豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

千ヶ滝通信(2019年夏号)+ 「信濃追分の今昔をきく」

2019年07月29日 | 軽井沢・千ヶ滝

 梅雨が明けて、軽井沢が恋しいが、まだ前期の授業そして試験が残っていいる。

 7月29日で授業は終わるが、7月31日、8月5日、8月7日と前期末試験が続く。8月7日に最後の試験が終わると、その後に、採点が待っている。実質的には答案の返却期限であるお盆明けまで、ぼくの夏休みは始まらない。
 今年は定年前の最後の年のせいか、受講者登録が600名を超えた科目がある。他の科目も合わせると、700通近い答案を読まなければならない。

 できの悪い答案を読むと、ぼくの教え方が悪かったのではないかと気が重くなる。
 前任校に就職したときに、新任教員研修があって、元NHKアナウンサーの講師による、「口語コミュニケーションの難しさ」といった話があった。

 話し言葉によるコミュニケーションがいかに難しいかということを、具体例を挙げて教えられた。
 その講師から、「学生の答案の出来が悪かったときには、学生の頭が悪いと思う前に、あなたの教え方に問題はなかったかを反省して下さい」と言われた。
 その通りだと思う。自戒しているのだが、出題者の意図に的確に答えるパーフェクトの答案もあるので、ついつい「ぼくの話したことは、わかる学生には伝わっているはずだ」と思いたくなる。
 ひょっとすると、そのパーフェクト答案は、ぼくの授業がよかったからではなく、その学生がしっかり復習した成果かもしれないのに。

 さて、西武プロパティーズからは「千ヶ滝通信」2019年夏号も届いた。
 表紙は大正10年開業の「観翠楼」の写真である。1960年代に、冬の軽井沢スケートセンターへのバスツアーで一回だけ泊まったことがある日本旅館である。
 ぼくが泊まったころは、この写真ほど和風ではなかったように思うが、基本的なイメージは変わっていない。ただし、ぼくたちが泊まったのは、当時のチラシを見ると「ホテル観翠」となっていた。


 次は、大橋健三郎編「信濃追分の今昔をきく」(追分会刊、1969年、5000円)である。

         

 追分に別荘を構えた文化人と地元の人たちの談話会があったらしく、その記録である。
 聞き手側には、編者の大橋健三郎や、巻頭言を書いている後藤明生、新庄嘉章、別枝達夫、平岡篤頼、橋本福夫らの名前が載っている。
 地元側の出席者の中に、亡父と多少のご縁があったK氏の名前があるので、同氏から亡父に送られた本だと思う。

 この本は、幕末の追分に始まって、追分本陣や油屋の末裔たちの回顧譚、早稲田、青学、東京女子大の夏季寮の追分誘致譚、定番の堀辰雄の思い出など、徹頭徹尾「追分」について語っている。
 早稲田のセミナーハウスは練馬区の施設となったが、青学、東女の寮は今でもあるのだろうか。

 この本の中で「軽井沢」はわずかに、途中に挿入された「軽井沢の蝶」というエッセイの題名に登場するだけである。後藤の巻頭言にも、「軽井沢」の語源についての柳田國男の説の紹介があるが、いずれも「ついでに」の話であって、メインテーマはあくまで「追分」である。

 これほどに、追分は軽井沢に対して独自の文化をもっているのに、どうして沓掛はそのようになれなかったのだろうか。
 この本を読んで思ったのは、千ヶ滝方面(長倉)はもともとが山林原野を堤康次郎が開発してできた人工的な町であって、「地元」の人がいなかったことが影響したかもしれない。
 それにしても、沓掛駅近辺はともかく、千ヶ滝にはそれなりの文化があったと思うのだが・・・。げんに叔父の別荘あたりは昭和30年代初頭には「文化村」で通っていた。
 
 ぼくがはじめて軽井沢を訪れた昭和32年か、その前年に信越線「沓掛」駅は「中軽井沢」駅に改称してしまったらしい。
 したがって、ぼくの思い出も「中軽井沢」駅なのである。
 前にも書いたが、夏休みの月曜、朝8時前後の特急あさまを待つ改札口で、芥川也寸志や遠藤周作や時の日銀総裁の顔を見かけたり、祖父の帰京を見送りに行ったホームで、壺井栄、壺井繁治夫妻を見かけたりしたのは、残念ながら「中軽井沢」駅だった。

