豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

建築でたどる日本近代法史・8 旧中野刑務所

2023年06月24日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」の第8回は、旧中野刑務所。
 出典は朝日新聞1983年2月23日付の記事。「消える “思想犯の獄舎” --73年の歴史、中野刑務所」と見出しがうってある(上の写真)。

 記事によれば、この建物は明治43年(1910年)に着工し(?)、大正4年(1915年)に完成したようだ。戦後は米軍に接収されたが昭和32年に返還され、中野刑務所として新たに発足したという。昭和50年(1975年)に法務省が廃止を決定し、敷地12万平方メートルの一部は都と中野区に払い下げられた。800人いた受刑者は昭和57年までに他の刑務所に移され、職員も配転されたという。
 建物については、「レンガ造りの十字型獄舎」としか書いてないが、「名建築の名が高」く、取り壊しを知った建築家たちが調査に訪れているという。「十字舎房」と書いたものもある。
 記事に付された写真を見ると、中央に監視塔があって、その周りに数棟の獄舎が放射線状に延びる姿は、典型的なベンサムのパノプティコン(全監視)方式の監獄建築である。

 記事は、中野刑務所の来歴を簡単にしか書いてないが、中野刑務所はもともとは豊多摩監獄として発足し、その後豊多摩刑務所と名称を変更した。
 「思想犯の獄舎」として知られたのは、治安維持法によって左翼から自由主義者までが片っ端に投獄された戦前の豊多摩刑務所時代である。戦後の中野刑務所になってからは、建前上は「思想」を理由に罰せられることはなくなったので、学生運動の活動家が収容されたくらいである。
 記事によれば、沼袋駅から200mの距離とあるから、「中野」刑務所というより、「豊多摩」刑務所のほうが地理的にも相応しいかもしれない。ぼくは豊多摩刑務所というのは、水道通りの豊多摩高校のあたりにあったのかと思っていた。

 「思想犯の獄舎」と見出しをつけながら、この記事は、中野刑務所に収容されていた思想犯の名前をまったく書いていない。ネットで調べてみると、中野区立中央図書館のHPに、「収監の作家・文化人--中野刑務所 1910-1983」と題して、中野(=豊多摩)刑務所の主な収容者の紹介があった。
 それによれば、河上肇(昭和8年1月~6月)、三木清(同5年7月~11月、同20年6月~9月)、小林多喜二(同5年8月~6年1月。死亡は同8年)、壷井繁治(同5年8月~6年4月、同7年6月~9年5月)、中野重治(同5年5月~12月、同7年5月~9年5月)、亀井勝一郎(同3年4月~5年春)らが豊多摩刑務所に収容されていた。埴谷雄高の名前もあった。まさに「思想犯の獄舎」である。
 豊多摩刑務所に収容された思想犯の中で、一番有名なのは三木清だろう。彼は治安維持法違反で検挙、投獄され、1945年8月の敗戦によって占領軍(GHQ)が思想犯の解放を命じたにもかかわらず、人々が気づかなかったために釈放されることなく、同年の9月26日に豊多摩刑務所で獄死した。悲劇的な話である。高校生の頃、三木の『人生論ノート』を読んだが、ぼくの人生には影響を与えなかった。
 中野刑務所の跡地は、現在では平和の森公園になっているとのことである。

 「獄舎」といえば、長谷川尭の『神殿か獄舎か』が、ぼくの建築物への関心の始まりだったが、この本は断捨離してしまって、手元にない。「獄舎」の何が語られていたのだろう。
 一時期はまっていた山田風太郎の『地の果ての獄』という明治伝奇ものは、網走監獄が舞台だった。網走監獄の囚人たちが、屯田兵と一緒に北海道開拓に従事した物語だった(と思う)。
  
 2023年6月24日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建築でたどる日本近代法史・7 旧枢密院庁舎

2023年06月23日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」の第7回は、旧枢密院庁舎。戦後は、1970年代まで皇宮警察本部として使われていたらしい。
 出典は、読売新聞1979年(昭和54年)11月27日付。

 枢密院は、明治21年(1888年)の勅令によって、天皇の諮問機関として創設された。議長(初代議長は伊藤博文)、副議長、顧問官から構成される合議体であるが、大日本帝国憲法(明治憲法)の草案を最初に審議したのが枢密院であった。その明治憲法によって「天皇の諮詢に応え重要の国務を審議す」る権限を与えられた(56条)。
 枢密院では、普通選挙法、不戦条約、ロンドン軍縮条約、2・26事件の戒厳令宣告など、まさに近代法史上の重要案件が審議された。その権限は強力で、台湾銀行救済の勅令を枢密院が否決したため若槻内閣が総辞職に追い込まれるというようなこともあった(同記事による)。
 枢密院は、この記事によれば「陰謀の府」と呼ばれていた。

 ポツダム宣言受諾による敗戦後の新憲法制定に伴い、新憲法施行前日の1947年5月2日に枢密院は廃止となった。新憲法の原案もここで審査したというエピソードを、当時枢密院書記官として勤務した高辻正己最高裁判事(当時)が語っているが、彼がいう「新憲法の原案」とは何か。
 マッカーサーから憲法改正の示唆を受けた幣原内閣が設置した憲法問題調査委員会で、主宰者の松本烝治が中心となって作成した政府原案があまりに保守的だったため、マッカーサーは自ら指示していわゆる「マッカーサー草案」を1週間で起草させ、日本政府に提示した。
 古関彰一『新憲法の誕生』(中公文庫、1995年)によれば、マッカーサー草案に基づいて松本委員会が行なった修正作業は首相官邸内の放送室で行われたという(174頁)。できあがった政府の「草案要綱」は1946年4月17日に枢密院に諮詢され、審査委員会で11回の審査が行われた後、6月3日に枢密院本会議で可決された。反対は美濃部達吉のみであったという(261頁)。
 これが高辻のいう「新憲法の原案」だろう。占領軍の指示によって廃止が決まっていた枢密院において、最後に新憲法が「審査」されたというのも、明治憲法上の規定に従ったまでとはいえ、皮肉なことである。しかも圧倒的多数で可決されたとは・・・。 

