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豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

きょうの浅間山(2025年8月20日)

2025年08月25日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月20日(水) 東京に帰る日。東京はまだかなり暑そうで気が重いが、用事もあるので仕方ない。
 
 朝食前に片づけを済ませて家を出発し、途中発地市場に寄って野菜を買う。
 上の写真は発地市場から眺めたきょうの浅間山。毎夏ここから眺めた浅間山がその年の浅間山の見納めになることが多くなった。下の写真は、それを zoom したもの。例のハート形のがけ崩れ跡は写っているのか・・・。
 9時半過ぎに発地を出発。碓氷軽井沢インターから上信自動車道に入り藤岡から関越道に乗る。

      

 上里サービスエリアで小休憩し、孫の好物の「峠の力餅」を買う。
 むかしは信越線の熊ノ平駅で売っていたものだが、近年は横川や上里のSAで売っている。上里ではプラスチック容器に入った6個入りしか売ってなかった。雰囲気はないが仕方ない。
 12時少し過ぎにわが家に到着。暑さは覚悟していたので、それほど気にはならない(負け惜しみ)。
 おまけに前日の8月19日に写したツルヤ駐車場からの浅間山も添えておく。

      

 この夏の軽井沢の収穫の1つは、失くしたと思っていた本に出会えたこと。
 Thomas Hardy の “The Mayor of Casterbridge” (Collins English Library,1979)である(下の写真)。
 何だ、ただの rewrite 本かと思われるかもしれないが、この本の前の所有者は磯野富士子先生なのである。先生が亡くなられた後に、先生の蔵書の一部を先生にゆかりのある家族法研究者に頒布することがあった。遅れて知ったぼくは残っていた本の中から、この本1冊だけを記念に頂戴した。先生のお手元にどのような経緯でこのような rewrite 版が残っていたのかは分からないが、ぼくにとって思い出の1冊である。

      

 ぼくは行方昭夫「英文快読術」(岩波現代文庫)の助言に従って、一時期この手の rewrite 版を多読したことがあった。Hardy もよく読んだ著者の一人で、“The Mayor of Casterbridge” (「キャスターブリッジの町長」)は確か Oxford UP の Bookworms シリーズで読んだ。ところがその本は香港の Oxford 出版局から出ているもので、挿し絵の人物がどれも中国人風の容貌になっていて、原作の雰囲気が感じられなかった。今回探したが、今度は Oxford の香港版が見つからなくなってしまった(このコラムの2025年5月18日「トマス・ハーディ「テス」ほか」に Oxford 香港版の町長のイラスト入りの表紙写真が挿入してある)。
 ところが、磯野先生の旧蔵書は、BBC か何かの実写版 “The Mayor of Casterbridge” の一場面が表紙になっていて、本文中にも10頁おきくらいで挿絵が挿入されていた。本文中の挿絵では主人公の町長はいかにも気性の激しい19世紀イギリスの農夫といった感じに描かれていたが、表紙の主人公の町長を演じる役者は意外にも飄々とした雰囲気ではないか。この男はたしか妻を競売にかけて売ってしまったはずだが・・・。赤子を抱いた妻のほうが毅然とした表情である。
 磯野先生の記念の本を捨てたはずはないと信じていたが、しっかりと軽井沢に置いてあったのだ。今回は東京に持ち帰ることにした。

 8月20日は祖父の命日でもある。もう没後40年以上が経過したが、今でもあの日の記憶は鮮明である。1984年8月20日の夕暮れ時に東武東上線の車窓から見た赤紫色の夕陽に染まった雲が忘れられない。極楽浄土はというのは西方の、あの夕日の向こうにあるのだろうと思った。

 2025年8月25日 記

きょうの旧軽井沢(2025年8月19日)

2025年08月24日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月19日(火) 明日は帰京の予定なので、この夏はじめて旧軽井沢に出かけることにした。

 軽井沢町役場、マツヤ(現在の店名は何というのだったか?)、軽井沢書店に立ち寄ってから、国道18号を軽井沢駅方面に向かう。お盆休みも終わって、国道は空いていてほぼ一人旅。
 軽井沢書店の店頭に平積みされた軽井沢関係の書籍の中には「新編軽井沢文学散歩」など、ほしい本が2、3冊あったが、断捨離の途上にあるわが身としてはこれ以上本を買うことはやめることにしている。来年夏に中軽井沢図書館で探すことにしよう。それにしても、三笠書房、三芳屋書店、平安堂書店、そして軽井沢書店と、町の本屋さんが連綿として(時おり中断した時期もあったが)続いているのは、さすが長野県である。
 ※ 冒頭の写真は旧マツヤの駐車場から眺めた離山。孫がプリンス・プラザから離山を見て「大きなお山だね」と言っていた。孫の滞在中は、残念ながら浅間山は一度も姿を見せてくれなかった。

 旧軽井沢ではいつも神宮寺の駐車場に車をとめる。
 神宮寺は、もともと亡父の友人だった美術史家が夏の間の定宿として滞在していた懐かしいお寺だが、川端康成「高原」や堀辰雄「美しい村」(だったか、「風立ちぬ」)を読んで以来、川端や堀らの亡霊もさまよういっそう懐かしいお寺になった。でも一番記憶に残る人物は、この寺の境内を横切って行ったという河上徹太郎夫人である。隣りの藤屋旅館の窓辺から見ていた川端が声をかけたと「高原」にあった。
 境内入口に聳える枝垂れ桜は、堀がだれかに当てた手紙にも登場する。樹齢400年というから、川端、堀、室生犀星、有島武郎、芥川だけでなく、江戸時代の通りすがりの旅人たちも眺めただろう。堀の葉書には「ここの枝垂れ桜が今満開です」と書いてあったが、一度この桜が満開のときに見に来たいものである。
     

