豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

堂目卓生『アダム・スミス』(中公新書)

2021年05月28日 | 本と雑誌
 
 堂目卓生『アダム・スミス--『道徳感情論』と『国富論』の世界』(中公新書、2008年)を読んだ。「どうもく」(瞠目)とお読みするのかと思っていたが、「どうめ」とルビがあった。
 アダム・スミス(水田洋訳)『法学講義』(岩波文庫)を読んで、スミスの『道徳感情論』は読んでおくべき本だと思ったのだが、いきなり『道徳感情論』(もちろん翻訳)を読んでも、著者の趣旨を読み取る自信がなかったので、解説書から読むことにした。

 そもそもは、今年の憲法記念日の東京新聞に載った水田洋さんへのインタビューを読んだのがきっかけで、水田訳『法学講義』を読んだのだが、残念ながら水田訳の『法学講義』の訳文には、とくに「家族法」「私法」の部分で、何か所か理解ができないところがあった。とくに指示代名詞が何を指しているのか分かりにくい個所が目立った。水田訳に問題があるのか、そもそも同書がスミスの講義を受講した学生のノートが原本になっているため、その学生のノート自体に問題があるのかは、私には分からない。
 ということで、水田訳『道徳感情論(上・下)』(岩波文庫)に挑戦しても、難渋した挙句に著者の言いたいことを理解できないのではないかという不安を払拭できなかったのである。
                          
        
 まず手始めに、堂目『アダム・スミス』を読んだのは正解だった。
 この本はその年のサントリー学芸賞を受賞したとある。サントリー学芸賞は審査員の好みがけっこう反映されているせいか、時おり「何でこの本が?」と思うような本が受賞することもあるが、この本に関してはきわめて適切な受賞だと思う。
 とにかく分かりやすい。著者がスミスをよく理解していることが伝わってくる。引用される『道徳感情論』の訳文も著者自身によるもので、明快である。
 今回の堂目氏の本によって、スミスの『道徳感情論』がよく理解できたつもりだったが、ここに要約を書こうとしたら筆が(キーボードが?)進まない。実は十分に理解できていないという証拠だろう。
 ※下の写真は、エディンバラのロイヤル・マイルに立つアダム・スミス像(2014年3月26日撮影)。スミスは晩年はグラスゴウではなく、エディンバラで過ごしたという。彼は当時のエディンバラの最高所得者だったという。そういえば2、3日前のNHK・BSプレミアムの「世界ふれあい街歩き」でグラスゴウをやっていた(再放送)。グラスゴウ大学もチラッと映ったが、意外と小さな大学だった。
               

 『道徳感情論』は社会秩序を導く人間の本性は何かを解明しようと試みた書である。
 社会秩序のために人は法を作るが、人間本性の何が法を作り、法を守らせているのかとスミスは問う。この問いに対する回答の核心にあるのは「同感」(sympathy)である。
 人間は自分の幸福を何よりも優先するが(自愛心)、しかし他人の行為の適否や、自分についての他人の評価にも関心をもつ。(他人が別の他人に対して行った行為の結果を、もし)自分が受けたとしたら感謝の念をいだくか、それとも憤慨するかを、私たちは自分の心の中にある「公平な観察者」(impartial spectator)によって判断し、前者(感謝)であれば称賛し、後者(憤慨)であれば非難する。
 そして人間は、自分自身の行為もこの「公平な観察者」の判断に従って律しなければならないという「義務の感覚」をもつ。「義務の感覚」に従う人は心の平静を得ることができる。しかし「義務の感覚」に従わず他人の生命や財産を侵害するなど正義に反する行為に対して、社会は「法」という強制力によって対処することになる。
 国民の豊かさ(繁栄)への道を説く『国富論』も、この『道徳感情論』に示された人間の本性に基いて読まれるべきである。
     
 スミスは、市場における自由競争に委ねておけば(神の)「見えざる手」(invisible hand)によって予定調和に達するという「市場の自由」や「自由競争(レッセフェール)」論者と言われているが、スミスはそのような趣旨で「見えざる手」という言葉を用いていない、彼の「見えざる手」を理解するためには『道徳感情論』を読まなければならないということは、ぼくのような門外漢でもどこかで聞き及んでいた。水田さんの『アダム・スミス』(講談社学術文庫)だったかもしれない。
            