 「沓掛」が駄目なら、せめて「千ヶ滝」でもよかったのだが、あそこは「千ヶ滝」ではないのだろう。
 西武から送られてくるパンフレットは「千ヶ滝通信」と銘うたれており、配布される優待カードが「千ヶ滝OWNER'S CARD」と称しているのは好ましい傾向である。

 ・・・などと言いつつ、東京の家のぼくの部屋には数年前の軽井沢町のポスターが貼ってあり(左上に筆記体で大きく)「軽井沢 KARUIZAWA」と書いてあるし、このコラムのカテゴリーも「軽井沢」としてあるのだから、偉そうに「千ヶ滝」宣言はできない。

 ところで、この本「信濃追分の今昔を聞く」には、戦前、戦中の「高文受験村」の話題も出てくる。
 以前にも書いたように、わが家の軽井沢の歴史は、叔父が学生時代に友人と追分に勉強に出かけ、借宿のMさんと知り合ったことに始まる。
 それから10数年を経て、Mさんの紹介で叔父が千ヶ滝の文化村に別荘を購入し、その数年後にわが家でも千ヶ滝西区に土地を購入し、そのまた数年後に家を建てたのであった。

 けっこう面白そうな内容なので、定年後の軽井沢での読書のために取っておくことにした。
 
 2019/7/29 記


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山田風太郎 『警視庁草紙』ほか --断捨離の途上で

2019年07月28日 | 本と雑誌

 山田風太郎も、若いころの一時期せっせと読んだ作家のひとりである。

 「警視庁草紙(上・下)」(文芸春秋、1975年)
 「幻燈辻馬車」(新潮社、1976年)
 「地の果ての獄」(文芸春秋、1977年)
 このほかにも山田の「明治」もの(伝奇もの?)を文庫本で1、2冊読んだような気がする。
 山田の明治ものは何社からも文庫版が出ており、もし読みたくなったら、文庫本で読むことができそうなので、処分することにした。

 その後、まったく読まなくなったが、ある時、山田風太郎「人間臨終図鑑」(徳間書店、1986年?)という本の広告を見つけ、人の臨終の「図鑑」とはなんだろうと思って、買ってみた。
 この本は現在手元で見つからないのだが、歴史上の人物(有名人に限らない)を死亡年齢に従って、0歳から100何十歳まで並べて、死亡した状況と辞世の言葉を並べたものであった。

 誰かが思いつきそうな企画ではあるが、確か0歳で死亡した人間から始まって、意外と若くして亡くなった人物の死亡について書かれていたのが印象に残っている。
 本の装丁も、普通の小説の新刊などとは趣を異にしていた印象がある。黒を基調とした箱入りだったと思う。
 ところで、徳間書店は最近耳にしないが、健在なのだろうか・・・。

                              

 そう言えば、「戦中派不戦日記」も文庫本で読んだ。思い出して本棚から取り出すと、講談社文庫で、昭和48年(1973年)4月15日初版とある。
 ということは、「戦中派不戦日記」から山田の本に興味を持つようになったようだ。

 「戦中派不戦日記」は昭和20年1月1日から同年12月31日までの彼の日記である。石川達三の戦争直後の言説への批判など、随所に傍線が引いてある。
 でも、一番空恐ろしいのは、昭和48年当時の山田が「また30年ほどたったら、いまの日本人を浮薄で滑稽な別の人種のように思うことにはならないか」と反語的に問い、そして「人は変わらない。そして、おそらく人間のひき起すことも。」と結ばれる「あとがき」である。

 幸い戦争は起こっていないが、山田の予言が実現しないことを願う。

 
 2019/7/28 記


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抵抗--レジスタンス

2019年07月27日 | 本と雑誌

 本の断捨離のつづき。

 第2次大戦でナチス・ドイツに占領されたフランスの抵抗運動(レジスタンス)関係の本を数冊。

 ぼくが大学に入学したのは、1969年4月。社共統一候補の美濃部亮吉が東京都知事に当選した年である。
 社会党と共産党が協力すれば、社会の変革は可能である、そんな夢をぼくは抱いた。
 ぼくは法学部の政治学科に入学したばかりだったが、卒論のテーマはフランスのレジスタンスにしようと考えた。

 当然第2外国語はフランス語を選択した。
 大学は4月下旬からバリ封されてしまったので、お茶の水のアテネ・フランセに通った。何を思ったのか、ラテン語まで習い始めた。
 テキストは松本悦治校長の本だったが、講師は大村雄治先生という方だった。穏やかないい先生だったが、ラテン語は1学期であきらめた。

 フランス語の方は、テキストのモージェが日常生活の場面ばかりなので、フランス政治史に直結する気がしなくて、意欲がわかなかった。
 さらに、当たった教師も、日本に数十年暮らしているというのに、片言の日本語しかしゃべれず、しかも質問に返答できないでいる生徒に向かって「アタマ、カラッポ?」、「ミミ、ツンボ?」などと平然と言い放つ老女で、これまたほどなく通う意欲を失った。

 そこで、フランス語はもっぱら独学で勉強し、日本語で書かれたレジスタンス関係の本を読むことにした。

                

 フランス語のテキストは、前田陽一・丸山熊雄「新フランス語入門」(岩波書店、1957年、手元にあるのは196x年12刷[xは印刷が不鮮明で読めない])だった。
 岩波の「新フランス語入門」は、ほぼ全ページにフランス映画のシーンや著名なフランス人(バルザックなど)の写真が入っている。
 その中に、子どもの頃に見た映画「赤い風船」のスチールもあった(28頁。なお70頁にも「赤い風船」のスチールが入っている)。
 小さな男の子が雨の中、風船を掲げて歩いていると、お爺さんが風船に傘をさしかけてやるシーンである。“Voici un homme et un enfant.” というキャプションがついている。
 この本ではモノクロだが、本当の映画では、この風船は真っ赤だった記憶がある。カラーだったのか、パートカラーだったのか・・・。

 この本は取っておくことにした。
 ひょっとしたら、この本を最初からやり直しているうちに、この1冊でぼくの寿命は尽きるかもしれない。

 さて、今回断捨離するのはレジスタンス関係本の方である。

 アンリ・ミシェル、淡徳三郎訳「レジスタンスの歴史」(クセジュ文庫、1951年)
 淡徳三郎 「抵抗--レジスタンス」(創芸社、1950年)
  同  「続・抵抗--レジスタンス」(同)
 渡辺 淳「神を信じていた者も、神を信じていなかった者も」(ナウカ社、1951年)
 ポール・ニザン、野沢協訳 「トロイの木馬」(新日本出版社、1967年)

 である。多くは大学の近所の古書店で買ったらしい(その店のシールが貼ってある)。

 いま、ポール・ニザンの末尾に付いた野沢協によるニザンの紹介文を読みかえしてみると、学生時代のぼくは、「ぼくには彼のような覚悟はないな」と思って、1969年から70年にかけての政治の熱気から離れて行く契機の一つになったように思う。
 そしてフランス語の力も原書を縦横に読むようにはならず、フランス政治の研究など到底無理と悟って、2年次進学の際に法律学科に転科した。
 それでも、レジスタンス関係の本は捨てることもないまま50年が経った。

 これらは捨てるに忍びないので、同僚の若いフランス政治研究者に貰ってもらうことにした。
 本当は迷惑なのかもしれないけれど、自分自身でゴミに出す勇気はないので、「要らなかったら、捨てて下さい」と添え書きをした。


 2019/7/27 記


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荻窪風土記

2019年07月26日 | 本と雑誌

 井伏鱒二の「荻窪風土記」(新潮社)も捨てようと思ったが、捨てきれないで、梱包の紐をほどいた。

 何十年も前の発売当初に、当然まだ井伏が存命だったころに1回読んだきり、2度と読んでないにもかかわらず、捨てる覚悟がつかなかった。

 荻窪はぼくが中学時代を過ごした場所である。
 井伏の自宅は、四面道のあたりにあったはずだが、荻窪界隈の古い話を懐かしく読んだ記憶がある。
 荻窪のことは、もう2度と思い起こすことはないのか、井伏の文章で忘れてしまったことをもう1度読み直したいと思うことはないのか・・・。
 ようするに、来年自分が定年退職した後に、どのような生活を送り、どのような本を読むことになるのかが全く想像できないのである。