 お盆が明けた旧軽井沢もどちらかといえば空いていた。閑散としていたと言っては言いすぎだが・・・。
 昭和の時代から、旧軽井沢は8月20日の諏訪神社のお祭りが終わると、夏だけ営業する店は一斉に店を閉じはじめ、急に寂しくなったものだった。
 今年、旧軽本通り(旧軽銀座)からは、物産館の建物も、大城レース店の建物もなくなっていた。寂しいかぎりである。もはやどこが小松ストアで、どこが明治屋で、どこが明治牛乳で、どこが(旧)デリカテッセンで、どこが酒井化学で、どこが三笠書房だったかも分からなくなってしまった。
         
 鳥勝、柏倉製菓、浅野屋、万喜、大倉陶苑など昔からの店に頑張ってもらいたい。

 2025年8月24日 記

小諸懐古園 藤村記念館、信濃追分(補遺)

2025年08月23日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月18日のつづき。小諸懐古園からしなの鉄道信濃追分駅までの落穂拾い。

 最初は懐古園の天守閣跡に立つ松(下の写真)。小津安二郎「父ありき」にはこんな松はあっただろうか。1951~2年頃の撮影だから70年以上前である。小さな松の木も育ったことだろう。
        

 ついでに「父ありき」のスクリーン越しにぼくが恋した文谷千代子。笠智衆宅のお手伝いさん役で、笠の異変を慌てて息子役の佐野周二に伝えに来るシーン。       
       
 
 小山敬三美術館の前に(島崎)藤村記念館に立ち寄った。
 島崎藤村は小諸学舎の教師時代に7年間小諸に住んでおり、小諸とはゆかりが深い。若き日の小山敬三も相談に訪れて、藤村の助言を受けてフランス留学を決意したという。ぼくの個人的な興味は「新生」事件だが、この件に触れた展示はなかった。ただ、「新生」のモデルとなった姪のこま子の写真が一枚展示してあった。
 下の写真は藤村記念館の前景。向かって左側に藤村の胸像がある。
       

 懐古園の城内には何軒か神社があったが、懐古神社は菅原道真をまつる天満宮で、必勝合格祈願という赤いのぼりが立っていた。孫の志望校合格を祈願してお参りした。
 受験時代のぼくがそうだったが、志望校より結果的に自分にあった学校に入学できたかどうかのほうが人生にとって重要である。
       

 帰り際に見た小諸駅前の(小諸城)大手門。新しそうだったから再建されたものだろう。
       

 帰路の車窓からわずかにとらえた小諸側からの浅間山(連山)。
 しなの鉄道の沿線には木々が繁っている場所が多く、なかなか浅間山をとらえることができない。おそらく信越本線時代に列車から垂れ流され、吹き飛ばされた汚物から農地や住宅を守るための防風(便?)林の役目を果たしていたのだろう。かつては「黄害」などと呼ばれていた。
             

 最後は、われわれが乗って来たしなの鉄道の列車(冒頭の写真)。
 しなの鉄道の車両は、東急に似たシルバーに赤いラインの入った車両や、この写真のような緑色に塗られた車両など、典型的なグレーと赤のツートンカラーの車両のほかにも何種類かあった。そういえば、芦原伸の「草軽電鉄物語」だったかで、草軽鉄道は東急電鉄系だと紹介していた。各社から払い下げられた車両がしなの鉄道を走っているのだろう。

 2025年8月23日 記

小諸懐古園、小山敬三美術館

2025年08月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月18日、昼前に小諸駅に戻った。
 せっかくなので、久しぶりに懐古園を歩くことにした。
       

 今回は、これまで訪れたことがない小山敬三美術館に行ってみる。
 上の写真は、美術館入り口近くの芝生の斜面に建つ小山の銅像。テレ東の「開運なんでも鑑定団」で、小山のことを浅間山を描いた画家と紹介していたので行く気になった。小諸市立の美術館で、小山が小諸市に寄贈した作品が展示されている。
 ※ 下の写真は入口脇のロビーから眺めた千曲川の情景。川の流れはよく見えない。ぼくが若い頃は近くの千曲川の川べりで草笛を吹く老人がいた。遠くに赤い橋が見えるが小諸大橋というのだろうか。 
       

 かなり特徴的な力強い筆致で描かれた浅間山の風景画が何点かあった。小山は小諸市出身の画家ということだったので、小諸側から眺めた浅間山かと思っていたが、前掛山の形と方角からすると、軽井沢側から眺めた浅間山の山影だと思う。
 彼は軽井沢に山荘を持っていたというから、そこで軽井沢側から眺めた浅間山を描いたのだろう。小山の力強い筆致からは小諸側から見た浅間山のほうが似合っているような気がした。
 個人的には、浅間山の絵よりも、彼が独自の画風を確立する以前に描いた奥さんや娘さんや知人らの肖像画のほうが印象に残った。5年間フランスに留学して洋画の画法を学び西洋の風景に馴染んだ小山は、帰国した日本の風景をどのように描けばよいのか悩んだと紹介してあった。
       