 堂目氏の本書によれば、スミスが「見えざる手」(スミスは「神の」とは言っていない)という言葉を使ったのは、『道徳感情論』で1か所(水田訳・岩波文庫版(下)24頁)、『国富論』で1か所(大河内監訳・中公文庫版Ⅱ120頁)だけであり、いずれも市場における自由競争などとは全く関係ない文脈で使われている。
 前者(『道徳~』)では、富裕な農業経営者が土地からの収益を利己性と貪欲の目的で使用したとしても、結局は「見えざる手」に導かれてすべての住民の間でほぼ平等に生活必需品の分配が行われることになると述べ、後者(『国富論』)も、生産者が自身の利得を目的として生産物が最大価値をもつように産業を運営したとしても、「見えざる手」によって社会の利益が増進されることになると述べたのである。

 「見えざる手」は、因果の流れの原因を説明しないで済ますことができる使い勝手が良い言葉のため、スミスの本来の趣旨を離れてあちらこちらで使われることになった。げんにこの本の著者も、「称賛・非難の不規則性という、いわば「見えざる手」に導かれて、知らず知らずのうちに住みやすい社会を形成するのである」(48頁)といった具合に「見えざる手」を使っている。
 数日前の東京新聞でも、浜矩子氏がスミス「見えざる手」の俗論を批判し、政府の「見えざる手」による介入への警戒を論じていた。
      

  *     *     *

 ぼくは法学部1年生向けの「法学」の講義を担当した際に、何回か碧海純一『法と社会』(これも中公新書だった)をテキストに指定した。
 ぼくの理解では、同書によれば、「法」というのは社会秩序を維持し、社会を統合する手段の1つであり、社会統合の手段には、(個人の内面の)社会化と、(外部からの)社会統制の2つがある。
 社会を構成するメンバーは生まれたときから親、兄弟、(公園の砂場から始まる)友人、教師、同僚たちと関係をもつ過程で、おのずからその社会で要求されるルールを自らの心のうちに内面化するようになる(社会化)。したがって社会のメンバーの多くは、自分の心のうちに内面化されたルールに従って生活していれば、「法」などなかったとしても社会生活を営むことができる。
 しかしメンバーの中には、残念ながら家族関係の歪みなどのためにこのようなルールの内面化に失敗した者が存在する。そのような者に対しては、外部からの社会統制をかける必要がある。「法」はそのような外部からの社会統制手段の1つだが、最終手段として国家による強制力によって実現されるという点で他の社会統制手段とは異なる。
 もし私たちの社会から「法」がなくなったとしても、社会化された多くのメンバーはルールに従って生活するだろうが、社会化に失敗したメンバーが存在する以上、最終手段としての「法」の発動が控えていなければならない、「たかが法、されど法」なのだ--といった趣旨を話してきた。碧海氏の論旨どおりではないかもしれないが、こんな前提の上に刑法や民法の話をした。

 他者への「同感」、みずからの内なる「公平な観察者」を出発点とするスミスの『道徳感情論』は、このような法律「観」をもつ私にとって、親近感を抱かせるものであった。
 ただし心の内なる「公平な観察者」というのは、かなり高徳の人間でなければ持ちえないように思われる。『ブーガンヴィル世界周航記』以来の近代人の懸案である「嫉妬」の感情などは、ぼくのような凡人が「公平な判断者」となる妨げになっている。

 堂目氏が本書を執筆するきっかけになったという(鐘紡の)武藤山治に対するスミスの影響を研究したという院生の論稿も読んでみたい。城山三郎の企業小説もスミスの視点から読み直せるかもしれないと思う。この本を読むと、ついついスミスを現代に引き付けて考えがちになるが、現代の経済界でスミスの精神を継承すると目される経営者は誰かいるのだろうか。

 なお、この本の謝辞の中に、このブログでも時折登場する従弟の名前を見つけた。

 2021年5月27日 記


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『野球の手帳』(昭和37年)

2021年05月16日 | あれこれ
 月刊雑誌「日の丸」昭和37年5月号附録の『野球の手帳』が出てきた。
 金色に輝く表紙が印象的だったが、仕まい込んで行方不明のままだったのが、昨日、五月人形を片づけていたらひょっこりと出てきた。
 当時は『少年』『少年画報』『少年ブック』(『幼年ブック』もあった)『野球少年』など、「少年」を冠した月刊雑誌が全盛の時代だった。『日の丸』はどちらかというとマイナーな印象があるが、『野球の手帳』の奥付を見ると、何と集英社の発行だった。『冒険王』なんて雑誌もあった。
 表紙につづく口絵は前年度のホームラン王だった長嶋選手。

