豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

滋賀の旅・彦根その2(3月21日)

2024年03月28日 | あれこれ
 
 3月21日(木)正午ころ、彦根城を後にして「栄町1丁目」を目ざす。
 滋賀大学経済学部を通り過ぎ、外堀も渡って、琵琶湖岸から彦根市内、京都方面に向かう大通りに出る。交差点の手前に、近辺の町内案内図が立っているのを見つけた。
 これを見ると、道を渡った左側が「栄町1丁目」となっていて、しかも道を渡って左折して2、3軒行ったところに、なんと「xx組」と表示されているではないか! これこそ祖母の本籍地である「xx町」の幕藩時代の地名である。町内案内図に幕藩時代の旧地名まで表示してあったことに感謝。
   

 交差点を渡って、「xx組」と表示されていた辺りを2ブロックほどくまなく歩き回って、わが祖母の旧姓の表札がかかった家がないかを探したが、残念ながら見当たらなかった。佐賀で祖父の旧本籍地を訪ねた時と同じように、ひょっとして子孫の誰かが今でも住んでいるのではないかと期待したのだったが・・・。
 祖母がこの辺りで生まれたのかどうかは分からないが、幕藩時代から明治の初期に曽祖父かそのまた祖先がこの辺りで生活していたことは間違いないだろう。この地の雰囲気を味わうことができたので良しとしよう(下の写真)。
   
   

 「栄町1丁目」を後にして、昼食をとるために、「夢京橋キャッスルロード」という観光街に向かう。
 江戸時代の街道沿いを模した建物と通りになっている。ひとまず端から端まで往復する。道幅も広く街路樹が植えられていて、風情があるのだが、いかんせん車の通行量が少し多すぎる(下の写真1枚目は夢京橋通りに面した近江牛の「千成亭」。昨日近江八幡の「千成亭」で食べたが、彦根のほうが本店らしい)。
 ガイドブックに、琵琶湖周辺は近江牛だけでなく、うなぎも名物と書いてあった。案内書でおすすめの「源内」という鰻屋に入る(冒頭の写真は「源内」の外観)。通されたカウンター席は日本風の内庭に面している。
 東京と違って「うな重」というのはなく、「うな丼」だけである。※というのは間違いで、ちゃんと「うな重」もあったと同行者に指摘された。ぼくがメニューを見落としていたらしい。
 彦根のうなぎの蒲焼きは、外はカリッとしていて、中は柔らかく仕上がっていた。蒸してから焼くので皮までふっくらと柔らかい東京の蒲焼きとは違う食感であった。関西のうなぎは初体験だったが、これも美味しかった。うなぎ自体は三河産とのこと(下の写真2枚目)。
   
   

 ついでに夢京橋の通り沿いで見かけた飛び出し注意の看板「とび太くん」。
 「翔んで埼玉」という映画で有名になったらしいが、滋賀県が発祥だという。大津、近江八幡でもそこかしこで見かけた。東京で見る定番の赤シャツに黄色ズボン姿ではなく、着物姿や学生服姿などの変形バージョンも多かった。
   

 夢京橋から外堀沿いを歩き、「たねや」(この店は近江八幡のほうが本店らしい)を眺め、これもガイドブックで美味しいと褒めていた「どら焼き 虎てつ」で孫たちに「ひこドラ」(ひこにゃんが刻印されたどら焼き)を買って、彦根駅に向かう。
   
 
 彦根駅から琵琶湖線で米原駅に出て、15時56分米原発のひかり号で帰京。
   

 こうしてわれわれの大津、近江八幡、彦根をめぐる旅は終わった。

 桜を見ることができなかったのは残念だったが、なぜか旅行の間は花粉症の症状が治まっていた。琵琶湖周辺にはぼくを悩ます物質が漂っていなかったようだ。
 
 2024年3月27日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滋賀の旅・彦根その1(2024年3月21日)

2024年03月26日 | あれこれ
 
 3月21日(木)、滋賀県の旅も最終日。
 夕べの天気予報では、今日の彦根地方は朝から何と雪! 
 朝5時すぎに目が覚めたので、恐るおそるカーテンを開けてみると、予報は見事に的中して、窓から見える彦根駅(東口)駅前のバスターミナルは雪化粧。ふたたび布団にもぐりこみ、6時にまた窓の外を見ると、今度は駅前の広場が朝日に輝いているではないか。安心して7時に今度こそ起き出して窓を見ると、何と再びの雪景色ではないか(下の写真が1時間ごとの窓の外の景色の変化)。
 激しく天候が変わる一日になりそうな気配だが、天気予報では昼ごろから曇りになるらしい。
   
   
   

 朝食を済ませて、駅前の観光案内所へ(下の写真1枚目)。
 きょうの行き先は決まっているので、祖母の本籍地の旧町名、旧番地を告げて、これが現在ではどのあたりかを聞いてみる。親切な係の女性が、旧町名と現在の町名の対照表をもってきて調べてくれる。
 「滋賀県犬上郡彦根xx町xx番地」は、幕藩時代には「xx組町」といい、現在は「栄町1丁目」の一部になっているとのこと。彦根城の南側、やや琵琶湖に近い地域である。ピンポイントではないが、曽祖父らの先祖が暮らしただいたいの位置が分かった。
 駅前から歩いて、彦根市役所に向かう(下の写真2枚目)。
 昨年の佐賀県嬉野市役所と同様に、マイナカードを提示して亡父の除籍簿以前の戸籍を申請する。しばらく待たされたが、右下に兜をかぶった「ひこにゃん」のイラストが入った薄いさくら色の除籍簿謄本を受領する。
 曽祖父が戸主で、曽曽祖父を前戸主とする除籍簿で、当然ながら(曽祖父の娘である)祖母についても、出生から婚姻までの身分事項が記載されている。まったく聞いたこともなかったが、祖母は17歳で祖父と結婚していた。そんな時代だったのだ。
   
   

 現地へ向かう前に、市役所のすぐ近くにある彦根城を見物する。
 井伊直弼の歌碑を眺め、開国記念館を見物する。幕藩時代の彦根城下のジオラマが展示されている。お城の周囲には家臣たちの住居が100軒ほど並んでいて、それぞれ家臣の氏名が書いてあるが、わが祖先の名はなかった。祖母から先祖は彦根藩士だと聞いていたが、それほどの重臣ではなかったのだろう。
 ここでも彦根城お堀めぐりの屋形船に乗った。この頃には空も晴れて暖かくなっていた。白鳥や鴨(に似た水鳥)が泳ぐ脇をゆったりと進む。途中、彦根城の天守閣が一番良く見えるあたりで、船はエンジンを止め撮影タイムとなる(下の写真)。
   
   
   

 お堀(内堀)の周囲には玄宮園という庭園があるが、復元整備中というので中には入らず。同園近くの広場には二度咲桜という種類の桜が咲いていた(下の写真)。「ひこにゃん、ひこにゃん、ひこにゃん、にゃん、にゃん ♪」という曲がスピーカーから繰り返し流れていた。
 今回の旅行は、桜の開花を期待して日程を設定したのだったが、あいにく今年の桜は開花が遅れていて、どこでも桜には出会うことができなかった。
 

 せっかくなので、彦根城の表門から入って、天守閣まで登ることにする。途中から天気が急変して、雪まで降り出したが、歩きにくい石段を何とか登って天守閣に到達した(下の写真1枚目)。天守閣の中も工事中で、相当急な階段(というより梯子)を何段も登らなければならないのだが、杖をもった老人もいたので、われわれも頑張る。天辺まで登ったが、窓(?)から粉雪が舞い込み、彦根城下の街並みも灰色に煙っていた。
 下りは大手門側に下る。そのほうが次の目的地の「栄町1丁目」に近いので。この頃には雪はやんでいたが、相変わらずの曇り空。大手門を出て内堀を渡って(写真2枚目は大手門跡)、旧武家屋敷沿いを北上する。
 後で地図を確認すると、この辺りの武家屋敷跡には旧大津地方裁判所があったらしい。あの大津事件を裁いた大津地方裁判所が大津ではなく、彦根にあったとは!
 屋形船からヴォ―リスが建てたという洋館を見たが、内堀沿いを徒歩で歩いても見つからなかった。その代わり、内堀をそれて外堀に向かって左折すると(「舟町口」とあった)、白いきれいな二階建ての建物が見えてきた。滋賀大学経済学部の校舎だった(3枚目)。ヴォ―リス風だが、観光パンフに書いてない所を見ると違うのだろう。最近の大学の校舎に比べて、落ち着いた雰囲気がある。
   
   
   

 100メートルほど歩くと広くて交通量の多い通りに出る。この通りを渡ると、いよいよわれらの目ざす「栄町1丁目」である。(彦根その2につづく)

 2024年3月25日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滋賀の旅・近江八幡その2(3月20日)

2024年03月25日 | あれこれ
 
 滋賀の旅、近江八幡の続き。3月20日の午後から。

 午後12時15分に出発する八幡堀めぐりの屋形船に乗る。
 恐れていた通り、犬2匹を連れた家族と同船。この犬2匹が激しく他の乗船客に向かって吠え続けるのである。「鳴く」といったレベルではない。東京では何十年来、こんなに激しく吠え続ける犬を経験したことがないが、この飼い主は黙らせようともしないで、犬が吠えるにまかせて平然としている。関西の犬文化はこんなものなのか、それともこの飼い主の躾けが特別に悪いのか。
 おまけに曇り空からはとうとう雨が落ち始めた。船は商家の土蔵などを眺めながらゆったりと進む。一時は晴れ間も見られたが、再び曇ったり降ったりと変わりやすい天候であった(下の3枚)。
   
   
      

 約30分ほどで元の船着き場に戻って、下船。
 「八幡堀」バス停前に出て、「白雲館」で作戦会議。今度はバス通りを東に進み、鍛冶屋町バス停をを目印に、ヴォ―リス学園を目ざすことにする。
 歩いているうちに、雨と風が強くなり、傘をさすのも困難になる。ようやく「鍛冶屋町」バス停を見つけて、右折。慈恩寺町通りというらしい。ほどなくして、小さな路地の向うにヴォ―リスが創設した「近江兄弟社学園」の瀟洒な二階建て校舎が見えた。前面はきれいに刈り込まれた黄緑の芝生。東京でいえば成城学園や成蹊学園のような学校なのだろうか(冒頭の写真)。
 元は幼稚園だったという「ハイド記念館」の案内表示があったので構内に入ってみる。この建物もヴォ―リスの建築らしく、白を基調としたニュー・イングランド風(?)の小ざっぱりとした建物である(下の写真1枚目)。いかんせん雨が激しく、早々に退出した。
 慈恩寺町通りを少し行った先に「ヴォ―リス記念館」(「一柳邸」ともいうらしい)がある。この建物は、それまでのヴォ―リス建築から一転して、板張りの和風建築である。ヴォ―リスの晩年の住居で、夫人に配慮して和風にしたというから、奥さんは日本人だったのか(2枚目)。ヴォ―リス記念館の銘板(3枚目)。
   
   
   

 雨の中を八幡堀に戻り、千成亭近江八幡店に入る。ようやく雨から逃れることができ、そして昨日来の念願の(?)近江牛にありつくことができた。
 われわれのテーブルの両隣りは、卒業旅行と思われる大学生たちのグループ。男子ばかりの4人組が2班に分かれて楽しそうに語らっている。ぼくにもあんな時代があったのだろうか。
   

 
 本当はこの後、長浜に行くか、彦根港から竹生島に渡ろうと思っていたのだが(琵琶湖周航の歌!)、あまりに天気が悪いので中止。彦根のホテルは午後3時以降ならチェックインできるので、バスで近江八幡駅に戻って彦根のホテルに向かうことにする。強風のためか、「新町」バス停の看板が横倒しになっていた。
 近江八幡駅に着いてみると、JR湖西線が強風で不通のため、サンダーバード(?)が琵琶湖線廻りになっているとかで、運行が乱れていた(下の写真1枚目は近江八幡駅ホームと列車)。午後4時すぎに彦根駅に到着し、駅前のホテルに投宿(2枚目)。
 昼食を奮発したので、夜は駅前のスーパーで弁当とおつまみとビールを買ってきて、ホテルでメジャー・リーグを見ながら済ませた。これが穏やかにドジャース戦を見ることができる最後の夜になるとは思ってもいなかったが。
  