 美術館を出て、順路に従って富士見台(展望台)に至る。小諸の盆地が見渡せたが、富士山は見えなかった。
 天守閣跡の石垣を登った。初登頂である。もう二度と来ることはないかもしれないので記念に登ったのだが、高所恐怖症のぼくとしては足がすくんだ(上の写真)。
 この夜、帰宅後に小津安二郎の「父ありき」を見たのだが、父親役の笠智衆と子役(津田晴彦?)が、この石垣の上の縁すれすれのところを歩いていた。怖くなかったのだろうか。
 なお、「父ありき」の舞台は長野県上田で、上田城の石垣に登る場面なのだが、ロケは小諸城で行われたのだろう。画面に写っている石垣が小諸城天守閣(跡)の石垣であることは以前に確認した(積み重ねた石垣の石の形状を確認した)。
       
 
 下の写真は「父ありき」で、上田に引っ越してきた父子が飯屋で食事をするシーン。壁に石油ランプがかかっているが、このDVDを見ているわが家のモニターの上にも、亡母が小樽の北一硝子で買ってきた石油ランプが飾ってあった。
      

 懐古園を出て、近くの蕎麦屋「草笛」でそばを食べる。
 人気店らしく、12時半ころに行ってみると13人待ちの行列ができていたが、40分ほどの待ち時間で順番が来て店内に入れた。
 野菜の天ぷら、小鉢の煮物、ゴマ団子が2個ついた蕎麦定食を食べた(下の写真)。
       

 その後、小諸駅北口側の小諸城大手門(再建?)を見てから、14時20分小諸発軽井沢行きに乗って帰宅した。(つづく)
 ※ 冒頭の写真は、帰路に降り立った信濃追分駅ホームから眺めた浅間山。

 2025年8月18日 記

きょうの浅間山(2025年8月18日)

2025年08月21日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 不動産登記簿を閲覧する必要があって、JR小海線北中込駅が最寄りの長野法務局佐久支局に行ってきた。

       

 朝9時03分信濃追分発のしなの鉄道下り線に乗って、9時18分に小諸でJR小海線に乗り換え、9時43分に約20分7駅で北中込駅に到着(下の写真は小諸駅に停車する小海線中込行きの列車)。

       

 途中で、高校2年か3年のときにひと夏を過ごした学生村のあった岩村田(「いわむらだ」と呼んでいた)を通った。懐かしかったと言いたいところだが、駅前の風景は50年前とすっかり変わっていて、何の感慨もなかった。
 北中込駅は無人駅、駅前にはイオン(AEON)はあったが、あまり開けていない殺風景な駅前風景だった。

       

 法務局は駅から5分と書いてあったが、道が分からず三角形の二辺を歩いたので10分以上かかってしまった。公共施設にしては路地の奥まったようなところにあった。先客は3、4人。10分ほど待たされて、用事は10分ほどで終了。窓口は全員が女性、謄本に押された法務官という官職の押印も女性の名前だった。
 帰り道は三角形の斜辺を歩いたので、往路ほどの時間はかからなかった。
 時間を調べてあったので、10分くらいの待ち時間で小諸行き列車が到着。乗客は10人くらいいたか(下の写真)。11時16分に小諸着。     

         
  
 折角なので、久し振りに懐古園を歩き、小山敬三美術館に行くことにした。
 懐古園は現役教師時代のゼミ合宿で軽井沢に行った際に、ゼミ生たちとドライブしたのが最後、もう10年近く経つだろうか。あるいは、その後家内と一緒に菅平に行った帰りに立ち寄ったことがあったかも。懐古園の反対側の街並みが寂れていたのが印象に残っている。(この項つづく)

 2025年8月18日 記

 ※ 冒頭の写真は帰り道の信濃追分駅ホームから眺めた浅間山。
 

堀辰雄記念館、追分コロニー、郷土資料館

2025年08月06日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月2日(土)、午前中に追分に行ってきた。
 11時前に旧中山道の追分宿に到着。
 古書店「追分コロニー」でモームの本を探すのが主目的だったが、追分コロニーはHPを見ると12時開店とあったので、ひとまず堀辰雄記念館の駐車場に止めて堀辰雄記念館に入ることにした(上の写真は同記念館の庭園)。
 受付の女性がきれいな方だったので、「橋本福夫さんが堀多恵子夫人から堀宅の一画を譲り受けたということですが、それはどの辺ですか?」、「“美しい村” などに登場する追分の旅館の “おようさん” という人のモデルについて書かれた文献は何かありますか?」と質問をしてみた。彼女は、「今日は学芸員が不在なので分かりませんが、調べておきます」との答えだった。「26日に “美しい村” をめぐる講演会があるようなので、可能ならその日に伺いますと言って別れた。

      
      

