豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

2007年のフィナーレは、“豆豆先生、母校に帰る”

2007年12月31日 | テレビ&ポップス

 2007年の最後の書き込みは、このブログの名前の由来である、私の好きな、Mr.ビーン(中国では、豆豆先生、豆豆博士、豆子先生、そのほか、いろいろな名前で呼ばれている)のDVDから。
 以前にNHKテレビでやっていたシリーズ物の短編から、“Back to School, Mr.Bean”というのの始まりのシーン。
 Mr. Bean の愛車の黄緑(+濃緑のボンネット)の旧ミニと、まったく同じやつがもう1台。豆豆先生のいたずらのために、この後愛車のミニはとんでもない目にあってしまう・・・。



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今年のX’マス映画は、“素晴らしき哉、人生”

2007年12月25日 | 映画
 
 今年のクリスマスには、X’マスを期して、“素晴らしき哉、人生”を観た。

 10月にギックリ腰になって仕事を休んでいた時に、退屈しのぎに購入した安いDVDの1本である。“ナイアガラ”と“グレン・ミラー物語”と一緒に3本1000円という超安値だった。
 
 せっかくの季節モノなので、X’マスまで観ないでおいた。あまりにもHappy ending すぎて、かえってそれほどHappy な気分にもなれないが、まあ、甘ったるい如何にもアメリカ風のX’マス・ケーキを食べたと思えばよい。
 ウォーレン・ビーティーの“天国から来たチャンピオン”や、“ゴースト”のような趣向の、天使が地上にやってきて、ちょっと人助け・・のストーリーである。

 雪が舞うアメリカの地方都市の風景や、50年代のクルマを眺めることができたうえに、今年話題になった「サブプライム・ローン」の原点ともいうべき、アメリカの中産(下層?)階級の住宅事情がストーリーの横糸になっている点も、ちょっと興味をそそられる。

 * 主人公のジェームス・スチュアートが、天使のおかげで(!)投身自殺を思いとどまって、現世に戻ってきて雪の街をかけるシーン。

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『タモリの東京坂道美学入門』--東京の坂道(第3回)

2007年12月18日 | 本と雑誌
 
 一昨日、私たちが持ち歩いた、タモリの『タモリのTOKYO坂道美学入門』(講談社、2004年)の表紙。
 東京の坂道が、「美学」なんてつけるほど御大層なものだとは思えない。ただ、この本は、巻頭に「東京の“名無し坂”」という小特集がある。これはいい。

 ぼくが、東京の坂道に関心をもつようになったきっかけは、予備校時代である。前にも書いたように、ぼくは、1968年の1年間を駿台予備校四谷校で過ごした。

 来年で中止になってしまう東京国際女子マラソンの35キロ付近の、市ヶ谷から四谷に向かう外堀沿いの、あの坂道を登り、四谷駅前で右折して新宿通りをしばらく新宿方面に向かうと、左手に「丸正」本店が見えてくる。その路地を入ったところに、校舎があった。
 時おり授業をサボって、あの周辺を歩いたのだが、確かに、四谷周辺の、とくに新宿通りの南側には坂と、そしてお寺が多かった。

 中学校の地理の時間に、中央線(総武線)の四谷のトンネルまでが関東ローム層で、そこから向こうは大昔は海だったと聞いていたので、四谷のトンネルには不思議な感慨を持ち続けてきた。

 その数年後、大学を卒業して就職した出版社は隣り駅の信濃町にあった。昼飯かたがた、よく文化放送のあった辺りや、慶応病院の裏手(新宿御苑の東端)、はたまた、四谷三丁目の交差点を越えて、荒木町の奥のほう、時には牛込柳町辺りまで遠征することがあった。
 あの辺りも、どこへ向かっても坂道とお寺の多い所だった。坂道とお寺には何か関係があるのだろうか。

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東京の坂(第2回) 於多福坂

2007年12月17日 | 東京を歩く
 
(承前)
 鳥居坂教会を過ぎ、ロア・ビル前で外苑東通りをわたって、④不動坂に向かう。正面の公衆トイレ(興ざめだが、どこかには必要だろう)の二股を左方向に。道路下は墓地。こんな一等地にも墓地がある。

 突き当りを右折すると、不動坂。結構な急勾配である。右手に真言宗のお寺さんがあった。われわれ夫婦の実家は、偶然にも両方とも真言宗で、ともに(父方の)祖母が唱える“オンアボキャー ベーロシャノー ・・”というお経を聞いて育った。門前で手を合わせる。
 
 不動坂を登りきって、再び外苑東通りに出る。今度は首都高ないし東京タワー方向に少し進んでから、また右折。ここから長く続く首都高沿いの坂道が、⑤永坂。“永坂更科(更級かも)”の看板も見えている。この坂は、切り通しの上に立つマンションの高い石垣と首都高の橋げたに挟まれての圧迫感と、首都高の騒音で、まるで雰囲気がない。

 早々に右折して、⑥於多福坂に入る。フィリピン大使館前には黒山の人だかり。何があるのか。於多福坂の両脇には、高級マンションと高級な個人の邸宅が並んでいる。どんな人が住んでいるのだろう。登りきったあたりに車止めがあって、クランク状の短くて急勾配の坂がつづく。⑦潮見坂というらしいが、昔はこんな所からも海が見えたのだろう。確かに品川には近いけれど。
 今日歩いた坂の中では、この於多福坂から潮見坂にかけてが一番よかった。道沿いの家々に雰囲気があり、坂道と周囲の建物が馴染んでいる。