 その枢密院の建物は、当初は帝国議会議事堂に隣接して建てられたが、新議事堂建設に伴い大正10年(1921年)に皇居三の丸地区の現在地に移転し、枢密院廃止後は法務省や総理府が使用し、昭和27年(1952年)からは皇宮警察本部として使用され、昭和44年には全面移転したという。
 「近世復興様式」の大正時代を代表する建築物で、鉄筋コンクリート造りモルタル塗、窓はステンドグラスで飾られた、2階建て全24室の総面積は1500平方メートル、総工費は46万円だったという。
 室内にはシャンデリア、マントルピースをそなえるなど贅を凝らした建物だったが、吹き抜けの室内は夏は暑く、冬は寒く、高辻氏は木炭火鉢を持ち込んで作業したという。
 しかし、1979年当時は建設から58年を経て、老朽化が激しく、窓枠は腐り雨漏りもするなどしたため、取り壊して隣接地に移転することが決まったという。最近のサステイナブル社会、しかも近代建築遺産を尊重する時代風潮だったら、改修、保存の道が選択されたのではないだろうか。

 2023年6月23日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下夷美幸『日本の家族と戸籍』

2023年06月22日 | 本と雑誌
 
 下夷(しもえびす)美幸『日本の家族と戸籍--なぜ「夫婦と未婚の子」単位なのか』(東大出版会、2019年)を読んだ。

 戦後の日本国憲法制定にともなう民法改正、いわゆる「家」制度の廃止に連動して行われた戸籍法の改正作業とその後の変遷について、当時戸籍を管轄していた司法省民事局の官僚たちの行動、とくに青木義人の回顧談などに依拠しながら詳しく紹介している。
 民法改正をめぐっては、「家」制度存続派の牧野英一らと「家」制度廃止派の我妻栄・中川善之助らが対立し、さらに「家」制度廃止派のなかで「近代家族=婚姻家族」尊重派の我妻・中川らと、「個人」優先派の川島武宜らとが対立するという構図で理解するのが定番になっている。
 これに連動して、その家族を登録・公証する戸籍法の改正をめぐっても、「家族」単位の「戸籍」を主張する我妻らと、「個人」単位の身分登録制(「個籍」)を主張する川島らの対立があったが、著者は戸籍実務を担っていた青木らの回顧談を素材に法務官僚の「戸籍」観を析出する。

 結論的にいえば、彼ら法務官僚は、「家」制度の存続には与しないが、しかし、当時の紙不足や印刷事情(司法省通達の印刷すら毎日新聞の印刷所に依存していた!)、戸籍担当職員の労働過重(当時は復員兵や戦死者の届出、戦死広報にもかかわらず生存していた者の復籍など、戸籍謄本・抄本の作成依頼が厖大で、かつ当時はすべて手書きだった)といった実務面の理由から、「個人」単位の身分登録の新設にも反対した。そして、身分(親子、夫婦関係)の公証手段としての利便性から、「家族」を単位とする戸籍の編製を主張した。
 これが我妻らの「家族」単位論と合流して、民法改正は戦後の新憲法の施行に間に合わず応急措置法で凌いだのだが、戸籍法は青木らによる突貫作業で、まずは「通達」によって対処し、その後夫婦と未婚の子(=家族)を単位とする新たな戸籍法の制定をみたのだった。

 現在まで続いている戸籍法の「家族」単位の原則は、基本的には、「夫婦と未婚の子」を一つの単位として編製される。しかも「“家” 亡んで、“氏” 残る」(宮沢俊義)と評されたように、「同氏同籍の原則」(=「別氏別戸籍」の原則)を基本として戸籍が作成されることになった。
 夫婦が結婚すると、夫婦とも従前の戸籍から離脱して新たに夫婦の戸籍を作成する。夫婦は同氏となり(民法750条)、夫婦間にできた嫡出子は父母の氏を称し(790条1項)、前婚の時の子、認知した婚外子、養子で夫婦と氏を同じくする子も夫婦の戸籍に入る。
 夫婦間の子らが結婚した場合には、親の戸籍から離れて新夫婦の戸籍が新たに作成される。もし夫婦間の子(娘)が未婚で子を産んだ場合には、娘と生まれた子(非嫡出子)だけの戸籍が新たに作成される。

 著者によれば、戸籍は親族関係を登録、公証するツールにすぎないにもかかわらず、「家族単位」の新戸籍法は、人々の間に「戸籍=家族」観念を抱かせることになり(134頁)、婚姻家族から外れた人たちを苦しめることになった。
 ※戸籍が人々の家族観に影響を与えることは、青木自身がその著書『戸籍法』(日本評論社、1951年)の前書で「実体身分法の大部分は、戸籍の実務を通じて、われわれの身辺に具体化される」と述べているように、立案の当事者も想定するところだった。
 著者(下夷さん)は、戦後から今日まで続く読売新聞の「身の上相談」に寄せられた「家族」ないし「戸籍」に関する悩み相談とその回答から、一般人の「家族」意識を析出し、戸籍によって苦しむ人たちの苦悩を紹介する。回答者には、大浜英子、鍛冶千鶴子、小糸のぶ、小山いと子など懐かしい名前が並んでいるが、島崎敏樹、眉村卓も回答者だったとは意外だった。
 相談の多くは、婚外子(嫡出でない子)に関わる悩みである。
 婚外子は原則として母の戸籍に記載されるが、戸籍が公開されていた時代には、誰でも戸籍を閲覧することができた。結婚や就職に際して、戸籍調査によって身元を調べられ、婚外子であることが判明すると破談にされたり就職を断られることも多かった。それを心配する相談や、逆に相手が婚外子であることを婚姻届の際に知って後悔する相談などが見られ、事前に戸籍を調べなかったのは「うかつ」だったと回答者がたしなめる例もあった。
 ※2008年(平成20年)の戸籍法改正によって、個人のプライバシー保護のために戸籍は原則として非公開となった。