 順路に従って、常設展示館、堀の旧宅、書庫、特別展示「美しい村の幻影(イメージ)」と回る。
 常設展示場は堀の死後に多恵子夫人が建てた建物ということだが、堀の作品のイメージには合っていない。やはり生前の堀が実際に暮らしていた旧宅が昭和の面影を残していて堀にはふさわしい。
 木造の平屋建て、部屋数は2、3部屋だろうか。畳敷き、木枠のガラス戸、板葺きの天井など、昭和25年にぼくが生まれて10歳までを過ごした世田谷のわが家を思い出させる。高峰三枝子から送られたという籐の椅子とテーブルが置いてあり、床の間の掛け軸「雨過山如洗」は川端康成の書とある(上の写真)。
 母屋から数メートル離れて書庫(書斎?)が建てられている。堀はこの書庫が完成する前の昭和28年5月28日に亡くなったというので、実際に使用することはなかった。「漱石全集」などが並んでいた(下の写真)。
 この書庫は、荒井輝允さん「軽井沢を青年が守った」(ウインかもがわ)に出てきた追分高原学舎メンバーだった大工の水沢郷一さんが建てたのだろうか。堀の遺体は彼らの引く大八車によって発地の火葬場に運ばれ荼毘に付されたという。

       
       

 できれば堀が一冬を過ごして「美しい村」を執筆したという旧軽井沢の川端康成の山荘も見たいところだが、もう現存していないだろう。
 12時までにまだ時間があったので、堀記念館に展示してあった追分の地図に載っていた東京女子大学追分寮を見物に行くことにして、旧本陣跡に建つ「油や」脇の坂道を1000メートル林道に向かって上る。諏訪神社のあたりを左折すると見えてくるはずだが、見つからない。この日は追分も30度近くあって、汗がにじんできたので断念して旧中山道に戻った。
 ※後で調べたら東京女子大の寮は老朽化とアスベストのために閉鎖されたとのことだった。

       

 まだ12時前なのに、「追分コロニー」は暖簾が下がって、すでに開店していた(上の写真)。
 靴を脱いで店内に上がり、ここの喫茶スペースでアイスコーヒーでも飲もうと思ったが、以前来た時にコーヒーを飲んだスペースは事務所になっていた。店主の女性に聞くと、喫茶スペースは現在は「油や」内で営業しているという。古書「追分コロニー」はここと、「油や」(「文化磁場 油や」?だったかと称していた)内の2か所に分かれていた。「油や」の当時のご主人も追分高原学舎のメンバーだったはずである。
 「油や」入口脇にある喫茶コーナーのソファに腰を下ろしてアイスコーヒーを飲み、置いてあった団扇であおいでようやく汗が引いた。「油や」の館内を一巡りする。土産物(民芸品?)や古レコードなどを売る店の奥に古書のコーナーがあって(「阿呆書房」とかいう看板がかかっていた)、そこにサマセット・モーム全集が数冊並んでいた(下の写真)。本当は「極めて個人的な話」が欲しかったのだが置いてなかったので、「人生と文学」(龍口直太郎訳、新潮社、昭和34年)を買う。880円。

      

 モームの小説はもう食傷気味だが、「人生と文学」はモームの講演の記録だという。「探偵小説衰亡史」とか「バークを読む」など、ちょっと興味を引かれる題名の小論が並んでいる。「バーク」とは、意外にもエドムンド・バークのことだった。ただしバークの政治思想を論じるのではなく、彼の英語、文章のすばらしさを論じていた。
 ぼくはバーク「フランス革命の省察」を半澤高麿先生の訳で読んだだけなので、バークの英語がすばらしいかどうかは分からない。ただあの第1部に書いてあった、イギリス国内のフランス革命擁護派に対する悪罵はとても美しい英語とは思えなかったのだが。モームによれば、バークの文章は演説家としての経験から生まれたものだというから、音読するときれいに聞こえる英文なのだろう。
 バークといい、ホッブズといい、基本的にモームは保守的な論客の英語の文章が好きなようだ。

       
       

 最後に、追分郷土資料館に行った。堀辰雄文学記念館の半券でこちらにも入場できる。
 展示は「浅間三宿」の何とかと題していた。浅間三宿とは、軽井沢、沓掛、追分の三つである。展示されたパネルの中に、「三笠書房」の店舗と看板が写った古い写真があった。
 三笠書房は、ぼくが子どもだった昭和30年代には旧軽井沢の本通り沿い(「旧軽銀座」!)、小松ストアの隣りにあったが、このパネルによると、昭和初期には沓掛(中軽井沢)の駅近くにあったらしい。並んで展示された現在の写真には、国道18号沿いの中軽井沢駅の高速バス停留所が写っている。
 「三笠書房」もぼくにとって「軽井沢の謎」のひとつである。

 2025年8月6日 記

ウェルマン「反対尋問の技術」

2025年08月05日 | 本と雑誌
 
 フランシス・L・ウェルマン「反対尋問の技術(上・下)」(林勝郎訳、青甲社、1973年)を読んだ。買ったまま放置してあったと思っていたが、上下巻とも再読だった。原著は “The Art of Cross-Examination”, 1903)。
 ウェルマンはアメリカの高名な刑事弁護士。上巻(の前半)では「反対尋問の原理」が語られ、それ以降(とくに下巻)は具体的な事件において陪審の評決を決定づけた反対尋問の事例が紹介される。
 上巻を最初に読んだのは「1978年8月20日、pm11:00 軽井沢」だったようだ。上巻154頁に「1978・8・18(土)pm12:30 軽井沢、雨が降り始める」という書き込みがあって、「カンカン・コンサート in 軽井沢」という宣伝葉書が挟んであった。

          