  

 明日は、いよいよ今回の旅行の目的である祖母と曽祖父の本籍地を訪ねる。見つけ出すことができるだろうか。

 2024年3月24日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滋賀の旅・近江八幡その1(2024年3月20日)

2024年03月24日 | あれこれ
 
 3月20日(水)、朝9時にホテルを出発して、大津駅からJR琵琶湖線で近江八幡駅に向かう。新快速で約25分。今にも雨が降り出しそうな空模様で、しかも寒い(下の写真は大津駅ホーム)。
 近江八幡では、ヴォ―リスの建築物を訪ねるのが主たる目的。ヴォ―リスの事業に協力し、その建築を支援した近江商人の経済力を示す建築物も少なくない。
   

 ここでも、まずは駅前の観光案内所に立ち寄って観光地図をゲットし、おすすめの順路を教えてもらう。
 駅前から路線バスに乗って「八商前」(八幡商業?)で下車し、街を歩きながらヴォ―リスの建築物を眺めてから、八幡堀の屋形船に乗って、その後に「商人(あきんど)通り」を歩くというルートをすすめられたが、気がつかないうちに八商前を通過してしまい(駅前から3つ目のバス停だった)、「八幡堀」(はちまんぼり)というバス停まで来てしまった。観光客らしいグループが下車したので、われわれも下車する。

  

 八幡堀バス停を降りると、バス通りに面して、「白雲館」というレトロな外形の建物があり、1階は観光案内所になっている(上の写真)。
 説明パンフによると、この建物は、もとは明治10年(1877年)に八幡東学校の校舎として近江商人たちの寄付によって建てられたもので、生徒数が増えたために他校に統合された後は町役場や郡役所として使われてきたが、戦後は空き家となって老朽化していたのを、平成6年(1994年)に近江八幡市が開校当初の姿に復元したという。

 どうせ近くまで来てしまったのだから、まず屋形船に乗ろうと船着き場に行ってみると、20人以上の台湾からの観光客と一緒でよいなら間もなく出る船に乗ることができると言われたけれど、騒がしいのは嫌なので、1時間後に出る次の便まで近くを歩いて時間をつぶすことにした(冒頭の写真は堀にかかる橋からの眺めた八幡堀)。

   
   
 近江八幡というくらいだから、まずは「八幡」様に参拝する。「日牟禮(ひむれ)八幡宮」といい、創建は1800年以上前という(上の写真の1枚目)。
 すぐ近くに八幡山ロープウェー乗り場があったが、小雨まじりの曇り空で見晴らしは悪そうだし、頂上付近は風が強いというので、乗るのはやめた(2枚目)。

   
   

 バス通りに戻って、通りを東方向に歩く。
 道端の小さな公園にヴォ―リス像が建っている。ヴォ―リスに向かって少女が花束を捧げている(上の写真)。
 説明板によると、アメリカ生まれのヴォ―リスは1905年(明治38年)にYMCAから派遣されて来日し、ここ近江の地をキリスト教精神に基づいた理想社会とするために、企業家として「メンソレータム」で有名な会社(近江兄弟社)を興したほか(上の写真2枚目。現在は「メンターム」という商品名)、医療や教育事業(近江兄弟社学園)などを展開し、1964年(昭和39年)に83歳でこの地で亡くなったという。この公園はヴォ―リスの最初の住居があったゆかりの場所らしい。 
   
   
      
   

 バス通りを背にして駅側(南方向)に曲がると、近江商人の旧住居が並ぶ通称「商人(あきんど)通り」になる(上の2枚の写真。地図では「新町通り」とある)。一番立派なのは寝具の「西川」の本店(本家)。京都その他の「西川」はここの分家らしい。3枚目の写真は、その西川の旧住居。木造だが暖炉の煙突があり、帚目の通った立派な石庭には松が植えられている。

   
   
   

 町中を歩きまわって見かけた雰囲気のある建物を何軒か。
 一つはかつて尋常小学校として建てられた和風の建築物(1枚目)。先客が結構いたので中には入らず通り過ぎる。
 次は、「るるぶ滋賀びわ湖」にも紹介があった旧郵便局の建物(2、3枚目)。大正10年(1921年)、ヴォ―リス初期の建築だそうだ。

 1時間経過したので、12時近くに船着き場に戻る。予約名簿に「大人2名、子ども1名、犬2匹」という書き込みがあり、近くでわれわれに向かって吠えまくる犬を連れた家族連れがいて不吉な予感がしたが、船の到着を待つ。 (午後の近江八幡は次回に。)

 2024年3月23日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滋賀の旅・大津その2(3月19日)

2024年03月23日 | あれこれ
 
 びわ湖浜大津駅を出発して、京阪電車で石山寺に向かう。
 浜大津駅から先は路面でなく、専用軌道を走る。約20分ほどで終点の石山寺駅に到着(上の写真)。石山寺(いしやまでら)は、琵琶湖に沿って駅から約1キロメートル、10分ほどで山門に至る(下の写真)。
 駅や、道沿いや、土産物店は何処もかしこもNHKテレビ「光る君へ」に便乗したポスターやのぼりばかりで、食傷ぎみ。開祖よりも、一時期寺に滞在しただけの紫式部のほうが目立つくらいである。開祖は誰だか知らないが、「弘法大師」という提灯がかかっているのを見かけたから、弘法大師なのか・・・。

   
   

 このお寺も石段が多くて急なために疲れる。「石山寺」と名のるだけあって、立派な岩がそびえていた。紫式部が滞在したといわれる部屋には紫式部像が鎮座していた。この日から陳列されたとのこと(下の写真)。
      
    
   