               

 つづいて、12球団の選手名鑑。
 前年度の順位らしく、セ・リーグは巨人、中日、国鉄、阪神、広島、大洋、パ・リーグは南海、東映、西鉄、大毎、阪急、近鉄の順で並んでいる。
 チーム内では背番号順で、読売ジャイアンツは、「1 内野手 王貞治 21才 身長1.79 体重75 投打 左左 出身校 早実」というふうになっている。柴田勲は背番号7でセンターの記憶の方が強いが、背番号12で投手となっている。年齢が17才とあるから法政二高で甲子園で優勝投手になって入団した年なのだろう。

 驚くことに、主要選手を紹介するページには、「川上哲治 世田谷区野沢町2のxxx、長嶋茂雄 世田谷区上北沢3のxxx」など、選手の住所まで載っている。わが世田谷時代のご近所さんだった大毎の山内和弘は文京区原町xxxとなっていて、昭和37年にはもう世田谷区世田谷には住んでいなかったようだ。
 今では考えられないことだが、選手とファンの距離が近かったのだろう。ただし、当時でも面倒なファンはいたのだろうか、住所を球団事務所や合宿所にしている選手もいる。
 住所で一番印象的なのは、別当薫(この年からパ・リーグ最下位だった近鉄の監督に就任している)の住所で、港区麻布宮村町xxとある。麻布に住んでいる選手、監督など他にない時代である。別当は甲陽中学(ぼくは芦屋中学と記憶していた)、慶応大卒のダンディーな選手だったが(身長が1m80cmとある。大正9年生れとしては破格の長身である)、住んでる場所もおしゃれだった。佐藤愛子が女学校時代に憧れていたとエッセイに書いていた。
 当時は書籍の奥付などにも著者の住所が載っているものもあり、読者から著者に手紙を送ることも可能だった。ぼくの高校時代の友人でトルーマン・カポーティに英文で手紙を出した奴がいた。返事はなかったと言っていた。そもそも届いたのかどうか。

               

 ほかにも、この『野球の手帳』には、「野球の上手な見方」「野球の上手なやり方」を指南するページもあり、裏表紙の口絵には前年度の表彰選手が載っている。 
 「上手なやり方」の守備編では「二塁手 ダブル・プレーの練習をよくやること。一・二塁へくるゴロは、右打者のときは右へボールがまわっているために、まっすぐにこないものがあるからちゅういしよう」、打撃編では「右打者のばあい、外角球はライトへながすことが大切で、力にまかせてひっぱる打者は3割は打てない」など、子ども相手の付録にしては高級なことが書いてある。打者のタイミングをはずすためのチェンジ・アップなども解説があるが、「日の丸」の読者が投げることができたとは思えない。

 セ・リーグは、長嶋が首位打者(3割5分3厘)、本塁打王(28本)、最高殊勲選手、打点王が桑田武(大洋)94点(小津安二郎『秋刀魚の味』のナイターのシーンで場内アナウンスから彼の名前がコールされていた)、盗塁王が近藤和彦(大洋)35個、新人王が権藤博(中日)35勝19敗、パ・リーグは、最高殊勲選手が野村克也(南海)、首位打者が張本勲(東映)3割3分6厘、本塁打王が中田昌宏(阪急)29本(中田は選手紹介欄によると藤尾茂(巨人)と鳴尾高校時代にバッテリーを組んでいたとある。最初は投手だったのか)、打点王が山内112点、盗塁王広瀬叔功(南海)42個、新人王徳久利明(近鉄)15勝24敗となっている。

 身長くらべ、体重くらべなんていうコーナーもあり、身長はスタンカ(南海)196cm、梶本(阪急)186cm、体重では中西太(西鉄)93㎏、森徹(大洋)90㎏などが上位に名を連ねている。
 懐かしい名前がたくさん出てくる。近鉄にはミケンズとボトラという外国人バッテリーがいたが、この名鑑にはミケンズしかいなくて、ボトラは先に帰国してしまったようだ。駒沢球場で実際に目にしたことがある東映のラドラや、阪急のバルボンはまだ在籍している。

 その他で印象的なことは、巨人の宮本敏雄(ボールドウィン高校)、中日の与那嶺要(ホノルル大学)など、日系アメリカ人選手が散見されること、広島カープには当時から専修大出身者が多かったこと(古葉竹識[=当時は毅]は濟々黌出身となっているが)、青田昇(滝川中)、別所毅彦(同)、飯田徳治(浅野中)、藤村隆男(呉港中)、谷田比呂美(尼崎中)など、いずれも中学野球で名をはせた旧制中学卒業の選手やコーチがいることあたりか。西鉄コーチの今久留主淳は嘉儀農林の出身だった。
 中には松久保満(明星学園、大洋)、金彦任重(開成高、南海)なんていう出身校の選手もいるが、あの明星学園や開成出身のプロ野球選手がいたとは驚きである。戦後間もなくのほうがに日本社会は多様性に富んでいたようだ。

 2021年5月16日 記


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碧空(あおぞら)

2021年05月11日 | 東京を歩く
 
 5月10日の昼下がり。
 散歩の上空をヘリコプターがプロペラ(?)音をとどろかせて飛んで行った。見上げたけれど、姿は見えなかった。

 碧天に 姿は見えず ヘリコプター
  →初夏の空 姿は見えず ヘリコプタ


 同時に、子どもの頃(昭和28年か29年頃か)、風邪で臥せっている寝床からガラス窓越しに見上げた冬の青空に、占領軍の双葉機が飛んでいるのを眺めた記憶がよみがえってきた。
 青い空だけは当時も今も変わっていない。

 青空に 銀翼きらり 双葉機
  →冬晴れに 銀翼きらり 双葉機

 もう一つ、小学2年生になった孫がまだ2、3歳だった頃、彼ははるか上空を飛ぶ豆粒のような飛行機を見つける天才(!)だった。

 「ヒコーキ!」と 幼き孫の 歓声(こえ)、碧空(そら)に
 「ヒコーキ!」と 孫の指先 青い空 
  →「ヒコーキ!」と 空さす孫の 息白く
  → →と改めたものの、やっぱり「青空」に意味があるので、もとどおりで行こう。もともと「俳句」を作るつもりではなく、散歩していてヘリコプターの轟音に青空を眺めたら、ふと幼かった頃の孫の思い出が五・七・五で出てきたのでそのまま詠んだのであって、「青空」では季節がわからないと言われても、ぼくのこの思い出に季節は関係ないから季語などなくても構わない。(2021年5月15日追記)

 と青空を詠った3首(俳句の数え方は「首」でいいのだろうか)が浮かんだ。帰宅して、さっそく書きとめた。「青空」が季語なのかどうか、季語だとしたらどの季節なのかも分からないけど。
 ※ ネットで調べると、「青空」も「碧空」も「碧天」も季語ではないようなので、→のように修正してみた。(2021年5月12日追記)

 ぼくの祖父は、学生時代から俳句を詠んでいて、古稀か米寿の折に教え子が1000句の中から300句を選んで句集『パーソンズ 讀みながら 梅の実を囓る』というおしゃれな和綴じ本を作って贈ってくれた。
 絵心もあって、散歩から帰ると、色紙にサインペンで素描して水彩絵の具で色付けした風景画を描いていた。時には俳句を書き添えることもあった。
 そのような俳句のついた色紙を探したが見つからなかったので、風景画を2点だけ。いずれも軽井沢を描いたもの、上は落葉松の背丈からして1980年代初頭だろうが、あのころは千ヶ滝の随所で浅間山を眺めることができたから場所は分からない。下は「中軽井沢駅の近く 1981年8月9日」と裏に書いてあるが、中軽井沢駅のどのへんだろうか。
                    
                    
                    

 俳句つきの色紙は見つからなかったが、
 「葉牡丹に 客なき部屋の 紫煙かな」
 という句の書かれた色紙がみつかった。祖父は若いころはかなりのヘビー・スモーカーだったが老人になってからは何度か禁煙を試みていた。煙草の代わりに飴やチョコを勉強机の引き出しに入れてあった。時おり祖父の目を盗んでそのお菓子を食べたりした。上の句の「紫煙」は来客が残したものではなく、祖父が吐きだした煙かもしれない。

                    

「ミモザ」と言う言葉の入った俳句が書き添えられた色紙があったはずなのだが、見つからなかったので、ヨーロッパ旅行の折に描いたと思われるものを1つ。年代、場所は不明。
  ※ 祖父の句は、「ミモザ咲く 石段は白く 滑らかに」という句であることが分かったが、どんな色紙絵だったかはわからない。ミモザはアカシアの別名で、イタリアでは3月8日は「女性の日」で、「ミモザの日」と呼ばれているそうだ。
 
 ぼくは絵が下手なので、せめて写真に俳句か短歌を添えてみたい。ぼくの目標は、俳句なら「降る雪や 明治は 遠くなりにけり」(中村草田男)のように、過ぎ去った昭和を詠嘆すること、短歌なら「信濃路は いつ春にならむ 夕月日(ゆうづくひ) 入りて暫らく(しまらく) 黄なる空の色」(誰の作?中学の国語教科書に載っていた)のように風景を詠み、「万智ちゃんを 先生と呼ぶ 子らのいて (ああ?)神奈川県立橋本高校」とように日常生活を詠むこと。ーーと言うことにしておこう。
 まずは、このブログで練習して、NHK「昼のいこい」の文芸通信にでも投稿するか。

 2021年5月10日 記


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水田洋訳/アダム・スミス『グラスゴウ大学講義』

2021年05月06日 | 本と雑誌
 
 5月3日、憲法記念日の東京新聞朝刊に水田洋さんへのインタビュー記事が掲載されていた。
 101歳でご健在というのにまず驚いた。ご発言も大いに共鳴できる内容だった。

 水田さんは戦前の軍国主義の時代も体験された世代だが、最近の日本の政治は危険な状況にあるが、悲観も楽観もせず、「個人個人がいざとなったら選挙で変えていけるという回路があることが大事。まあ、これからが見物ですよ」と語っている。
 たしかに、選挙という回路が保障されている点では、ミャンマー、中国、ロシアなどよりはましだろう。しかし、コロナ緊急事態宣言下だというのに、協賛企業の宣伝車が大音量でCMを流しながら先導して、道端には見物客が集っているという聖火リレーの実態を、大新聞、テレビがほとんど報道しないなど(東京新聞にはコカコーラ、日本生命、NTTの宣伝車が先導する写真が掲載されていた)、五輪をめぐるマスコミの情報操作はミャンマーに近い状態に思える。
 それでもぼくは、選挙で示されるであろう民意を信じている。

            

 さて、水田さんだが、ぼくは水田さんに直接お会いしたことはないが、一つだけ接点がある。
 20年近く前のことになるが、ぼくが編集者時代に在籍していた出版社で、品切本、絶版本の復刊の企画が持ち上がった。復刊を希望する書籍のアンケートが来たので、ぼくは水田さんと高島善哉共訳のアダム・スミス『グラスゴウ大学講義』の復刊を提案した。
 アダム・スミスの「法学」講義というのが興味を引いたのと、古書店の目録で同書が4万8000円という高値が付いていたので、5000円くらいで販売すれば売れるだろうと見込んだのである。
 ※ 調べてみると、同書の復刊は1989年(平成元年)だったから、今から30年以上前のことである。復刊前には古書店で4万円以上していたが、岩波文庫版の出た現在では1500円で出ていた。

 ぼくの予想は当たって、この復刊書は完売した。
 当時、水田さんは初訳後の知見に基づいて、単独で同書の改訳を準備中だったが、すぐには改訳版を上梓するめどは立っていなかったので、さしあたりは『グラスゴウ大学講義』を復刊することに同意されたという。復刊本の簡単な解説にその旨が記載されている。
 その後、2005年に改訳版は完成して、『法学講義』と題して岩波文庫から出版され、『グラスゴウ大学講義』はその使命を終えたが、ぼくにとっては思い出の一冊である。
 実はぼくは、「家族法」の部分は読んだ形跡があるが、この本の全体をきちんと読んでいない。スコットランドで再びイングランドからの独立運動が起こっている折から、スコットランド物(?)としても面白そうである。

 ちなみに、その際の復刊書アンケートでは、他にも我妻栄編『戦後における民法改正の経過』と、我妻栄『事務管理・不当利得・不法行為』の復刊も提案して採用された。
 我妻さんの『経過』は戦後の民法(家族法)改正に関する立法関係者たちによる唯一の解説書であり、『不法行為』は我妻さんが『民法講義』(全8巻、岩波書店)の最後の部分(「債権各論・下巻Ⅱ」)を執筆されることなく亡くなられたので、この分野に関する我妻さんの唯一の教科書だった。
 これらの復刊書も完売し、さらに増刷もされたように記憶する。

 2021年5月5日 記


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きょうの軽井沢

2021年05月04日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 緊急事態宣言が出ていたのだが、4月27日から29日まで軽井沢に行ってきた。
 下は、4月27日、上信自動車道の碓氷峠手前(松井田あたりか)の吊り橋。
            

 昨年の終わりにトイレの交換を業者に依頼したところ、水を止めている冬場には工事はできないので来年(2021年)の春になったら改めて注文してほしい、ただし夏前に工事をするためには5月の連休前に正式に注文してほしい、連休が明けてからの発注になると夏休み前までに工事ができないかもしれないと言われていたため、連休前に出かけた。
 と言い訳をしたものの、「不要不急」じゃないかと言われたら、「不要」ではないけど「不急」でないとは言えない。
 到着した4月27日正午すぎの軽井沢の気温は、南軽井沢交差点の道路標示によれば10℃。東京に比べるとかなり肌寒かったので終日ダウンのコートを着て過ごした。
 同日の夜は満月。黄色い月が落葉松の葉を照らしていた。
            

 下は、軽井沢消防署の火の見やぐら越しに眺めた浅間山。
            
 
 次は、プリンス・ショッピング モールから眺めた離山、その背後にわずかに浅間山。手前の池のほとりに枝垂れ桜が咲いている。山桜も各所で咲いていた。
            

 4月28日午後2時過ぎ、昼食時を避けて追分そば茶屋に行った。いつもは午後4時閉店なのだが、コロナのせいか午後2時半で閉店だった。
 危うく閉店前に滑り込めた。先客が2組いたがいずれもほどなく帰って行ったので、幸運にも店内は私たち2人と店員さんだけとなった。
            
            
 用事を済ませて、4月29日午前には発地市場経由で帰宅の途に。
 途中、上里SAで小休止。連休中とは思えないほど閑散としていて気の毒だったので、入口に看板が出ていたヒレカツ弁当を買って帰る。
 家に帰って開けてみると、従業員の手書きのメッセージが入っていた。厳しい状況なのだろう。
 以前は、上里の下りのSAにカツサンドを売るコーナーがあったが、そこのカツサンドは亡母の好物だった。
            

 帰京後、きょうまで1週間様子を見たが、幸いコロナには感染していなかったようだ。

   *   *   *

 実は、きょう2021年5月4日は、この「豆豆先生の研究室」を開設して5555日目だった(らしい)。
 自分で計算したのではないが、goo blog の my page に「開設から5555日」と掲示が出ていた。
 もともと「ブログ」などというものの何たるかも知らなかったのだが、息子に勧められ、息子が開設の作業をし、「豆豆先生の研究室」なる名前も、当時ぼくがミスター・ビーンのコントが好きだったので、息子が勝手につけたものである。
 ぼくがやったことといえば、「ぼくの気ままなnostalgic journeyです」というサブタイトルを決めたくらいである。

 本業が多忙のために途切れがちだったり、中断した時期もあったが、よくぞ15年以上も続いたものだと、我ながら感心する。
 この間、176万人をこえる方々が立ち寄ってくれたことも想定外であった。
 自分の書いたものが176万人もの人に読んでもらえるなど、紙媒体の世界では直木賞作家の随筆でもなければ考えられないことである。

 ちなみに、NHKラジオ第1放送の今朝の番組によれば、5月4日の「きょうの花」はハナミズキだそうだ。
 なぜ5月4日の花なのかは紹介していなかったが、1910年代に東京市からアメリカ、ワシントンに桜を贈った返礼にアメリカから贈られたという由来は紹介していた。
 花言葉は「公平」だそうで、日米で交換したという来歴から「公平」になったという。日米関係が公平かどうかは疑わしいが、ハナミズキは初夏の日本になじんでいる。
 この時期に開花するから「きょうの花」なのだろう。今年の東京は異常気象のせいですでに「花」は落ちてしまった。ハナミズキの花ビラのように見えるのが、実は葉っぱであることも紹介していた。

 2021年5月4日 記
 
 

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