豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

川端康成『高原』

2021年10月16日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 川端康成『高原』(中公文庫、1982年)を読んだ。
 この本は、軽井沢に題材をとった川端の昭和11年から13年頃の短編と随筆を収めた短編集であるという、小川和佑『“美しい村”を求めて』(読売新聞社、1982年)の紹介で読んでみたくなった。
 「軽井沢だより」(昭和11年)という随筆を最初に読んで、その後、短編小説「父母」「百日堂先生」「高原」ほかを読んだ。

 「軽井沢だより」は「文學界」を支援する明治製菓に対して、小説を書くことができないでいた川端が穴埋めとして執筆した、神津牧場(明治製菓が経営する牧場だそうだ!)から軽井沢までハイキングした折の旅行記である。
 旅姿(の汚さ?)からつるや旅館で宿泊を断られ、おなじ通り沿いの藤屋旅館に投宿することになる。
 藤屋がどの辺にあったのかをぼくは知らないが、その宿の窓から神宮寺の庭が見え、その庭を通りかかった河上徹太郎の奥さんに声をかけて、河上に会いに行くエピソードが語られている。

 軽井沢における風紀のやかましさなど、河上と軽井沢談義をする。軽井沢に到着した当初は、「かねて想像する、夏の軽井沢は虫が好かぬところ」だと言っていた川端だが、やがてこの地を気に入って別荘まで建てて、仕事をすることになる。
 堀の小説には(ぼくが読んだ限りでは)登場しない旧軽井沢の神宮寺が出てきたり、千ヶ滝の観翠楼や塩壺温泉が出てきたり、戦前昭和の千ヶ滝が出てくるだけでも興味深く読むことができた。
 ※ 下の写真は、本通りに面した神宮寺の入り口。右側にはかつて三陽商会のバーバリー売店がありその裏は同商会の夏季寮だったが、この辺りに藤屋旅館があったのだろうか。
      
      
 短編集全体の表題にもなった「高原」は昭和14年(1939年)に発表された作品である。
 この小説は、日本と中国との間の戦争がはげしくなりつつあった昭和14年当時の軽井沢の風俗を知ることができる点で、興味深く読んだ。ちょうど小津安二郎の映画によって昭和35年(1960年)までの東京の風俗や雰囲気を知ることができるのと同じである。

 懐かしい風物がたくさん登場する。
 「軽井沢たより」にも登場した藤屋旅館(この本(中公文庫版)が刊行された昭和57年当時は現存していたと水上勉の解説に書いてある)、藤屋旅館の窓越しに眺める神宮寺の庭が出てくる。カトリック教会(聖パウロ教会)が出てきて、キリスト教書店が2軒もあったことが出てくる。
 ※ 下の写真は神宮寺の本堂。新しそうに見えるから、川端が河上徹太郎夫人を見かけたころの建物とは違うだろう。この本に収められた「信濃の話」という講演録によれば、当時の神宮寺は「萱の屋根」で「黒ずんだ本堂の板壁」だったようだ(207頁)。
        

 軽井沢駅から白樺電車(草軽電鉄のあのカブト虫だろう)に乗って旧軽井沢に向かう外国人家族、旧ゴルフ場や、雲場の池の近くにあったというプール(軽井沢で泳ぐ人がいたとは!)が出てくる。貸馬屋が出てきて、貸自転車屋も出てくる。
 たしかに昭和30年代(40年代も?)までは貸馬屋というのが何軒かあり、貸し馬が町中を歩き、あちこちに馬糞が転がっていた。当時の軽井沢はほとんどが土道だったから、誰が片づけるでもなく放置されたままになっていたが、やがて土に還っていたのだろう。

 外国人の別荘に雇われた日本人の「アマ」の軽井沢での生活も描かれている(61頁)。「アマ」(阿媽)というのは、広辞苑によれば「東アジア諸国に住む外国人の家庭に雇われた現地の女中または乳母の総称」だそうだ。
 この人たちの中には、いかにも日本女性的な献身で主人の気に入られ、養女となったり遺産を贈与された者もあったが、中にはたちが悪いのもいたらしい。
 彼女らの給料は月30~40円だが、中には一夏70円で請け負って、月20円で下請け女を雇って働かせる強かなアマもいた。女中としての一日の仕事を終えた夜になると、三人五人と集まって軽井沢の町中にくり出し、中華料理屋などで騒ぐ者などもあったという。
 この手のアマや、コック、別荘管理人らの小ずるさをなじる言葉が須田の姉の口によって語られている(121頁)。
 昭和14年頃の旧道は、外国人宣教師やキリスト教信者、富裕な外国人や、堀、川端のような文士だけでなく、そのような連中も歩きまわっていたようだ。来夏、旧道を歩いたら彼女らの亡霊も感じられるかも知れない。
 
 昭和14年は日中間の戦争が激化しつつある時代であった。以前の書き込みで(『“美しい村”を求めて』を読んで)、戦争に対する川端の「傍観者的態度」と書いた。同書の引用からそのように感じたのだが適切ではなかった。
 「高原」のなかには、暢気な軽井沢での避暑生活を送る人たちの背後に、戦争の激しくなる気配がひたひたと忍び寄っていることを感じる川端の姿が透けて見える。
 「高原」は、その冒頭から、軽井沢に向かう主人公(須田)が、軍事路線であった信越線に乗り合わせた陸軍中佐の態度を、スパイでも探っているのではないかと気にかける描写があり、途中停車した駅の車窓から見かけた出征軍人を見送る妻や、その妻に対する須田の感懐が記されていたりする。
 話の終わりのほうでも、上海爆撃で亡くなったライシャワアさんの慰霊祭が36か国の参列のもとに開かれ、軽井沢滞在を切り上げる直前の須田もそこに出席する場面が出てくる。

 軽井沢の道端にまで上海での戦況を知らせるニュースが貼り出され、本通り(旧道)に千人針の娘たちが立つ姿が描かれる。中国人が軽井沢を訪れることを禁止したり、中国人の洋裁屋が鋏を使うことを禁止する(その一方で中国人コックが包丁を使うのは自由だという)珍妙な布告と、主人公らがそれを揶揄する場面などもある(61頁)。
 貸馬屋の馬まで徴発されて、駄馬しか残っていないなどといった会話も出てくる。
 
 しかしこの小説のメインテーマは、軽井沢という外国人と日本人が混住する特殊な地域における外国人と日本人、外国文化と日本文化の接触と、それに対する須田(川端自身)の見方であろう。
 当時の軽井沢は、宣教師ら外国人によって厳しく風紀が守られていた。娯楽施設やバーなどは一切禁止されていただけでなく、当初は日曜日には店が閉められ、飲食店では15歳から35歳までの女性の就業が禁止されていたという。
 
          
 ※ 上の写真は、旧軽井沢の観光会館前の旧道(長野県道路管理事務所のHPから)。観光会館はかつては郵便局だった。

 旧道の郵便局前の路上で、外国人の飼い犬が車に轢かれると、たちまち警官がやって来て検分が始まり、犬は獣医のもとに運ばれる。当時の軽井沢には獣医が3軒も出張していたという。
 面白いのは、犬の話から、川端が日本の雑種文化論を展開していることである。
 須田は、日本の犬のほとんどが雑種であることから話をはじめて、日本の文化も中国、朝鮮、西洋文化を摂取した雑種文化であると断ずる(120~1頁)。 

 当時の軽井沢には外国人が2、3千人、日本人が1万人滞在していたらしい。
 外国人が山小屋を建てて滞在していた軽井沢に、日本人がわんさと押し寄せて来たために外国人が野尻湖に避難するという状況は、外国人から見れば「うるさい蠅の繁殖力を見るようかもしれない」とも書いている(78~9頁)。
 軽井沢に実現しているような諸国民の雑居が国際的に広がれば、世界も平和になるのではないかといった川端の希望も語られている(79頁)。
 外国人が集まる教会で腋臭の匂いを感じたり、まじかに見た外国人の美少女の肌のそばかすに幻滅したり、川端らしい観察もある。美しいフランス人の少女を見たとたんに、それまで結婚を考えながら軽井沢でデートを重ねてきた日本人の「令嬢」が「急にみすぼらしく見えた」というのも正直な感想である(130頁)。 

 ほとんどの別荘が引きあげてしまい人気がなくなった初秋の寂しい別荘地で、ひとりで平然と遊ぶ外国人の子どもを見て、「初秋など白人種の身にはしみぬらしかった」(104頁)という述懐は川端自身の思いだろう。 
 川端康成という作家はあまり得意な作家ではなかったのだが、「軽井沢へ来て不意に強く自分の青春を感じた」という32歳の川端には共感を覚えた(80頁)。
 「高原」は、戦前の昭和の軽井沢を描いた風俗小説として面白く読んだ。

 2021年10月16日 記


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