 婚外子であることが発覚するのを避けるために、虚偽の出生届によって婚外子であることを戸籍の上で秘匿したり、出生届を出さない無戸籍児の事例も後を絶たなかった。出生届に出生証明書の添付が義務づけられても、母や既婚の姉の子として届け出る者があり、後になって事実を知った婚外子が悩むこともあった。
 他方で、婚外子を父が認知すると、そのことが戸籍の父の「身分事項」欄に記載される。すると今度は婚姻家族の側が、父親がそのような人間であることが分かって結婚や就職に不利になる、「戸籍が汚れる」といって認知に反対する。
 婚外子は母の氏を称するが(790条2項)、家裁の許可があれば父の氏に変更することができる(民法791条)。父と同氏になれば父の戸籍に入ることになるので、認知の場合よりもさらに強く婚姻家族側が子の氏の変更に反対する。家裁の審判例でも、婚姻家族が反対していることは、婚外子の氏の変更を許可しない要素として考慮されているのが現状である。
 婚外子と母親の戸籍の場合、母が婚姻して夫の氏を名のることになって従来の戸籍から除籍されると、従来の戸籍は子どもだけの単独戸籍になる。そのような「ひとり戸籍」では子が可哀そうだというので、婚姻を躊躇する母もあるようだ。
 これらの事例から、著者は、家族単位の戸籍が存続することによって、一般の人々には、戦前の「家」制度と変わらない「戸籍=家族」観念が残ることになったと指摘する。

 ちなみに、ぼく個人としては、「戸籍」があったおかげで、父の死亡時に取り寄せた除籍簿によって、5世代遡った先祖(曽曽祖父母)までをたどることができた。さらにその戸籍に記載されていた本籍地がその後の町村合併にもかかわらず、番地だけは変更されていなかったおかげで、先日の佐賀旅行の折に先祖が暮らした現地を訪ね、その雰囲気を感じることができた。
 除籍簿を経由して「家」を単位とする旧戸籍を見ることができたので、子どもの頃にわが家を訪ねてきたことのある遠縁の「親戚」が、法的にどのような親族関係にあったのかを知ることもできた。
 理念としては「個人」を単位とする身分登録制が新憲法に適合する身分登録制度だとは思うのだが、感情的には「家族」単位の戸籍の利便性を否定することもできない。ぼくが取り寄せた除籍簿は、3枚綴りの中に25名の家族が記載してあるが、附票も含めてすべて手書きである。丁寧な楷書もあれば哉釘流も判読に苦労する文字もあったが、手作り感あふれる一種の文化財といえるだろう。

 しかし、そのような恩恵を感じないどころか、戸籍の呪縛に苦しんでいる人が多いことは、本書からも明らかである。
 本籍地変更による「転籍」や、本人の意思だけでできる「分籍」によってもある程度の対応は可能だが、やはり川島やGHQが主張し、下夷さんも結論とするように身分公証制度としては個人単位が最も合理的(261頁)というより憲法の個人の尊重原理にもっとも忠実な制度だろうと思う。
 1947年には、明治以来の旧戸籍を新法の戸籍に読みかえ、10年後までに新戸籍に改めることにするという弥縫策が取られたが(戸籍法128条、255頁)、1957年になっても法務省内にはなお明治戸籍の流用で済まそうとする勢力があったが、岩佐節郎が新戸籍への改製を強く主張し、民事局長だった村上朝一の決断によって改製が断行されることになったという(257頁)。
 唄孝一は、この時こそ戸籍の本質を真剣に検討すべきであるといい、著者も(1947年当時は青木らの選択もやむを得なかったが)この時こそ個人単位の身分登録制に改めるべきであったという(260頁)。

 我妻は、1970年代から「コンピュータ時代」になれば個人単位も可能になると示唆していたという。
 昨今のマイナンバーカードは、「個人」単位の身分登録制(個籍)を導入する絶好のチャンスだとぼくは思っていたが、連日報道されるトラブルによって明らかになったわが国のデジタル化の惨状を見ると、とても「世界に冠たる」日本の「戸籍」に代わることは不可能だろう。
 マイナンバー導入の舞台裏には、おそらく戦後の戸籍法改正作業に際して、「家」存続派と「個人」尊重派、学説と実務の対立を調整した我妻のような指導者もいなければ、実務を主導し精力的に作業を進めた青木のような官僚も、青木のもとで現場の実務を担当した「戸籍の職人」ともいうべき裏方の人たちもいなかったのだろう。
 そんなマイナンバーでも、家族単位の戸籍よりはマシだと思う人もいるだろう。さしあたって身分の証明は、戸籍でもマイナンバーでもいずれでもよいと選択制にするあたりが穏当な道のように思う。

 ちなみに、1947年の戸籍法改正時の青木らの作業も、1957年改正時の明治戸籍存置派と改製断行派との戦いなども、あの「建築にみる日本近代法史」第6回の「旧司法省(法務省)本館」の中で行われたのだろう。

 2023年6月22日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建築でたどる日本近代法史・6 旧司法省本館

2023年06月20日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」第6回は旧司法省(法務省)本館である。

 出典は朝日新聞1983年7月16日付、同1986年1月12日付、同1989年12月27日付の3本(上の写真)。
 1983年の記事は「法務省本館、保存へ 赤レンガ官庁生き残り、建てた当時の姿に復元して」という見出しで、明治時代にできた赤レンガ造り官庁の唯一の生き残りである旧法務省本館が建設当時の姿に復元して保存しようという調査結果が建設省の委員会で決まったことを報じている。

 86年の記事によれば、旧法務省本館は明治19年に創設された臨時建設局(井上馨総裁)のもとで「中央官衙(かんが)集中計画」に基づき、旧大名屋敷に分散していた官庁を現在の霞が関に集中させることとし、まず国会、大審院、司法省を建設することになった。しかし条約改正の失敗で井上は失脚し、財政難から計画はとん挫し、司法省と大審院だけが完成したという(司法省は明治28年の完成)。大審院(後の最高裁)は昭和49年に取り壊されたため、旧司法省の建物だけが残ったという。
 この旧司法省本館は、関東大震災は免れたが、昭和20年の東京大空襲で外壁を残して焼失し、戦後になって、3階部分や屋根上の尖塔を撤去し2階建てとして再建された(86年の記事)。
 建築当初の建物はナポレオン3世時代のネオ・バロック風の権威主義的な雰囲気ときらびやかな屋根とアーチが特徴だった。国産レンガ建築の第1号であり、濃尾地震の被害を参考にした耐震建築の草分けでもあったという(89年の記事)。

 法務省、検察庁合同庁舎が、旧東京地裁、高裁跡地に新設されるのを契機に、歴史的建築物として、旧司法省本館が明治当時の姿に復元して保存されることになった(89年の記事)。当初の建築費用は当時の金で99万円だったが、このたびの復元費用は数十億円とも(83年の記事)、50億円超とも(86年の記事)、30億円ともいわれている(89年の記事)。
 完成後は法務総合研究所と法務図書館として使用されるとのことである(86年の記事)。

 法務省の、あの赤レンガはファサードだけが残っていたと思っていたが、これらの記事によると、東京大空襲で外壁だけが残っていたのを、戦後初期に二階建てにリフォームしたうえで、1980年代の計画によって明治28年当初の姿に復元されたということだったようだ。
 旧大審院(最高裁)も赤レンガの雰囲気のある建物だったが、今はない。ぼくの記憶に残っている赤レンガの裁判所といえば、松川事件の門田判決が下された仙台高等裁判所の赤レンガの建物の記憶がわずかに残っている。片平丁小学校や東北大学に近い、大橋に向かう路面電車の通り(広瀬通り?)に面して建っていたと思う。祖母や母は昭和30年代になっても「控訴院」と呼んでいた。

 法務省本館は、個人的には嫌な思い出しかない。かつては司法試験論文式の合格発表がこの建物の中庭で行われていた。ぼくはこの試験に3回落ちた。独学だったので、どういう答案を書けばよいのか最後まで分からなかった。7月17、18、19日という試験日も苦手だった。5月の母の日に行なわれる短答式は毎年爽快な気分で臨めたが、7月のこの時期は梅雨が明けていてもいなくても蒸し暑くて、バイオリズムは最悪だった。試験会場の早稲田大学15号館(?)にはエアコンもなく、毎年蒸しかえるような暑さの中で答案を書いた。結局、ぼくには司法試験は縁のない世界だと自覚して、3年で諦めて大学院に転進した。

 もう一つは、編集者時代のいやな思い出である。
 毎年公表される「犯罪白書」を、慶応大学の宮沢浩一先生の紹介で、法務省本館にあった矯正局に受け取りに行ったのだが、ある年応対に出てきた人物が「超」のつく感じの悪い男だった。ぼくが編集者時代に出会った中で最悪の人間だった。
 佐藤藤佐氏や竹内寿平氏など歴代の検事総長にお会いする機会もあったが、おそるおそる出かけたのだが、こちらが恐縮するくらい腰が低く、穏やかな方たちだった。
 そう言えば、法務省特別顧問室に小野清一郎氏を訪ねたこともあった。あれも本館だったろうか。刑法改正が問題になっていた頃で、彼は、平野・平場編「刑法改正の研究」が見つからないので探してくれと、初めてお会いしたばかりのぼくに仰るので、部屋の中をご一緒に探したことがあった。すぐに、大きな机の上にあるのをぼくが見つけた。かなりのご高齢だったはずだが、矍鑠とした好々爺という印象だった。

 2023年6月20日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建築でたどる日本近代法史・5 旧陸軍大学校舎 

2023年06月18日 | あれこれ
 
 今回は、日本「近代法史」にぴったりという訳ではないが、個人的に懐かしい港区青山の青山1丁目交差点の近くにあった陸軍大学の建物。
 2・26事件の際には、陸大の中にも決起を促す学生がいたというから、2・26事件における「戒厳令」発令という意味では、「日本近代法史」とまったく関係がないとは言えなくもない。

 出典は朝日新聞1983年2月23日付の記事(上の写真)。
 「昭和史の舞台降りる “旧軍の象徴” 陸軍大学」という見出しで、かつての陸軍大学の建物が、取り壊されることを報じている。
 記事によれば、陸軍大学は明治16年に開校し、昭和9年に現在の(1983年当時の)建物が建てられたという。敗戦によって日本陸軍は解散させられ、陸軍大学も廃校となったが、この建物は昭和29年(1954年)からは港区立青山中学校の校舎として使われてきたという。
 三階建てだが、高さは戦後に建てられた校舎の四階に相当するとある。天井の高さが3メートル近くあったのだろう。どこかの建設会社か不動産屋のテレビCMで、「人を育てるには、天井を高くしろ!」というのがあったが、戦前の日本では(少なくとも陸大の校舎に関しては)そういう気風があったのだろう。そういえば、大隈会館(旧大隈重信邸)のホールの天井も高かった。

 ぼくは1974年に信濃町にあった出版社に入社し、編集者になった。仕事帰りに仕事仲間たちと、青山1丁目のホンダ本社の裏通りに面したマンション1階にあった “ウォーキン” というスナックに呑みに行った。オーナーが信濃町で喫茶店をやっていた頃からの知り合いで、開店時から通った。キープしたボトルのナンバーは79(泣く?)だった。
 時には須賀町から外苑東通りを連れ立って歩いて行くこともあった。
 左門町バス停前から、信濃町教会、博文堂書店を左手に、右手には東電病院、慶応病院を見ながら、信濃町駅前を通り、明治記念館、権田原、東宮御所を左手に眺めながら外苑の緑を歩くと、青山1丁目交差点の手前、右手奥に青山中学校があった。レトロな建物が印象的だったが、当時はそれがかつての陸軍大学の校舎だったとは知らなかった。
 ぼくが同社を退職したのが1983年だったから、ちょうどぼくが退職して信濃町とは縁がなくなってしまった頃に、陸軍大学の校舎だった建物も取り壊されたことになる。
 昭和40年代には、そのようにしてまだ戦前の建物が利用されていたのだ。

 平成になってからも(コロナ前までは)、青山1丁目にある(かつて在職していたのとは別の)出版社に年に2回定期的に出かけたが、新しい青山中学校の校舎を見た記憶はない。あの辺をぶらぶら信濃町駅まで歩こうという余裕も体力もなくなり、仕事が終われば青山1丁目駅から大江戸線に乗ってさっさと帰宅するようになってしまった。
 “ウォーキン” も閉店してしまったと数年前に聞いた。

 ・・・と、今回はやっぱり「日本近代法史」というよりは、「ぼくの気ままな nostalgic journey 」になってしまった。

 2023年6月18日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建築でたどる日本近代法史・4 区裁判所余話

