豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

『鉄腕伝説 稲尾和久』

2008年01月19日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 『鉄腕伝説 稲尾和久--西鉄ライオンズと昭和』(西日本新聞社)を買った。

 稲尾自身はともかく、サブ・タイトルにやられた。まさに、われわれを狙っているとしか思えないタイトルである。

 アマゾンで検索したところ、“(新品0、中古品2)”となっていて、片一方(最安値)は1200円、もう一方(最高値)は6000何百円だった。“新品0”ということは、もう品切れなのだろうと思って、中古品のうち、最安値のほうの“one click で買う”をクリックしてしまった。

 ところが、あとになって西日本新聞社のホームページを見たところ、何と、いまだに新刊書として販売しているのである。定価1000円である。
 アマゾンでは当然のように送料340円が加算されてしまうが、わずか64ページの軽装版の本だから送料はせいぜい240円だろう。後悔先に立たずである。

 きょう、午前中に本が届いた。中西太『西鉄ライオンズ・最強の哲学』のような内輪話があるわけではないが、昭和33年の日本シリーズ第7戦のメンバー表などが載っていて、まあ、それなりに懐かしい本ではあった。
 そのメンバーは、

       打数 安打 打点
 (8) 高倉  5  3  0
 (9) 花井  0  1  0
  9  玉造  3  0  0 
  9  大下  1  0  0
 (6) 豊田  5  4  1
 (5) 中西  4  2  4
 (7) 関口  4  1  0
 (3) 田中  3  0  0
  3  河野  1  0  0
 (4) 仰木  3  0  0
 (2) 日比野 3  1  0
 (1) 稲尾  3  0  1
 
 となっている。懐かし名前ばかりである。成績を見ると、やっぱりあのチームは稲尾と豊田と中西でもっていたのだと改めて思う。

 いずれにしても、今後アマゾンで本を買うときは、たとえ「新品0」となっていても、注文前にちゃんと版元在庫の有無を確認してからにしないと損をする。
 みなさんも、ご用心を。

  2008/1/19

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中西太『西鉄ライオンズ・最強の哲学』

2008年01月15日 | 本と雑誌
 
 正月にふらりと本屋に立ち寄って、中西太『西鉄ライオンズ 最強の哲学』(ベースボールマガジン社新書)というのを買った。

 西鉄ライオンズ黄金時代の4番バッター、中西太が西鉄監督だった三原脩の野球哲学を解説するという形をとりながら、西鉄ライオンズ自体の思い出を語った本である。

 当時、小学校の3、4年生だったぼくには知る由もなかった三原と巨人の因縁話などが語られていて、なるほど、“水原、三原因縁の対決”とはそういうことだったのかと今頃になって知った。 

 中西が三原の女婿だったことも、そういえばそうだったような、はじめて耳にするような話である。どうでもいいことのようだが、実は、三原の選手起用に結構影響を与えたらしい。
 この本のエピソードによると、ある年、三冠王のかかった中西と首位打者のかかった豊田泰光とは、何毛差で首位打者を争っており、西鉄が優勝を決めた後の消化試合に二人を出すかどうかをめぐって、二人の仲はぎくしゃくすることになったという。

 主な登場人物は、中西と三原を除けば、豊田そして稲尾であるが、関口清治、大下弘、仰木彬、和田博実、高倉照幸、若生忠男、河村英文(稲尾の別府緑ヶ丘高校の先輩だったらしい)などなど、懐かしい選手が次々に登場してくる。

 昨年末、稲尾が亡くなった直後に、朝日新聞2007年12月14日夕刊の死亡欄に“花井悠さん”の死亡記事が載っていた。中西の本には出ていなかったと思うが、花井という選手もぼくの記憶の中には残っている。
 岐阜高校のエースとして甲子園で準優勝、慶応から日本石油を経て、1957年の入団で1964年の引退と書いてあったから、まさにぼくが野球少年だった時代の真っただ中で活躍した選手である。
 三原、中西のような“主流派”ではなかったのだろう。

 ただし、この本、本当は、上前淳一郎の『巨人軍 影のベストナイン』(角川文庫)のような、当時の西鉄ライオンズのインサイド・ストーリーを期待して買ったのだが、それほどには時代背景のなかでの西鉄ライオンズを描いたものではなかった。
 あくまで、中西太の西鉄ライオンズ私史であった。

 ネット上で検索すると、西鉄ライオンズ物語としては、三原脩『風雲の軌跡』(ベースボールマガジン社)をはじめ、稲尾和久『神様、仏様、稲尾様--私の履歴書』(日経ビジネス人文庫)、豊田泰光『風雲録』(葦書房)、立石泰則『魔術師--三原脩と西鉄ライオンズ(上・下)』(小学館文庫)、小野博人『ああ西鉄ライオンズ』(西日本新聞社)、『鉄腕伝説 稲尾和久--西鉄ライオンズと昭和』(同社)など、たくさんの本が出ていることを知った。また、時間つぶしの読書のネタを仕入れることができた。

 * 写真は、中西太『西鉄ライオンズ 最強の哲学』と、上前淳一郎『巨人軍 陰のベストナイン』の表紙カバー。
 なお、関口清治、大津守(ぼくにとっては近鉄パールスの大津だが)も昨年亡くなられたようだ。

 追伸 きょうのYAHOOのフロント・ページの広告に、エポック社の“野球盤ACE”というのが3月22日に発売されるとあった。野球盤発売50周年記念とある。野球盤は1958年にできたのか。1958年といえば、「少年サンデー」と「少年マガジン」の創刊の年ではなかったか。確かに両誌にはよく“長嶋茂雄の野球盤”の広告が載っていた。今回のは、“浮き上がる魔球!”というのが売り物らしい。一体野球盤から浮き上がったあの鉄球はどうなるのだろうか。
 3月22日はぼくの誕生日の2日後である。対象年齢は5歳以上となっているから、58歳を迎えるぼくも一応対象年齢ということになるのだろう。バッターの人形がいかにも“パワフル・プロ野球”風なのはちょっと気になるが。

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東京の坂道(第6回) 上野・清水坂(2)

2008年01月08日 | 東京を歩く
 先日撮った上野・清水坂の写真を載せる。

 前の写真の枇杷の木のある石蔵のちょうど反対側にあたる。壁に映った日影はあの石蔵のものである。
 
 ちなみに、上野界隈には「清水坂」は二つあり、寛永寺の清水門から下るこの坂が「しみずざか」、花園神社のほうにある「清水坂」は「きよみずざか」というらしい。「きよみずざか」のほうは京都の清水寺を模して作られたという清水観音堂に向かって上る坂である。
 山野勝『江戸の坂』(288-290頁)による。

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東京の坂道(第5回) 上野・紅葉坂

2008年01月05日 | 東京を歩く
 
(承前)
 ③清水坂を登りきったあたりの護国院に大黒天が祀られている。谷中七福神というのがあるらしく、地図を手に回っている人たちをたびたび見かけた。
 
 東京芸大を背中にして、寛永寺方向へ歩きつづける。

 広い歩道のついた道路の両脇には、立派な建物がつづく。「独立行政法人文化財何とか財団」、「何とか文化財研究所」云々といった、いかにも文部官僚の天下りのためとしか思えないような看板が掲げられている。
 ある建物の道路に面した3階の窓からは、雑然と置かれたパイプ椅子がのぞいていた。ちゃんとした仕事をしているようには見えない。今回の行政改革ではどうなるのだろうか。
 極めつけは、「国際子ども図書館」(だったか)である。フランスの宮殿でも移築してきたのかと思うような立派な建築物である。どんな目的があって建てられたのか知らないが、こんな建物が今の時代に必要なのだろうか。

 やがて正面に寛永寺が見えてくる。
 「墓地に参拝の方以外の入構はご遠慮下さい」という立て札が立っていたので躊躇していると、花売りのおばさんが「入ってもいいですよ」というので中に入る。墓地越しに、高層ビルが冬の日を浴びて輝いている。

 根本中堂にお参りして、正門から外に出る。言問通りにぶつかって、右折した下りが、④寛永寺坂というらしい。しかし、車の通行が激しいので眺めただけでパスして、谷中墓地を歩くことにする。

 持参したガイド本『江戸の坂』の地図では、谷中墓地では徳川慶喜の墓だけが紹介されているので、どんなにユニークな墓かと探し歩いたが見つからない。

 広大な敷地に門までついた墓所、2メートルを越える背の高い立派な墓石の建っている墓地、墓石は立派だが「信士」というあっさりした戒名のついた故人の墓、「文学博士・何某」と世俗の肩書きが彫られた墓石、新しい花の飾られた墓もあれば、苔むしたまま朽ち果てている墓・・・などなど。
 墓地を歩いていると、さまざまな感慨がこみ上げてくる。100年後、200年後、これらの墓、そしてやがて私たちの入る墓は何代の子孫まで来てくれるのだろうか。

 結局、徳川慶喜の墓は見つからないまま、谷中墓地を出る。焼失した五重塔跡の辺りは黒山の人だかりである。はとバス・ツアーの旗を持ったガイドさんや、ボランティア風の案内人の周りを囲む人の群れも2、3組みある。やけに騒々しい。

 五重塔跡を右に見ながら少し歩くと、毘沙門天を祀った天王寺となる。今日はここで打ち止め。

 日暮里駅南口に向かう細くて急な坂が、⑤紅葉坂というらしい。
 この坂道が、いかにも東京の坂らしくていい。坂の上は、片方が天王寺、もう一方がラジウム温泉、正面には日暮里駅前の高層ビルが聳え立つというのもいい。
 きょうのナンバー1の坂道は、この紅葉坂としておこう。 

 それまで一度も時計を見なかったが、国立西洋美術館に着いたのが午前10時すぎ。日暮里駅到着は午後2時近かった。
 
 お腹がすいていたので、日暮里駅前で美味しそうな店を探す。ファスト・フードばかりで、適当な店が見当たらない。たまたま目に入った「生蕎麦」の幟に誘われて、雑居ビルの地下1階の“とう山”という蕎麦屋に入る。
 6人組の先客がいて、ちょっとひるむ。聞こえてきたお喋りによると、この男3人、女3人の6人は、山形出身者の集まりで、74歳らしい。ひときわ声の大きいオバちゃんの東北訛りが、日暮里という場所に似合っている。
 
 男の1人は、最近細君を亡くしたらしく、このオバちゃんが慰めている様子である。「74にもなったら、楽しく余生を過したいのに、辛いことが起きるよなぁ」などと言っているかと思えば、その一方で「1000万円融資を受けたって、つなぎの人件費くらいにしかならない」などという愚痴もこぼしている。
 そば焼酎のそば湯割りを何杯も注文してから、われわれが天麩羅そばを食べ終わる頃に、ようやくそばを注文していた。
 なんか、山本周五郎の世界の21世紀版を垣間見たようであった。

 大した期待もなく入った店だったが、ここの野菜天麩羅そばと「とう山うどん」というのは美味かった。体が温まって、山手線で帰路についた。

 * 写真は、今日のベスト、紅葉坂。日暮里駅南口の跨線橋から谷中天王寺方向を見上げた風景。


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東京の坂道(第4回) 上野・清水坂

2008年01月04日 | 東京を歩く
 朝から晴れて暖かそうだったので、初詣のお参りかたがた、上野方面に“東京の坂道”の旅に出かけてきた。

 年末に、朝日新聞の集金のお兄さんにもらった“ムンク展”のタダ券が1月6日までだったので、これを見るために、まず上野駅を出て国立西洋美術館に向かう。

 駅の辺りから人ごみの多いのに驚くが、館内に入ると、さらに人が多いのに驚く。よほどあちこちの新聞社がタダ券を配ったのだろうか・・。B1の展示会場入り口のベンチに座っていると、来るわ来るわ、途切れることなく人が階段を降りてくる。
 その不気味さに、ムンクではなくて、こちらが叫びたい気持ちになる。

 絵は例によって暗い。きのうのテレビ“ムンクを奪還せよ!--“叫び”回収までの84日”(テレビ東京、1月3日午前9:00~)で、幼くして母を亡くし、やがて姉をも亡くすというムンクの不幸な前半生を見ていたので、暗さもいやましてくる。描かれているどの人間も、その眼は髑髏の眼である。家に飾っておきたい絵ではない。
 そんな絵の前に立って、何分間もじっと動かずに凝視している若者がいた。21世紀の日本のムンクは、いったい何を思っていたのだろうか。

 死ないし死への不安と、性(生ではなく)とが入り混じっている。“叫び”(この絵は今回は出品されておらず、複製が飾ってあった)だけから受けるイメージとは異なり、やたらと接吻の絵を描いたり、友人の妻と不倫をするなど(解説書による)、ムンク氏、結構 aggresive である。夭折したと勝手に思い込んでいたが、80歳まで生きたというのも意外だった。
 1910年代に、社会主義時代のソ連の画家のようなタッチで、写実的に労働者たちを描いた絵も何点かあった。これも意外。

 一回りして、館外に出る。上野公園の外周に沿って、“東京の坂道”上野編の開始である。

 まずは、花園神社、五條天神社にお参りしてから、近くにあるはずの「時の鐘」を探すが、見つからない。どこかから鐘を撞く音が聞こえては来るのだが。浦井祥子さんの『江戸の時刻と時の鐘』(岩田書院)以来、徳川幕府の「時間」管理政策という視点には興味があったのだが、次回を期すことにしよう。
 近くには、忍坂、清水坂という坂もあるらしいが、これらも見つからない。

 きょうは、タモリではなく山野勝『江戸の坂--東京・歴史散歩ガイド』(朝日新聞社)を携帯したのだが、鳥居坂のときにも書いたが、この本の地図と解説は、はじめて歩く人には分かりにくい。「ガイド」と銘打つ以上はもっと工夫してほしい。
 
 動物園のモノレールの下をくぐり、鷗外ゆかりという“鷗外荘”前を通り過ぎると、①もうひとつの“清水坂”の坂下である。案内の看板によると、この清水坂も、弘法大師が旅の途中で水を取ったことに由来する地名だそうだ。前回の六本木の坂の散策でも、真言宗の寺社によく出会ったが、導かれているのだろうか。
 そして、ここの清水坂は別名“暗闇坂”とも呼ばれていたという。麻布十番の“暗闇坂”に比べれば、はるかに多くの木々が残っていて、まだその名にふさわしいかもしれない。

 坂の上り口の左手に、枯れた蔦の絡まった3階建てくらいの石造りの蔵が建っている。道との間には大きな枇杷の木が植わっていて、濃い緑色の葉が冬の日ざしを浴びていた。
 坂の頂上近くの右手には、都立上野高校の立派な建物が現れる。都内の下手な大学などよりよっぽど立派な校舎と校庭である。わが家の子ども達は二人とも私立に行かせたが、ずい分と都民税を損したものである。

 上野高校の隣りは、東京芸大の敷地がつづく。キャンパス内には、雰囲気のある建物が散在している。東京芸大を右手に見る交差点にある和菓子屋“桃林堂”(包装紙には「和菓子」ではなく「風土菓」と書いてある)で、花びら餅を買う。
 先日親戚の家に新年の挨拶に行った折に出されたが、家内は遠慮して手をつけなかったというので。

 このあと、寛永寺、谷中墓地、日暮里と歩くのだが、字数も増えたので次回に。

 * 写真は、清水坂の登り口で見かけた、枇杷の木の植わっている石蔵。

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A Happy New Year ! (2008年1月1日)

2008年01月01日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 謹賀新年
 今年も、ヨタヨタしながら、思いついたことを書きつづります。 

 2008年 元旦

 今年最初の写真は、今現在(2008年1月1日午前0時07分)の軽井沢の道路状況。国道18号線の鳥井原。長野県の道路状況HPから。
 “気温:-4.0℃、路面温度:-2.3℃、路面状態:凍結”(ただし長倉の状況。あの南軽井沢交差点を左折してすぐの長倉は写真があまり鮮明でないので、鳥井原で代用)

 2008/1/1

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