 下巻の本文の最終ページの余白には、「1979・8・19(日)、am11:30、軽井沢。晴」と書き込んであった。上巻を読んだ翌夏に読んだようだ。“Catalina Martin Onward” というタグが挟んである。オンワードにはこんなブランドもあったのか。
 最終ページ、奥付の見開きページには、「1979・8・20(月)pm11:00 軽井沢」と日付があって、「反対尋問の究極の相手たる陪審に対する考察が決定的に欠けている。反対尋問者の傲慢といって悪ければナルシズムの書。「原理」という程の一般性はなし。話としては面白いもの、いくつかあり」と生意気な感想が記してあって、どこかのページは “British Air Ways” の1977‐78年のカレンダーが挟んであった。

     

 今回と見直すと、各事件において陪審席に座っている各陪審員の特性、偏見を早期に把握する必要があること、陪審には自分(陪審員)自身が真実を発見したかのように錯覚させるように反対尋問をしなければならないなど、陪審に関する考察も散見される。陪審員の癖や気質に訴訟行為を合わせていく素早い適応性を持たなければならないとも指摘している(上258頁)。
 他方では「悪ずれした今日のニューヨークの陪審」などいう陪審に対して好意的とは言えない言葉も発せられるなど、著者が陪審員を真っ更で公平な判断者とは必ずしも見ていなかったこともうかがえる。
 「原理という程の一般性はない」とも書いているが、証人はなぜ(結果的に)「虚偽」の証言をするのかを検討し、偏見(無意識の党派性)や慣習にもとづく事実の歪曲の可能性を指摘するなど、「原理」的な記述も見られる。若い頃のぼくはこんなに意地の悪い読者だったのか、と反省する。
 ただ言い訳をすると、今回流して読んだ限りでも、本書の神髄は反対尋問の原理よりは、上巻の後半以降で紹介された具体事件における(有効というか決定的だった)反対尋問の紹介のほうが興味深かったことは事実である。少なくとも、弁護士が活躍する法廷物の推理小説のできの悪いものよりは本書のほうが数倍面白かった。

 それにしても、そもそも本書のような本が書かれ、その後数十年にわたって版を重ねるというのは、公開の法廷において訴追側と訴追される被告側とが、陪審に向けた弁論(主尋問と反対尋問)によって主張を展開し、裁判官が説示を行い、最終的には陪審団が(かつては全員一致で、最近は多数決もある)評決するというアメリカ、イギリスの刑事裁判制度が背景にあることは間違いない。
 そのような背景のもとで、 アメリカの法曹界からは「偉大な反対尋問家」(上242頁)という伝説の弁護士たちが何人も登場したのだろう。著者によれば、「偉大な反対尋問者」は「法廷の魔術師」などとも呼ばれるが、完ぺきな演技者!にして、天性の弁護術を身につけている。かれらは「絶対に必要でない限り反対尋問は行わない」、「絶体絶命の場合以外は御婦人の反対尋問はしない」とも書いている(上247頁)。
 反対尋問しないことが反対尋問の究極の「技術」であるという結論も示唆的だ。能弁を垂れ、喋りまくる弁護士よりも、弁護人席で腕を組みじっと沈黙している弁護士のほうが相手にとって不気味だろう。
 「技術」と標榜しながら、反対尋問にとって重要なのは「熱意」と「良心」と「技術」であり、その「技術」とは「弁論術」と「人心掌握力」であるという。事前の十分な準備、調査こそが重要であり、事務所に座ったまま依頼人の話を聞くだけで弁論するような弁護士は必ず敗北すると断言する(上260頁)。

 そういう英米の刑事司法の明るい側面に、若い頃のぼくは憧れたのだった。書面審理が中心のわが刑事司法のもとでは現われようのない本である。正木ひろし弁護士が反対尋問のために証人席の証人に歩み寄ろうとしたところ、裁判長から「弁護人は弁護席から離れないように!」と注意されたというエピソードをむかし聞いたことががあるが、今でも弁護人は証人席に近づくことはできないのだろうか。

 2025年8月5日 記
 

きょうの浅間山(2025年7月30日)

2025年08月01日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 ガソリンを給油に行った帰り道、夏にしてはめずらしく浅間山の全景が裾野まできれいに真っ青な空に映えていたので、足を伸ばして写真を撮りに行ってきた。

     

 いつものレタス畑の一画に今年は新たに棚(支柱?)が設けられて、何かの野菜を作っていた。
浅間山は軽井沢側から眺めた裾野の広がり、とくに石尊山側の裾野がいい。御代田はともかく、小諸まで行くと、もう浅間山とは思えないゴツゴツした火山の山影になってしまう。
 残念ながら、きのうは南側の中腹にえぐられたハート形の噴火口跡(山崩れの跡?)ははっきりとは見えなかった。

     

 帰り道の道路わきに、青空を背景に一本の木(何という木か?)が濃い緑色の葉を揺らしていた。木下恵介監督「カルメン故郷に帰る」の北軽井沢、浅間牧場のロケ地に生えていた印象的な木を思い出させた。

 2025年7月30日 記

S・メルシオール=ボネ「不倫の歴史」(原書房、2001年)