 
 石山寺でも桜の開花はまだだったが、琵琶湖の湖畔には桜らしき花が咲いていた(名前を忘れてしまった)。
   

 石山寺駅から再び京阪電車に乗って浜大津駅に戻る。

 「ふれあい街歩き」(BS-NHKテレビ)ふうに、浜大津駅から大津市内をブラブラとJR大津駅を目ざして歩く。
 けっこう長く延びるアーケード商店街は半分以上が閉まっている感じの、典型的なシャッター商店街である。県庁所在地にもかかわらず、寂しいかぎりである。
   

 途中で、明るく輝いているガラス張りの建物があったので覗いてみると、「大津曳山会館」で、二階建ての高さの大津曳山祭りの曳山が飾ってあった。案内の方がいて、からくり人形を動かして見せてくれた。中国説話らしく桃から生まれてくる「桃太郎」(?)や従者がチャイナ服を着ていた(下の写真)。
 駅前の観光案内所で教えてもらった近江牛のステーキ屋も道沿いに見つけたが、残念ながら定休日だった。近江牛は明日に持ち越すことにする。
      
  
 ロシアのロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世(事件当時は皇太子)が警備の警官に襲われた所謂大津事件の現場は、商店街の一角の本当に目立たない所に、小さな石碑がポツンと建っているだけだった。襲撃事件それ自体よりは、その後の犯人の裁判が重要なのだから仕方ないことか。高知に行った折に中江兆民の生誕の地を訪ねたが、その石碑も街角の民家の軒先にひっそりと建っていた。 
     
 
 JR大津駅前の広場では「平和憲法を守ろう」というビラを配っていて、演説の合い間にオカリナで「アヴェ・マリア」などを演奏していた。なかなか上手だった。

   
 
 大津駅からホテルのシャトル・バスに乗って、今日の宿泊先の大津プリンス・ホテルに到着。
 こうして、彦根への旅、第1日は終了。 

     
 
 2024年3月22日 記 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滋賀の旅・大津その1(2024年3月19日)

2024年03月22日 | あれこれ
 
 3月19日(火)から21日(木)の2泊3日で滋賀県の彦根、ついでに大津、近江八幡を訪ねて来た。

 昨年の4月には、父方の祖父の旧本籍地である佐賀県の嬉野、ついでに唐津、有田、伊万里、武雄、佐賀市を旅行した。佐賀では、幸いにも、町名変更にもかかわらず、旧町名、旧地番が残っていたので、現地まで到達することがでた。その後、同地に現在も居住しておられる遠縁の方と手紙を交換できるようになり、その方が先祖の菩提寺を訪ねて墓碑銘や過去帳を筆写して下さったので、1750年ころまでの先祖の名前と没年を知ることができた。

 今回は父方の祖母の故郷を訪ねた。祖母の旧本籍は滋賀県の彦根。
 亡父の相続時に取り寄せた除籍簿では、旧本籍地は「滋賀県犬上郡彦根東栄町xx番地」となっていたが、町名の変更だけでなく、行政区画の変更もあったようなので、今回は難航が予想された。とにかく祖母や、(ぼくが生まれる前に亡くなった曽祖父)の育った地域を歩いてその雰囲気を味わい、その場所の空気を吸うことができればよし、くらいの気持ちで出発した。

   

 3月19日(火曜)、午前9時03分、東京駅発のひかり505号で、12時01分に京都駅着、在来線に乗り換えて10分ほどで大津駅に到着。
 大津での予定は、今年はやりの紫式部ゆかりの三井寺と石山寺を訪ねること、大津事件の現場を訪ねること、そして近江牛を食べること。

   

 駅前の観光案内所に立ち寄って情報をもらってから、まず路線バスで三井寺(みいでら)に向かう。
 ぼくはNHKの大河ドラマは一度も見たことがないし、現在放映中の紫式部も見ていない。高校時代の古文・漢文は嫌いではなかったが、「源氏物語」は苦手だった。三井寺は、紫式部の父・為時(苗字は知らない)が出家した寺だという。
 石段が多くて、けっこう急だったのは、右ひざ膝蓋骨骨折や椎間板ヘルニアの既往歴をもつ身にはキツかった。
   

 あいにくの曇り空で、梅も桜もなかりけり、寂しい境内風景である。桜の季節になれば綺麗だろうし賑わうのだろうが、人混みがないのは救いである。桜が満開の時期の千鳥ヶ淵近辺の雑踏を思うと、のんびり歩くことができるのは助かる。

    
   

 三井寺を後にして、琵琶湖疏水沿いの通りを歩く。京都の水源である琵琶湖の水を京都に流す疏水の道沿いも道沿いは桜並木だが、桜の開花はまだ少し先の様子。中学校の地理で「インクライン」という言葉を聞いたが、この疏水のことだったか?
 疏水を背にして、大通りを琵琶湖方面に歩き、京阪電車びわ湖浜大津駅に向かう。
 浜大津駅前の十字路をゆったりと曲がって行く4両編成、緑とクリーム色のツートンカラーの路面電車がきれいだった(冒頭の写真。下の写真は、その線路だけ)。

   

 石山寺は改めて。

 2024年3月22日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥山明「ドラゴンボール」

2024年03月10日 | 本と雑誌
 
 「ドラゴンボール」の漫画家鳥山明が3月1日に亡くなったと、8日のニュースが報じた。
 漫画やアニメには疎いので、「ドラゴンボール」や「Dr.スランプ」「アラレちゃん」やその作者の鳥山明という名前には聞き覚えがあったが、作者のことや作品の中身はほとんど知らなかった。
 3月8日のテレビ・ニュースでは、中国外交部の報道官までもが追悼の言葉を述べているのを見てびっくりした。いつもは厳しい顔をして日本政府の言動を批判しているあの女性が、である。

 「ドラゴンボール」も「アラレちゃん」も、息子たちがテレビで見ていたので、一緒に見たことがあった。
 ぼくの記憶に残っているのは、「ドラゴンボール」の第1回だったかで、悟空がカメ仙人に弟子入りするために貢ぎ物としてエロ本を持参したところ、カメ仙人が鼻血を出して喜んで即入門が認められたシーンと(笑)、アラレちゃんが三輪車に乗った刈上げの女の子のうなじに犬の糞に突き刺した割り箸をなすりつけるシーンだけである。
 中国外交部がコメントを出すほどの、そんな世界中に影響を与えた大漫画家だとは、(申し訳ないことに)つゆ知らなかった。

 わが家には「ドラゴンボール」や「アラレちゃん」の漫画本は1冊もない。ぼくが買ってやらなかったからだろう。
 漫画本はないが、わが家には「ドラゴンボール」にまつわる物品が一つだけある。それは「ドラゴンボール」に出てくる人物のフィギュアである。「BULMA」というネーム・プレートを胸につけているから「ブルマ」という名前なのだろう。息子が、近所の西友OZ大泉店前の広場で開かれた催し物のUFOキャッチャー風のゲームで釣り上げたものである。
 西友OZの隣りは「ドラゴンボール」のアニメを制作した東映動画だったし、こんな景品が当たったことからすると、東映動画主催の催し物だったかもしれない。ほかのフィギュアに比べてかなり大きかったので、周りで見ていた子どもたちが羨ましそうな顔をしていた。
 それから30年以上、息子たちの使っていた洋服ダンスの奥にしまい込んだままだったが、今回の訃報に接してひっぱり出してきて、ぼくの本棚に飾ってやった(上の写真)。
 
 実はもう1つ、息子が中国留学中に買って持ち帰った「ドラゴンボール」の中国語版が1冊あったのだが、見つからない。そんな大漫画家だとは思っていなかったので、放ったらかしているうちに見つからなくなってしまった。 
 「クリリン」という登場人物がいたが、悟空が彼のことを呼ぶシーンの吹き出しが「小林!」だったのが印象にある。「小林」は中国語読みでは「クリリン」に近い発音なのだろう。

 今回、訃報を知らせるニュースで彼の作品を見ていて、彼の描くクルマがきれいな曲線と鮮やかな色づかいで、独特の雰囲気をもっていることを知った。
 濃密な人生を歩んだのだろうが、それにしても68歳は若すぎる。 

 2024年3月10日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古今亭志ん朝の「サンデー志ん朝」

2024年03月08日 | テレビ&ポップス
 
 「昭和落語名演CDコレクション vol.1 古今亭志ん朝」(アシェット、2024年)を買った。

 古今亭志ん朝は一時期ぼくの憧れだった。
 中学生の頃だろうか、日曜日の昼下がりのテレビ番組に「サンデー志ん朝」というのがあった。「サンデー毎日」と「週刊新潮」をもじったタイトル名だったのだろう。
 15分くらいの短い番組だったが、当時若手落語家だった志ん朝のトーク番組だった。具体的な話の内容はまったく覚えていないのだが、話題がお洒落でユーモアがあって、話し方のリズムもよいので、毎週欠かさず聞いていた。志ん朝には「落語家」につきまとう古くささがなく、現代的な印象だった。
 
 中学生の頃から聞きはじめたラジオのリクエスト番組の土井まさる、野沢那智、今仁哲夫その他のDJからも知らずに学んでいたのだとは思うが、ぼくの認識では、出発点はやはり「サンデー志ん朝」なのである。その古今亭志ん朝の音源を集めたシリーズが発売されたという広告を目にしたので、さっそく買ってきた。
 画像もついたDVDだと思っていたのだが、残念ながら収録されているのはすべて彼の落語の、しかも音声だけのCDだった。がっかりした。ぼくが聞いていた「サンデー志ん朝」の音声も、もちろん入っていない。
 彼の落語はまったく聞いたことがないので、ずっと抱き続けてきた志ん朝のイメージが崩れはしないかと心配で、実は買って来たまま未だに聞いていない。

 何度か書いたことだが、ぼくは「研究者は物書き、教師は咄し家」という信念(?)をもっている。研究者としては一流らしく立派なものを書いているらしいけれど、講義はまったく面白くないと学生たちの悪評紛々の教師というのは少なからず存在する。ぼくは研究者としては二流三流だったけれど、教師としては及第点だったと自負している。授業評価で学部教員70数人(非常勤講師も含めれば200人以上)の中で最高評価だった年度もあった。 
 ぼくは、意図して「話し方」を学んだ経験はないのだが、後に教師になって1回90分の授業を週に5~7コマ担当するようになってから、自分はどこで「話し方」を学んだのだろうとふり返ったとき、最初に思い当たったのが、この「サンデー志ん朝」である。

 実は初めて教師に採用してくれた大学の新任研修で、元NHKアナウンス室長だった大沢さんという講師から「話し言葉のコミュニケーション」という講義を聞いた。
 この講義も大にい役に立った。口語によるコミュニケーションは基本的に困難なものだと心得よ、そして学生の答案の出来が悪かったときには、学生がばかだと思う前にあなたの話し方、伝え方に問題がなかったかを反省しなさいと言われた。
 細かい点で一番役に立ったのは、話の合い間に「あー」とか「うー」とか「あの~」とか「この~」とか「やっぱり」とか言ってはいけない、言いそうになったらむしろ沈黙しなさいということだった。この手の口癖は聞いている者にとってきわめて耳障りなのだ。だから授業中、話に詰まった時にぼくは沈黙した。話の間合いとしても沈黙は有用だった。授業中90分間話し続けるぼくが沈黙すると、受講生たちは何があったのかと顔をあげた。

 受講生全員に向かって話しかけるのではなく、特定の受講生を想定して話しなさいというアドバイスもよかった。いつもぼくは、教壇の前から3、4列目で、正面からやや右か左寄りの席に必ず座るような程よく奥ゆかしい学生で、話の途中でうなずいてくれたり、納得できない様子でしかめ面をするような反応の良い学生を見定めて、彼(多くの場合は彼女)に語りかけるつもりで話をした。
 授業では、「話をする」というよりは、「語りかける」ように心がけた。ぼく自身が学生だったときに、語りかけるように話をする先生の話し方が心地よかったからである。先生の主張に共感して黙ってうなずくと、関西出身のその先生は「そやろ!」といって嬉しそうな顔をされた。

 ただし、教員生活の終わりころにはハラスメント関係の注意事項がやたらに増えて、その中に「授業中に特定の学生に一定時間以上視線をとどめることは視線によるハラスメントです」というのがあった。「一定時間」とは何秒くらいですかと質問したかったが、やめておいた。
 授業評価で「目を見て話せ!」と書かれたことがあったので、「視線によるセクハラ」といわれる恐れがあるので、君たちの目を見つめて話すわけにはいかないんだ、と答えておいた。そんなわけで、晩年の授業では、ぼくの視線はいつも宙を泳いでいたと思う。

 2024年3月8日 記

 でも「話し方」よりも大事なことは、学生に対する愛である。
 ぼくの大学では、毎年夏休みに教員が手分けして全国47都道府県を回って保護者会を開催してきた。地方から子どもを本学に通わせる親御さんと面談をして、相談やご意見を伺う機会をもつのである。穏やかで純朴なご父兄が多かった。彼らのお子さんをお預かりしているのだ、という気持ちをいつも思い起こさせてくれる行事だった。
 現役時代のぼくの生活は、彼らが支払う学納金によって成り立っていた。彼らの期待に応える授業をすることは、ぼくの法的というより道義的な義務である。ぼくは脱サラして無収入の期間も長かったから、有難みは骨身に沁みる。本心から彼らに対する感謝の念を抱くことができた。(2024年3月11日 追記)

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芥川龍之介「魔術」、太宰治「新樹の言葉」ほか

2024年03月07日 | 本と雑誌
 
 2月末、小学校4年の孫がインフルエンザに罹患し、40℃近い熱が出た。ほどなく37℃台に下がって本を読んでいるというので、寝ながらでも聞くことができるように、短編小説を音読してボイスレコーダーに吹き込んで持って行ってやった。
 定年から4年が経ち、授業で鍛えてきたはずの声にも衰えが目立ってきた自覚があるので、ぼく自身の喉、声のリハビリも兼ねた作業のつもりである。
 息子たちが小学生だった30年近く前に買い与えた本の中から適当なものを探した。

 芥川龍之介「杜子春・トロッコ・魔術」(講談社青い鳥文庫、1992年)は発行年からして、上の息子が中学受験の頃に読ませたものだろう。
 この本から、まず「魔術」を選んだ。ぼく自身が中学校1年の時に教科書で読んで、今でも記憶に残っている短編である。
 本文を(何の注釈も加えないで)そのまま読んでしまったが、分かりにくい言葉や人物などには注釈をつけてやればよかったと反省。森繁久弥やNHKアナウンサーによる「耳で聞く短編小説」風を気取りすぎてしまった。本文約20頁、音読で10分29秒だった。
 
 次は何にしようか。
 芥川なら「杜子春」や「鼻」がいいのだが、登場人物の中国人の名前は音読では分かりにくいのと、インフルで40℃の熱を出した子どもが聞くのには「鼻」は話の内容がつらいかもしれない。「トロッコ」も好きな作品だが、インフルの病床で夕暮れ時に聞いたのでは不安な気持ちがいや増すかもしれないからやめた。この本に収められた12作品をぱらぱらと眺めて、「たばこと悪魔」を選んだ。
 「たばこと悪魔」という小説をぼくは初めて読んだが、なかなか面白い。宣教師に成りすましてザビエルと一緒に日本に上陸した悪魔が日本の牛商人と賭けをした。牛商人が賭けに勝って、悪魔が所有するたばこ畑を手に入れるのだが、その結果、それまでは勤勉だった日本中の農民に煙草の習慣(悪習)が広まってしまうという内容である。
 芥川はヘビー・スモーカーだったようだが、そんな「煙草」観をもっていたとは知らなかった。「たばこ=悪」という図式を今の小学生が理解できたかどうか。本文21頁、音読で12分29秒かかった。

 毎日午前中に1話を音読して孫に届け、2日目のここまでで孫の熱は下がったのだが、ぼく自身の喉のリハビリのためにさらに続けることにした。
 今度は太宰治「走れメロス」(ポプラ社文庫、1992年)。これも発行年からして、上の息子の中学受験の時に買った本だろう。
 「走れメロス」は登場人物のギリシャ人の名前が読みにくかったのでスルー。「思い出」は悪くないが、音読するには長すぎる。「富嶽百景」もいい、ぼく自身が忘れられない井伏鱒二先生が放屁する場面などはとくに小学生に喜ばれそうだが、心象風景が中心で出来事が起伏にかける憾みがある。

 この本の最終ページに、上の息子の「1994年2月18日(金)小6」という書込みと、下の息子の「2001年7月27日(金)小5.「新樹の言葉」が印象に残った」という書き込みがあった。下の息子は兄貴の「お下がり」を読んだのだった。下の息子の言葉を信じて、「新樹の言葉」を読むことにした。
 作家として行き詰っていた太宰が、井伏鱒二の助言を受けて山梨県の甲府に居を移し、下宿を借りて作家修行をしていた時期(昭和14年)の作品である。
 ある時、郵便配達が太宰に話しかけてきて、下宿の近所に太宰の兄弟だという男がいると言う。不審に思いながら会ってみると、津軽で乳幼児期の太宰を育てた乳母つるの息子だと判明する。
 大丸デパートの店員をしているというこの男に誘われて、甲府の高級料亭で酒を飲むことになる。後から男の妹もやって来て同席する。実はこの立派な料亭の建物は、かつては乳兄妹である彼らの実家の呉服屋だったという。乳母が嫁いだ夫は丁稚奉公を経て、甲府で呉服屋を開業して羽振りがよかった時期もあったが、後に没落して家は人手に渡ってしまったのだった。
 その2日後の午前2時ころ、太宰が徹夜で小説を書いていると、町の方から火事を知らせる激しい半鐘の音が聞こえてくる。下宿を飛び出し城跡に登って見物していると、乳兄妹に出会う。燃えているのはあの料亭だった。「全焼ですね。知らずに死んだ父母も幸せでした」と彼がいう。
 家の一軒、二軒などどうにでもなる、自分の小説を期待して待っていると言ってくれたこの乳兄妹のためにも、ぼくはよい小説を書かねばならない、と太宰は心を新たにする。「新樹の言葉」とはこの乳兄妹の言葉のことか、この話の全体が、太宰の心に芽生えた「新樹」の「言葉」ということか。

 下の息子のコメント通り、いい話だった。
 音読も3作目になって少し慣れてきたので、会話の場面は笠智衆と佐田啓二の会話をまねて小津調でやってみたりした(つもりである)。
 「新樹の言葉」は、本文32頁、音読は21分05秒かかった。最後のほうは喉が嗄れて、ややしわがれ声になってしまった。現役時代には90分の授業の間じゅう、一人で喋りつづけて少しも疲れなかったのに情けない。
 しかも、レコーダーを再生してみると、「さ」行の発音が空気が抜けるようで聞き苦しいところがある。さ行が聞き取りにくいなどとは全く自覚していなかった。現役時代から「ふ」の発音が口笛を吹いているように聞こえることがあるのは自覚しており、授業評価で学生に指摘されたこともあった。しかし「さしすせそ」が不明瞭になるとは・・・。
 ぼくの祖父は佐賀出身で、最後まで九州弁が抜けなかったと亡母が言っていたが、ぼくが生まれる前に亡くなった祖父方の先祖の九州弁 DNA が今ごろになってぼくに発現するはずもない。やっぱり、喉と声帯と口元の筋肉と歯の衰えなのだろう。
 ぼくにとって、70歳の定年はいい潮時だったと思う。

 2024年3月7日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今朝の軽井沢(2024年3月6日)

2024年03月06日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 今朝の天気予報では、軽井沢の積雪は18センチとか言っていた。思ったほどの「大雪」ではなかったようだ。何年か前の南軽井沢交差点付近で、トラックを先頭に数十台が立ち往生した時のようなことはなかったようだ。
 冒頭の写真は、3月6日の気象庁監視カメラの「浅間山(鬼押)」の画像だったが、煙っていて何も見えないので、3月7日午前の画像に差しかえた。古い写真は下に移しておいた。霧の向うに浅間山があるのだ。
      

 例によって、長野国道事務所のライブカメラから、長倉、鳥井原、追分の写真を。
 なお、軽井沢町役場のライブカメラはメンテナンス中とのことだった。

      

      

      

 2024年3月6日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今の軽井沢(2024年3月5日午後10時05分頃)

2024年03月05日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 テレビニュースの天気予報で、長野県に大雪警報と言っていたので、今ごろ軽井沢の雪景色はどんなになっているのだろうと思って、例の如く、長野国道事務所と軽井沢町役場と気象庁監視カメラの画像を検索してみた。

 軽井沢町役場は開くことができなかったが、長野国道事務所の定点カメラはしっかりと今の軽井沢を見せてくれた。
 下の写真は、軽井沢バイパスの鳥井原と追分の現在。長倉(南軽井沢交差点)は画像が悪かったのでスルーしたが、気温-2・9℃、路面温度-1・9℃と表示してあった。

     

     

 冒頭は気象庁監視カメラの浅間山(追分)の画像。雪の向うに浅間山があるのだろう。

 2024年3月5日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぼくの探偵小説遍歴・その6

2024年03月03日 | 本と雑誌
 
 ぼくの探偵小説遍歴、第6回は日本の探偵小説。

 日本の探偵小説作家というと、松本清張が真っ先に思い浮かぶ。
 松本清張の中では「黒い福音」(手元にあるのは文春版全集)と「小説帝銀事件」(同じく角川文庫)が、ぼくとしてはベスト2か。短編ではわが先祖の出身地佐賀が舞台の「張込み」(新潮文庫)がいい。謎解きには興味がないので、「点と線」(新潮文庫)の他は、彼の代表作と言われている小説は読んだことがない。
 「日本の黒い霧」(文春文庫)は探偵小説とはいえないが、著者の推理作家としての才能が戦後日本の歴史に向けられた作品といえよう。昭和25年生まれのぼくは、同時代を生きた者の1人として、戦後日本に垂れ込めていた「黒い霧」をリアルに実感することができる最後の世代かもしれない。「昭和史発掘」(文芸春秋)も同様で、興味のある事件を何冊か読んだ。「日光中宮祠事件」(角川文庫)もノンフィクションだったか・・・。
   

 佐木隆三「復讐するは我にあり」(講談社文庫)は彼の直木賞受賞作で、九州で実際に起きた連続殺人犯をモデルにしたノンフィクション・ノベルズ。その後のこの手のドキュメント小説流行の先駆けとなった。    
 森村誠一も、推理小説で読んだのは「人間の証明」(角川文庫)くらいで、むしろ「悪魔の飽食」などのノンフィクションのほうが記憶に残る。「人間の証明」は舞台が東京の四ツ谷(ニューオータニ)と碓氷峠の見晴台(から霧積温泉)だったので、記憶に残っている。映画化された時のジョー山中の主題歌もよかった。
 最近、というよりぼくが最後に読んだ中で一番のおすすめは、森下香枝「真犯人--グリコ・森永事件「最終報告」」(朝日文庫、2010年)。あの事件の捜査をめぐる大阪府警、京都府警、滋賀県警の確執が印象的だった。リークもあったのだろうが、取材力に感嘆した。著者は日刊ゲンダイ、週刊文春の記者を経て朝日新聞記者になったと紹介がある。

 
 松本清張「黒い手帖」(中公文庫)、江戸川乱歩・松本清張編「推理小説作法」と木々高太郎・有馬頼義編「推理小説入門」(光文社文庫)、佐野洋「推理小説実習」(新潮文庫)などは、いずれも推理小説の創作技法を伝授するような形式をとりながら、内容の多くは各推理作家の推理小説観ないし社会観を伝えている。
 佐野洋「検察審査会の午後」(光文社文庫)は、雑誌連載時に毎回検察審査会事務局の助言を受けて執筆したとある。最近(といっても10年以上前になる)では高村薫「マークスの山」(講談社文庫)が圧巻。これも助言を受けた元刑事への謝辞がある。

   
 まったく傾向は違うが、一時期、小峰元や辻真先の「学園探偵」ものを読んだ。
 小峰は「アルキメデスは手を汚さない」、「ソクラテス最後の弁明」(講談社文庫)など、題名と和田誠が描いた表紙だけは印象に残っているが、話の中味は忘れてしまった。忘れてしまったけれど、3作目くらいまで読んだ記憶がある。小峰は江戸川乱歩賞を受賞したのだったか。
 
 辻真先「仮題・中学殺人事件」(朝日ソノラマ文庫)も小峰と同じく「学園推理もの」とでもいうべき推理小説。最終ページに「1976・10・31(日)、Good! 93点」と書き込みがある。よかったのだろう。朝日ソノラマ文庫のラインアップを見ると、第1作が「宇宙戦艦ヤマト」で、辻のほかにも、光瀬龍、加納一朗、福島正実らの作品が並んでいる。どれも面白そうな感じがする。なお、辻の本職は放送作家だったようで、テレビ番組のタイトルに彼の名前を見つけることが何度かあった。
 辻には「たかが殺人じゃないか--昭和24年の推理小説」(創元推理文庫、2023年)という新作があることを知った。内容紹介を読むと、昭和25年生まれのぼくには面白そうである。 旧制中学が新制高校に移行する時期を舞台にした「学園もの」のようだ。

 ※東京新聞3月7日夕刊に辻真先へのインタビュー記事が載っていた。現在91歳だそうだ! 先日の漫画家の死亡をきっかけに話題になった原作者と脚本家との関係について語っている。
 辻は、子どもの頃にぼくも見ていたテレビアニメ番組「鉄腕アトム」の脚本を書いていたという! その経歴の長さにまず驚いた。時には手塚治虫の原作が間に合わないので、辻が(手塚と協議しながら)オリジナルの脚本を書いたこともあったという。脚本、脚色は原作者と脚本家とのクリエーター同士の信頼関係があって成り立つものであり、その間にサラリーマンにすぎないテレビ局のプロデューサーが介在するようになったことに問題の根がある旨を語っている。
 草創期から長い間テレビの現場にいて経験を積んできた人の発言だけに説得的である。しかしサラリーマンであるテレビ局プロデューサーが、原作者や脚本家よりもスポンサーの意向を忖度し優先する現状が改まることはないように思う。 (2024年3月8日 追記)

 海外では、ジェームズ・ヒルトン「学校の殺人」(創元推理文庫)、ライア・マテラ「殺人はロー・スクールで」(同、読み始めたものの面白くなかったので読んでいない)など。コリン・デクスター「森を抜ける道」(ハヤカワ・ポケットミステリ文庫)などのオックスフォード大学が舞台になった「モース警部」シリーズも、学寮長やチャプレン人事をめぐる殺人事件などの話題が多いから「学園もの」といえるか・・・。
 テレビドラマでは、モースの死後、部下だったルイスが警部になってからの「ルイス警部」や、モースの若かりし日々を描いた「刑事モース」のほうが、ぼくには面白く感じられた。

 2024年3月3日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きょうの軽井沢(2024年3月1日)

2024年03月01日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 きょうから3月。

 夕方のテレビのニュースを見たら、軽井沢では29センチの積雪があったと言っていたので、びっくりして長野国道事務所のライブカメラと、気象庁監視カメラの浅間山(鬼押)を開いてみた。それほどの積雪の感じはしなかった。昼間が暖かったので融けたのだろうか。
 冒頭は気象庁の浅間山(鬼押)の画像。山肌が雪に覆われてはいるが、それほどの積雪には見えないけれど。

 ついで、国道事務所の、順番に、長倉、鳥井原、追分の画像である。長倉は気温4・9℃、道路温度2・9℃となっている。

     
    
     

     

 せっかく雪景色を見たかったので、少し山深い信濃町(長野県)の画像をアップしておく(下の写真)。
     

 2024年3月1日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラジオ深夜便 カーペンターズ

2024年03月01日 | テレビ&ポップス
 
 2月28日のラジオ深夜便、午前2時からは「カーペンターズ」特集だった。
 カーペンターズも、サイモン&ガーファンクルンドなどとともに一時期好きなグループだった。

 きっと最後にかかるのは「イエスタデ―・ワンスモア」だろうと思って、午前3時前にコーナーが終わるまで聞いたが、予想通り最後にこの曲がかかった。
 ※上の写真は、 “Carpenters” (盤面には “Gem of Carpenters” と表記。 A&M Records,キングレコード、1973年)。このレコードでは、「イエスタデ―・ワンスモア」はディスク1のA面の最初の1曲目に入っている。この順番が妥当だろう。

 「イエスタデ―・ワンスモア」は、深夜便のナレーションでは1973年のリリースということだった。ぼくはもっと後だと思っていたので、意外だった。
 あの曲の歌詞の通り、過ぎ去った1960~70年代の青春を10年くらい経って回想しながら懐かしく聞いたつもりでいたのだが、まだ大学3、4年生の頃だったとは・・・。
 でも思い起こすと、たしかに大学生の頃に実家の畳に寝そべって聞いていたような気もする。

       

 ぼくたち団塊の世代は、購買層のボリューム・ゾーンだったので、常に商魂たくましい連中の餌食にされ続けてきた。
 手元にある「週刊読売」1975年10月10日号は、「20代の諸君! オレたちにも すでにして回想があるのだ!」と銘うった特集を組んでいる(上の写真)。当時25歳だったぼくは、こんな企画によって、わずか数年前の日々を回想させられていたのだろう。
 そして、「イエスタデ―・ワンスモア」が1973年のリリースだったというのだから、この「週刊読売」より2年も前に、すでにぼくはこの曲を聞きながら、わずか1、2年前のことをノスタルジックな感傷に浸って回想していたのかもしれない。

 2024年2月29日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする