってしまう。

 二人は外見に合わせて、女の子の身体をもった男の子は女の子の家で生活し、男の子の身体をもった女の子は男の子の家で生活することになる。
 男の子の心が宿ってしまった女の子(の身体)のほうの演技やセリフは、なかなかうまい。蓮佛美沙子というらしい。
 反対のほうはいけない。なよなよしすぎている。もともとの女の子はもっと活発な子だったはずなのに。

 池に落ちて二人が入れ替わる場面もアニメ的だし、途中で、ト書きが画面に出てきたりするのも、大林流なのかもしれないが、ぼくは好きになれない。
 しかし、全体としては、悪くない映画であった。

 信州の風景がいい。
 中学生の男女もいい。
 ぼくは、初恋というのは、小学校2、3年生の頃に、夏休みが明けたら突然転校していなくなってしまった女の子への不思議さだと思っている。
 この“転校生”には、あまり「転校生」であるが故の淡い思いは描かれていないが、それでも、ぼくの心の中に残っているけれど、日頃は忘れてしまっている中学生時代の気持ちのどこかに触れるものがあったような気がした。

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イヴ・モンタン “恐怖の報酬”

2008年03月12日 | 映画
 
 今日の午後、2時間20分の空き時間ができた。
 書きかけの原稿は、2時間でどうこうできない岩盤にぶち当たっている。

 そこで、500円DVDを買ってきて見ることにした。大学近くの書店に出かけると、家の近所では見かけないCosmic Pictures というところのシリーズが並んでいた。字幕は日本語のみ。
 
 空き時間から逆算して、2時間以内のものでなければならない。キープ版にあるものはキープ版で買いたいから(英語字幕もついているので)、キープ版にはないものにしたい。
 しかし、この基準に合ったものがまったくない。ほとんどがキープ版にもあるものなのだ。仕方がないので、英語字幕がなくても影響のない英語以外のものにすることにした。
 一番観たいと思ったものは、イヴ・モンタンの“恐怖の報酬”。しかし上映時間は148分と、大幅にオーバーしている。迷ったが、時間はどんどん少なくなっていく。途中まででも見ようと、ようやく決断して、買って帰る。

 数年前に、イヴ・モンタンの落とし子だという女性が、既に亡くなっていたイヴ・モンタンに対して、死後認知の訴えを起こしたことが新聞で報じられた。
 親子鑑定のために、埋葬された遺体の発掘を許可する裁判が下されたということだった。その時の朝日新聞の見出しが、「眠れるモンタン、“恐怖の報酬”!?」となっていた(1997年11月7日付夕刊)。
 そのとき以来、“恐怖の報酬”というのは、どんな内容の映画だろうと思っていたのである。

 どこか熱帯の油田で火災が起き、爆風で消火することになり、イヴ・モンタンら4人が高額な報酬につられて、ニトログリセリンをトラックで運搬するという危険な仕事に従事する。
 
 最後の30分くらいを除くと、スリリングさが全然感じられない。現代のせわしなさに比べると、あまりにのんびりした運転ぶりなのである。
 最初は積極的だった、シャルル・ヴァネルがだんだんと弱気になっていく変化がぼくには説得的に思えなかった。本当は怖気づいているのに、それを隠してかえって無謀になってゆくイヴ・モンタンに、シャルル・ヴァネルが嫌気をさしたのだろうか。
 いずれにしても、90分で十分の映画である。

 昔住んでいた通りにあった壁の向こう側は空地だった、という最後の台詞の意味もなんだったのだろう・・。

 * 写真は、Cosmic Pictures 版“恐怖の報酬”1953年、原題は“Le Salaire de peur”.

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“ウィンチェスター銃 '73”

2008年03月09日 | 映画
 
 昨夜は“ウィンチェスター '73”を観た。

 先日買った3本980円の、キープ版“西部劇傑作選(7) ジェームス・スチュワート コレクション”の最後の1本。

 射撃大会の賞品のウィンチェスター銃が、ジェームス・スチュアートの手から強盗に奪われ、武器商人、インディアンから騎兵隊へと流れ流れて、結局ジェームス・ステュアートの手に戻るまでの話。
 同時に、映画の冒頭でジェームス・スチュアートとめぐり合った「酒場女」(--と字幕には書かれていた)が、何人かの男を経てジェームス・スチュアートと結ばれるまでの話でもある。
 二人が結ばれたとき、ウィンチェスター'73は、無造作に馬の鞍に置き去りにされていた。

 ヒロインの「酒場女」役の女優、ぼくの好みだった。タイトルで、ジェームス・スチュアートの次に名前が出てくるシェリー・ウィンタースという女優らしい。
 残念ながら、彼女のこともネット上ですぐにわかってしまう。2006年に既に亡くなっているらしい・・。でも、そんなのぼくには関係ない! 画面の上の彼女がすべてである。 

 先日は、“怒りの河”のジュリア・アダムスという女優さんがいいと書いたばかりなのだが・・。

 その昔、昭和31年から32年にかけて、ガリオア・エロア奨学金でアメリカに留学していた叔父一家が帰国した際、従弟がかの地で買ったウィンチェスター式のライフルのおもちゃを持っていて、これが当時日本で売られていたおもちゃの拳銃とは比べ物にならないくらい精巧で、うらやましかった。
 
 * 写真は、“ウィンチェスター銃'73”(1950年!)の1シーン。シェリー・ウィンタース(?)

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“シマロン”

2008年03月08日 | 映画
 
 きのう(3月7日)、ある学会の委員会に出席。
 毎回、交通費として3000円が支給される。お医者さんたちから様々な知識や情報を得ることができたうえに、いくらか意見を陳述するだけで、実費以上の交通費を頂戴できるので、不労所得も同然。
 
 申し訳ないとは思いつつ、帰りがけにビック・カメラに立ち寄り、いただいた交通費で西部劇DVDを買ってしまう。
 昨日買ったのは、3月5日に発売されたばかりの(「MGM スーパー・ライオン・キャンペーン 初回生産限定 1000円均一版」とカバーに銘打ってある。意味不明だが、安いにこしたことはない。)“大いなる西部”(20世紀FOX)890円、同じシリーズの隣に並んでいた“アパッチ”890円、そして、帳尻合わせのために“ティファニーで朝食を”(パラマウントDVDコレクション)1340円(定価1500円の1割引がなんで1340円なのか?)の3本、計3120円。

 しかし、これらは夜中に眠れなかった時のための専用で、昨夜見たのは、以前に買ってあった“シマロン”という古いもの。
 1930年製作で、登場人物たちはチャップリンかエノケンのようなメイク、動きも時代がかっているうえに、ノイズも少なくない。
 
 これを選んだのは、芦原伸『西部劇を読む事典』の解説で、19世紀末のいわゆる「ランドラッシュ」が描かれていると書いてあったから。
 ランドラッシュというのは、要するに合衆国政府が西部を開拓させるために、先住民からほぼ騙し取った(少なくとも“シマロン”ではそう描かれている)土地を早い者勝ちで開拓民に無償提供する制度である。
 法律では「無主物先占」などという。自分の庭に迷い込んだスズメなどは捕まえていいということである(動物愛護法ではどうなるか知らないが)。ランドラッシュの場合は、先住民がいたのだから正確には「無主物」ではないのだが。

 話は1888年のオクラホマに始まる。町のならず者に背中を撃たれて死んだ先代の新聞経営者を継ぐべく、弁護士でもある主人公が町(後のオクラホマ・シティか)にやって来る。
 シマロンは、主人公の息子の名前で、スペイン語で「無法者」という意味だそうだ。息子にそんな名前をつけたといって、嫁さんの母親が激怒していた。

 彼は新聞を発行しながら、町の牧師も勤め、無法者たちを一掃し、冤罪を着せられ町から追出されそうになった薄幸の女性を弁護して無罪を勝ち取り、やがては州知事選挙に立候補するまでになる。
 しかし、清貧を貫き、家は貧しい。インディアン居留地の石油の利権を騙し取ろうと提案してくる町の有力者も追い払ってしまう。やがてはキューバ独立を支援するといってオクラホマから消えてしまう。新聞社と家庭は残された妻が切り盛りする。

 ちなみに、開明的な主人公は、インディアンのことを“red man”と呼んでいた。彼の家にはインディアンの娘が召使いとして働いていたが、その娘はやがて主人公の長男と結婚する。インディアンの描かれ方も、西部劇を見るときに気になるところの1つであるが、この映画が作られた1930年には、既に、白人がインディアンの土地を奪ったという贖罪意識がみられる。

 時代は下って、1930年のオクラホマ。妻は町の名士となり、下院議員に当選する。その祝賀会の当日、町外れの油田で爆発事故が起こり、一人の老人が身を挺して大爆発を回避させた。
 下院議員である妻が駆けつけると、そこには、長い間行方不明だった夫が倒れており、妻の腕に抱かれて息を引き取る・・・。

 全く期待なしに観たのだが、これも合格点以上の出来だった。

 * 写真は、ファーストトレーディング版“Clasic Movies Collection シマロン”、1931年、原題は“Cimarron”。

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