豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

バルザック 『風流滑稽譚』

2020年07月28日 | 本と雑誌
 
 バルザック『風流滑稽譚』を読みだした。

 霧生和夫「バルザック」(中公新書)が推奨する作品を順番に読むことにしたのだが、「あら皮」は今ひとつ、「シャベール大佐」は及第点、さて次は何を読もうかと考えた。
 読んでみたかったのは『幻滅』か『浮かれ女盛衰記』なのだが、「幻滅」は持っていないし、「浮かれ女~」も下巻しか持っていない。しかも何れも上下2巻で、面白くなかった時の時間のロスが大きすぎる。
 もし選択が失敗で、面白くなかったとしても被害が小さくて済みそうで、かつ題名から興味がわいたのが「トゥールの司祭」だが、これは取っておくことにした。

 そして選んだのが『風流滑稽譚』である。

 1巻の長さは455ページもあり、東京創元社版<バルザック全集>全26巻の中で最も厚いが、小話が全部で32話あるので1話あたりのページ数は大したことはない。通読するような内容でもないし、気が楽である。
 正直にいうと、挿絵があったので選んだような面もある。しかも全巻455ページ中に95葉も挿入されている。「ギュスタヴ・ドレの名画」と月報の「編集後記」で紹介されている。登場人物の衣装などが分かるものもあるが、戯画的すぎるものも少なくない(下の写真は第1話に登場する「美姫インぺリア」の挿画)。
 さらに正直にいうと、解説の中に、この本を「好色文学」と紹介するものがあり、「艶笑譚」と紹介するものがあったので、読んでみようという気になった面もある。ただし、第1話を読んだかぎりでは、あまりその方面は期待しない方がよいだろう。

         

 原題は、“ Les Contes Drolatiques ” 。
 出版は 1832年~37年、「シャベール大佐」の翌年に刊行が始まったようだ。

 “ conte ” はロベール仏和大辞典(小学館)では、「①架空の短い物語、小話、おとぎ話、童話、②短編小説、③[古]作り話、でたらめ、④[古](事実についての)話」とある。conte の連語には、“ conte gras ” 艶笑譚 ”というのが載っている。
 “ drolatique” は「独特のおかしさがある、こっけいな」という訳語があてられていて、“ Les Contes ~s ” 「(バルザックの)風流滑稽譚(こっけいたん)」も載っている。 

 『風流滑稽譚』は題名とおり、 “ conte ” に分類されるのだろうが、前にも書いたように、この本を「好色文学」とか「艶笑譚」と紹介するものもある。「好色」というのも日本的で、フランス語に該当する言葉があるのだろうか。“ erotisme ” くらいなのか。「艶笑譚」という日本語は穏やかな印象だが、conte gras は「猥談」にちかいようだ。
 どんなジャンルの作品なのかは、読んで判断するしかないが、第1話を読んだかぎりでは、“ conte ” は「コント」、好色だろうが猥談だろうが、筆致はユーモラスで「滑稽譚」という題名がふさわしいと思う。バルザック自身がこの本を「草紙」と称しているが、「草紙」もいい。
 
 著者ご本人が、“ この本は夜読むべし ” と言っているので(12頁)、昨夜第1輯「前口上」につづいて「美姫インぺリア」を読んだ。 
 恐らくフランス語の原文がそんな調子だからなのだろうが、擬古文調というのか、花魁言葉(?)みたいな語り口(「~~たもれ」式)の訳文になじめないでいる。
 「ゴリオ爺さん」その他で小西茂也氏の訳業にはお世話になっており、氏のご苦労には敬服するのだが、巻末の小西氏自身による各コントの解説のような現代的な文章で訳してくれていたら助かったのだが・・・。


 2020年7月28日 記


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バルザック 『シャベール大佐』

2020年07月26日 | 本と雑誌
 
 「あら皮」が収められた、バルザック全集第3巻に併載された「シャベール大佐」を読んだ。これは「面白」かった。1832年の刊行。
 最初は、巻末の解説(川口篤)を読むだけでスルーするつもりだったが、ぱらぱらとページをめくってみると、面白そうだったので、読むことにした。枚数も2段組み約50ページ、文庫本なら100頁程度だろうか、分量も丁度よかった。
 実は、昨日からBSのAXMミステリー・チャンネルで「オックスフォード・ミステリー ルイス警部」を連続放映しているのだが、それを観ないで「シャベール大佐」を読んだ。
 外は梅雨明け近い大雨だった。雨の日の読書は気分がよい。

 テーマは、(法律的にいえば)<失踪宣告と重婚>である。「イノック・アーデン」、わがモームの「夫が多すぎて」から、映画「ひまわり」まで、このテーマを取り上げた作品はいくつかある。

 夫婦の一方がいなくなってしまう。失踪の原因は様々である。結婚生活が嫌になって意図的に蒸発する場合もあれば、事故や事件に巻きこまれて殺されてしまったが遺体が発見されない場合もある。船舶の遭難(タイタニック号!)や、戦闘行為のために死亡したと思われるが遺体が見つからない場合もある(「ひまわり」や「シャベール大佐」がこれである)。

 そのような場合には、わが民法では家庭裁判所に失踪宣告を申し立てることができ、裁判所が失踪宣告をした場合には、前者(普通の失踪)であれば、最後に音信があった時から7年経過した時に死亡したものと見なされ、後者(危難による失踪)であれば船舶の沈没または戦闘がやんだ時に死亡したものとみなされる(民法30、31条)。
 このような生死不明の人間の配偶者らに、いつまでも行方不明者の財産を維持、管理させたり、婚姻を継続させて帰還を待たせるのは酷であるという考えによる。

 もし失踪者が生還した場合には失踪宣告は取り消されるが、その場合でも、失踪宣告中に善意で(失踪者が生きているとは知らずに)行なった契約(相続財産の売却など)は、そのまま有効とされる(民法32条)。
 失踪宣告の後、失踪宣告の取消し前に、(配偶者が死んだものと思って)生存配偶者が再婚した場合の、再婚の効力についてわが民法には規定はないが、常に再婚を有効とし前婚は復活しないとする説、双方が善意の場合にのみ再婚を有効とし、悪意の場合は前婚が復活するとする説、前婚・再婚ともに有効であり、再婚のほうが重婚となるとする説など、学説は対立している。
 
 バルザック当時のナポレオン民法には、失踪(生死不明)宣告に関してわが民法より詳細な規定がある。生死不明が4年間継続した場合に失踪宣告の判決を申し立てることができ(115条)、失踪宣告が取り消された場合には、生還した失踪者は、この間に再婚していた配偶者に対して、再婚の異議を申し立てることができる(139条)とされていた(中村義孝氏「ナポレオン民法典」立命館法学による)。


 さて、「シャベール大佐」である。

 ナポレオンのモスクワ遠征に従軍して、負傷し敗走時に死んだものと間違われて遺体置き場に捨てられたシャベール大佐が、現地の人に助けられ、這う這うの体でパリに戻ってきた。しかし妻は、夫からの手紙を受け取って、夫(大佐)が生きていることを知っていたにもかかわらず、死亡したものとして、彼の財産や年金を相続し、別の男性と再婚していた。

 シャベール大佐の訴えを聞いた若い代訴人は、死亡証書などを取り寄せるなどして、依頼人が本当にシャベール大佐であることを確認したうえで、示談のために妻のもとを訪ねる。
 妻は新しい夫を上院議員にすべく、スキャンダルを恐れており、代訴人が提案する示談に応じるかの意向を表明する。しかし大佐に財産を返す意志はまったくなく、彼をだまして精神病院に入れてしまおうともくろむ。
 このことを大佐は知ることになるが、大佐は怒りはするものの、妻のもとを去っていく。

 法廷闘争の描写を期待したぼくは肩透かしを食った。バルザックは<法廷もの>を書く気はなかったようだ。
 法科大学で学びながら、公証人(代書人だったかも)書記の書生を務めた経験をもつバルザックは、裁判官職が売買され賄賂がまかり通る王政復古、七月王政当時のフランスにおいて、裁判によって正義が実現するとは考えていなかったのだろう。
 もともとこの作品は「示談」という題名で公表され、後の1844年にいたって「シャベール大佐」に改題されたという(川口解説、316頁)。代訴人は、最初から裁判ではなく、妻との駆け引きによる示談を目ざしていたのである。

 彼が描きたかったのは、ナポレオンを信奉して彼の戦争に従軍し、武勲も立てたが(エジプト遠征に参加した軍人を「エジプト人」と呼んだそうだが、シャベール大佐も「エジプト人」である)、最後は敗北したうえに、上記のような悲運に見舞われながらも、自分の身よりも、セントヘレナに幽閉されたナポレオンの不遇を託つ老兵の「情念」だったようである。
 バルザックが描いたのは「人間」ではなく、その「情念」だったということを、月報2号(第3巻付録)に掲載された中村真一郎「バルザックと現代」でぼくは学んだ。
 この老兵の情念はぼくには理解不能だった。日本の戦後小説にこのような作品はあっただろうか。広田弘毅を描いた城山三郎「落日燃ゆ」あたりか・・・。

 なお、最後にもう一つどんでん返しかと思われるエピソードが語られるのだが、それは書かないでおこう。
 「結婚の生理学」よりも「あら皮」よりも、ぼくには面白い小説だった。あえて擬えるなら、山田風太郎の明治伝奇小説(「警視庁草紙」「幻燈辻馬車」など)に近いだろうか。

 
 2020年7月25日 記


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バルザック 『あら皮』 (suite et fin)

2020年07月25日 | 本と雑誌
 
 バルザック『あら皮』を読み終えた。
 しんどかった。長い・・・。せめて挿絵があったなら、挿絵で数ページは端折ることができるのだが。この巻の月報には、ポーリーヌの肖像を描いたイラストが紹介されているところを見ると(後出)、フランスには挿絵入りの版もあるようだ。角川文庫の「ゴリオ爺さん」も挿絵入りだった。
 「人間喜劇 全作あらすじ」とかいった本が出ているらしい。これで済ませたい気にもなるが、せっかく40年前に買った全集はどうする・・・。

 「意志論」の執筆に精魂を使い果たし、それに加えて放蕩の生活で、疲れ果てた主人公ラファエル(以後R)が、最後の有り金を賭けた賭博で負けて、セーヌ河に身を投げるために夜になるのを待って河畔の骨董屋にふらりと入る。
 そこの老主人から、不思議なアラビア語の呪文が書かれた古びた<あら皮>を渡される。その皮は、持ち主が幸運を手に入れるたびに、その人の寿命を縮めるとともに皮も縮まってゆき、最後は持ち主の死を招くという。
 Rはその皮をもって骨董屋を出ると、偶然サロンに向かう友人たちと出会い、そこから幸運が始まる。しかしサロンで出会った伯爵夫人フェドラを籠絡させようと試みるが、不首尾に終わる。皮は縮み始める。音信不通だった伯父が亡くなり、その莫大な遺産がRに転がり込む。その財産で放蕩の日々を過ごすが、その間も皮は縮んでゆく。皮を伸ばすために当代の科学者を訪ねるが、皮は縮む一方である。
 やがてRは肺結核を患い、転地をするが回復することなく、パリに戻り、貧しかったころにRを愛し、優しく接してくれた安宿の娘ポーリーヌ(以下P。これまた相続によって今は裕福になっている)の胸に抱かれて27歳の生涯を閉じるのである。
 下の写真は本館の月報に載っていたポーリーヌの肖像。「あら皮」第5版 デロワ・ルクー本挿絵、とキャプションがついている。「本挿絵」とはなんだろう?「デロワ・ルクー本」の挿絵ということか。

               

 それだけの話である。
 Rの生い立ち、放蕩の日々と伯爵夫人との駆引きの部分は読み飛ばした。というより、ほとんど読まずにページを繰った。
 バルザック自身の学校時代の父子関係を下敷きにしたと思われる描写や、同じく彼の代訴人(公証人だったか)の書生時代の体験を下敷きにした場面、執達吏が遺言執行にやって来る場面などは、多少の興味を覚えた。霧生の評伝にあったバルザックの経歴そのままであろう。

 前にも書いたように、「あら皮」の趣向は芥川の「魔術」を思わせ、RとPとの関係は遠藤周作「わたしが・棄てた・女」を思わせる。ぼくたちの受験時代に必読書だった島崎敏樹の本(「心で見る世界」とか「心の風物詩」とか何か)に、「男が憧れるのは、母性と処女性と娼婦性を兼ねそなえた女である」と書いてあったが、ポーリーヌはそんな風に描かれている。
 あくまでぼくの個人的な感想であるが。あるいは、Rの物語は『ゴリオ爺さん』を、Pの物語は『谷間の百合』を思わせる。ただし、これもあくまでぼく一人の感想である。何と言っても、この2作品を読んだのは今から50年以上前のことで、印象以上の記憶はないのだから。

 老いの身にとって、良かったのはRの臨終のシーンである。
 まるで霧生和夫「バルザック」で読んだバルザック自身の臨終、--それは「あら皮」の執筆から約20年後(1850年)のことであるが--を予期していたかの文章である。

 「ラファエルは眠っているうちに美しく輝いてくる。白い頬はいきいきしたばら色にそまり、少女のようにやさしい額には才気があらわれ、この休息をとった、静かな顔のうえにはいのちが花咲いていた。母にまもられて眠る嬰児にもたとえられよう。彼の眠りはたのしいものであった。くれないの唇は、すんだ、平静な寝息をかよわせ、うるわしい人生の夢にわれを忘れているものか、彼の顔にはかすかな笑いさえただよっている。彼はきっと百歳の長寿をまっとうしていることだろう。孫たちは彼がもっともっと長生きすることを願っているだろう。ひなびた椅子を陽なたにもちだし、木かげにすわって、予言者のように、山の頂きはるかな約束の地をながめていることだろう!・・・・・・」(山内義雄・鈴木健郎訳、219-220頁)。
 できれば、ぼくもこんな最期を迎えたいものである。

 なお、本巻(全集第3巻)には、「あら皮」のほかに「追放者」と「シャベール大佐」も収録されているが、巻末のきわめて簡単な要約だけ読んで、スルーした。「シャベール大佐」は霧生が推薦していたし、当時の代訴人の日常業務が描かれているというので、いつか読んでもよい。

       *      *      *

 さて、この3か月の間に、ルソー「エミール」を読み、モンテスキュー「法の精神」を読み、そしてバルザック「結婚の生理学」と「あら皮」を読んだ。18、19世紀の--といっても、この3人だけであり、すべてに共感したわけではないが--、これら3人の作家たちの<筆圧>が伝わってきた。あの長編を1本の羽ペンとインクで書いたのである。
 今日のようにワープロのキーボードを叩いてできた文章は、どんなに長いものでも、彼らに太刀打ちすることはできないだろう。わが国の作家でぼくが「筆圧」を感じたのは高村薫だけだが、『マークスの山』は手書きで書かれたのだろうか、ワープロだろうか、とふと思った。手書きであってほしいが・・・。

 2020年7月24日 記

 ※ 冒頭の写真は、スタインベック『エデンの東(下巻)』(早川書房、1964年、13版)の巻末に載っていたツヴァイク『バルザック』(水野亮訳)の広告。1960年代の早川書房の単行本の巻末にはたいていこの広告が載っていた。ぼくはこの広告ではじめてバルザックの鬼気迫る肖像と出会った。クロース装1200円のほかに、函入羊皮皮装1900円という豪華版もあったらしい。『エデンの東』下巻が420円の時代にである。

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バルザック 『あら皮』

2020年07月21日 | 本と雑誌
 
 バルザック『あら皮』(バルザック全集・第3巻、東京創元社、1973年。手元にあるのは1975年8月15日再版)を読んでいる。

 バルザックは、定年後の読書では「結婚の生理学」につづいて2冊目。
 霧生和夫『バルザック』のすすめに従って、「あら皮」、「ウージェニー・グランデ」、「幻滅」、「浮かれ女盛衰記」、「シャベール大佐」、「トゥールの司祭」、「風流滑稽譚」を読んでみることにした。
 場合によっては、「従妹ベット」と「従兄ポンス」も。多くの人がすすめる「ゴリオ爺さん」と「谷間の百合」は、高校生の頃に読んだので省略。
 ※ 下の写真は、角川文庫版『ゴリオ爺さん』のカバー。

             
             
 霧生によれば、「あら皮」が「人間喜劇」の出発作らしい(1831年の作品)。
 「あら皮」という表題がまったく読書意欲をそそらなかったので、読む気はなかったのだが、霧生であらすじを知って、読んでみる気になった。

 まだ20ページちょっと読んだ段階で、主人公と骨董屋の老人は登場したが、「あら皮」はまだ出てこない。したがって、「あら皮」がどんなものかもまだわからない(霧生の紹介で知ってしまっているのだが)。
 原題 “La Peau de Chagrin” の “chagrin” はクラウン仏和辞典(三省堂)では「粒起(りゅうき)なめし皮」とあり、広辞苑の「あらかわ」は「粗皮」と漢字が当てられ「まだなめしていない獣皮」となっている。
 そもそも「なめす」というのがどんな作業なのかもわからない僕にとっては、「なめし皮」だろうが「まだなめしていない皮」だろうが、まったく影響はない。このストーリーにとって意味があるのは、「あら皮」なる皮が少しずつ縮む性質をもっているということである(これも霧生による知識だが)。

 霧生の紹介では「あら皮」は、芥川龍之介の「魔術」のようなストーリーである。
 「魔術」は中学校の国語教科書(光村図書だった)に載っていて、中学生だったぼくを本のとりこにしたというか、読書の面白さに引き込んだ、ぼくの人生にとって忘れがたい作品である。まさに「魔術」にかかったのであった。
 雨のなかを人力車が古い洋館の玄関に到着する冒頭のシーンと、「お婆さん、お客さんはお帰りになるよ」、遠くからミスラ君の声が聞こえてくるというラストシーンが、「ミスラ」という不思議な名前とともに印象に残っている。

 それに比べると、バルザック「あら皮」の始まりは冗漫である。
 全財産であるたった1枚の金貨を賭博で失った青年が、セーヌ川に身を投げるために日が暮れるのを待って、河端の骨董屋に入っていくのであるが、ここまでですでに20ページ。芥川ならそろそろ話が終わるころである。
 賭博場から骨董屋に至るセーヌ河畔の風景や、骨董屋に並んだ陳列品のイラストがあれば、と思う。
 「ゴリオ爺さん」角川文庫版に描かれたラスティニャック、とくにラストシーンのイラスト(下の写真)が印象的だった。岩波少年文庫の「名探偵カッレ君」や「ニキータと少年探偵」、「あらしの前」で育ったぼくは、大人の小説でもイラストが欲しい。
 フランスではイラスト入りのバルザック本は出ていないのだろうか。永井荷風の『濹東綺譚』も、ぼくには木村壮八のイラストがなければ、文章だけでは雰囲気が伝わらない。

                

               
 70歳になってバルザックを読む必要があるのだろうか、という思いが時おり首をもたげてくるが、しかし読んでおこう。
 30代の頃に、なぜか「定年になって暇になったらバルザックを読もう」と思って全集を購入したのだった。どうしてそんなことを思い立ったのか、今では思い出せないが、40年間ぼくの部屋の本棚の最上段で眠り続けてきた本である。
 少なくとも、開くことなく捨てるわけにはいかない。断捨離した本たちとは違うのである。

 2020年7月21日


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“ Trip at Home” -- きょうの軽井沢

2020年07月10日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 BS放送302chのCNNニュースで、アメリカの学校再開をめぐるCDCガイドライン、オンライン授業のみの大学への留学生に対する帰国強制の問題を議論していた。
 学校については再開に向けたCDCのガイドラインが甘すぎると批判され、大学については、留学生による経済効果は400億ドル、大事な収入源を失うといった話も出ていた。

 それはそうとして、この番組の合間に流れたCMがよかった。
 “ Trip at Home ”というのである。
 「窓から外の青空を眺めよう、緑の木々を眺めよう、懐かしい木立の道を心の中で思い出そう」といった字幕とともに、きれいな風景が画面に流れる。

 ぼくの軽井沢への思いと同じである。
 長野県道路事務所のHPで軽井沢の定点カメラ映像を見ると、とても東京から県境を越えて軽井沢に行く気にはなれない。
 上の写真は、軽井沢町役場前の国道18号、下は鳥井原東交差点あたりのバイパス。クルマの量が5月頃に比べてかなり増えた印象である。これで、“ with corona ” といえるのだろうか。

             

             

  “ Trip at Home ” !

 冒頭の写真は、雨雲に隠れた浅間山。同じく長野県道路事務所のHPから。
 当分は「心の旅」で行こう。

 2020年7月9日 記


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『湾生回家』(日本映画専門チャンネル)

2020年07月05日 | 映画
 
 7月5日(日)、朝7時15分から、日本映画専門チャンネル(BS放送501ch)で、「湾生回家」(2015年、台湾映画)を見た。
 ホァン・ミンチェン(黄銘正)監督、エギュゼクティブ・プロデューサー:チェン・シュエンルー 陳宣儒(日本名:田中實加)とある。

 以前読んだ「台湾を知るための60章」(明石書店)で知ったが、「湾生」という言葉があるらしい。日本統治下の台湾で生まれた日本人のことをさす。
 その「湾生」の人たち数人が登場し、「故郷」台湾を語る。

 開拓移民として花蓮などの荒れ地に入植した人の子孫、総督府の役人の子として台北高等女学校に学んだ人など、台湾での境遇は異なるが、その人たちが台湾を訪ねて、旧友と再会したり、現地にとどまった人が日本の本籍地、そこに残る先祖の墓を探す姿などが描かれてている。

 下の写真は、かつては台北高等女学校だった台北市立第一女子高級中学の正門。
 当時の生徒だった湾生の一人が、日本人なら誰でも入れたが、数人しかいなかった台湾人の生徒はみな成績がきわめて優秀で、「日本人にバカにされないために一生懸命勉強している」と言っていたと語っていた。
 数年前の旅行の際に、台北市立第一女子高級中学の前を通った。旧台湾総督府庁舎(現在は総統府)の真向かいに正門があって、建物や植栽は女学校当時のままのようだったが、その立地や正門の佇まいからして、いかにも伝統のある名門校という風情だった。

                    

 抗日戦争の英雄らを祀る忠烈祠の前を通り過ぎるシーンがあったり、湾生の人が「霧社事件」に言及したり、日本兵としてかり出された高砂族の義勇兵を追憶する場面もあったが、亡くなった湾生の法事で、遺族が「故郷」(高野辰之詞・岡野貞一曲)を歌うラストシーンが象徴するように、基本的に「ふるさと台湾」への郷愁のトーンが強い印象だった。
          
 割譲直後の1890年代の末に総督府役人の子として台北で生まれ、小学校就学前に内地(?)に帰国した祖父の台湾時代を知るよすがは、この映画からは得られなかった。
 父親が総督府の役人だったという湾生の女性が、総統府の建物に入ると、父がここにいたのかという感慨を覚えると語っていた。ぼくも、南洋風の樹木が茂る中庭を臨むあの建物のひんやりとした廊下を歩いた時に、同じような気持ちを覚えた。曾祖父もかつてここを歩いたのだろうか、と。

           


 台湾の役所で総督府の役人の名簿を閲覧するシーンや、「台湾戸籍」(?)を閲覧するシーンがあったので、現地へ行けばわが “ Family History” をたどることができるかもしれない。それとも、映画撮影だから特別の便宜を図ってもらったのだろうか・・・。


 定年退職して、執筆の場がなくなってしまったので、最近はこのコラムにやたらと読書ノートを書き連ねてきたが、久しぶりに映画をテーマにできた。
 「お勉強」風の書き込みは、別のブログを立ち上げた方がよいかもしれない。

 ※ 冒頭の写真は、台湾土産のボールペン(総統府の売店で買った)と、ついでに、韓国土産の古い朝鮮の婚礼を描いた印鑑入れ、それに1978年に買ったサンフランシスコ土産の缶バッジ。汚れているように見えるのは汚れではなく、カモメの跳ぶ姿がグレーで点在したもの。フィッシャーマンズ・ワーフあたりではケーブル・カーの周りをカモメが飛んでいたかも。

 2020年 7月 5日 記


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