2025年07月31日 | 本と雑誌
 
 サビーヌ・メルシオール=ボネ+オート・ド・トックヴィル「不倫の歴史」(橋口久子訳、原書房、2001年)を読んだ。

 邦題は「不倫」と銘打ってあるが、原題は “Histoire de L’Adultere” だから「姦通」の歴史だろう。婚姻外の性行為が「姦通」から「不倫」となり、不倫=反倫理性すら疑わしくなる時代を経て、当事者相互の契約に基づく現代のカップル関係のもとで、裏切り(カップル以外との性関係)をどう考えるべきかという疑問を提示して本書は結ばれる。
 「姦通」の歴史と題しながら、テーマとなっているのは古代から現代にいたる「婚姻」という制度のありかた、婚姻と性愛の関係である。「結婚は、社会が作り出した最も野蛮な制度の一つである」と小説の主人公に言わせ、結婚は「合法的な売春」のようなものだという主張に同調したというジョルジュ・サンドが引用されているが(191頁)、19世紀の「婚姻」観の一つの極論だろう。

 ディドロやフーリエなど懐かしい論者も登場するが、フランス書でありながらレオン・ブルムは登場しない。フランス革命期に(自らの離婚を実現させるために)離婚容認法の制定にこだわったナポレオンの逸話なども出てこなかった(杉山直治郎「ナポレオンとフランス民法典」)。
 わが家族法学の世界では「家のための養子」から「親のための養子」を経て「子のための養子」に制度趣旨が変遷してきたということが唱えられ(中川善之助)、それが養子制度だけでなく、家族制度全般にまでか拡大されて唱えられるようになってきた。
 本書は、さしずめ「家のための婚姻」から「親のための婚姻」を経て、「結婚当事者のための婚姻」へと変遷してきた経過を、「婚姻」の裏側に存在し続けてきた「姦通」の側面から概観する内容となっている。

 各時代を象徴する多数の絵画、写真などが挿入されていて、若い頃に読んだ(眺めた)フックスの「風俗の歴史」(光文社刊だったか?)を思い出した。ただのグラマー女優かと思っていたブリジット・バルドーの60年代女性史における役割など、知らなかった。カトリーヌ・ドヌーブ(236頁)の登場は予想できるところだが、なぜ「昼顔」ではなかったのか。
 
 邦訳には「愛の幻想と現実の行方」という原著にはない副題がついている。「愛」の永続性に著者は疑問を表明していたが、「愛」が「幻想」だとは書いてなかったように思う。

 2025年7月31日 記 


旧尾崎テオドラ邸(世田谷・豪徳寺)

2025年07月20日 | 玉電山下・豪徳寺
   
 昨日、7月19日(土)朝の「途中下車の旅」(日テレ)で小田急線豪徳寺駅界隈を風間トオルが歩いていた(上の写真)。
 漫画家たちが資金を出し合って解体を阻止したという「旧尾崎テオドラ邸」を訪ねていた。尾崎行雄が建てたのかと思っていたら、テオドラさんのお父さんが資金を出したとのことだった。彼女の家は資産家だったのだ。
 ペールブルー(グリーン?)に塗られた横板張り、コロニアル風(というらしい)の旧尾崎テオドラ邸は、ぼくも一度見に行ってみたいと思っているのだが、なかなか豪徳寺(玉電山下)に行く機会がないまま今日にいたっている。

      

 豪徳寺というか玉電山下には昭和35年(1960年)3月まで住んでいたのだが、玉電山下商店街といえば、放課後に友達と遊んでいると商店街のスピーカーから聞こえてきた午後のラジオ番組で DJ をしていた竹脇昌作の独特の語り口が今でも耳に残っている。スピーカーではなく、店のおばさんが店番をしながら奥で聞いていたラジオから流れていたのかもしれない。
 その頃ラジオから流れていた曲では、美空ひばりの「花笠道中」と三橋美智也の「夕焼けトンビ」、それにベルト・ケンプフェルト楽団のトランペット曲「真夜中のブルース」(朝な夕なに)が思い浮かぶ。妙な取り合わせだが、間違いなくこの3曲はぼくの昭和30年代初めの玉電山下界隈の記憶とともにある。

 「歌は世につれ、世は歌につれ」だったが、最近は歌とは関係なく時間が流れていく。ZARD 「揺れる想い」、森高千里「渡良瀬橋」あたりが最後で(1993、4年頃ではないか)、思い浮かぶのはそれよりも以前の曲ばかりである。

 2025年7月20日 記

 ※ コニー・フランシス死亡の記事の中で書いたのだが、最近「玉電山下・豪徳寺」の記事がないので、独立させることにした。

コニー・フランシス死去(2025年7月16日)