2023年06月17日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」の連載(?)第1回の旧松本区裁判所、第2回の篠山区裁判所ではどんな事件が裁かれたのか、第一法規の<D1-Law>で検索したところ3件の判例が見つかった。

 1つ目は、松本区裁判所昭和4年12月12日判決(法律新聞3062号5頁)である。「鶏姦に基く金銭の遣り取りと公序良俗」という見出しの通り、鶏姦(男色行為)をめぐる特異な事件である。
 A男とB男はともに妻のある身でありながら鶏姦関係にあり、行為のたびにA男(判決では鶏姦者と表記)はB男(被鶏姦者)に対して金員を支払っており、その総額は350円余になった。しかしB男は健康を害したためA男に対して関係の解消を求めたところ、A男は関係を解消するならこれまでに支払った350円余の金員を返還せよと要求し、B男は仕方なく350円余をx月x日までにA男に返済する旨の消費寄託契約を結び、B男の妻がこれを保証した。その後、A男は右消費寄託にかかる債権をXに譲渡し、XがB夫婦に対してその支払いを請求したというのが本件の経過である。
 ※「消費寄託」というのは、AがBに物(金銭でもよい)を預け、Bはその預かった物を使ってもよいが、期限が来たら同量・同品質の物(350円預かったなら350円)を返還しなければならないという契約である(民法666条)。
 判決は、「AB共に妻ある身でありながら、秘かにこの様な男性間の性情行為をすることは、社会の善良の風俗に反すること甚しい。故に、こういう原因のために既に遣った金の取り返しを請求することができないのは勿論、醜関係を絶つことを条件として、新たに金の支払いを約束することも亦善良の風俗に違反する事柄を目的とする無効の法律行為である。社会の道徳に背く行為を法律は保護すべきではない」。したがって「本件契約は無効であるから、AはBらに対してこの契約を盾にとって金を支払えと迫ることもできないし、この権利を譲受けたと称するXの請求も赦されない」として、Xの請求を棄却した。
 事案が微妙なので配慮が必要だが、法学部の民法の授業でも「公序良俗違反の法律行為(契約)の効力」の事例として使えそうな事件である。
 なお、この判決には不思議な注記がある。判決自体に書いてあるのか、法律新聞編集部で付けたものかは判別できないが、「この事件には弁護士もついておらず、当事者は無学なので、判決文は平がな、口語体にした」というのである。上の引用では少し簡略にしたが、もともと読みやすい判決である。なかなか気の利いた配慮ではないか。
 裁判官は「千種達夫」とある。有名な裁判官で著書もあるが、法律書のほかにも満州の家族慣行調査の報告書もある。
 母校早稲田大学のHPによれば、千種は明治34年生まれで、同大法学部を卒業後、助手を経て昭和4年5月に長野地裁松本支部判事となり(松本区裁判事だろう)、「三宅正太郎らと口語体判決文を書き始め、国語愛護同盟の法律部メンバーとして法律文の平易化を模索」したとある。
 上記判決はまさにその実践だったのだろう。松本区裁に着任して7か月目の判決である。戦後は国語審議会委員も務め「公用文法律用語部会」に属したとあるから、法律用語の平易化に熱心な人だったようだが、このことをぼくは知らなかった。 

 2つ目は、松本区裁判所大正13年6月10日判決(法律新聞2296号21頁)である。この事件は、手形金の請求と(手形振出の)原因である保証契約に基づく保証金の請求とは請求原因を異にするから、訴えの変更が必要である旨を判示した。

 3つ目だが、第2回の篠山区裁判所時代の判例は、第一法規の<D1=Law>には1例も掲載されておらず、神戸地方裁判所篠山支部になってからの判例が1件だけ掲載されていた。神戸地裁篠山支部昭和48年2月7日判決(判例タイムズ302号281頁)である。
 合名会社の代表社員の職務執行停止等の仮処分は、民事訴訟法760条の「仮の地位を定める仮処分」として許される旨を判示した。篠山地区のどこかの合名会社で、不適切な行為を行なった代表社員を解任するために、他の社員がその前提としてひとまず職務を停止させようとしたのだろう。
 この判決を下した裁判官が「稲垣喬」となっている。稲垣喬さんといえば、医事法の世界では名前を知られた学究肌の裁判官で、著書や論文もある。私も何本か読んだことがあるが、文章が堅くて難解だった印象がある。篠山支部にいたこともあったのだろうか。神戸地裁と併任だったのかも。
 篠山区裁判所時代の判例を見つけることができなかったので、代わりに、丹波篠山市立歴史美術館のHPに掲載された同美術館内に保存されている篠山区裁判所の法廷の写真を(上の写真)。
 戦前の裁判所の法廷では、裁判官と検察官は被告人および弁護人より一段高い席に座って、被告人を見下ろしていたと聞いたが、篠山区裁判所では裁判官だけが一段高い席に座って、検察と被告は対等な平座に座っていたようだ。

 あれこれと資料を彷徨していると、今なら「建築でたどる日本近代法史」を自分で執筆できるのではないかと思えてきた。
 旅行をして旅先を散歩していると、時おり裁判所の建物を見かけることがある。先日の佐賀旅行の折にも佐賀地裁唐津支部を見かけた。残念ながら唐津支部はコンクリートの二階建ての平凡な建物だったが、支部裁判所の中には昭和の面影を残すものもあるのではないだろうか。とくに廃庁となってしまった支部の中には建物が残っているのもあるのではないだろうか。
 由緒ある歴史的建築物の由来をたどりながら、雰囲気のある地裁支部(区裁判所)の建物と、その裁判所で下された印象的な判決を紹介するというパターンだけでも数回分は書けるような気がする。

 2023年6月17日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建築でたどる日本近代法史・3 極東軍事裁判法廷

2023年06月16日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」の第3回は、第2次大戦後、日本の戦争犯罪人を連合国側が裁いた極東軍事裁判(東京裁判)の法廷が設けられた市ヶ谷の旧自衛隊駐屯地に建つ、三島由紀夫の自決で有名になったあの建物である。
 記事は朝日新聞1990年(平成2年)1月6日夕刊(上の写真)。「今のうちです “昭和の史跡” 自衛隊市ヶ谷駐屯地」というタイトルで、「東京裁判の法廷」「三島由紀夫自決の地」という副題がついている。記事によれば、ここに防衛庁が移転することが決まって、戦争中は大本営本部が置かれ、戦後に極東軍事裁判が開かれ、三島が自決した建物が消え去る運命にあるため、見学客が絶えないとある。