 この本で一番印象的だったことは、関東大震災までは品川湾を行き来する汽船の汽笛が荻窪の地にまで届いていたが、震災以降は汽笛がまったく聞こえなくなってしまったという一文である。
 そのようなことが科学的(気象学的)に説明できるのかどうか知らないが、井伏さんはそう書いていた。


 これに対して、尾崎一雄「単線の駅」は、小田原か大磯だったかを走っていた汽車(?の沿線の物語だが、これはもう読むことはないと覚悟がついた。


                        
 
 ついでに、「単線の駅」と鉄道つながりで、堀淳一「地図とカメラのヨーロッパ軽鉄道散歩」(河出書房新社)も同じく、捨てる覚悟がついた。
 定年後には、ヨーロッパはおろか、国内のひなびた町を走る軽鉄道を求めて旅をする気力も経済力ももう残ってはいないだろう。
 最近では「鉄オタ」だの「撮り鉄」だのがあふれていて、昔のような、ほどほどの「鉄道好き」の居場所はなくなってしまった。

 コンマリ流「ときめき」の有無による断捨離の実践かもしれない。


  2019/7/26 記


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神殿か獄舎か--断捨離の途上で

2019年07月23日 | 本と雑誌
 ようやく晴れたので、久しぶりに物置の本の処分を再開した。
 連日の作業が祟ったのか、3月中旬に椎間板ヘルニアと診断されてしまい、1か月間、リリカという鎮痛剤を飲んでやや軽快したが、完全には治らなかった。
 しかし1か月以上も継続して鎮痛剤を飲むのも心配なので、飲み薬はやめて、その後は「インドメタシン配合」とか銘うった経皮鎮痛剤を朝晩塗って凌いだ。これでまた少しずつ良くなった。

 今日捨てることにしたものは、数十年間読まずに放置してあった単行本。
 買った当時はけっこう入れ込んだ作者のものが多いが、とにかくそれ以降はまったく「ときめき」がない。思い切って捨てることにした。

 清水幾太郎「わが人生の断片(上・下)」(文芸春秋)。
 晩年には日本の核武装化を唱えたりして、到底ついて行けなくなったが、私小説的な彼の学生時代の記述には傍線が引いてあった。東京の物語として読むこともできる。
 彼は私の祖父の友人でもあり、ともに冷飯食いの時期があったりしたためか、祖父は彼を嫌いではなかったように感じた。

                           

 長谷川尭「神殿か獄舎か」(相模書房)、同「建築の現在」(鹿島出版会)。
 法律雑誌の編集者時代に建築物に興味を持った時期があった。「建築物でたどる日本近代法史」などと言う企画を提案したこともあったが、採用されなかった。標高が国会議事堂と同じという条件のコンペで建造された最高裁判所から、網走監獄まで、1年間12回の連載は可能だと思ったのだが・・・。
 「神殿か獄舎か」には、旧松本裁判所庁舎(朝日1981・6・29)、東京証券取引所(日経1981・5・6)、法務省本館(朝日1983・2・16)、神戸地方裁判所篠山支部庁舎(当時現存する最古の裁判所庁舎だったらしい。日経1982・12・23)、中野刑務所(朝日1983・2・23)、陸軍大学校(当時は青山中学校、朝日1983・2・23)、最初の米国大使館(麻布善福寺、日経1983・2・24)、丸ノ内ビルヂング(朝日1983・2・16)、旧枢密院庁舎(当時は皇宮警察本部、読売1979・11・27)、中央大学(駿河台、日経1983・2・10)などの新聞記事の切り抜きが挟んであった。
 書き手がいたかどうかは分からないが、ほとんどの建物が現在では取り壊されてしまっており(一部は明治村などに移築されたが)、我ながら惜しい企画だったと思う。

 長谷川の「建築の現在」は、こちらもほとんどが取り壊されてしまった丸の内街の歴史的建築物を論じており、写真も(きれいではないが)挿入されているので、取っておくことにした。そういえば、今年に入ってから長谷川氏の死亡記事を見たような気がする。

 続きは、また日を改めて。


 2019/7/23 記


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