2025年07月19日 | テレビ&ポップス
 
 コニー・フランシスが7月16日に87歳で亡くなったという記事が東京新聞の(死亡記事欄ではなく)ニュース欄に載った (上の写真。2025年7月17日付)。
 記事を見た瞬間は、彼女の死が東京新聞のニュースとして報じられるとは意外の感があったが、考えてみれば東京新聞はもとはといえば芸能ネタに強いことを売りにしていた「都新聞」である。それに彼女は一時代を代表する歌手で、一時的な流行歌手ではなかったのだろう、元の記事は「ニューヨーク・タイムズ」が報じたとある。
 ぼくが彼女を知ったのは中学1年か2年の頃(1962、3年)である。下校のときに通る西荻窪駅北口駅前の通称「映画館通り」の入り口の商店街のスピーカーから流れていた「可愛いベイビー」か「大人になりたい」のどちらかである。中尾ミエが歌っていたカバーだったかもしれない。“Too many rules …” という歌詞が何かと親や学校に束縛されていた当時の中学生の心に響いたのかもしれない。
 今でもこの2曲を聞くと、1960年代初めの西荻窪駅前の光景がよみがえってくる(地面を走る中央線と踏切り)。映画館通りは和菓子の「三原堂」の向かい側から入る狭い路地だった。映画館が3軒並んでいたはずである。あの頃、ぼくの通った神明中学校の下校時刻には「アニー・ローリー」が流れていた。ユージン・コスマン楽団(古関祐而の別名らしい)のレコードである。
 ただし、ぼくが一番好きなコニー・フランシスの曲は「ボーイ・ハント」である。原題は “Where the Boys Are” だったはずだが、なんで「ボーイ・ハント」などとなってしまったのか。彼女の切なげな歌声を聞くと、原宿や千駄ヶ谷のスケート場で声をかけて手をつないで滑った女の子のことなどを思い出す(一人は川村だった)。まさに “Where the girls are ?” である。みんな70を過ぎたけれど、どこかで元気にやっているだろう。

 2025年7月19日 記

「ルノアール+セザンヌ展」に行ってきた

2025年07月18日 | 東京を歩く
 
 7月17日(木)、正午前に家を出て、東京駅丸の内口の三菱一号館美術館で開催されている「ルノアール+セザンヌ展」を見に行ってきた。

       

 台風の影響で風はやや強いが、さいわい雨は降らず、気温もそれほどではなかったので、思い切って出かけることにした。メトロ丸の内線東京駅から美術館までは地下道でつながっていて、暑い陽ざしを浴びることなく目的地に到達できた。

      
 ※ 上の写真はどちらかがルノアール、もう一方がセザンヌだが、どっちがどっちだったか?
 ぼくはルノアールは好きだが、セザンヌはそれほど良いとは思わない。だが展示場の解説パネルを読むと二人は仲が良く、お互いに影響を及ぼし合っていたらしい。ルノアールが病気をしたときにはセザンヌ母子が看病にあたったと書いてあった(逆だったかも・・・)。静物、人物、風景(「戸外制作」と書いてあった)ごとに二人の作品を並べて展示してあったが、ぼくはやはりルノアールのほうがよかった。
 ルノアールはピカソにも影響を与えていたと解説にあったが、知らなかった。美術評論の基本が分かっていないので、ルノアールらの印象派内における特徴などの解説も、ぼくには「豚に真珠」だった。純粋に(単純に)作品だけを眺めた。ルノアールの裸婦を写真撮影している人がいたが、邪推されそうなので(杞憂?)ぼくは遠慮した。ルノアールの作品の中に子どもたちの乳母をモデルに描いた裸婦像があった。いまだったらコンプライアンス上の問題が生じるのでは・・・。

      

 展示された作品だけでなく、三菱一号館という建物の室内空間も印象に残った。もともとの三菱一号館を遺した建物なのだろうが、いつ頃のものなのか。昭和戦前期以前であることは間違いなさそうだが、大正か昭和か。誰の設計か。落ち着いた白い壁に濃いブラウンの柱、何か所かの壁には黒い暖炉が埋め込まれていた。室内は空調が効いていてひんやりと涼しかった。
 廊下の窓越しに見下ろした中庭には木々の緑が夏の陽ざしに輝いていて、中庭の向こうにはコの字型の一号館のレトロな雰囲気の赤レンガの外壁が見えていた(上の写真と冒頭の写真)。

 2025年7月17日 記

 ※ 三菱一号館美術館のHPを見ると、三菱一号館はもともと1894年にコンドルの設計で建てられたが、老朽化で1968年に解体され、現在の建物は2010年に復元されたものということだった。

H・E・フィッシャー「愛はなぜ終わるのか」

2025年07月17日 | 本と雑誌

 ヘレン・E・フィッシャー「愛はなぜ終わるのかーー結婚・不倫・離婚の自然史」(吉田利子訳、草思社、1993年)を斜めに読んだ。
 原題は “Anatomy of Love” だから、副題などは出版当時の流行に便乗したものだろう。裏扉に「2006・4・30」という日付があった。読んだことを忘れていた。

 母親の産道に比べて胎児の頭が大きくなりすぎ、出産が難しくなったこと、および10代の子供成長が遅くなったことにより、親は子の出産から10数年にわたって子を養育しなければならなくなり、女性の繁殖の負担が増大した。これに対処するために一夫一婦制の配偶関係と親族組織の強化が図られたという所説に傍線が引いてあり、そのページにポストイットが貼ってあった。
 表紙の帯には「人間は4年で離婚する!?」という惹句とともに、「愛は4年で終わるのが自然であり、不倫も離婚・再婚をくりかえすことも、生物学的には自然だと説く衝撃の書。」という宣伝文句が続くが、本書のどこのそんなことが書いてあったのか、どのような根拠から「愛は4年で終わる」ことが「自然」だと著者が主張しているのかは忘れてしまった。
 「愛」も「自然」もあいまいでうさん臭い言葉だから、言おうと思えば何とでもいうことができるだろう。

 断捨離しようと思ったが、胎児の頭囲が母体の産道に比して巨大化したことが、ヒトが生物の中で最も脆弱な存在として子を産まなければならくなった原因だという説は印象的だったので、取っておくことにした。

 2025年7月17日 記

川本彰「近代文学に於ける「家」の構造」

2025年07月15日 | 本と雑誌
 
 川本彰「近代文学に於ける「家」の構造ーーその社会学的構造」(社会思想社、1973年)を読んだ。神田神保町「開拓社ビル1~2階 20世紀記憶装置@ワンダー」という古書店のレシートが挟んであった。買った日付はないが売値105円だから消費税が5%の頃に、店頭の100円コーナーのワゴンで買ったのだろう。費目は「面白掘出本」!とある。

 明治以降の日本文学上のいくつかの作品に現われた「家」の実態とそれに対する作者の態度を、日本資本主義の発展とくに天皇制家族国家の形成過程との関係で論じる。
 取り上げられた作品は、長塚節「土」、高村光太郎・永井荷風・森鷗外、夏目漱石(「道草」ほか)、志賀直哉(「大津順吉」「暗夜行路」ほか)、島崎藤村(「家」「夜明け前」)などであるが、いずれの作品に対しても、天皇制国家の下支えとしての「家」の問題性を自覚していないとして、著者の批判は厳しい。

 自然主義作家たちの多くは地方農村の地主階級出身者であり、「家」の束縛を強く感じて「家」の内部事情を暴露したが、最終的には都会に逃亡して「逃亡奴隷」となった(236頁)。これに対して、漱石「道草」と「明暗」は「家」の内部を冷酷に描いた作品であり、藤村「家」と並ぶ小説として評価するが(159頁)、自然主義作家が逃避した社会から、東京出身の漱石は逃避することができず、「高等遊民」以上の立場を創造することができなかったと評される(139頁)。

 志賀直哉はコテンパに切り捨てられる。志賀の父子葛藤(その原因である母の不貞の疑い)など、本書の著者に言わせれば微温湯的に過ぎるのだろう。戦後デカダン派の太宰治、織田作之助も同断である。
 デカダン派の織田が家庭内では専制的であったと未亡人が暴露していることが紹介される(278頁)。本書は志賀直哉も専制君主だったというが(同頁)、作家が書く小説の内容と作家自身の家庭内での行動とが無関係であるのは驚くに当たらない。漱石「行人」の家長である一郎も「家」の中では専制君主だが、社会の中では円満な紳士として振舞う(142頁)。当時家庭内で夫が専制的でなかったのは庶民の家族だろう(山代巴「荷車の歌」など)。

 永井荷風はのどこかで、漱石の未亡人が漱石が「追従狂」という精神病だったなどと暴露した本(夏目鏡子・松岡譲「漱石の思い出」だろう)を出版したことを強く批判していたが(「摘録・断腸亭日乗」151頁)、本書によれば、漱石は「狂気」と「神経衰弱」を自らの文学の原動力であることを知っていたという(121頁)。当時の批評家がレッテルを貼った「神経衰弱」と「狂気」によって「猫」を書いたと漱石自身が書いているらしい。

 佐古純一郎「家からの解放」や、高見順、尾崎一雄らの文壇回顧録などで知った作品も多かった。「家」からの解放は明治以後の作家にとって重要なテーマではあるが、唯一のテーマではない。歴史に名を遺した作品は「家」からの解放というテーマにとどまらない。高見、尾崎らには何が書いてあったのだったか・・・。そして、最近の作家の小説で「家族」を描いた佳作は何かあるのだろうか。ぼくは現実に起こった家族間の犯罪事件の報道以上に関心をもったフィクションには出会っていない。

 2025年7月15日 記

 ※ 身辺多忙のため本を読む時間、「豆豆先生」を書く時間をとれないまま1か月以上が経過してしまった。
 20年以上にわたって愛用(?)してきた “Goo Blog” も10月で閉店ということなので、一日伸ばしにしてきた他のブログへの引っ越しもしなければならない。

映画「クリクリのいた夏」

2025年06月03日 | 映画
 
 先日(5月22日)、映画「クリクリのいた夏」(1999年制作)を見た。知り合いからこの映画のブルーレイ盤(IVC)をもらったので。 
 ブルーレイ盤の発売時に貰ったまま何年間も放ったらかしだったが、この日空が青くて、夏の到来の近いことを思わせる陽気だったので、題名につられてみることにした。

 どこかフランスの片田舎を舞台に、湿地帯の草原で摘んだ野草や、沼で釣った魚を町で売り歩いて生計を立てる二人の男の友情の物語である。
 主役の俳優が田舎暮らしの割には都会的な整った顔立ちでやや風景に馴染んでいない印象だったが(フランスの田舎者はあのように整った顔立ちなのかもしれない)、ストーリーはまずまずの佳作だった。
 二人の男の一方は家族持ち、一方は独り者である。一方の末娘が「クリクリ」で、彼女のナレーションで話は進行し、最後に年老いた現在の「クリクリ」が登場して、二人の男たちのその後を語って終わる。
 映像がきれいで、ヨーロッパ映画には珍しく最後はハッピー・エンドで終わった。

 2025年5月27日 記

 追記 この映画(のブルーレイ盤)をくれた人が亡くなった。急逝だった。先日(5月22日)この映画を見ようと思い立ったのは虫の知らせだったのだろうか。悲しい思い出の映画になってしまった。(2025年6月3日 追記)