豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

佐藤忠男『映画と人間形成』

2022年03月29日 | 本と雑誌
 
 3月22日付の東京新聞に佐藤忠男さんの死亡記事が載った。91歳とのことだった。下の写真は、その死亡記事と、佐藤さんの若き日の肖像が載っていた『世界映画100選』(秋田書店、1974年)のカバー。

 佐藤さんも一時期たくさん読んだ著者の1人である。「映画」についていろいろ教えられたのだと思うが、具体的にどのような影響を受けたかはわからない。
 最後に読んだのは、10数年前にぼくが小津安二郎をせっせと見ていた頃に読んだ『完本・小津安二郎の芸術』(朝日文庫、2000年)だった。表紙裏に「2010年9月30日読了」とメモがある。
   

 死亡記事をきっかけに、佐藤さんの本をひっぱり出してきて、『映画と人間形成』(評論社、1972年)を読みだした。もともとは『映画こども論』(1965年)という本の改訂増補版だそうだ。
 「日本映画の親たちと子どもたち」「アメリカ映画の 〃 」「ヨーロッパ映画の 〃 」「アジア・アフリカ映画の 〃 」「戦争の中の子ども」「危機の子どもたちと若者たち」「大人の問題」の7章からなり、「教育学、比較社会学、比較文化論などの立場からの関心にもこたえられるものでありたい」と著者は前書きで抱負を語っている。
 
 冒頭で紹介される「筑豊の子どもたち」「秋立ちぬ」「おとうと」「目白三平」「大人と子供のあいのこだい」の5本の映画は、彼が昭和35~36年に新聞に連載した「映画の中の家庭」の再録だそうだ。「おとうと」の主人公が川口浩、「大人と子供の~」の主人公が浜田光夫と、ここでも時の流れを感じる。
 貧しい家庭に生まれた中学3年生の(!)浜田が、せっかく篤志家の援助で高校進学の道が拓かれたのに、病弱の母や姉から就職しないことをなじられて進学を断念する。しかし、夜間高校から必ず大学に行くと決断する浜田の自己決定を称揚する佐藤の評価は(20-21頁)、わが “mature minor rule” の一場面そのものである(我田引水か)。

 つづく文章では、小津安二郎の「一人息子」を、佐藤は、歪んだ社会と健全な家庭のモラルの葛藤を描いた作品として評価する。失意の母子が巨大なごみ処理場の草むらに座って母が子を諭す場面を、佐藤は「親が子にまっこうから人間のあり方を説いた場面として、日本映画史上、もっとも美しく感動的な場面である」、「これらの作品では、家庭は伝統的な正義感の源泉のような場所であった」と高く評価する(29頁)。ぼくには同意しかねる評価だが・・・。
 その小津が、「父ありき」(や「戸田家の兄妹」)では、「歪んで淀んでいる家庭のあり方を、社会の新しい空気を吸ってきた息子がやっつける」、「もはや社会の側には何の非もなく、もしこの社会に不満をもつようなことがあるとしたら、それは個人あるいは家庭のほうが自らの欲をいましめなければならなぬ」ことになっている、戦後の「晩春」に至っては「家庭だけがあって社会はない」と批判する(30-31頁)。
 ぼくが学生時代に小津安二郎の映画に共感できなかったのも、このような評価からだったかもしれない。「父ありき」はぼくが小津映画の中で一番好きな作品だが、それはぼくが60歳近くなって見たからかもしれない。

   
 『映画の読み方--映像設計のナゾとセオリーの解明』(じゃこめてい出版、1974年)にも読んだ形跡があった。
 子どもの頃に病気で寝ていると、天井板の節穴や木目が表情をもって語りかけてくることがあった、という彼自身の経験からイメージ論を説き起こすのだが、つづく「モンタージュ説とフォトジェニック説」以降、カメラワーク、映像のつながり方、映画における象徴、スラップスティックと現代映画まで、当時のぼくには理解できなかったし、今でも理解できない。
 おそらく、ぼくには理解できないが印象に残った場面のなかには、佐藤さんが説く映像のセオリーから説明ができるシーンがあるのだろうが、「セオリー」が理解できなくても映画を見ることはできる。

    
 ぼくの映画遍歴(というほどではないが)は「自転車泥棒」(飯島正のアルス文庫の解説)や、学校からクラスごとに列になって下高井戸の映画館に見に行った「にあんちゃん」や「路傍の石」(太田博之主演)、親に連れられて行った「汚れなき悪戯」や「喜びも悲しみも幾年月」から始まったのだから、佐藤さんの本でいえば「筑豊の子どもたち」から始まって「二十四の瞳」で終わる『映画と人間形成』のほうがぼくに与えた影響は大きかっただろうと思う。『映画と人間形成』はもう一度じっくり読んでみようと思う。

 ジェームス・ディーンらしきイラストのカバーがかかった『青春映画の系譜』(秋田書店、1976年)や『世界映画100選』も、見ないで済ませる映画遍歴には役立っただろう。この本の中に、桜田淳子主演の「愛の嵐の中で」(東宝)という映画のパンフレットと渋谷東宝の優待券2枚が挟んであった(上の写真)。出演者の中に植草甚一と大林宣彦の名前がある!どんな映画だったのか。

 これらの本には佐藤さんの住所が表記されているが(当時の本ではよくあることだが)、何と佐藤さんは世田谷区松原xのxxのx番地に住んでおられた。ぼくが育った世田谷区世田谷の隣り町ではないか。
 佐藤忠男さん、お疲れ様でした。

 2022年3月29日 記
  

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きょうの浅間山(2022年3月24日)

2022年03月28日 | 軽井沢・千ヶ滝
 3月24日の朝、テレビにまだ雪をかぶっている浅間山のすがたが映っていた(上の写真)。咄嗟だったので、どこのチャンネルだったかは分からない。

 中学3年か高校1年生の夏休みに、叔父に連れられて、従弟と一緒にあの頂上に登った。
 峰の茶屋から登った。
 頂上から見下ろすと、嬬恋方面に向かう道路を走る車がミニカーよりも小さく、蝸牛のあゆみよりもゆっくり走っているように見えていた。

 東京は春めいてきたが、軽井沢はまだまだ冬模様なのだ。

 2022年3月28日 記

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仮定法現在(その3)

2022年03月21日 | あれこれ
(追記)
 そもそもぼくが仮定法現在に関心を抱くきっかけになったのは、「仮定法現在(原形)は古い英語で用いられていたが、その後、イギリス英語では<should +原形>が用いられるようになったのに対して、アメリカ英語には古い<原形(仮定法現在)>が残って使われている」旨の記述に出会ったからである、と書いた。しかし肝心のその出典を見つけ出すことができなかった。
 この発端が気になっていたので、これまでに参照したことのある英文法の本を引っ張り出して斜め読みした。その結果、ぼくが仮定法現在に関心をもった発端ではないかと思われる文章を見つけた。      

 1つは、安藤貞雄『現代英文法講義』(開拓社、2005年)である。
 安藤329頁は、“should”の用法の1つとして、「命令・要求・必要」を表す述語に続く名詞節中で、という場合をあげ、「この環境で『想念のShould を使用するのは<英>では普通で、<米>では古くからの叙想法現在』(「命令の叙想法」(mandative subjunctive)が用いられる(ただし、現在では<英>でも、<米>の影響によって、叙想法現在の使用が復活している)」と書いている。
 ちなみに安藤は「仮定法」(subjunctive mood)のことを「叙想法」と表記している(363頁)。「仮定法」という呼称を不適当と考え「叙想法」と表記するのだろう。「仮定法」という用語が不適当であることは同感だが、かといって「叙想」という用語もなじめない。
 ※「仮定法現在・その1」に追記したところだが、田中茂範『文法がわかれば英語はわかる!』(NHK出版、2008年)の「仮想状況」という用語(210頁~)がぼくには一番しっくりくる。
 安藤・講義がいう「叙想法現在」は「仮定法現在」のことであるが、米語で使われる「仮定法現在」を、安藤は「古くからの」と書いていたのである。

 2つ目は、同じく安藤367頁である。
 同頁で安藤は、「叙想法現在」(=仮定法現在)の用法の1つとして、「that 節中で(mandative subjunctive)」という場合をあげ、「広義の命令表現に続くthat 節では、叙想法現在が使用される(命令が実行されるかされないかは不明である、ゆえに叙想法)。これは、古い用法がおもに<米>に残ったもので、<英>でも使用されつつあるが、『想念のshould』を使うほうが普通である」と述べている。
 ここでも、やはり「叙想法現在」(=仮定法現在)は「古い用法が米語に残った」ものであると言っている。どの程度「古い」のかについては明記していないが(シェークスピア時代なのか、18、19世紀なのか・・・)、少なくともイギリス英語において仮定法現在が 「should +原形」にとって代わられるよりも以前ということだろう。

 3つ目は、わが『モームの例文中心 英文法詳解』(納谷友一・榎本常彌共著、日栄社、1977年)である。
 同書で著者は、「仮定法現在は古い用法で、現在では概して直説法現在にとって代わられ、実際の用法は比較的少ない」と書いている。英語と米語の間の異同には触れていないが、仮定法現在は「古い用法」とされている(110~111頁)。
 ちなみに同書は、「仮定法現在」は仮定法過去、仮定法過去完了などとの調和上、一般にこのように呼ばれているが、「動詞は原形を用いるので、仮定法原形あるいは原形仮定法というほうが本質に近いかもしれない」と述べている(110頁)。「現在」という呼称が用語として不適当であることは同感である。「仮定法現在」で使われる動詞は「原形」であって「現在形」ではないのだから。前にもそのように書いた(※「仮定法現在・その1」参照)。
 
 現時点での「suasive verb に続くthat 節内の動詞の形」の変遷に関するぼくの私見をまとめておく。
 <イギリス英語では> 古い(いつ頃?)イギリス英語:<仮定法現在(原形)> ⇒ その後の(いつから?)イギリス英語:<should +原形> ⇒ 最近のイギリス英語:<仮定法現在(原形)>も使用?(江川250 頁、安藤330頁、宮川ほか『ロイヤル英文法』旺文社、1996年、256頁など。安藤は、「<英>でも、<米>の影響によって、叙想法現在の使用が復活している」とまで書いているが、ぼくが見た最近のイギリス英語文献では確認できなていない)。
 <アメリカ英語では> 古い(=ニュー・イングランド植民初期の17世紀頃)アメリカ英語:<仮定法現在(原形)> or <should +原形>(?未確認) ⇒ 独立期前後18~19世紀のアメリカ英語:<should +原形> ⇒ 19世紀後半までのアメリカ英語:<should +原形> ⇒ (20世紀初頭以後のアメリカ英語:<仮定法現在(原形)> ⇒ 現在のアメリカ英語:仮定法現在(原形)
 ということになる。
 「古い仮定法現在がアメリカ英語には残った」という説明は、少なくともアメリカ歴代大統領の一般教書を辿った限りでは正しくないように思う。
 日本の英文法の本がいずれもこのような説明をしているということは、おそらく彼らが参照した権威ある英米の文法書にそう書いてあるからなのだろう。Biber,Quirk あたりを調べてみればそのあたりを確認できるかもしれないが、その元気はない。

        *   *   *

 ちなみに、『モームの例文中心 英文法詳解』では、should の用法の1つである「意向・決定・命令・提案・発議などを表す that-clause に用いられる(should)」の用例として、モームの文章をあげている。
 1つは、“Kite”(凧)の中の“After supper he suggested they should go to a movie, but she refused.”というもので、もう1つは、“Moon”(月と6ペンス)の中の“I proposed that we should go and eat ices in the park.”という一文である(90頁)。
 20世紀イギリスの作家であるモームが仮定法現在ではなく、suasive verb に続くthat節内で“should”を使うのは当然のことであろう。《英》(イギリス英語)では最近仮定法現在が使われることもあるというが(前出、江川、安藤、ロイヤル英文法など)、晩年のモームも使ったことがあるのだろうか。

 2022年3月21日 追記

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仮定法現在(その2)

2022年03月21日 | あれこれ
(承前)
 と言うのは、実は、ワシントンら独立初期の大統領の一般教書においては、「仮定法現在(原形)」は使われておらず、「should +原形」が使われていることをぼくは発見したのである。これらの動詞(suasive verb:提案・勧告動詞)を that 節で受ける場合は、常に「should +原形」なのである。
 けっして独立初期のアメリカに「古い英語」である「仮定法現在(原形)」が残っていたわけではなく、ワシントンらの一般教書では、当時すでにイギリス英語になっていた「should +原形」が使われていたのである。19世紀中葉のリンカーンに至っても「should+原形」が使われていた。
 アメリカ英語(米語)で、仮定法現在(原形)が、今日のような「should なしの原形(仮定法現在)」になるのは20世紀に入って以後、ぼくが調べた限りではセオドア・ルーズベルト以後のことだったのである。

 網羅的に調べたわけではないので自信はないが、この検証が正しいとしたら、それではなぜアメリカでは20世紀に入った頃になってイギリス英語「should +原形」から離脱して、「仮定法現在(原形)」を使うようになったのか、が次の疑問になる。
 この問いに対するぼくの仮説は、アメリカニズム(Americanism)の影響である。アメリカニズムとは「アメリカ語法(米語特有の発音、語句、つづりなど)」のことである(<ウィズダム英和>“Americanism”の項、69頁)。いつ頃からアメリカ英語は本国のイギリス英語に対する独自性を有するようになったのか。アメリカニズムは<ウィズダム英和>の定義によれば、「発音、語句、つづりなど」とあるが(同頁)、仮定法現在のような文法のアメリカ化も「など」に含まれるのか。         
 
 ぼくの手持ちの資料(辞書、英文法書)の中で唯一アメリカニズムの説明があったのは、Webster’s New World Dictionary of the American Language(2nd College Edition),W. Collins & World Publishing Co., 1976(上の写真)の巻頭の<利用ガイド>中の M. M. Mathews による“Americanisms”というエッセイだけだった。
 同稿によると、17世紀初頭に北米大陸にイギリス人が入植して以来、ニュー・イングランド植民地では英語が使用されていたが、彼らが使う英語は彼らの環境に適応するため、即座に、かつ必然的にイギリス英語から変容を来たすようになった。そして独立以前から、オランダとの取引文書の明確化のためにもアメリカ英語の辞書の必要性が植民地議会で唱えられていた。19世紀初めにジョン・アダムスは「われわれはアメリカ語の辞書をもたなければならない」と記しており、1806年に最初の小さなアメリカ語辞書がノア・ウェブスターによって作られたという(xxxⅲ頁)。

 しかしぼくが<グーテンベルグ>を検索して一般教書を検討したところでは、仮定法現在に関しては、独立前後のアメリカにおいても当時のイギリス英語と同じく「should +原形」が使用されており、19世紀の間も“should”なしの「仮定法現在(原形)」は用いられていなかった。
 Mathews の論稿からは、アメリカ英語文法がいつ頃、どのような理由によってイギリス英語文法から変化していったのかを知ることはできなかったが、Mathews によると、書き言葉の変容は話し言葉の変容よりも遅れてやってきたというから、話し言葉の世界ではあまり使われない suasive verb を受けたthat 節内の動詞の仮定法現在(原形)への変容も、アメリカ独立からだいぶ時間が経った19世紀末から20世紀初頭に至って生ずることになったのではないだろうか。

 《 アメリカにおける仮定法現在は、古いイギリス英語がアメリカに残ったのではなく、アメリカニズムの影響を受けて20世紀に入ってから使われるようになったのだ! 》

 これが、ぼくの100%オリジナルな思いつきと発見とその方法と推論だが、手元にあった辞書や江川・解説など若干の文法書しか参照しておらず、英文法史の論証手法も全く知らないアマチュアの独断に基づいた考察である。ひょっとしたら、仮定法現在の歴史や英語と米語の間の差異化については、すでに専門家の論稿が発表されているかもしれない。「盗用」などになっていないことを祈るばかりである。むしろぼくの思いつきが「思い違い」「間違い」であるほうがましである。
 大統領の一般教書における変遷だけで「仮定法現在」の変遷一般を論ずるということが不適切であろうことは門外漢のぼくにも分かる。内容にふさわしい表題をつけるとするならば、「アメリカ歴代大統領の一般教書に見る suasive verb を受けた that 節内の動詞の形の変遷に関する一考察(試論)」とでもなるだろう。
 そもそも一般教書にはあまり suasive verb が登場しなかった。ということは、仮定法現在を検討する際の素材として一般教書は適切でなかったのかもしれない。“suasive verb” (提案・勧告動詞)ならば、むしろ議員の議会演説や法案起草委員会議事録などのほうがたくさん見つけられたかもしれない。コーパスとかAI を使えばもっと効率よく簡単に検索できるのかもしれない。
 
 残された最大の課題は、そもそもぼくが仮定法現在に関心を抱くきっかけになった「仮定法現在(原形)は古い英語で用いられていたが、その後イギリス英語では<should +原形>が用いられるようになったのに対して、アメリカ英語には古い<原形(仮定法現在)>が残って使われている」旨の記述の出典を見つけ出せないことである(※「仮定法現在 その3」を参照)。 
 ぼくの営みは風車に向かって突撃して行ったドンキ・ホーテ(スペインではドン・キホーテらしいが、日本ではドンキ・ホーテだろう)のようなものである。ぼくはそれでも構わない。もし仮定法現在への関心が生じなかったら、ワシントンだのジェファーソンだのリンカーンだのの大統領一般教書なるものを読む(眺める)こともなかっただろうから。

 <おまけ1> この “suggest” などの動詞を “suasive verb ” と呼ぶ。ところが、MSの<ワード>で “suasive” と打つと「スペルミス」の赤色の波線が表示される(今この書き込みをしていても出てくる)。<ウィズダム英和>を引いてみると “suasion”(勧告、説得)は載っていたが、“suasive” という単語はない(1879頁)。心配になって<プログレッシブ英和中辞典(第3版)>(小学館、1998年)も引いてみると、ちゃんと “suasion” の形容詞形として “suasive” が載っていたので(1834頁)、ワードに辞書登録しておいた。

 <おまけ2> ちなみに、<ウィズダム英和>の “suasion” の次には “suave”([swa:v]と発音するらしい)という単語が載っていて、「(特に男性が)温和な、(態度、言葉などが)もの柔らかな、丁寧な、上品な」という訳語があてられているのだが、ただし書きとして「!本性は違うかもしれないというニュアンス」という注記がついていた(同頁)。<プログレッシブ英和>のほうにはこの注記がない。
 こんな単語は見たことも使ったこともないが、男のうわべだけの温和さ、上品さを表す単語があるということは、世の中にはその手の男が少なからず存在するということだろう。<ウィズダム英和>の注記を知らずに、他人を褒めるつもりで “You are suave” などと言ってしまったら気まずいことになるだろう。<ウィズダム英和>はコーパスを活用した最初の英和辞典と銘うっているから、コーパスによればそのような文脈、ニュアンスで使われることが多いのだろう。
 蛇足を2本。

 2022年3月21日 記

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仮定法現在(その1)

2022年03月20日 | あれこれ
 
 ぼくは英語が得意というわけではなかったけれど、なぜか高校生だった昔から「英文法」は嫌いではなかった。
 大学受験時代に青木常雄『英文法精義』(培風館)を一夏かけて通読したことは以前に書いた。その後も、池上嘉彦、斎藤兆史そのほかの著者による、「英文法」に関する新書や文庫を何冊も読んだ。読むたびに「なるほど!」と思うことがあったが、読んだからといって英語力がつくことはほとんどなかった。
 最近では、脳活のために、息子の本棚から田中茂範『文法がわかれば英語はわかる!』(NHK出版、2008年)を引っ張り出して読んでいる。     

 今回の話は、田中氏の本とは直接の関係はないのだが、※ ぼくは「仮定法現在」の変遷について一家言(?)もっている。現役時代だったら、教員控室で同僚の英語の先生をつかまえて、自説を吹聴して反応を確かめることができるのだが、定年後はその機会もないので、ここに書いておくことにした。
 まったくの私論で、手元にある文献を若干参照しただけで、方法論も知らずに自己流で思考し、試行したものなので、眉唾と思ってくださって結構である。
 ※ それどころか、実は、田中「文法がわかれば・・・」には「仮定法現在」の項目すら立てられていないのである。「仮定法」の項目で扱われるのは「仮定法過去」(同書の用語法では「現在を語る仮定法」)と「仮定法過去完了」(同じく「過去を語る仮定法」)だけである(210頁~)。わずかに「仮定法」の章(Chapter 20)の最後に、「広い意味の仮定法」の1つとして「要求・提案・勧告などを表す動詞・・・に続く that 節で(意外な原形)」として、一般に「仮定法現在」といわれる原形について、“I recommended that company invest more in their research section. ”という例文が1つ挙げられているだけである(217頁)。ちなみに同書は「仮定法」が使われる状況を「仮想状況」と説明している。「仮定」や「叙想」よりは内容に見合った用語だと思う。

 「仮定法現在」とは、<ウィズダム英和辞典(第3版)>(三省堂、2013年)によれば、「提案・要求・決定・命令の内容を表すthat 節中に現われる、原形と同じ動詞の形」と定義されている(“suggest”の項、1887頁)。そのようなthat節の中の動詞は時制の一致の規制を受けず、常に原形をとるのである。これが仮定法現在のすべてではないが、主要な場面である(江川泰一郎『英文法解説(改訂3版)』金子書房、1991年、249頁。以下「江川・解説」と略称)。   
     

 江川・解説によれば、この「仮定法現在=(that節内)原形」のルールは、「《米》では普通であるが、《英》でも次第に使われるようになっているが、shouldを使うほうが多い」とある(250頁)。<ウィズダム英和>でも、「《主に英》should +原形」となっている(同上、1887頁)。
 出典は忘れてしまったが(出典が何だったかが重要なのだが・・・)、当時読んだ何かの本の中で、「仮定法現在(原形)は古い英語で用いられていたが、その後、イギリス英語では<should +原形>が用いられるようになったのに対して、アメリカ英語では古い<原形(仮定法現在)>がそのまま使われている」旨の記述に出会った。(※その3を参照)

 仮定法現在の主要な論点である、“suggest”など提案、勧告、要求など(江川・解説250頁)を表す動詞につづくthat 節の中の動詞は原形(「仮定法現在」と呼ばれるが本当は「仮定法原形」だろう[※その3を参照])をとるという文法ルールの歴史的変遷、英語と米語との差異化がどうして生じたのか、にぼくは興味をもった。 
 仮定法現在を導く“suggest” “demand” “insist” “recommend” “require”などの動詞を“suasive verb”(提案・勧告動詞)というが、こういう意味をもつ動詞は、法律関係の英語文献の中で時おり目にすることがあった。法律関係の文章は、決定、命令、勧告、要求、提案などにかかわる内容が多いからだろう。
 ある時以来、この点に関心をもって法律関係の文献を読んでいると、確かにイギリスの文献では“suasive verb”のあとの that 節の中の動詞は<should +原形>を取っているが、アメリカの文献では、<原形(仮定法現在)>になっている。
 どのような理由から、どのような変遷を経てそのようなことになったのだろうか。

 最初にぼくが思いついた仮説というか見立ては、アメリカは独立の過程で、イギリス本国に対して、マグナ・カルタ(1215年)以後のイギリス古来の権利を援用して自分たちの市民的権利を主張した(insist,suggest,recommend ・・・)、そのため独立期前後のアメリカではイギリス古来の「仮定法現在(原形)」が使われたのではないか、というものだった。
 そこで、アメリカ独立初期の法律文書の中から「仮定法現在」が使われている個所を摘出して、この仮説の検証を試みることにした。
 さらに歴史的な変遷をたどるためには、同程度の語彙レベルと文法レベル(格調)で書かれている文献を年代の推移に従って調べなければならない。その素材として、ぼくは歴代のアメリカ大統領の一般教書を選び、そのなかから「仮定法現在」を探し出すことにした。歴代アメリカ大統領の一般教書は、<グーテンベルグ>という無料のネット・ライブラリーで読むことができる。

 初代ジョージ・ワシントンの一般教書から始めて、(歴代全員を調べる余裕はないので)18世紀末のジョン・アダムス、19世紀初頭のジェファーソン、19世紀中頃のリンカーン、20世紀初頭のセオドア・ルーズベルトの一般教書を調べてみることにした。
 彼らの一般教書を<グーテンベルグ>からテキスト・スタイルでダウンロードし、これをMSのWord=ワード文書に転換する。こうしてワード文書化した一般教書の中から “suasive verb” を<ワード>の検索機能を使って検索する。<ワード>の検索機能では、ヒットした該当の単語(例えばsuggest)には黄色マーカーの印がつくので、それにつづくthat 節内の動詞がどうなっているかを調べるのである。
 とてつもなく時間のかかる作業だった。そもそも “suasive verb” がなかなか出てこないうえに、せっかく “suggest” や “recommend” などを見つけても、that 節ではなく、to 不定詞や動名詞で受けていたりして、がっかりさせられることもあった。
 しかし、アメリカ独立初期のワシントン、ジェファーソンを調べている際に、ぼくはある発見(!)をした。そのため、変遷の大まかな見取り図を構想し、結論も想定することができたので、ぼくはこの作業に耐えることができた。
(つづく)

 2022年3月20日 記
 

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「卒業写真」と「なごり雪」

2022年03月17日 | テレビ&ポップス
 
 春、3月は別れの季節である。

 ぼくが大学を卒業したのは1974年3月。
 3月25日が卒業式だった。
 翌3月26日、ぼくはゼミの1年下級生(ぼくは1年留年した5年生だった)に頼まれて、大学に卒業証明書を受け取りに行った。
 前の夜から東京にはまさに季節はずれの雪がふり、山手線原宿駅の車窓から眺める明治神宮の森や代々木体育館も雪化粧をしていた。
 心の中で「なごり雪」が流れていた。
 その時に聞いたのは伊勢正三の「なごり雪」(1974年リリース)だったのだが、ぼくの記憶はイルカの「なごり雪」とともにある。イルカ版の「なごり雪」は卒業翌年の1975年10月の発売だから(クラウン・レコード、PANAM ZP-10、600円)、ぼくの記憶には混同がある。

   *   *   *
 
 ぼくは卒業式には出席しなかった。
 そもそも卒業式があったのかどうかも記憶にない。ただ卒業(式)当日の夕方に、ゼミの仲間が大学に集合して、先生も交えて新宿の街に繰り出したことは記憶にある。先生の希望でダンス・ホールに入った。
 フロア係に案内されて席に向かう通路を、先生はタンゴだかジルバだかのステップを踏みながら進んだ! 
 先生は大正13年生まれ、復員後の昭和22年に大学を卒業された方だったから、社交ダンス、ダンス・ホール世代だったのだろう。
 彼女は光沢のある真っ青のドレスだった。

 卒業アルバムなどというものも作らなかった。少なくともぼくの手元にはない。大学側のイニシアティブで作ってくれるような時代ではなかったし、学生側で卒アル製作委員会ができるような時代でもなかった。
 だけど、ハイ・ファイ・セットの「卒業写真」(東芝EMI、ALFA、EXPRESS、ETP-20095、発売年月日不詳、500円)は好きな曲だった。
 「通った道さえ 今はもう 電車から見るだけ ♪ ♪」で思い出すのは大学ではなく、なぜか中学校である。中央線の西荻窪駅と荻窪駅のちょうど真ん中あたり、南側の遠くに天祖神社の欅の木立が見えるのだが、「卒業写真」を聞くと住宅街の中、中学校の隣りにあったあの神社の欅を思い出す。

 先日、高校時代の同級生が4人集まって小さなクラス会をやった。その中の1人が定年後は娘さんの嫁ぎ先のある福岡に引っ越してしまうというので、送別会をかねて集まった。
 最後に会ってから40~50年ぶりの再会だった。
 みんな姿かたちは年齢なりになっていたが、声としゃべり方は昔のままだった。性格も変わっていなかったように思う。

 2022年3月4日 記
 --ウクライナがあんなことになっているのに、のん気に卒業写真でもないだろうと自粛してきたが、あちこちの学校で卒業式が行われた今日、結局投稿することにしてしまった(3月17日)。

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紅梅ーー紅梅キャラメル

2022年03月14日 | あれこれ
 
 散歩の道すがら、小さな公園の一本だけの梅の木に紅梅が咲きほこっていた。

 紅梅それ自体には何の思い出もないが、紅梅というと、ぼくは「紅梅キャラメル」を思い出す。

   

 ぼくの子ども時代、1950年代後半の、世田谷の赤堤小学校時代の思い出である。
 「紅梅キャラメル」は、中に入っている野球カードを集めると、10枚ごとに景品がもらえた。1組だと選手のブロマイドなど、野球関連の景品がもらえた。
 豪徳寺(玉電山下)に住んでいたぼくは、景品交換にはいつも紅梅キャラメルの本社まで歩いて行った。
 今は暗渠になったどぶ川沿いのお菓子屋 “うわぼ” で買ってカードを集めては、本社(というか工場)に景品交換に行った。
 会社は豪徳寺駅前商店街を北に向かって10分ほど歩いたところにあった。住宅街の中のそれほど大きくはない工場の事務所のようなところでカードと景品を交換した。銭湯のような煙突が立っていたような記憶があるが、確かではない。
 大量に買ってカードをたくさん集めると、小さなカメラ(ちゃんと映った。そのカメラで撮影した写真も残っているはずである)や、裏革(スエード?)製のキャチャー・ミットなどの景品をもらったこともある。経費節約のため本革など使えなかったからだろうけど、スエードのキャッチャー・ミットなど、昔も今も市販されたことなどなかったのではないか。

     

 澤里昌与司『さようなら紅梅キャラメル』(東洋出版、1996年)によると、紅梅キャラメルは昭和22年の創業、昭和25年に社名を紅梅キャラメルに改めたが、小学生の万引き事件などをきっかけにPTAの不買運動が起こり、昭和29年に廃業。しかし4か月後に新紅梅製菓として、旧工場跡地の世田谷区松原町で再開し、昭和34年(1959年)に最終的に解散したとのことである。
 「紅梅キャラメル」が発売されていたのはわずか6年間だけだった。「紅梅キャラメル」の記憶を共有するのは、ぼくたち団塊世代前後の僅かな人だけのようである。

      

 ぼくの思い出は「新紅梅製菓」時代のものだった。
 町名も松原町である。住宅街の庭先にあったそば屋 “稲垣” や、「ルイジアナ・ママ」の飯田久彦の自宅なども近くにあった。 
 ちなみに「紅梅キャラメル」は「紅梅」と名のっていたものの、キャラメルの箱は紅梅というよりは梅干しに近いような真っ赤だったと記憶する。「紅梅」というネーミングは箱の色ではなく、会社のあった松原町の住宅の庭先にも植えられていただろう紅梅に因んだものなのかもしれない。

 2022年3月14日 記

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“刑事ダルグリッシュ” (560ch ミステリー・チャンネル)

2022年03月10日 | テレビ&ポップス
 
 ミステリー・チャンネル(BS 560ch)で “刑事ダルグリッシュ” を見た。
 第1話から第3話まで、午後4時から9時半まで6時間近くぶっ通しである。北京オリンピックが終わって、時間をつぶすネタが切れたところだったのでちょうど良かった。

 表題は “刑事ダルグリッシュ” だが、作品中の字幕では “ダルグリッシュ警部” となっていた。“inspector” と呼ばれていたから「警部」だろう。
 10年ほど前にも他の俳優による「ダルグリッシュ警部」をやっていたが、その時の主役は今回のダルグリッシュ警部よりも繊細な感じだった(過去の書き込みを探すと2006年だった。16年も前のことだったとは!)。今回の俳優がタフというわけではないが。

 1970年代の初め、サッチャー政権が誕生する頃のイギリスが舞台だが、部下の白人刑事が同僚のアフリカ系の女性刑事にむかって、「お前はシャリー・バッシ―みたいなやつだ」といった趣旨の台詞をはいていた。1970年代であることを印象づけるための場面だろうが、今なら一発アウトである。
 シャリー・バッシ―がアフリカ系だとは知らなかった。「ゴールド・フィンガー ♪」の歌声だけは聴いていたが、歌う姿を見た記憶はない。

 2022年2月21日 記

   *   *   *
   
 先日、「ダルグリッシュ警部」について書き込んだ際(上記2月21日付けの書込み)に、時代背景が1970年代の初め、サッチャー政権が誕生する頃のイギリスだったため、ダルグリッシュ警部の部下の白人男性刑事が、同僚のアフリカ系女性刑事にむかって、「お前の母親はどこの出身だ?」、「お前はシャリー・バッシ―みたいなやつだ」といった趣旨の台詞があったことを紹介し、「1970年代であることを印象づけるための場面だろうが、今なら一発アウトである」と書いた。

 ところが、イギリス警察では、2020年代の現在でも、警察官によるそのような差別はなくなっていなかったようだ。
 東京新聞2022年3月7日の夕刊に、ロンドン警視庁初めての女性警視総監が、警察内部における差別事件の続発の責任を取って辞任することになったという記事が載っていた(上の写真)。
 
 「英警察 はびころ差別文化ーー現職警官が女性殺人、組織内ハラスメント」というその記事によると、コロナ禍のロンドンで、現職警官がコロナ規制違反名目で女性に手錠をかけて拉致し、レイプの上に殺害した事件が起き、さらにその被害者の追悼集会に集まった人たちをコロナ規制違反で逮捕し、献花を踏みにじったという。
 その他にも、アフリカ系女性の遺体写真を撮影してSNSで共有したり、同性愛者連続殺人事件を事件性なしとしたり、警察官の女性蔑視、黒人・イスラム教徒、障害者、同性愛者らへの差別的言動が横行していることなどが内部調査で発覚したという。

 現在のロンドン市長はパキスタン系だが、彼は子どものころから父親に「警官と目を合わせるな、彼らに口実を与えるな」と教育されてきたと語っている。
 イギリスのテレビ・ドラマの世界では、インド系の警察署長や、アフリカ系の女性刑事などが活躍しているが、現実はそんなに甘いものではないようだ。
 悪徳警官はテレビ番組にも時おり登場するが、警察内部の差別文化がこれほどのものだったとは知らなかった。ぼくは、武器を携行しないイギリスの警察システムとその警察官を尊敬していたのだが・・・。

 2022年3月10日 追記

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六角精児の“呑み鉄本線 日本旅”

2022年03月08日 | テレビ&ポップス
 NHK-BS プレミアム(BS104ch)の “六角精児の呑み鉄本線 日本旅” は最近では数少ないぼくのお気に入りのテレビ番組である。
 不定期のため、いつ放送されるのか分からず、しょっちゅう見逃がしてしまう。

 きのう3月5日は午後3時から放送されることをNHKの番組予告で知っていたので、スマホのスケジュールにメモしておいたので、見逃さないで見ることができた。

 昨日は、福井から九頭竜川をさかのぼり、途中でタクシーに乗って長良川本線を美濃太田に至る旅だった。
 福井、岐阜はあまり縁がない土地なのだが、六角さんが旅すると行って見たくなる。とくに沿線の桜がきれいだったので、行くなら桜の季節だろう。しかし桜は毎年満開の時期が違うから、行くとしても日程を組むのが難しい。
   

   *   *   *

 何か月か前の「呑み鉄」で、六角さんは、近江鉄道に乗って彦根を旅していた。
 彦根は、ぼくの父方の祖母の出身地であるが、一度も行ったことはない。
 途中どこかの駅で下車して造り酒屋を訪ねていたが、そこの街並みが古き良き日本が残っていて印象的だった。父方祖父の出身地佐賀の嬉野とともに、生きているうちに一度行ってみたいと思った。

 滋賀県は堤一族の出身地で(近江商人)、近江鉄道の車両も懐かしい西武鉄道の旧車両を改装したものだった。
 西武は、軽井沢ではプリンス・ショッピングモールやプリンス・ホテルで命脈を保っているが、苗場や万座のスキー場やプリンス・ホテルは売却されると報じられていた。「奢れる者も久しからず」である。
 彦根には、近江鉄道以外にも何か西武の面影は残っているのだろうか。 

 日本のあちこちに、一度も行ったことがなく、しかしぜひ一度は行っておきたい場所がまだまだたくさんある。

 2022年3月7日 記

 --ウクライナがロシアに侵略されているときに、何を呑気なことを言っているのだ、と躊躇があったが、書いてしまったので送信することにした。平和であることが如何に有難いかを痛感させられる。

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新谷のり子「フランシーヌの場合」

2022年03月05日 | テレビ&ポップス
 新谷のり子「フランシーヌの場合」(日本コロンビア発売、DENONレコード、CD-24、1969年6月、400円)は日本発の反戦歌である。

 パリの反戦デモで焼身自殺をした少女がニュースになったのだが、その少女を主人公にした歌だった。
 歌の背後に、彼女の事件を報じるラジオの音声が流れ、一部を古賀力がフランス語で歌うしゃれた曲だった。
 何の戦争に抗議した焼身自殺だったか忘れてしまったが、ジャケットの解説を読むと、ビアフラの独立をめぐるナイジェリアの内戦に抗議しての自殺だったとある。
 時は、1969年(か?)3月30日、場所はパリ、ベトナム戦争の和平会議が開かれていた会場近くの公園だった。
 ベトナム和平が決着したのは1972年だった(はずだ)から、和平までにはずいぶん長い時間がかかったのだ。

 2022年3月5日 記

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キングストン・トリオ「花はどこへ行った」

2022年03月02日 | テレビ&ポップス
 反戦歌を歌ったからと言って、戦争がなくなるわけではなかった。
 それでも、アメリカの仕かけたベトナム戦争に正義はないと思った若かったぼくたちは反戦歌、プロテスト・ソングを歌った。アメリカ人も歌った。

 キングストン・トリオの「花はどこへ行った」“Where have all the flowers gone”(東芝音楽工業、キャピトル・レコード、CR-1051、330円)。ジャケットの高崎一郎さん(なつかしい!)の解説によれば1963年のレコーディングらしい。

 野に咲く花たちは どこへ行った? という問いかけから始まり、
 若い乙女がその花を摘んで、若い男の胸に飾ったが、
 その若者は兵隊に行き、その若者は戦死してしまい、
 野に咲く花は若者の眠る墓地に咲いている、
 いつになったら人々は学ぶのだろうか、という歌詞だった。
 戦場となった草むらに、戦死した兵士のヘルメットが一つ転がっていて、銃弾で打ちぬかれたヘルメットの穴から野花が顔をのぞかせている写真が印象的だった。

   *   *   *
   

 「風に吹かれて」“Blowin' in the wind”は、ボブ・ディランの作詞、作曲だが、ぼくの手元にあったのはピーター、ポール、&マリーの「来日記念盤」と銘うった4曲入りのドーナツ盤(東芝音楽工業、ワーナー・レコード、BP-4701、500円)。「風に吹かれて」のほか、「パフ」などとともに、これにも「花はどこへ行った」が入っている。
 木崎義二さん(これまたなつかしい!)の解説によれば、PP&Mが1963年に歌ってヒットしたもので、来日は1964年らしい。ぼくは中学3年生である。

 人が人と呼ばれるまでに 人はどれだけ歩けばよいのか
 鳩が羽を休めるまでに 鳩はどれだけ飛べばよいのか ・・・
 人々の叫びが届くまでに 人はどれだけの耳をもてばよいのか
 どれだけ多くの人間が死んだら 人はその死を知ることになるのか
 友よ その答えは 風に吹かれて ・・・」
 と歌ってから、60年がたつ。

 ウクライナの悲劇に心が痛む。
 もうすでに多くの若者が亡くなり、多くの乙女や子どもたちが泣いているだろう。 
 ウクライナ人の勇気に感嘆すると同時に、あんな愚かな人間が支配する国が今日の世界にあったことが信じがたい。人間の愚かさ一般の問題ではない、一人の愚かな人間の問題である。
 今こそ、ロシア革命を!

 2022年3月2日 記

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ミーナ「砂に消えた涙」

2022年03月01日 | テレビ&ポップス
 外国の歌手が日本語で歌ったレコードは、前に書いたリトル・ペギー・マーチ「なぜだか判らない」の他にもいくつかある。

 一番先にあげるのはミーナの「砂に消えた涙」(フォンタナ・レコード、日本ビクター発売、FON-1041、発売年月不詳、330円)。
 「ミーナが唄うカンツォーネのニュー・ヒット!」とジャケットに謳ってあるが、あのころはカンツォーネが流行っていた。サンレモ音楽祭で優勝した「夢みる想い」のジリオラ・チンクエッティに熱を上げていた時期もあった。伊東ゆかりが入賞したこともあった。

 なぜかぼくは今でも「砂に消えた涙」をイタリア語(?)で歌うことができる。
 ア ファト ウコネラ サビャ ペナス コンデレ 
 トゥ トケロ ギョネコ レぺルテ 
 チョミソ デントロ トゥッテ クァンテ レメ ラクリメ
 エ レブジェ ケンベン(「検便」と出てきた!) タリ ペルメ 
 エ クァンド スプンタ クァンド スプンテラ ラ ルーナ(これは「月」だろう)
 ファビュロピ センプレ ディメンティ カート
 それの一つ一つのものが偽りのプレゼント ・・・(以下は日本語の歌詞で覚えている)

 何でこんな昔の記憶がいまだに残っているのか不思議だったが、今回このレコードのジャケットの中から、この曲のイタリア語の歌詞を書き写した下に、片仮名で読み方を書いたメモを発見した(上の写真の右側)。
 高校生の頃、ぼくはこんな作業にいそしんでいたのだった。
 2年前まで同僚だった人物の名字さえ思い出せないことがある昨今なのに、人間の海馬というのは不思議なものである。思春期というのが不思議な時期なのかもしれない。

 そういえば、懐かしいロス・マルチェロスの「アンジェリータ」は今回も出てこなかった。どこへ行ってしまったのか? 以前「アンジェリータ」について書き込みをした後でどこかにしまい込んでしまったらしい。

   *   *   *



 おまけに、外国の歌手が日本語で歌った曲をもう一枚。
 ジョニー・ティロットソンの「涙くん、さよなら」(日本グラムフォン、MGMレコード、DM-1042、発売年月不詳、370円)。A面が英語盤、B面が日本語盤である。
 浜口庫之助の作詞作曲の曲をジョニー・ティロットソンが歌っている。買った記憶もないが、「涙くん、さよなら」も、「ミスター・ロンリー」などとともに好きな曲だった。センチだったのだ。
 最近、どこかのCMソングとしてこの曲が流れているのをテレビで聞いた。

 右側のジョニー・シンバル「明日があるさ」(東芝音楽工業、KAPP、KR-1106、330円)は坂本九の歌のカバーだが、日本語ではなく英語バージョン。発売年は不明だが、高崎一郎さんの解説に「ジョニー君は1945年生まれで、ことしまだ19歳」とあるから、1964年発売だろう。
 坂本九では「明日がある 明日がある 明日があるさ」というところが、“You say that you love me, you say that you love me, but your Words are just a pack of lies” となっていた。
 英語の歌は音(音符?)に乗せなければならない言葉が多すぎるけれど、日本語の歌は言葉が少なくて美しいとB・E・キングがテレビで語っていた。例に挙げていたのは由紀さおりの「夜明けのスキャット」だった。あれはまた特殊に言葉が少ない歌だけど。

 2022年 3月 1日 記


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