豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ヴィム・ヴェンダース “都会のアリス”

2009年08月29日 | 映画
 
 午前中、BSの“シネフィル・イマジカ”(260ch)で、ヴィム・ヴェンダース監督“都会のアリス”をやっていた。

 古い映画だが(1973年製作)、映像がきれいだった。

 ネットで調べると、“ペーパー・ムーン”に似すぎていると批判されたそうだが、ぼくにはむしろ“シベールの日曜日”を彷彿させる映画だった。

 主人公たちが載っているオールド・ファッションなクルマと(何というクルマなのか?)、車窓をゆったりと流れるドイツの古い町の家並みがよかった。

 * 写真は、“都会のアリス”の1シーン(BS260chから)。ようやく探し当てた祖母の家には、祖母ではなく、見ず知らずのイタリア人が住んでいた。

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西武百貨店軽井沢店跡

2009年08月24日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月17日の夕暮れ時の、西武百貨店軽井沢店跡。

 昭和40年代には、入口のすぐ左側に、島津貴子さんプロデュースの“西武PISAピサ”があり、一番奥にはいかにも「デパートの食堂」といった感じの食堂があった。
 白樺の木立に囲まれた庭で食べることもできた。
 子どもの頃、この庭で祖父からスパゲッティを食べさせてもらったり、夕方ここでビールを飲む叔父にくっついていってクリーム・ソーダをご馳走になったりした。

 もう廃店になって十年以上経っただろうか。今では人影もなく、建物の壁面もずいぶん傷み、庭も荒れ放題になって。
 グリーンホテルなどのように、建物は解体してしまったほうが美しい思い出のままでいられるのか…。
 ここのように、朽ちかけても現物が残っているほうが懐かしいのか…。

 いずれにしても、寂しい限りである。

 今は東側の駐車場だけが、星野温泉の駐車場として使われているらしい。
 ボーイスカウトのような格好をした、星野のアルバイト学生が暇そうに立ち番をしていた。

 2009/8/24

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スケートセンター テニスコート

2009年08月24日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 同じく8月17日の夕方。軽井沢スケートセンターのテニスコートを、かつての西武百貨店軽井沢店の駐車場から眺めた風景。

 旧軽井沢のテニスコートのような伝統はなったが、塩沢のテニス村との中間にあるような庶民的なテニスコートだった。
 叔父の別荘から近かったので、テニスをするのは、たいていここか星野温泉テニスコートだった。
 日陰がないので、暑いコートだった。
 千ヶ滝プリンスホテルに滞在する皇太子(現在の天皇)が、デビスカップ選手だった石黒賢のお父さんとテニスの試合をしたりしていたこともあった。

 本体のスケートセンターが廃業してしまった今となっては、ここも当然閉鎖されてしまったのだろう。夏の終わりの夕日を浴びた、寂しい光景である。

 2009/8/24

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きょうの浅間山(2009年8月17日)

2009年08月17日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 2009年8月17日(月) 

 軽井沢スケートセンターから眺めた、浅間山。

 夏の夕暮れ時の夕もやに霞んで、裾野をゆったりと西に伸ばしている。

 西武百貨店軽井沢店はすでになく、軽井沢高原バス西区線も廃線となり、軽井沢スケートセンターもなくなってしまった。

 変わらないのは、浅間山だけである。

 ぼくの軽井沢の思い出も、ここでひとまず筆を置くことにしよう。

 

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きょうの軽井沢(2009年8月17日)

2009年08月17日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月17日(月) 夕刻。 

 営業終了になってしまった軽井沢スケートセンターの夕暮れ。

 向こうのほうに、大きなボウリングのピンが立っている(ボウリング場恒例のヤツ)。

 2009・8・17

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きょうの軽井沢(2009年8月17日)

2009年08月17日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月17日(月)

 お盆休みも終わり、わが家の近所も、帰京した家がずいぶん増えた。
 お盆休みの間は、あちこちから飼い犬の鳴き声やクルマの行き来する音がやかましく聞こえていたが、静かになると、それも懐かしい。
 お隣さんは昨日の夜、帰京した様子だったのに、今朝起きたらクルマがあった。夕べ深夜上信自動車道が事故で閉鎖されたため、逆戻りしたようだ。