 戦前までは、この場所には市ヶ谷刑務所があった(はずである)。
 ぼくの父方の祖父一家は、大正から昭和にかけてこの辺の官舎で暮らしていた。父は余丁町小学校に通い、姉(ぼくの伯母)は市ヶ谷駅近くの三輪田女学校に通っていたが、女学生だった伯母が下校の際にこの市ヶ谷刑務所わきを通ると、黄色い囚人服を着た囚人が道路を掃除していることがあったという。足を鉄鎖で縛られているものの、横を通り過ぎるのが怖かったと語っていた。
 赤塚不二夫の「レレレのおじさん」(?)を見ると、いつも伯母さんのエピソードに出てきた黄色い絣でほうきを掃いている囚人のことを思い出した。

 ネットで調べると、市ヶ谷刑務所は自衛隊よりもっと北の方向、現在の富久町児童公園のあたりにあったようだ。余丁町のすぐ南側である。市ヶ谷刑務所は1937年に小菅に移転したとのこと。
 極東裁判が開かれた(後の)自衛隊市ヶ谷駐屯地は、市ヶ谷刑務所よりはもっと南側にあり、かつては陸軍士官学校があって、その大講堂が極東軍事裁判の法廷として使われたらしい。
 ぼくが信濃町(須賀町)の出版社に勤めていた昭和40年代には、すでに自衛隊の駐屯地になっていた。広大な敷地を有するうえに、高い建物がなかったので、市ヶ谷駅から西の方角に向かって歩くと、駐屯地の小高い丘の向うに沈んでゆく夕陽がきれいだった。
 ※--という思い出は、市ヶ谷刑務所跡地ではなく、自衛隊市ヶ谷駐屯地の情景である。

 極東軍事裁判、いわゆる東京裁判は小林正樹監督の「東京裁判」を見たが、後には粟屋憲太郎氏の著書なども読んだ。パール判事が公判を頻繁にさぼったり、ウェッブ裁判長がしょっちゅうオーストラリアに帰国したりするなど、結構いい加減な一面を知って驚いた。
 日本人戦犯の中には、自らの保身のために、検事局の取調べで仲間の名前を100人以上も密告するヤカラがいたことなども、当時の検事調書がアメリカで情報公開されたために発覚するなど、今日では極東裁判の裏側についても、いろいろな史実が明らかになっている。
 ※粟屋「東京裁判への道(上・下)」、藤原・粟屋他「徹底検証 昭和天皇独白録」など。

 現在この建物がどうなっているのだろうと思って防衛省のHPを見ると、この敷地は現在は防衛省の管轄となっていて、敷地内に残されている極東軍事裁判に使われた法廷(大講堂)を見学することができると書いてある。
 この記事にも見学者が絶えないとあるが、極東裁判への関心か三島由紀夫への関心かはわからない。ぼくも、市ヶ谷の建物というと、極東裁判よりはバルコニーで演説する三島の姿のほうが思い浮かんでしまう。三島の小説は若い頃に「潮騒」と「午後の曳航」を読んだだけで、その後のものは読んでいないのでよく知らないが、この市ヶ谷の地を選んだ背景には極東裁判に対するアンチの気持ちがあったのだろうか。
 ぼくは、1970年代に、新宿駅の東口と西口を繋ぐ地下コンコースで、奥さんらしき女性(編集者かも)と編集者風の男性と3人連れで東口方向から歩いてくる三島とすれ違ったことがある。楽しそうに笑顔で連れと喋っていた。 

 2023年6月16日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建築でたどる日本近代法史・2 旧篠山裁判所庁舎

2023年06月15日 | あれこれ
 
「建築でたどる日本近代法史」の第2回は旧篠山裁判所、神戸地方裁判所篠山支部庁舎である。
 出典は、日本経済新聞1982年(昭和57年)12月23日付の記事で、「神戸支社・前田記者」という署名がある(上の写真)。
 見出しは「名所新景 最古の裁判所庁舎 “衣替え” 篠山歴史美術館(兵庫県)」となっている。丹波篠山(ささやま)に残る旧裁判所庁舎の物語である。

 明治24年裁判所として建築され、昭和56年6月まで使用されてきた、この建物が、場所を少し移動させ、正門の向きも変えて、この年(1982年)の4月に美術館としてリニューアルすることになったという。取り壊し論もあったようだが、町民の存続運動と、国土庁の1億円の資金援助によって存続することになったそうだ。
 記事によると、展示品の大部分は篠山藩にゆかりのある焼物や出土文物らしいが、4つの展示室のうちの一室は、かつての法廷がそのまま保存されているという。
 どんな事件があったのか、いつか判例集で「神戸地裁篠山支部」の判決を検索してみよう。
 
 明治24年の建築という記事が事実ならば、前回の旧松本裁判所は明治41年の建築だから、篠山裁判所のほうが古いことになる。
 篠山裁判所も旧松本裁判所と同じく、瓦屋根の建物で、正門も瓦葺である。
 「ローカル色豊かな美術館ではあるが、町民あげて育てようしている熱意が伝わってくる」と記者は結んでいるが、記事から40年以上が経過して、21世紀になり、令和となった現在でも建物は残っているのだろうか。健在であることを祈る。

 追記 
 ・・・と書いて心配になったので、丹波篠山市のHPを覗いてみた。丹波篠山市立歴史美術館は今も健在で、旧法廷もしっかり保存されていた。法廷の写真も載っている。
 歴史美術館のHPによると、「西南の役を鎮圧した明治10年(1877年)に、旧豊岡県支庁跡に篠山区裁判所が設置され、その後、明治23年(1891年)に府県制が公布されると同時に、区裁判所は地方裁判所となり、翌24年に 新しい木造の庁舎が完成した。
 現在、(美術館の)本館として使用されているのはこの建物で、 裁判所の木造庁舎としては最古級のものといわれており、建設当時の姿は、瓦をのせた白壁の塀で取り囲まれた敷地の南正門を入ると、左手に執行吏役場、 右手に公衆控所があり、正面に両翼を広げた長さ約40mの木造平屋建ての本館が控える堂々たる構えのものであった」とある。この法廷は、テレビ映画「裸の大将」のロケにも使われたという。
 新聞記事に添えられた写真よりもかなり立派な門構えの写真がHPには載っており、1980年代よりもさらに発展した様子がうかがえる。

 2023年6月15日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建築でたどる日本近代法史・1 旧松本裁判所庁舎

2023年06月14日 | あれこれ
 
 法律雑誌の編集者時代にぼくが出した企画で、実現しなかったものの一つに、「建築でたどる日本近代法史」というのがあった。

 編集者時代の一時期、建築物に多少の興味を持った時代があった。
 きっかけは、長谷川尭の「神殿か獄舎か」(だったか「建築の現在」)に載っていた彼のエッセイの中の一文だった。
 現在の最高裁判所庁舎の設計コンペに際して主催者が提示した建築条件のなかに、新しい最高裁の建物の天辺の標高が国会議事堂と同じであることという一項目があったと書いてあったのだ。

 唖然とした。三権分立、司法権の独立に対する何という志の低さか! 近代立憲主義国における裁判所の権威は、違憲審査権によって立法府における多数派の専横を抑止して、少数派の権利を擁護することによって保たれるのではないか。それが、建物のてっぺんの高さを国会議事堂と同じ「標高」にしろとは・・・。
 憲法を守らないトランプを二度と大統領の地位につかせてはならないと、かつて彼のもとで副大統領を務めたペンス元副大統領が立候補宣言で語ったと報道されているが、彼我の差を感じないではいられない。ウォーターゲート事件発覚の際に、「アメリカは腐っても鯛だ」といった久保田きぬ子さんの言葉を思い出す。

 おそらく長谷川のこの本などをきっかけに、建築物で近代日本の法史を語ることはできないかと考えたのであった。
 おりしも1980年代は、明治以来の歴史的建築物が次々と取り壊され、建てかえられる時期にあった。新聞などでも、歴史的建築物が取り壊される事件が時おり報じられていた。企画するなら今しかないと思った。
 しかし、適任の筆者が思い当らなかった。建築史家はいるが、法律雑誌の読者にむけて、その建築物にまつわる法律史のエピソードを書いてもらえるか不安がある。
 当時だと、慶応大学の法制史、手塚豊先生の門下には適任者がおられたかもしれない。同大学の法制史研究者が執筆した論考には、登場する歴史上の人物の墓所の所在地や、墓碑銘まで紹介したものがあったように記憶する。しかし、残念ながら、私は企画の相談にのってもらえるほど親しい慶応の法制史の先生に知り合いがいなかった。
 そんなことで、結局この企画はお蔵入りになってしまった。

 今さらとは思うのだが、その当時この企画のためにスクラップしておいた新聞記事が、これまたわが断捨離の途上で出てきたので、ここにいくつか掲載しておく。

 第1回は、旧松本裁判所庁舎である。
 1981年(昭和56年)6月29日付の朝日新聞に、「市民が作った司法博物館」「永久保存される旧松本裁判所庁舎」という白井久也編集委員の署名記事がある(上の写真)。
 松本市にある長野地方裁判所松本支部庁舎は、明治41年に建設され、現存する裁判所建築としてはわが国最古のものだが、取り壊しが決まったところ市民の間から反対運動が起こり4年越しの運動の末に、「日本司法博物館」として永久保存されることが決まったという。

 旧松本裁判所庁舎が「現存するわが国最古の裁判所建築物」かどうかは、次回紹介する篠山裁判所が明治24年建築というから疑問が残るが、記事と一緒に掲載された和風、瓦葺で二階建ての写真を見ると、最近のどこも似たり寄ったりのコンクリート造りの裁判所庁舎とちがって、威厳と雰囲気が感じられる。
 「天皇の名において判決を下していた戦前の裁判官のほうが(戦後の裁判官より)責任感が強かった」と、戦前を知る人権派の弁護士が語っていたが、そういう心情を培う雰囲気が裁判所の庁舎にはあったのかもしれない。

 2023年6月14日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“ 刑事モース--オックスフォード事件簿 ”

2023年06月03日 | テレビ&ポップス
 
 このところ毎日午後になると、“ 刑事モース--オックスフォード事件簿 ” を見ている。
 BS 451ch、WOWOW プラスで、毎日午後に2本づつ放映している。
 大相撲五月場所が終わって、午後のルーティンがなくなってしまったので、その代わりである。

 ここ数日で見たのは、第17話・不吉な収穫祭(2018年)、第18話・堕ちたミューズ(〃)、第19話・死者のフィルム、第21話・失われた英雄(〃)、第24話・花飾りの少女(2019年)など。
 第20話・殺意を誘う列車(2018年)、第22話・疑惑の四重奏(〃)、第23話・ねじれた翼(〃)、第25話・月の裏庭(2019年)、第26話・甘い罠(〃)は、すでに見たか、内容にあまり興味がわかなかったのでスルー。第27話・新世界の崩壊(2019年)、第28話・夏の序曲(2020年)も未見。
 上の写真は、第17話「不吉な収穫祭」の1シーン。舞台となったオックスフォード郊外の光景が、秋の穏やかな日ざしを浴びてきれいだった。初秋の軽井沢を思わせる光である。最近見たモースの中でもっとも印象的なシーンだった。

 見ることができなかった回は、お見逃しサービスで見たので、見た順番は不同。しかも、お見逃しサービスのDVD(?)版では冗長なシーンは倍速で見ている。
 そのため、カウリー署、テムズ・バレー署の統廃合や、モースが平刑事に降格されていたり、サーズデイが警部補に格下げになり、署長が交通部に配属されていたり、強盗課から配属された悪徳警部とその部下との関係など、所々話がつながらない。モースの恋愛事情や、サーズデイの夫婦関係、父娘関係もどういうことなのか、分からないことがある。倍速も考えものである。

 6月2日(金曜)午前中に、前の夜に途中で寝てしまった、第21話「失われた英雄」の続きをお見逃しサービスで見た。
 心を病んだ朝鮮戦争からの帰還兵などが登場して、イギリスが朝鮮戦争に参戦していたことを知った。たしかに朝鮮戦争は、北朝鮮軍+中国人民軍 vs 国連軍だから、イギリスが参戦していてもおかしくはないのだが、あの時の「国連軍」は全員がアメリカ軍だと思っていた。 
 しかも登場するイギリス兵が戦ったのが、あのイムジン河(!)における戦闘だったという。フォークルが歌った「イムジン河」にはそんな歴史もあったのだ。

 午後1時からは、第29話・望郷の調べ(2020年)と第30話・永遠のアリア(〃)の2本を見た。
 「望郷の調べ」はバングラデシュ(故郷はベンガルと言っていた)からイギリスに移民してきて、一家でインド料理店を営む家族の争いがテーマ。
 ミスリーディングのエピソードとして有色人排斥活動をする保守党議員とそのシンパたちと、パキスタン人を含むボクシング興行師の集団が登場する。1960~70年代のイギリスにはそのようなことがあったのだろう。この頃の警察署内はまだ全員白人である。
 「永遠のアリア」は(現時点での)最終回らしい。オックスフォードの運河で起きた(一見すると不連続にみえる)連続殺人をめぐって、サーズデイとモースが対立する。「刑事モース」の最初の頃に見られたふたりの蜜月ぶりからは信じられないくらいの、かなり激しい対立である。
 サーズデイは直観から、モースは動機と手段の解明から捜査を進めるが、最終的に両者の意見は一致する。しかし、モースはサーズデイのもとを去り、異動願いを出してキドリントン署だったかウッドストック署だったかへ転勤していく。ラストシーンは、オペラのストーリーにあわせて、エピソードの一つが解決に至る。

 同僚ストレンジ(「モース警部」ではモースの上司になっている)と検視医のドクターは、違和感のない顔立ち、体型の役者が演じているが、モース役の俳優はどう見ても「刑事モース」と「モース警部」が重なり合わない。
 「刑事モース」では、オックスフォードでのロケ・シーンが少ない。古い街並みが残っているとはいえ、やはり1960~70年代のオックスフォードをロケで再現することは難しかったのだろうか。
 東京だって、小津安二郎が撮った1960年代の風景(ニコライ堂、聖路加病院、東京駅や上野駅など)を21世紀の現在、ロケで撮ることは難しいだろう。

 2023年6月3日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ユーラシアの自画像--「米中対立/新冷戦」論の死角』

2023年06月01日 | 本と雑誌
 
 川島真・鈴木絢女・小泉悠編『ユーラシアの自画像--「米中対立/新冷戦」論の死角』(PHP、2023年)を読んだ。
 「米中対立/新冷戦」論の死角、というサブタイトルが、まさに本書の内容をというか、本書に収められた17本の各論考の視角を端的に表している。

 ロシアのウクライナへの軍事侵略以降、アメリカ、EUなど西側の「民主主義体制」諸国と、ロシア、ベラルーシ、中国などの「権威主義体制」諸国との戦争、あるいは「リベラル」対「専制」の戦争という捉え方が一般的になったと思うが、本書はそのような見方では、各国の立ち位置の正確な理解はできない、各国のロシア、ウクライナ、中国、アメリカ、EUなどとの距離感は、それぞれの国の内政、権力者の個性や来歴、歴史的事情、置かれている国際環境などによって異なるという。
 そのような視角から、ロシア、中国、北朝鮮、マレーシア、フィリピン、ミャンマー、タイ、台湾、アフガニスタン、イラン、EU、そして(少しだけだが)ウクライナなどの諸国の事情が語られる。

 中国の歴史観が基本的に(日本を含む西側諸国による侵略の)「被害者」という視点に立っており、習近平政権の政策も西側諸国からの「国家の安全」保障を最大の国家目標としていること(川島228頁)、2005年キルギスの「チューリップ革命」を端緒として(そんな革命があったのだった!)、ジョージア、ウクライナなどに波及して旧ソ連邦が崩壊した。
 この一連の動向が「カラー革命」と呼ばれ、西側諸国の支援の下に民主的選挙によって旧政権が崩壊する連鎖が自国にも及ぶことを、ロシアだけでなく中国も警戒した(同所)。 
 ロシアでは、「圧倒的な戦略論」(短期のノックアウト・ブローによって低コストで勝利を得る)や、「ハイテクを駆使した情報戦、サイバー戦」などいくつかの戦争論が唱えられたが、2020年のウクライナ侵略ではことごとく失敗に帰し、ロシアは古典的な戦争へと引きずり込まれてしまった(小泉412~22頁)。

 小泉は、わが国の安全保障政策も、「激しい暴力闘争に耐えられるだけの軍事力を中心として、グレーゾーンにおける非軍事手段にまで切れ目なく繋がったマルチ・スペクトラム型でなければならない」というが(430頁)、相つぐロケット打ち上げの失敗や、日々報じられるマイナンバーカードのトラブルにみられるハイテク化の遅れ、毎年襲ってくる集中豪雨の被害、ほぼ10年おきに起きる大地震(津波、原発事故)、早晩起こるといわれている更なる大地震を考えただけでも、わが国にはムリ筋だろう。

 南沙諸島への中国進出の問題があるためか、「ユーラシア」と銘うつわりには、本書が取り上げた国家は東南アジアに偏っている印象である。「ユーラシア」というのだから、バルト3国、コーカサス諸国などの旧ソ連邦の国家(とくにウクライナはぜひとも独立した1章を設けてほしかった)、インドについても(多少は触れられていたが)もっと知りたいところであった。
 そうは言いつつ、本書は435頁もあるボリューム十分の本である。あまりこの分野の読書をしない私としては、廣瀬陽子『コーカサスの十字路』(集英社新書、2008年。この本は面白くて勉強になった)くらいの分量と密度で、同書以後の旧ソ連邦諸国の国内動向、対外関係とくにEU、アメリカとの関係をもう少しコンパクトにまとめた新書版を期待したいところである。
 紋切型の「米中(露)対立論」に立った新書版が出ているのだから、分析密度の濃い本書も、アジア編と中東欧編の2冊に分割して新書版で対抗したほうが「戦略的」にもよかったのではないかと思う。

 2023年6月1日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする