豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

きょうの軽井沢 (2012年3月29日)

2012年03月29日 | 軽井沢・千ヶ滝

 大学3年の息子は、就職活動中。
 ほんとうは4月1日から入社試験が解禁のはずだが、すでにエントリーの採否はほとんど終わっており、面接試験がはじまっている会社もある。
 そんな状態が一段落して、4月1日の正式スタートまで中休みというので、息子の運転練習をかねて、きのう、きょうと軽井沢に行ってきた。

 家は使えないので、私学共済に宿泊。上の写真は、けさ宿を出発するときの浅間山の眺め。
 山頂だけではなく、東側のすそ野もずいぶん低いところまで雪が残って、朝日に白く輝いていた。
 平地でも、3月末というのに、道路や山荘の北側など陽の当らない場所にはまだ雪が残っていた。10日ほど前の雪だという。 

       

 いちおう、千ヶ滝の家に様子を見に行く。
 近所のベスト・ビューポイントで浅間山を撮影。夏は緑にさえぎられてほとんど見えないのだが、まだ春浅く、木々は枯れたままなので、くっきりと浅間山を望むことができる。
 山道を下って、今度は軽井沢スケートセンターからの浅間山。ただし、軽井沢スケートセンターはすでになく、千ヶ滝温泉だけが営業している(らしい)。
 かつては、スケートセンターのホームページに、スタッフが“きょうの浅間山”という写真をアップしてくれていたので、四季の浅間山の変化を覗いていたのだが・・・。

       

 つづいて、旧軽井沢へ。
 旧道(旧軽井沢銀座?)を上って、軽井沢の開祖(?)ショー牧師の別荘、ショ―ハウスへ。いかにも宣教師らしい質素な別荘である。
 かつての日本の小学校の校舎のようでもある。

       

 昼食にはまだ時間があったので、三笠ホテルまで散歩することにした。片道約2キロ弱。空気はきれいで、気温もほどほど(軽井沢としては暖かい10℃くらい)。鳥たちが心地よさげにさえずっている。
 歩道は残雪でぬかるんでいて、歩きにくい。クルマもあまり通らないので、雪のない車道を歩く。

       

 三笠通りの道路沿いには、最近建った豪勢な別荘が多いが、往時をしのばせるいかにも軽井沢らしさを漂わせたクラシックな別荘も残っている。
 昭和30年代は旧軽井沢でもこんな雰囲気の別荘が多かったのだが、高度成長とバブルであの時代の軽井沢は“幻の軽井沢”になってしまった。

       

 以前、朝日新聞に御厨貴さんが“軽井沢別荘物語”とか何とかいうエッセイを書いていた。
 第二次大戦末期に軽井沢を舞台に繰り広げられた終戦工作の話だったが、鳩山や近衛らが和平工作のためにスイス公使と密会していたという、旧スイス公使館跡もあった。      

       

 往復約1時間ちょっとで、ふたたび旧道に戻り、浅野屋でランチを取る。
 浅野屋のマークって、こんな感じだったのか。いかにも昭和らしくていい。
 小松ストアー、三笠書房、酒井化学、明治屋、明治牛乳などなき後、物産館、鳥勝、中山農園などとともに、辛うじて昭和30年代の旧軽を偲ばせてくれる。
 そう言えば、万喜の路地からは天ぷらを揚げる匂いが漂っていた。祖母が好きな店だった。

             

 その後、西口のショッピングモールに立ち寄って帰京。
 新座料金所まえ1、2キロから渋滞が始まっていて、途中休憩を入れて約3時間かかった。

 2012/3/29 記

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川本三郎 『郊外の文学誌』

2012年03月27日 | 本と雑誌

 川本三郎『郊外の文学誌』(岩波現代文庫、2012年)を読んだ。
 川本三郎は、20代後半の頃によく読んだ作家(物書き)のひとりである。

              

 『朝日のようにさわやかに』(1977年、筑摩書房)、『同時代を生きる「気分」』(1977年、冬樹社)、『雑エンターテイメント』(1981年、学陽書房)、『走れナフタリン少年』(北宋社、1981年)、『町を歩いて映画の中に』(1982年、集英社)、などなど。
 
 しかし、『同時代を生きる「気分」』を読んだ時には、彼とは「同時代を生きていない」気分を感じたし、その後、『雑 ~ 』や『ナフタリン ~ 』などは文字通り「雑」な感じがして、やがて遠ざかってしまった。

              

 ・・・と書いていて気になったので、これらの本を引っ張り出して眺めてみた。
 『郊外の文学誌』によると、川本は阿佐ケ谷に住んでいたらしいが、ぼくはてっきり西荻窪の住人だと思っていた。
 ぼくが中学校に通っていた昭和40年頃、西荻窪駅北口には“映画館通り”という路地があって、左右に映画館が3軒並んでいた。川本の映画本の中に、確か西荻の“映画館通り”のことが書いてあったので、彼を西荻の住人と勘違いしたようだ。今回探してみても『シネマ裏通り』にわずかに「西荻名画座」という文字が出てくるだけだった。

 しかし、大発見もあった。『シネマ裏通り』には“ピンク映画”の思い出がけっこう出てくるのだが、その中で、大西康子のことを、“忘れもしない「網のなかの女」”と書いているのだ。ぼくだって「忘れもしない大西康子」、同姓同名のクラスメイトがいたのだ。「網のなかの女」も「100万人の夜」か「近代映画別冊」でスチール写真を見た。
 マリリン・モンローよりジェーン・マンスフィールドのほうがいいとも書いてある。これも同感。彼女が来日した時に「週刊プレイボーイ」か何かに掲載された彼女のグラビア(確か三つ折りの大きなカラー写真だった)をもっていたはずなのだが、どこかにしまいこんで見つからない。

              

 『シネマ裏通り』は表紙のカバーがフェリーニの“道”というのもいい。できればアンソニー・クインがジュリエッタ・マシーナを置き去りにするシーンだともっと良かったが。 
 『雑エンターテイメント』も、当時隆盛を極めていたサブカルチャー雑誌に書いた原稿を集めたので「雑」と冠したらしい。たしかにいろんな雑誌があった。自分のことを「フリーの売文業者」と書いている。

             


 前置きが長くなったが、『郊外の文学誌』に戻ろう。
 『郊外の文学誌』は近代東京の「郊外」を舞台にした小説、「郊外」に移り住んだ作家を辿った随筆(?)である。「文学散歩」というのは一段格下の文章とみる筆者の考えに従うと「評論」なのかもしれない。
 そんなことはともかく、この本は面白かった。
 文学のことは分からないのだが、何といっても、自分の身近で思い出深い場所や地名がたくさん出てくるので。

 ちなみに、この本に出てくる「郊外」は東京の郊外に限られる。しかも、大部分は中央線(というよりかつての甲武鉄道)の沿線、飯田橋から、大久保、中野、阿佐ケ谷、荻窪あたりまでで、それに蒲田、青山、八王子あたりの話も少し出てくる程度である。
 東京では、関東大震災と東京大空襲を2つの画期として、市中や下町を追われた人々が大量に東京の西部に移動したが、かれら「小市民」の暮らしぶりを郊外に移住した作家の伝記や作品の中にたどって行く。

 「郊外」の定義も難しい。
 要するに「東京」ないし「(旧)市中」さらには「東京市」などに対立する概念である。だが、「山の手」と一致するわけでもない、「田園」とも「武蔵野」とも違う(288頁)、「田舎」「片田舎」「ムラ」でもない。「辺境」のニュアンスはあるがたんなる辺境でもない。「場末」とも違う。
 いずれにしろ、「郊外」が指す地域は、時代が下るとともに次第に西へと移っていく。
 漱石の時代には大久保も飯田橋も「郊外」なら、青山も「郊外」だった。やがて「中野」あたりが「郊外」になり、結核病みの作家が療養生活を送っている。そういえば中野には肺結核専門の国立中野療養所があった。
 そして、関東大震災と郊外電車の開発によって、阿佐ケ谷、荻窪が「郊外」になり、「境」「三鷹」「小金井」も「郊外」になっていく。
 釣り人などが雑踏する二子玉川を避けて、永井荷風が「鄙びた」(!)田園調布を散策する記述なども印象的だ。

 意外だったのは、東京の西部の人間にとっては東の方は全部「下町」だと思っていたのだが、もともとは日本橋界隈だけが「下町」で、墨田、江戸川、葛飾など、東京の東にも「郊外」があり(283頁)、しかも西の「郊外」と同様に東に延長していったという(293頁)。これらの地域は「新下町」などと呼ばれることもあったらしい(299頁)。
 小津安二郎の「風の中の雌鶏」や「東京物語」に登場する荒川放水路周辺も「郊外」だそうだ(285頁)。

 八王子、横浜、鎌倉など、「郊外」が拡がるはるか前から発展していた東京の西部や西南部の町との関係や、旧市中のお屋敷街の来歴も知りたくなった。

 ぼくの個人的な関心としては、「郊外」の住人たちが、持ち家だったのか、借家暮らしだったのか、それが当時の貨幣価値でどのくらいだったのか、それが小説家の私生活や作品にどう反映されているのかなども、近代日本の寄生地主の土地所有や不動産賃貸借(貸家資本)の実態などに興味があるぼくとしては知りたいところである。

               

 上のようなことを調べる必要があって、末弘厳太郎『農村法律問題』(農文協、1977年。最初の改造社版は大正13年)を読んだのだが、同書には次のような記述がある。
 
 「大正十年借地法が施行されてより此方、同法施行区域たる東京及び隣接町村に於ては借地を求むる者のみ多くして、土地を買はんとする者は寧ろ減少し、又之と反対に大地主にして土地の売却を希望するもの多きに拘らず、之を賃貸せんとする者が一般に減少した。・・・建物保護法と借地法とに依って借地権が法律上きわめて強固のものとなった以上、巨費を投じて所有権を取得せんよりは、其の資本は之を別途に利用して利益を得つつ、其利息の中より借地料を支払ふことにする方が遥かに利益である。」

 あるいは、水本浩『借地借家法の基礎理論』(一粒社、1966年)によれば、「わが国における借地人層は都市の中間層(厳格に見れば中間下層と労働者上層が多い)が主であった。日本資本主義は、先進諸国の帝国主義への移行期において体制的スタートを切ったために、・・・早急に巨大資本の形成を見たかたわら、封建的諸関係がかなり広汎に持ち越された・・・。そのような後れた面を反映して、部厚く零細企業が滞留せしめられるとともに、生来の無産労働者ならざる小資産者的サラリーマンおよび労働者が大幅に生み出されたのであった。このような社会階級的基礎の上に、木造という比較的安価な建築様式が手伝い、・・・自己住宅や小営業のための小面積借地が広汎に成立してきたのである。」
 「わが国の借地人層は、・・・勤労大衆の位置を占めてきた」。「中間層の中でも、その上部(中間上層)は自己所有地における小住宅所有者層であったのであるから、借地人層は、中間層(中間下層)の下部が主な部分であった。」という記述にも出会った。

 分かりにくい、というか実感しにくい文章なのだが、幸いに小津安二郎のいわゆる「小市民」映画を見ていたので、時代の雰囲気を伺うことはできた。
 川本の本に、文士(売文業者)の収入(原稿料)や住居の所有形態、購入費用などが書いてあったら助かったのだが。

 2012/3/27 記

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崎山健一郎 『東京ノスタルジック』

2012年03月11日 | 本と雑誌

 いつだったか、立ち寄った神保町の岩波ブックセンターの店頭で見かけて、崎山健一郎『家の写真集 東京ノスタルジック』(岩波書店、2011年7月)を買った。

 いまだ東京に残って昭和、大正の面影をしのばせる家々を撮った写真集である。
 本の後書きによると、撮影した崎山氏は集英社のカメラマンとして「週刊プレイボーイ」のグラビアなどを撮影した後、定年退社後に散歩しながら撮影した写真を集めたのが本書になったという。

 集英社に勤務していたというだけに、わが神保町界隈の写真も多い。今年早々にとうとう取り壊されてしまった九段下ビルの写真もある。
 2階の外壁に、懐かしい「中根速記学校」という剥げかかった文字が見えている。
 関東大震災後の復興住宅として建てられたビルで、一時岡田嘉子も住んでいたと聞いたことがある。

          
 
 神保町の路地裏にあった能楽書林の建物も昭和の雰囲気を漂わせていたが、その後建て替えられ新しいビルになってしまった。ただし、新しい建物の正面には、旧社屋のように能面(?)のレリーフが飾ってある。
 上の写真は、昭和63年5月発行の「本の街」92号の表紙を飾った能楽書林の古い建物。

 すずらん通りにあった“東洋キネマ”も、ぼくの大学院生時代にはまだ営業していたが、その後地上げにあって閉館した。建物はしばらく放置されていたが、やがて取り壊されててしまい、今では跡形もない。

 いま神保町で昭和の面影を残している建物というと、専大前交差点を少し南に行った鰻屋、今荘くらいになってしまった。あそこは、古びた重箱から座布団まで昭和そのままである。
 いつか写真を撮ってこよう。

 下の写真は、神保町からは外れるが、九段下の九段会館。旧軍人会館、かつては2・26事件で有名だったが、昨年の3・11大地震の際に天井が落下して死傷者が出て以来、営業していないようだ。

             

 この本には、ぼくが時々散歩に出かける神田須田町の裏通りの写真も何枚か載っている。須田町も空襲を免れたらしく、古い家屋やビルがいまだに結構残っている。
 あのバナナと大学いもしか売っていない八百屋(?)はまだ健在だろうか。
 2001、2年頃の写真も載っているが、九段下ビルのようにその後取り壊されてしまった建物も少なくない。
 「3丁目の夕日」などのような、まがいものではない昭和がここには記録されている。

 下の写真は、西神田の住友不動産、千代田ファーストビル西館の東南に建っていた昭和の住宅。建築確認の看板が掲げられたので、「危ない!」と思って、写真に収めた。
 2010年11月8日に撮ったものだが、すでに取り壊されてワンルーム・マンションになり、入居者募集のビラが貼ってある。

       

 
 ところで、本書の著者、崎山氏は「週刊プレイボーイ」の表紙やグラビアを撮影したとある。
 ひょっとして、わが桜田淳子のグラビアも撮っているのでは、と思って古いスクラップ帖を引っぱり出してみると、予想通り、「撮影=崎山健一郎」とキャプションの入った桜田淳子が見つかった。
 「週刊プレイボーイ」のグラビアと思うが、発行年月日はわからない。
 
            

 2012/3/11 記
 

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