 きょうの午後のわが家から見上げた軽井沢の空。ゆっくりと流れる雲は、間違いなく秋の空である。6時を過ぎて網戸だけにしておくと、肌寒ささえ感じる。
 ぼくもあしたは東京に戻る予定。

 2009・8・17

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佐野洋『検察審査会の午後』

2009年08月16日 | 本と雑誌
 
 8月16日(日) つづき

 夜、12時過ぎに風呂から上がって、NHK-FMラジオを聴きながら、読みさしだった佐野洋『検察審査会の午後』(光文社文庫)を読む。

 かつて新潮文庫から出ていて絶版になっていたのを、裁判員制度の導入をきっかけに、版元をかえて再版したもの。

 よく調べて書いてある。検察審査会の事務局や検察審査員経験者からかなり取材をして書いたそうで、刑事訴訟法や裁判法の教科書に書いてあるような、通り一遍の検察審査会の説明からはうかがい知ることのできない制度の運用の実態まで知ることができた。

 しかし、そこは作家の手になる小説。あくまでも検察審査会の「午後」の話である。
 主人公は、バツ一の中年高校教師。検察審査員の補助員に選任され、不承不承出席するが、審査員の中に、かつての恋人と声がよく似た(声というと、大原麗子を思い出すなあ・・・)女性を見つける。
 45歳の彼女もまたバツ一であることが分かり、毎回審査会の終了後に、裁判所前の喫茶店でお茶を飲む仲になる。

 ・・・と、要するに、中年男の「恋」物語である。
 一線を越えられないまま、審査員の任期が終わってしまうが、ラストで、女のほうから温泉旅行の誘いが届く。
 恋は中年になってもはかなく終わらせておいたほうが良かったのではないか。

 * 写真は、佐野洋『検察審査会の午後』(光文社文庫、2008年)の表紙カバー。

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ボワロ=ナルスジャック 『探偵小説』

2009年08月16日 | 本と雑誌
 
 8月16日(日) 軽井沢、5日目。

 日曜なので、勉強はお休みにする。

 軽井沢に置きっ放しにしてある本の中に、ボワロ=ナルスジャック『探偵小説』(白水社、クセジュ文庫)を見つける。
 ボワロ=ナルスジャックも好きな作家の一人で、創元推理文庫やハヤカワ・ポケットミステリーなどで何冊も読んだ記憶がある。
 その後は、鼻について読まなくなった。

 この本を読んだ記憶はなかったのだが、何ヶ所か傍線が引いてあるところをみると、読んだらしい。
 裏表紙の裏に、「1977年7月10日(日) 藤木英雄氏葬儀の朝に、高井戸駅広和書店で」と書き込みがある。
 編集者時代に何度も原稿を書いていただいた東大の刑法の藤木先生のご葬儀に参列した折に購入したらしい。

 ぱらぱらと中身をめくってみると、僕が大好きだったウィリアム・アイリッシュを非常に高く評価しているのが目にとまった。
 そもそも、ぼくは、中学校の図書館で見つけた、あかね書房かポプラ社版の少年推理全集で読んだアイリッシュの『恐怖の黒いカーテン』で推理小説に「はまった」。
 表紙扉の次に黒のパラフィン紙が挿んであった。

 中学校の同級生だった校條諭君の『スーパー編集長のシステム小説術』では、視点のぶれた例としてアイリッシュを挙げていたが、アイリッシュ・ファンにはそんなことは全く気にならない。

 * 写真は、歩ワロ=ナルスジャック『探偵小説』(白水社、クセジュ文庫、1977年)の表紙。

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きょうの軽井沢(2009年8月15日)

2009年08月15日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月15日(土)

 この日は、終日、前田正一編『医療事故初期対応』を読んだ。

 夕方、少し薄暗くなってから、マツヤに出かけて、寿司などを買って帰る。
 今回は一人での滞在のため、食事はすべて外食か、レトルトカレーなどのインスタント食品で済ませた。

 というわけで何もこの日にふさわしい写真はない。
 軽井沢スケートセンターの営業終了を告げる案内板を掲げておく。

 2009・8・15

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きょうの軽井沢(2009年8月14日)

2009年08月14日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 時間が前後するが、8月14日の軽井沢。

 例によって、“ツルヤ”の駐車場から眺めた浅間山。

 もう少し時間が早ければ、山頂までくっきりと見えていたのだが…。

 2009/8/14

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“誰がために鐘は鳴る” -- 8月14日の軽井沢

2009年08月14日 | 映画
 
 8月14日(金)、軽井沢3日目。

 きょうの勉強は、前田正一編『医療事故初期対応』(医学書院、2008年)。 
 帯に、「医療事故はゼロにはできないが、医療紛争はゼロにできる!」とある。

 夜、風呂上りに、ゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演“誰がために鐘は鳴る”(1943年)を見はじめた。

 長すぎる! ケースの解説によると、何と159分もある。翌朝と2回に分けて見た。

 スペイン市民戦争を背景としているのに、早い段階でゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンとのラブ・ロマンスになってしまう。それも、美男と美女が出会った瞬間に恋に落ちるだけである。

 前にも1、2回見たはずなのだが、あの怪しげな白眼をしたパブロがフランコ側に寝返るのかどうかが記憶になかった。
 そのために、かえってサスペンスものとして見ることができた。

 1943年製作、しかも戦争映画だというのに、画面が美しすぎる。リメイクしたのだろうか?
 ゲ-リー・クーパーとイングリッド・バーグマンがデートをする山の光景など、真っ青な空のもと、太陽を浴びて新雪が輝いている。
 とても戦争映画のシーンではない。“白銀は招くよ”ではないが、トニー・ザイラーが滑り降りてきそうな雰囲気である。

 戦時中にも関わらず、“風と共に去りぬ”だの、この“誰がために鐘は鳴る”だのを作ることができたアメリカに勝てるわけがないだろう、と誰も思わなかったのだろうか。

 原作も遠い昔に読んだ。
 高校生の頃に、確か河出書房から『カラー版 世界文学全集』というシリーズが出ていて、その中にヘミングウェーの『誰がために鐘は鳴る』も入っていた。
 『カラー版』というのは、本文中に何枚かカラーの挿絵が入っているのである。さらに、別冊付録として全集の栞がついていて、この中にも、猟銃を手にしたヘミングウェーの狩猟服姿の写真と一緒に、ゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマンのスチールが載っていたように思う。

 ただし、今に至るまで覚えているのは、巻頭に引用されていたジョン・ダンの、
「・・・/人は皆 大陸(くが)の一塊(ひとくれ)/・・・/されば 問うなかれ/誰が(たが)ために鐘は鳴るやと/其(そ)は 汝がために鳴るなれば」
という詩の一部だけである(記憶で書いているので原文には忠実でないかも・・・)。

 社会の一員に対してそんな気持ちになれたらいいだろうが、とてもそんな気にはなれないと思った。

 映画のなかのゲーリー・クーパーも、最後は、「マリア(イングリッド・バーグマン)の中に自分は生きつづける」といった台詞を吐いている。
 その程度なら、ありうるだろう。

 * 写真は、ゲーリー・クーパー/イングリッド・バーグマン主演“誰がために鐘は鳴る”(Keep、“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画”)のケース。

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フランク・キュプラ監督 “我が家の楽園”

2009年08月13日 | 映画
 
 8月13日 軽井沢、夜。

 フランク・キュプラ監督“我が家の楽園”(1938年)を観た。

 工場建設のために住宅街を地上げする会社経営者の息子(ジェームス・スチュアート)と、立ち退きを拒否している一家の娘(ジーン・アーサー)とのアメリカ版ロメオとジュリエット。

 アメリカ人の好きないわゆる“Heart Warming Story”ものと期待したのだが、経営者夫婦が娘の家を訪ねるシーンなど、ただのスラップ・スティックにすぎなかった。
 アメリカ人はあんなものが好きなのだろうか?

 ラスト・シーンも、あまりにも単純な「和解」である。
 しかも、ケース・カバーの写真は、立ち退きを拒否する一家の主人と立ち退きを迫っていた経営者とがハーモニカを吹きながら握手しているシーンと、ジェームス・スチュアートとジーン・アーサーが笑顔で抱き合うシーン。
 これでは、結末がどうなるのだろうかというスリルも味わいようがない。

 原題は“You Can’t Take it with You”となっている。どんな意味なのだろうか。会社経営者が金儲けに奔走し、友人まで倒産に追いやっているようでは手に入れることができないものがある、というようなことか・・・。

“我等の生涯の最良の年”や“素晴らしき哉、人生”などのような爽やかな読後感は得られなかった。

 * 写真は、フランク・キュプラ監督“我が家の楽園”のケース・カバー(Keep、“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画”)。

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カローラ・ランクス、20,000キロ

2009年08月13日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月13日 軽井沢、夕方。

 ところで、(かつての)軽井沢スケートセンターからの帰り道、千ヶ滝西区の“立教女学院キャンプ場前”を通過した瞬間に、わがカローラ・ランクスの走行距離が20,000kmに到達した。購入からほぼ5年である。

 思い出深い場所での記録となった。

 2009/8/13

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軽井沢スケートセンターが廃業してた!

2009年08月13日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月13日、夕方、軽井沢スケート・センター近くの親戚の別荘を訪ねた帰りに、スケート・センター(実は跡地だった!)に行ってみた。

 かつてプール(その後はボウリング場)のあった所も、軽井沢名物の楽焼の窯のあった所(その後はスケートセンター・ホテルの入り口)も鎖で閉ざされていた。
 旧ボウリング場の階段を下りると、千ヶ滝スケートセンターホテル入口に、「2009年3月31日をもって営業を終了します」という掲示板が置いてあった。

 今年の3月31日で終了したのは、西武高原バス千ヶ滝西区線だけでなかったのだ!
 分かっていれば、3月に軽井沢に行ったときに写真を撮っておいたのに・・・。

 一番下の駐車場に行くと、千ヶ滝温泉の入り口だけになっていて、湯上りの女の子が携帯をもてあそんでいたが、右側のゲームや卓球台なとのあった所は、これまた板戸で閉鎖されていた。

 外からは見えなかったが、アイススケート・リンクもやっていないのだろう。
 冬の間は屋外スケートリンクだったところが、夏場はボート池になり、スピーカーからハワイアンなんかが流れていた。

 毎夏、8月初旬に渡辺プロの“真夏の夜の夢”というショーも、この池のボート乗り場に作られた特設舞台で開かれた。
 昭和30年代初期には入場無料で、コカコーラまでただでくれた。
 クレイジー・キャッツやザ・ピーナッツなどが出演し、後に有料になってからは、タイガースが来たこともある。太田裕美やハイファイセットが来た記憶もある。

 かつて世界スピードスケート選手権も開催された軽井沢スケートセンターが廃業してしまうなんて・・・。
 リンクではスピードの鈴木恵一が練習しているのを見かけたし、1969年か1970年の夏合宿では、西武鉄道アイスホッケー部の岩本主将から試合を申し込まれたこともあった。

 東京でも、東伏見のスケートリンクが、西武(国土計画)の手を離れ、サントリーからダイドー・ドリンコに移るなど、西武はまさに孤城落日の感がある。
 それを考えれば、それほど繁盛しているとは思えない軽井沢スケートセンターが廃業するのも意外ではない。
 
 それにしても、草軽鉄道にはじまって、三笠書房、明治屋、明治牛乳、西武百貨店軽井沢店、東京医大夏季診療所、紀ノ国屋、軽井沢駅舎、中軽井沢駅前観光案内所、千ヶ滝プリンスホテル、グリーンホテル、観翠楼、星野温泉など、昭和の軽井沢はどんどん消えていってしまう。

 * 写真は、廃業してしまった軽井沢スケートセンター。インドアのスケート・リンクを上から見下ろした。

 2009/8/13

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森臨太郎『イギリスの医療は問いかける』--8月13日の軽井沢

2009年08月13日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月13日(木) 軽井沢、2日目。 

 快晴。とくに午前中は真夏の浅間山がくっきりと見えていた。

 きょうのお勉強は、森臨太郎著(森林太郎=鴎外ではない)『イギリスの医療は問いかける――「良きバランス」へ向けた戦略』(医学書院、2008年)を読了。

 ベバリッジ報告書にもとづくNHS(ナショナル・ヘルス・サービス)の創設から、1970年代後半からのサッチャー政権による医療の合理化、その反動として1990年代に行われたブレア政権による医療改革、というイギリスの戦後医療の歴史を概観する。
 イギリスに行った人は大体“イギリスびいき”になるが(“イギリスびいき”だからイギリスに行くのかも・・・)、この本の著者もおおむねイギリスの医療制度を肯定的に描いている。
 サッチャー時代の合理化(医療費がG7で最低になった!)でさえ、労働党政権時代の官僚的なNHS運営を改革したものとして肯定的に語っている。
 NHSは雇用人員130万人、世界で4番目に巨大な組織だと聞くと(本書90ページ)、確かに効率が悪いのかとも思う。著者はイギリスの医療制度を繰り返し「社会主義的」というが、官僚制を「社会主義」の主要な指標と見ればイギリスのNHSは立派な「社会主義」だろう。

 この点では、わが日本も十分に「社会主義」国家の資格がある。とにかく「国民皆保険」を実現させたのだから。
 マイケル・ムーアの“シッコ”では、皆保険化に反対するニクソンらの共和党政治家たちが、「皆保険になったらアメリカの医療は社会主義になってしまう」とアジっていた。
 しかし、医療の皆保険化によって厚生省は利権を獲得し、日本の医療は官僚制の餌食となってしまった。行政改革に抵抗するニッポンの官僚たちの姿は、ソ連の官僚を彷彿とさせる。

 イギリスでは外来の待ち時間が数時間とか、手術の待機日数が数ヶ月などという話をよく耳にするが、この本の著者によれば、それは「トリアージ」(優先順位づけ)がしっかりしているからだという(本書33ページ)。
 確かに、数時間待ちで患者がバタバタ死にでもしたら、イギリスでも社会問題になるだろう。そうならないのは、待たされても死ぬことはない患者(?)が待たされているだけのことなのだろう。

 わが“Mr. Bean”(豆豆先生)にも、診療所での待ち時間を背景にしたものがあった。
 順番の遅いBean氏が、手にギブスをつけられた子どもから早い順番のカードを騙し取るけれど、ポットの口から手が抜けなくなってしまうという話だった。

 昼間は混んでいるからといって、夜間の小児救急に平然とやって来ても順番で診察してもらえるニッポンのほうが異常なのかもしれない。

 そのほかにも、外国人医療者の増加などイギリスの医療にもいろいろな問題があるが、地域の家庭医を基本とする医療の段階化をはじめとして、イギリスの医療制度から学ぶものはたくさんあるだろう。
 NHS傘下の医師の年収が、初年度の研修医で526万円(1ポンド=250円換算)、最高のコンサルタント医でも2421万円というのも(本書15ページ)、リーズナブルである。

 もちろん、平均的にみて日本の医療制度がそれほど悪くないという著者の評価には異論はない。
 ただし、わが国の医療制度は開業医にきわめて甘く、病院勤務医に過剰な負担をかけており、まじめな病院勤務医の良心によって辛うじて維持されていることは明白である。早急に何とかしないと、わが医療の崩壊も時間の問題である。
 マイケル・ムーアの“シッコ”に描かれているアメリカの医療のような状態に陥らないことを祈るばかりである。

 * 写真は、今日の浅間山。“ツルヤ”から中軽井沢へ向かう道の途中で。ちょうど新幹線が通過した。車窓から撮影(渋滞で停車中)。

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