 麻布十番の商店街を抜けて、今度は、⑧暗闇坂を登る。かつて木々が鬱蒼と生い茂っていて、昼でも暗かったのでこの名前がついたと書いてあるが、建築のために切られてしまったらしく、「鬱蒼」とは程遠い、寂しい木立である。上り口の左手と、オーストラリア大使館の敷地内に、わずかに面影を残すのみ。
 それに加えて、この通りは車の往来が激しく、散歩するにはふさわしくない。

 暗闇坂を登った所が二股に分かれていて、右手が⑨一本松坂。左手が⑩大黒坂。一本松坂は途中で引き返してしまったが、もう少し奥まで行けば、これまた真言宗の善福寺というのがあったらしい。親鸞像だの、ハリス公使館跡だの、福沢諭吉の墓などがあるらしい。

 大黒坂を下って、麻布十番駅に出る。ここまで約2時間。風は少し冷たかったが、いい運動になった。これからも、時おり東京の坂道散歩をすることにしよう。

 朝日新聞本の帯には、“坂を上ると、お江戸が見える”というコピーが記されている。しかし、もう東京の坂道に“江戸”を見ることは難しい気がする。むしろ、タモリや朝日新聞の本には乗っていない“名もなき坂道”から、ときどき昭和の風景の名残りをのぞき見ることができる。名のある坂道をたどりながら、そんな昭和の名もなき道を探してみよう。

 きょうも、一本松坂の途中をふらりと右折した路地奥に、縦長の窓枠と窓ガラスの隙間がパテで塗り固められた古い洋館があった。いつ頃建てられ、どんな来歴の人が住んでいる(いた)のだろうか。そして、マンションだらけの六本木、麻布の町で、いつまで残ることができるのだろうか・・。

 * 写真は、於多福坂の途中から、東洋英和女学院の校庭越しに眺めた六本木ヒルズ。確かに、六本木の新しいランドマークにふさわしく、六本木の随所から眺めることができた。

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東京の坂(第1回) 鳥居坂

2007年12月16日 | 東京を歩く
 
 朝起きると天気がいいので、軽井沢に出かけようと思った。しかし、Yahooの天気予報で確認すると、今日の軽井沢は午前9時に-3℃、正午でも2℃という予報だった。ちょっと寒すぎるので中止して、東京の坂道めぐりをすることにした。

 東京の坂道には前から興味があったので、ずい分前に、『タモリのTOKYO坂道美学入門』(講談社)という本と、山野勝『江戸の坂--東京・歴史散歩ガイド』(朝日新聞社)という本を買ってあった。出てくる坂の数は後者のほうが多いけれど、後者は文章が読みずらく、初めての場所は、文章を読んだだけではどう歩けばよいのか分からない。ガイド本としてはタモリのほうが分かりやすいと思う。

 で、タモリの本を片手に、日ざしが眩しいわりには風が冷たい六本木を歩くことにした。
 六本木は今から約30年前に、われわれ夫婦が結婚式を挙げた場所である。知り合いの方が鳥居坂教会の牧師さんの縁者だったので、鳥居坂教会で式を挙げさせてもらい、これまた知り合いの紹介で国際文化会館で披露宴をした。5月の連休というのに、今にも雨が降り出しそうな曇り空の日だった。それでも最後まで雨は降らず、国際文化会館の庭には、つつじがきれいに咲いていた。
 
 タモリ本の指示通り、大江戸線の六本木駅で降り、3番出口から外に出た。そしてまず、①芋洗坂を下る。雑居ビルの裏通りといった感じで、わざわざ歩く価値はない。②饂飩(うどん)坂も眺めるだけで通過。朝日神社で健康・安全を祈願。つづいて右手に六本木中学校が見えてくる。区立の中学だが、六本木にあるだけあって、まるで私立の名門中学のような雰囲気。日曜日のために閉じられている正門が立派である。芋洗坂を下りきった交差点をV字型に右折。

 テレビ朝日の隣りの毛利庭園を通って、六本木ヒルズに。何年前にできたのか知らないが、初めてのヒルズ訪問である。毛利庭園も大したことはない。池などは水が濁っていて、汚ないくらいである。カローラ・ルミオンの展示会などをやっていたが、この街にカローラは似合わないだろう。立ち寄る人もなく、係員が暇そうにしていた。

 再び芋洗坂に戻る。通り沿いにあるマセラッティだの、ベントレーだのの販売店は、入り口に立っている女性からして、うちの近所の東京カローラとは雰囲気が違っている。つづいて、③鳥居坂を鳥居坂下から外苑東通りに向かって登りはじめる。右手にシンガポール大使館の立派な塀と木立ち。でも、厳めしい警備員が立っていて近寄りがたい。

 左手に懐かしい国際文化会館の石垣がつづく。かつては岩崎弥太郎(小弥太かも)邸だったとか。毛利邸よりはるかに立派で、手入れも行き届いた庭園である。われわれが結婚式を挙げたときは、ここの庭園で記念写真を撮ったが、もっと広かったような記憶なのだが・・。建て増しでもしたために、庭は狭くなったのだろうか。
 
 さらに外苑東通りに向かって北上すると、左手に鳥居坂教会の十字架が見えてくる。われわれが結婚式を挙げた当時の建物は今はなく、近代的な白いビルになっている。
 鳥居坂教会の向かいは、東洋英和女学院のレトロな建物。東洋英和は祖母が大正の末期に卒業した学校である。祖母は、苦学してここで保母の資格を取り、当時としては珍しい職業婦人となった。当時から金持ちの子女の通う学校だったらしいが、それでも、まだ宣教師の創った学校としての特色が残っていたのだろう。
 孫の結婚式のついでに母校を訪れ、懐かしがっていた。

 六本木の坂道めぐりはまだ続くが、字数も多くなったので、今日はここまで。

 * 写真は、国際文化会館の玄関前から撮った東京タワー。六本木はあちこちから東京タワーを眺めることができるが、こんな所からも見えていたのだ。

 

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